第46話 悪夢の卵

 慶長四年五月上旬――

 酷く暗い。

 墨汁で塗り潰されたように、辺りは暗闇で覆われている。月明かりも見えず、夜気は湿気を帯びていた。生暖かい空気が纏わりついてくるが、それでも室内よりマシだ。

 おⅡは暗闇の中で目を凝らし、一間先に置かれた小石を探す。

 闇の中で物を視認する修練だ。

 『炸裂眼さくれつがん』は、視界に捉えた物体しか破壊できない。ゆえに夜目を鍛えて、灯りがなくても使えるようにする。墨川家に代々伝わる修練法だ。

 おⅡの双眸が金色に輝く。

 ようやく小石の輪郭を把握できた。

 ぱちん、と軽い音を立てて、小石を粉々に砕いた。

 途端に集中が途切れて、大きな息を吐く。

 瞳の色も元に戻った。

 これが彼女の限界。

 修練を続ければ、破壊力は増すかもしれない。然し破壊の対象が、小石から漬け物石に変わるくらいだろう。母や姉と比べれば、明らかに力不足。『薙原衆』に選ばれた叔母から、無能呼ばわりされても仕方ない。

 それでも才能がなくて良かった、と心から思う。

 薙原家で認められるのは、確実に他人を殺害する妖術だ。それも仕物向きの妖術が重宝される。『炸裂眼さくれつがん』の性質上、余程の使い手でなければ、『薙原衆』に選ばれない。

 役立たずで家族に申し訳なく思うが、人殺しの技術で功名を競うのは、どうしても抵抗がある。然りとて現在の本家屋敷のように、欲望が渦巻く権力争いに一人で飛び込む度胸もない。

 本当に自分の性格が嫌になる。

 今も『炸裂眼さくれつがん』の稽古という建前で、村掟で定めた外出禁止令を破り、屋敷の裏手で佇んでいた。

 先月の中旬から、蛇孕村で風邪が流行り始めたのだ。

 外界から隔離された隠れ里でも、風邪くらいは流行る。蛇孕村の住民は、衛生環境や食生活に恵まれている。他の集落と比べても、医療の水準も高い。

 それゆえ、風邪の流行もすぐに収まるが、今年は例年と大きく違い、疫神えきしんが村内に留まり続けている。罹患者は増えるばかりで、体力のない高齢者や赤子から死人が出そうだった。

 これは風邪ではなく、外界から持ち込まれた疫病ではないかと、村人も猜疑心を募らせている。

 薙原家も事態を重く受け止めていた。

 蛇神は村人を疫病から救う守り神として崇められてきた。実際、蛇孕村が誕生して八百年。死亡率の高い疫病が蔓延し、多くの死者を出したという記録はない。

 蛇神崇拝の根幹に関わる事態である。

 連日のように、分家衆の当主が本家屋敷に集まり、評定を繰り返しているが、目に見える成果は出ていない。本家の当主も商いを行う才能はあれど、医療の知識があるわけではないのだ。肥沼家の助言に従い、疫神が通り過ぎるのを待つしかない。

 家格や派閥に関係なく、見廻りの巫女衆と分家衆と当主以外は、外出を禁じる村掟が定められ、蛇孕村は重苦しい雰囲気に包まれていた。

 おⅡも流行を恐れて、母や姉の言う通り、自室に籠もり続けたのが……初めて言い付けを破り、屋敷の外に飛び出した。

 特に深い意図はないが、引き篭もりでも外の空気が恋しくなる。加えて梅雨と重なり、湿気が天井や壁を塗らすほどで、気持ち悪い事このうえない。二十日も湿気の漂う部屋で我慢したのは、母や姉に対する遠慮だ。

 尤も年配の女中が言うには、見廻りの巫女衆に見つからないように、他家の娘は夜更けに外出し、気分転換をしているそうだ。

 他の女中からも「おⅡ様も外出しては如何ですか? 御当主様やお咲様には、内密に致しますゆえ」と背中を押された。他人から見ても、今のおⅡは情緒不安定に見えたのだろう。確かに思い悩む事が多く、猛烈な暑さと湿気で考え事も纏まらず、鬱々とした日々を過ごしていた。

 母や姉には隠してくれるという。

 おⅡは勇気を振り絞り、女中の力を借りて、夜更けに無断で屋敷の外に出た。動機は好奇心より現実逃避。薄暗い部屋に籠もり続けて、精神的に疲弊していたのだ。

 妖術の修練も、巫女衆に見咎められた時の言い訳造りだ。


 やっぱり玲奈ちゃんは凄いよ……


 これまでおⅡは、幼馴染みに幻想を抱いていた。

 自分と同年代でありながら、テキパキと仕事をこなし、誰からも好感を持たれる活発な少女。いつも根拠のない自信に満ち溢れ、中二病のような振る舞いを好む。おⅡの憧れの対象であり、誇りと言える存在。

 それはおⅡが思い描いた幻想に過ぎなかった。本人の意志と関係なく、勝手に押しつけられた幻想。無知なおⅡの憧憬が、玲奈に負担を強いていたではないか。

 きちんと玲奈に謝りたい。

 もう一度、玲奈と話をしたい。

 おⅡが思い描いていた親友は、何処どこにもいなかった。然し前より玲奈を身近に感じ、改めて親友の強さを尊敬する。

 玲奈が行儀見習いに出てから、一度も弱音を聞いた事がない。愚痴を聞かされた事ならあるが、諦観を漏らした事はない。

 大切な人達に心配を掛けないように、玲奈は一人で抗い続けた。悪質なイジメと禁断の片想い。自分でも制御できない感情に衝き動かされ、残酷な現実に抵抗し続けた。強くて逞しいが、脆くて儚い親友。

 今なら自分でも彼女の役に立てる。

 おⅡに打ち明けた時点で、玲奈は初恋を諦めている。おⅡに選択の権利を委ねて、己を罰している。彼女は絶望しか考えていないのだ。

 然し死ぬまで現実を直視できないほど、妖怪も人間も強くはない。

 時には、儚い夢を見ていたい。

 僅かな希望に縋りつきたい。

 一ヶ月近く屋敷に籠もりながら、おⅡは考え続けていた。

 二人の女の子が幸せになれる方法。

 夜這い云々は、流石に行き過ぎだろう。

 然し改めて考え直すと、奏の側室を狙うという話は、一考の余地があるのではないか。

 先ず母と姉を説得しなければならない。

 二人の了承を得られたとしても、決して本家当主は快く思わないだろう。仮に本家当主の許しを得たとしても、他の分家衆を出し抜く事になる。特に年寄衆の憎悪は、おⅡに向けられるだろう。然しおⅡという前例ができれば、同じ派閥の玲奈も側室に推挙できる。

 全てが思い通りに進めば、役立たずの引き篭もりが御家の繁栄に貢献し、親友の願いも叶えられる。

 決して容易な道ではないが、荒唐無稽とも言い難い。

 これは博打だ。

 負けた時に何も失うか、おⅡには想像もつかない。

 然し他に道が残されていない。

 おⅡの焦りの原因は、玲奈の事だけではなかった。

 母がおⅡの良人おつとを決める前に、己の意志を示さなければならない。

 薙原家は仕来りで、通い婚と定められている。

 女系一族であるがゆえに、薙原家は男に子種しか求めていない。たとえ夫婦になろうとも、男が分家の屋敷を彷徨うろつくだけで目障りだ。加えて婿養子が他家の娘と不貞を働こうものなら、分家同士の確執に発展する。

 男の取り合いで内訌を始めるなど、本家が最も避けなければならない事態である。

 ゆえに娘の良人は、基本的に母親の一存で決まる。

 他の分家と被らなければ、娘婿は誰でも構わない。

 かなり大雑把に決めているようで、おⅡは父親の顔も知らない。

 父が屋敷を訪れるのは、おⅡが眠りに就いた頃だ。夜更けに母の部屋を訪問し、男女の営みを終えると、明け方にコソコソと立ち去る。

 規則正しい生活を送るおⅡと接点がなく、顔を合わせる機会すらない。母親から「お前の父は、村の東側に住む百姓の倅」という話を聞かされただけで、如何なる人物かも教えられていない。

 逆に男を選ぶ基準が曖昧な為、他の分家と被らなければ、娘が選んだ男を追認する場合もある。

 それゆえ、村の男衆は一縷の望みを抱いて、なんとかおⅡに気に入られようと、今でも恋文を送り続けている。分家の娘の良人となれば、一生分家が生活の面倒を見てくれる。家を継げない次男三男が必死になるのも当然か。

 尤も今のおⅡは、村の男衆など眼中にない。

 親友の懺悔は、内気な少女の背中を押した。

 玲奈になら利用されても構わない。

 无巫女アンラみこと並ぶ自分の姿は、全く想像できない。然し玲奈なら別だ。彼女と同じ屋敷で生活し、二人で奏の赤子を育て、その行く末を見守る。四人の真ん中に奏が座り、みんなで平穏に暮らす。

 それは素敵な未来だ。

 一歩でも前に踏み出そう。

 もう自分に言い訳したくない。

 二人で頑張れば、必ず光明が見えてくる筈だ。

 彼女の気持ちを表すように、雲間から月明かりが差し込む。

 煌びやかな星々を眺めていた時、不意に背後で茂みが揺れた。

 おⅡが驚いて振り返ると、


「――おⅡッ!?」

「……玲奈ちゃん?」


 木陰から出てきた玲奈と目が合う。


「どうして此処にいるのよ!?」


 驚く玲奈の様相は、尋常ならざるものだった。

 着物がズタズタに斬り裂かれ、左腕に矢を突き立てられている。鏃の(やじり)返しが肉を抉り、素手で抜く事もできず、左腕から出血が止まらない。


「玲奈ちゃんこそ! その傷は――」


 負傷した親友の姿に驚き、おⅡは悲鳴のような声を上げた。


「大丈夫。鏃が肉を咬んで抜けないだけ。村の外に出たら、矢鋏で引き抜く」

「村の外?」

「おそらく墨川家の奉公人も連中に懐柔されてるわ。アンタもあたしも……自分の屋敷に戻れない」

「一体、何が起きたの?」

「本家の御屋敷で謀反が起きた」


 困惑する親友を諭すように、玲奈は平坦な口調で告げた。


「……え?」

「謀叛人は、无巫女アンラみこ様を崇拝する若い娘達。それに御本家様に恨みを持つ年寄衆。今夜の評定を欠席した連中よ」

「そんなの……急に言われても信じられないよ」

「誰も信じられないような事が、現実に起きたの! 現場は見てないけど、すでに御本家様も討ち取られた筈よ!」

「母上と姉上は?」


 死人のような顔で、おⅡは家族の安否を伺った。


「墨川家の当主は御討死。咲殿は御生害ごしようがいされたわ」

「母上と姉上が……」

「おⅡの家族だけじゃない。あたしの母上も連中に殺された。村内の中老衆と人質の女中衆は、あたしを除いて殆ど全滅よ」

「――ッ!?」

「まさか无巫女アンラみこ様を総大将に据えて、御本家様に謀叛を起こすなんて……篠塚家や『薙原衆』が動いた気配はないけど、年寄衆が懐柔されてるんだ。符条様が逆賊に取り込まれてもおかしくない。それにアイツら……外界から手練を集めてやがった!」


 玲奈は語気を強めて、おⅡの右肩を強く掴む。


「今回の謀叛は、何年も前から仕込まれてたんだ! でなけりゃ都合良く加勢が来るわけない! 村に蔓延する疫病も奴らの仕業! 下克上を達成する為に、无巫女アンラみこ様が魔法で咳逆しわぶきを流行させたんだ!」


 忌々しげに吐き捨て、おⅡの顔を見据える。


「蛇孕村は逆賊に占領された。もうあたしたちは、この村で生きていく事はできない。だからあたしについてきて。もう時間がないの」


 必死の形相でおⅡの腕を引くが、彼女の足取りは覚束ない。

 全く頭が働かない。


 母上と姉上が死んだ……?


 とても信じられない。

 呆然とした様子で立ち竦むと、猿頭山の麓に橙色の光が灯る。

 紅蓮に燃え盛る炎が、瞬く間に本家屋敷を呑み込む。現実を直視できないおⅡは、狒々祭りの焚き火を思い出した。


「あいつら……御屋敷に火を放ちやがった! 早くこの場から逃げないと――」

何処どこに逃げれば……?」

「だから村の外! 今は蛇孕村から逃げるしかない! 暫く外界に身を隠して、捲土重来けんどちょうらいの期を窺う!」

「……私達が戦うの?」

无巫女アンラみこ様の意に背く御本家様は、下克上で粛清されて当然! 取り巻きの中老衆も連座で処刑! 人質の女中衆は、年寄衆を抑え込む為の見懲みこらし! そういう無茶苦茶な理屈で動く連中なの! アンラの予言を成就させる為に、奏様を利用するつもりなのよ!」

アンラの予言……」

无巫女アンラみこ様を崇拝する狂信者共と欲に目が眩んだ年寄衆が、自分の姉妹や孫娘を生贄に捧げたんだ! 逆賊共に奏様を敬う気持ちなんかない! 精神操作や記憶の改竄は当たり前! 奏様を傀儡のように操り、分家の娘達と結ばせるつもりなんだ! それで人が生まれるかどうか……ヒトデ婆の人体実験に使われるかも」

「え……?」

「符条様も田中家も頼りにならない! もうあたしたちの力で、奏様をお救いするしかないの! その為にも、今は蛇孕村から逃げないと――」


 玲奈は苦痛で顔を歪めながらも、必死におⅡの手を引く。

 然し急かされても、身体が言う事を聞かない。


 蛇神の使徒が、蛇孕村の外に出る……?


 アテもなく外界に飛び出して、如何に生き残るというのか。人を喰らう妖怪が、餌贄えにえを調達する術も持たず、誰にも頼らずに生きていけるわけがない。


 どうして私は、馬鹿な夢を見ていたんだろう。

 幸福な未来なんて、妖怪の手に届く筈ないのに……


 おⅡは絶望を感じながらも、冷静に状況を把握していた。

 もう終わりだ。

 彼女の望む世界は、すでに崩壊していた。

 大切に育てていた夢の卵は、顔も知らない誰かに叩き壊された。卵の中から溢れ出てきたのは、どろどろに腐り果てた悪夢だけ。

 玲奈は何かに気づいて、慌てて周囲を見回す。


「近くにアイツが来てる! 逃げて――」


 おⅡを突き飛ばした刹那、玲奈の顔面が潰れた。

 忽然と右側頭部が弾け飛び、脳漿と血飛沫を撒き散らす。右眼球が飛び出し、地面に両膝をついて座り込んだ。

 おⅡの顔が、親友の血液で赤く染まる。


「……玲奈ちゃん? どうしたの、玲奈ちゃん?」


 尻餅をついたおⅡが、玲奈の両肩を揺さぶる。

 何度、親友の名を呼んでも、何も応えてくれない。頭蓋の穴から大脳がこぼれ落ち、血臭が周囲に立ち込める。


「いくら呼び掛けた処で、死人は応えてくれませんよ」


 不意に穏やかな声が聞こえてきた。

 玲奈の頭蓋骨を打ち砕いたのは、機械カラクリ仕掛けの分銅鎖。自動的に鎖が巻き戻り、おゆらの左袖に収納される。


「妖気の感知に手間取るとは……実戦経験のない使徒は、傀儡師くぐつしと変わりませんね」

「ああ……」

「年寄衆曰く――地道に精神修練を積めば、妖気を察知する感覚も鋭くなるとか。然れど曹洞宗そうとうしゅうでもあるまいし。只管打坐しかんだざに打ち込めば、妖気を察知する感覚が鋭くなるなど……私には、到底信じられません。貴女はどう思います? 蛇孕村の小宰相様」

「……」


 恐怖で身体が硬直し、おⅡは立ち上がる事すらできない。

 一方、おゆらは分銅鎖を唸らせる。


「うふふっ。噂通りの美しさ。やはり女子おなごは殺される直前、『ひっ――』と掠れた声で呻くべきなのです。金切り声を上げるのは、下品な醜女しこめの所業。貴女を殺す瞬間まで、その表情を維持してください」


 涼しげに微笑みながら、分銅の回転速度を上げる。


「先ず貴女が殺される理由を説明しましょう。端的に申せば、貴女が無能だからです。女中の変化に気づかず、村掟で定められた外出禁止令を破り、夜遅くに外へ出た事。妖気を感知する感覚が鈍い事。裏切り者の粛清を目撃した事。無能にも程がありましょう」


 カチカチと歯を鳴らすおⅡに、おゆらは懇切丁寧に説明する。

 残酷な内容と裏腹に、柔和な笑みを浮かべて声音も穏やかだ。


「裏切り者?」

「玲奈さんの事ですよ。彼女は、我々と通じていたのです」

「……え?」

「蛇孕神社の取次役に選ばれた時、彼女は无巫女アンラみこ様に拝謁しています。その折、无巫女アンラみこ様と奏様に忠誠を誓ったのです」

「――ッ!?」


 おⅡは、衝撃的な事実に絶句した。

 まさか玲奈が、中老衆から鞍替えしていたなんて……それもおⅡに最も危険な派閥と忠告していた『アンラの予言を盲信する若い娘達』に与していたとは――


「尤も彼女は、我々からも信用されていませんでした。无巫女アンラみこ様と奏様の為に、己の全てを捧げる……と誓いながら、家族や友人を捨てられなかったのです」

「……」

「剰え無知な親友を焚きつけ、奏様を独占しようとしました。畏れ多くも无巫女アンラみこ様に挑むが如き蛮行です。見過ごす事はできません」


 超越者チートに忠誠を誓う狂信者は、顔面蒼白のおⅡを見下ろす。


「貴女も貴女です。無能なら無能らしく妄想日記の続きでも書いていればいいものを……奏様と結ばれようなど、思い上がりも甚だしい。利用価値すら見出せない無能に、奏様の嬰児ややを孕む資格はありません」


 おゆらは穏やかに死刑を宣告し、腰を抜かしたおⅡに近づく。


「ああ……でも困りました。本当は昆布やかつおや煮干しで出汁だしを取るように、じっくりと一晩掛けて貴女を殺してあげたい。然し今は、貴女を始末する為に、時を費やす余裕がありません」


 緩く波打つ髪をなびかせ、「んー……」と考え込む。


「では、こうしましょう。貴女の寿命は、ゆるりと五つ数えたら尽きてしまいます。私がそう決めました。さあ、一緒に大きな声で数えましょう。明るく朗らかに冥土へ旅立つのです」


 おゆらは心底楽しそうに、死刑執行を始める。


「ひと~つ、ふた~つ……あら? 一緒に数えてくれないのですか? 役立たずの無能にできる事など、他にないと思いますが?」

「ふたつ……」


 恐怖で何も考えられない。

 自然と唇だけが動いていた。

 おゆらは、うふふっと小さく笑声を漏らす。


「良い子良い子。とても良い子です。では、声を合わせて――」

「「み~つ」」

「「よ~つ」」

「「いつつ」」


 童歌のように、ゆるりと五つを数え終えた。


「はい、お疲れ様でした。死んでください」


 おゆらは朗らかに言いながら、右手の分銅鎖を放つ。

 金縛りの如く身動きが取れなくなり、目を閉じる事すらできず、おⅡが死を待ち侘びていると――


「――止めろ!」


 低い女の声が割り込んできた。

 高速で飛来する分銅は、おⅡの顔の一寸手前で停止した。

 分銅が地面に落ちる寸前、瞬時に鎖が巻き戻る。おゆらは鎖を手繰り寄せ、頭上で分銅を回転させた。


「符条様……」


 おゆらは、意外そうに目を丸めた。

 暗闇の中から、獺が姿を現す。


「墨川家の娘! 早く逃げろ!」

「あ、あ……」

「同じ事を二度も言わせるな!」

「ひい――」


 獺の怒声で、おⅡの身体を蝕む硬直が解けた。

 蹌踉よろめきながらも立ち上がり、這々の態で逃げていく。

 暫時、おⅡの後ろ姿を眺めた後、おゆらは獺に微笑みかけた。


「符条様……我々を裏切るつもりですか?」

「お前達に加担した覚えはない。符条家は、蛇孕神社の神官の家柄。政治的にも中立な存在だ。御本家が遠行したのであれば、もはや政に関与する理由もない」


 神妙な様子で聞きながら、おゆらは心の中で嘲笑する。


 中立……なんて使い勝手の良い御言葉。


「一度手にした権力を捨て去り、蛇神崇拝の祭祀に専念すると?」

「いずれはな。然し今は、お前達を野放しにできない。謀叛の混乱に乗じて、何をしでかすか分からんからな」

无巫女アンラみこ様は薙原家の行く末を憂い、此度の政変を決行したのです。それを神官の符条様が信じてくださらないとは……」


 分銅鎖を袖の中に隠し、おゆらは沈痛な面持ちで言う。

 慇懃無礼な態度が、獺の癪に障る。


「あの女に薙原家を思う気持ちなどあるものか」

「なんと無礼な物言い。これからは、无巫女アンラみこ様が本家の当主も兼任されるのです。斯様な物言いは止めてください」


 おゆらは穏やかに宥めると、豊かな胸の前で手を合わせた。


「処で……墨川家の次女を生かす事に、如何なる利益があるのですか?」

「利益など求めていない。然し無益な殺生も見飽きた」

「……」

「あの娘は無害だ。外界に逃げられたとしても、生きながえる術がない。野垂れ死ぬのがオチだ。羽虫の一匹など捨て置け」

「……」


 おゆらは艶やかな唇に手を当て、符条の言葉を吟味する。

 概ね獺の言う通りだ。

 用心深いおゆらからすれば、無能な羽虫だからこそ始末しておきたい処だが……現在の第一義は、薙原家を掌握する事。今後の統治を考えると、蛇孕神社の神官と対立するわけにもいかない。

 符条は中老衆の重鎮だが、意外に年寄衆からも信望を得ている。符条が本家当主の暴走を食い止める為に尽力してきた事は、分家の皆が知る処。本家の独裁に不満を持つ者達を宥め、中老衆と年寄衆を取り次いできた。

 符条巴の影響力は無視できない。

 権力の座から蹴落とすまでは、存分に符条の力を使わせて貰う。


「符条様が左様に仰るのであれば、致し方ありません」

「それより帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスはどうした?」

「逃げられました」


 おゆらは平然と答えた。


「田中家の当主は、此方で抑えていたのですが……帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様は、此度の政変を予想していたようです。どうにも腑に落ちません。果たして如何なる手立てを用いたものか……」

「私は関係ないぞ」

「無論、承知しております。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様は、黒田如水と通じておりました。然し政変の期日まで見抜くとは……想定の範囲外です。尤も机上の論に頼るのは、私の数少ない欠点の一つ。此度は教訓のつもりで、如水に対する警戒度を上げましょう」

「放置していいのか? 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、薙原家の機密に詳しい」

「これも致し方ありません。概ね世の中は、思い通りにいかぬもの。此度の政変も不慮の事態です」

「不慮の事態? 全てお前の筋書き通りだろ」

「お戯れを……私は政変に備えて、年寄衆を調略していただけです」

「外様衆に焼き討ちを命じたのは?」

「私の指示ではありません。おそらく外様衆の誰かが、政変の証拠を隠蔽する為、御屋敷に火をつけたのでしょう」


 おゆらは溜息をついて、燃え盛る本家屋敷を眺める。


「御屋敷の再建費用を考えると、頭が痛くなりそうです。尤も『転売用』に珍樹奇石や木材を買い集めていたので、資材調達の負担は軽くなりましょう。年内には、御屋敷の再建も終わるかと」

「転売用か……」


 隠す気もない虚言に、獺は怒気を発した。


「焼き働きの犯人は?」

「此度の火災は、火元の不始末が原因です」

「お前……」


 おゆらが右手を挙げて、獺の激情を制する。


「村人の動揺を抑える為の方便です。火付けの犯人は、我々が処断します」

「外様衆への見懲みこらしも兼ねてか?」

「左様です」

「……」


 獺は、おゆらに侮蔑の視線を向けた。

 死人に口なし。

 事前に改築用の木材や珍樹奇石を用意するなど、おゆらが外様衆に焼き働きを命じていた証。付け火の責任を外様衆の一人に被せ、己は何も知らぬ顔で裁く。

 間違いない。

 全ておゆらの思惑通りだ。


「人質の女中衆を粛清し、年寄衆を恐怖の鎖で縛りつけました。然し欲深い年寄衆が、素直に服従するとは思えません。寧ろ无巫女アンラみこ様の御力を利用する為、奏様を手懐けようとするでしょう」


 警戒する獺を尻目に、おゆらは今後の展望を語る。


「奏を懐柔できなければ……何をしでかすか分からんな」

「それゆえに奏様が気懸かりなのです。突然の変異ゆえ、大変驚かれている事でしょう。一刻も早く記憶を書き換え、御心に安寧を齎さなければなりません。平静を取り戻された後は、蛇孕神社でお任せできますか?」

「ああ……」


 不承不承、獺は低い声で答えた。

 謀叛の混乱に乗じて、皆が奏を求めるだろう。

 ゆえに无巫女アンラみこの手元に置く事は、最善の措置と言える。

 然し奏を蛇孕神社で預かると、符条家は中立性を失う。結局、年寄衆やおゆらを監視する為、新政権の樹立に協力せざるを得ない。

 薙原家は当面、符条家と悠木家の二頭体制になるだろう。おゆらに対抗する勢力を形成するまで、符条も迂闊な行動は取れない。どれだけ口惜しくても、今はおゆらの筋書き通りに動くしかないのだ。


「常盤はどうするつもりだ?」

「……常盤? ああ、南蛮人形の事ですか? 精神操作を施した後、年寄衆にお任せします。アレも利用価値がありませんからね。売るなり喰うなり好きにするでしょう」


 おゆらは雑事の如く言い捨てた。


「……墨川家は断絶か」

「まさか。きちんと御家は残りますよ」


 おゆらが軽い口調で言った。


「生き残りがいないだろう」

「長女のお咲様が生きております」

「自害したのではないのか?」

「懐剣で己の胸を突くには、腕力と覚悟が必要です。一突きだけでは死に至らず……ヒトデ婆の『起死再生きしさいせい』で負傷を完治した後、我々が生け捕りにしました。そうでなければ、小宰相様を取り逃がしたりしません」


 おゆらの説明を聞いて、獺は安堵の息を漏らす。


「そうか。それは僥倖と言うべきだな」

「まさしく僥倖です。『炸裂眼さくれつがん』の有無は、作事や普請に影響します。薙原家に必要な妖術です」

「お咲は家族を亡くしたばかりだ。お前が行けば、相手も頑なとなろう。説得は私に任せろ。御家の存続こそ肝要と説き伏せれば――」

「その必要はありません」


 おゆらが弾んだ声で否定した。


「なぜだ? お咲は使徒だ。お前の『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操る事はできんぞ」

「お咲様は、御屋敷の地下牢に閉じ込めております。自害も逃亡もできないように、きちんと拘束しておりますが……妖術を使われると面倒です。ゆえに両眼を抉り取りました。加えて頭に針を打ち込み、眷属を使えないようにしております。後で符条様にも検分して頂きましょう。気位の高い娘が、無様に悶え苦しむ様は、それなりに見応えのあるかと」

「お前……」

「混乱が落ち着いた後、村の男衆を『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操り、赤子を産むまで陵辱させます。分家の娘達には、沢山赤子を産んで貰いましょう。『予備』が多いに越した事はありません。御生害ごしょうがいなさるのであれば、子孫を残してからでも宜しいかと。勿論、それまで正気を保てたら……の話ですが」

「お咲の他にも女中衆を生け捕りにしたのか?」

「併せて四名ほど」

「……」

「うふふっ。生け捕りにした者達は、我々の理想の為に有効活用すべきです」


 おゆらが艶然と笑う。


「お前は正気か?」

「さあ、どうでしょう? あまり自信はありませんが」

「……」

「偖も偖も此度の政変で、三十六名の生贄を捧げ終えました。然し奏様の権威を高める為には、更なる生贄も必要となりましょう。加えて周りは、権益の拡大を狙う俗物や身の程を弁えぬ虚氣ばかり。中二病を拗らせておりますが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様も蛇神の使徒。必ずや奏様を求めて舞い戻るでしょう。その時の為にも、軍備の増強は必須です」

「軍備の増強だと!? マリア以外の娘を木偶に変えるつもりか!? 分家衆の娘は、お前の下僕を産む為の道具か!? どれだけ他人を弄べば気が済むんだ!」


 獺は怒気を咆吼に変えた。

 然しおゆらは相手の怒りなど意に介さず、両腕を広げて冷静に語る。


「全ては薙原家の繁栄を願えばこそです。混乱が長引けば、奏様の身に危険が及ぶかもしれません。ゆえに我々の力で本家を盛り立て、一刻も早く本来の秩序を取り戻す。それが奏様と『伽耶様』の為となりましょう」


 おゆらが伽耶の名を告げた刹那、獺の怒気は限界を超えて、露骨に牙を噛み鳴らす。


「お前は妖怪でも人間でもない。それ以下のクズだ」

「そんなに虐めないでください。感じてしまうではありませんかあ」


 他人の悪意を慈しむ魔女は、得体の知れない快楽に身を焦がし、邪悪に歪む笑顔を右手で覆い隠した。




 慶長四年五月上旬……西暦一五九九年六月上旬


 一間……約189㎝ 太閤検地後


 疫神……疫病を司る神様。日本古来の民間信仰。


 矢鋏……矢を抜く道具


 生害……自害


 咳逆……インフルエンザ


 傀儡師……人形遣いの大道芸人


 只管打坐……延々と座禅を組む事


 曹洞宗……道元どうげんが大陸から持ち込んだ鎌倉仏教の一つ。「臨済将軍曹洞士民」と言われるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖――瑩山けいざんの時代に男女平等・女人救済の思想を教義とした為、武家の女性が曹洞宗の信者となった。


 一寸……約3㎝


 遠行……死亡


 外様衆……外界から連れてきた手練。後の本家女中衆。

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