第46話 悪夢の卵
慶長四年五月上旬――
酷く暗い。
墨汁で塗り潰されたように、辺りは暗闇で覆われている。月明かりも見えず、夜気は湿気を帯びていた。生暖かい空気が纏わりついてくるが、それでも室内よりマシだ。
おⅡは暗闇の中で目を凝らし、一間先に置かれた小石を探す。
闇の中で物を視認する修練だ。
『
おⅡの双眸が金色に輝く。
ようやく小石の輪郭を把握できた。
ぱちん、と軽い音を立てて、小石を粉々に砕いた。
途端に集中が途切れて、大きな息を吐く。
瞳の色も元に戻った。
これが彼女の限界。
修練を続ければ、破壊力は増すかもしれない。然し破壊の対象が、小石から漬け物石に変わるくらいだろう。母や姉と比べれば、明らかに力不足。『薙原衆』に選ばれた叔母から、無能呼ばわりされても仕方ない。
それでも才能がなくて良かった、と心から思う。
薙原家で認められるのは、確実に他人を殺害する妖術だ。それも仕物向きの妖術が重宝される。『
役立たずで家族に申し訳なく思うが、人殺しの技術で功名を競うのは、どうしても抵抗がある。然りとて現在の本家屋敷のように、欲望が渦巻く権力争いに一人で飛び込む度胸もない。
本当に自分の性格が嫌になる。
今も『
先月の中旬から、蛇孕村で風邪が流行り始めたのだ。
外界から隔離された隠れ里でも、風邪くらいは流行る。蛇孕村の住民は、衛生環境や食生活に恵まれている。他の集落と比べても、医療の水準も高い。
それゆえ、風邪の流行もすぐに収まるが、今年は例年と大きく違い、
これは風邪ではなく、外界から持ち込まれた疫病ではないかと、村人も猜疑心を募らせている。
薙原家も事態を重く受け止めていた。
蛇神は村人を疫病から救う守り神として崇められてきた。実際、蛇孕村が誕生して八百年。死亡率の高い疫病が蔓延し、多くの死者を出したという記録はない。
蛇神崇拝の根幹に関わる事態である。
連日のように、分家衆の当主が本家屋敷に集まり、評定を繰り返しているが、目に見える成果は出ていない。本家の当主も商いを行う才能はあれど、医療の知識があるわけではないのだ。肥沼家の助言に従い、疫神が通り過ぎるのを待つしかない。
家格や派閥に関係なく、見廻りの巫女衆と分家衆と当主以外は、外出を禁じる村掟が定められ、蛇孕村は重苦しい雰囲気に包まれていた。
おⅡも流行を恐れて、母や姉の言う通り、自室に籠もり続けたのが……初めて言い付けを破り、屋敷の外に飛び出した。
特に深い意図はないが、引き篭もりでも外の空気が恋しくなる。加えて梅雨と重なり、湿気が天井や壁を塗らすほどで、気持ち悪い事このうえない。二十日も湿気の漂う部屋で我慢したのは、母や姉に対する遠慮だ。
尤も年配の女中が言うには、見廻りの巫女衆に見つからないように、他家の娘は夜更けに外出し、気分転換をしているそうだ。
他の女中からも「おⅡ様も外出しては如何ですか? 御当主様やお咲様には、内密に致しますゆえ」と背中を押された。他人から見ても、今のおⅡは情緒不安定に見えたのだろう。確かに思い悩む事が多く、猛烈な暑さと湿気で考え事も纏まらず、鬱々とした日々を過ごしていた。
母や姉には隠してくれるという。
おⅡは勇気を振り絞り、女中の力を借りて、夜更けに無断で屋敷の外に出た。動機は好奇心より現実逃避。薄暗い部屋に籠もり続けて、精神的に疲弊していたのだ。
妖術の修練も、巫女衆に見咎められた時の言い訳造りだ。
やっぱり玲奈ちゃんは凄いよ……
これまでおⅡは、幼馴染みに幻想を抱いていた。
自分と同年代でありながら、テキパキと仕事を
それはおⅡが思い描いた幻想に過ぎなかった。本人の意志と関係なく、勝手に押しつけられた幻想。無知なおⅡの憧憬が、玲奈に負担を強いていたではないか。
きちんと玲奈に謝りたい。
もう一度、玲奈と話をしたい。
おⅡが思い描いていた親友は、
玲奈が行儀見習いに出てから、一度も弱音を聞いた事がない。愚痴を聞かされた事ならあるが、諦観を漏らした事はない。
大切な人達に心配を掛けないように、玲奈は一人で抗い続けた。悪質なイジメと禁断の片想い。自分でも制御できない感情に衝き動かされ、残酷な現実に抵抗し続けた。強くて逞しいが、脆くて儚い親友。
今なら自分でも彼女の役に立てる。
おⅡに打ち明けた時点で、玲奈は初恋を諦めている。おⅡに選択の権利を委ねて、己を罰している。彼女は絶望しか考えていないのだ。
然し死ぬまで現実を直視できないほど、妖怪も人間も強くはない。
時には、儚い夢を見ていたい。
僅かな希望に縋りつきたい。
一ヶ月近く屋敷に籠もりながら、おⅡは考え続けていた。
二人の女の子が幸せになれる方法。
夜這い云々は、流石に行き過ぎだろう。
然し改めて考え直すと、奏の側室を狙うという話は、一考の余地があるのではないか。
先ず母と姉を説得しなければならない。
二人の了承を得られたとしても、決して本家当主は快く思わないだろう。仮に本家当主の許しを得たとしても、他の分家衆を出し抜く事になる。特に年寄衆の憎悪は、おⅡに向けられるだろう。然しおⅡという前例ができれば、同じ派閥の玲奈も側室に推挙できる。
全てが思い通りに進めば、役立たずの引き篭もりが御家の繁栄に貢献し、親友の願いも叶えられる。
決して容易な道ではないが、荒唐無稽とも言い難い。
これは博打だ。
負けた時に何も失うか、おⅡには想像もつかない。
然し他に道が残されていない。
おⅡの焦りの原因は、玲奈の事だけではなかった。
母がおⅡの
薙原家は仕来りで、通い婚と定められている。
女系一族であるがゆえに、薙原家は男に子種しか求めていない。たとえ夫婦になろうとも、男が分家の屋敷を
男の取り合いで内訌を始めるなど、本家が最も避けなければならない事態である。
ゆえに娘の良人は、基本的に母親の一存で決まる。
他の分家と被らなければ、娘婿は誰でも構わない。
かなり大雑把に決めているようで、おⅡは父親の顔も知らない。
父が屋敷を訪れるのは、おⅡが眠りに就いた頃だ。夜更けに母の部屋を訪問し、男女の営みを終えると、明け方にコソコソと立ち去る。
規則正しい生活を送るおⅡと接点がなく、顔を合わせる機会すらない。母親から「お前の父は、村の東側に住む百姓の倅」という話を聞かされただけで、如何なる人物かも教えられていない。
逆に男を選ぶ基準が曖昧な為、他の分家と被らなければ、娘が選んだ男を追認する場合もある。
それゆえ、村の男衆は一縷の望みを抱いて、なんとかおⅡに気に入られようと、今でも恋文を送り続けている。分家の娘の良人となれば、一生分家が生活の面倒を見てくれる。家を継げない次男三男が必死になるのも当然か。
尤も今のおⅡは、村の男衆など眼中にない。
親友の懺悔は、内気な少女の背中を押した。
玲奈になら利用されても構わない。
それは素敵な未来だ。
一歩でも前に踏み出そう。
もう自分に言い訳したくない。
二人で頑張れば、必ず光明が見えてくる筈だ。
彼女の気持ちを表すように、雲間から月明かりが差し込む。
煌びやかな星々を眺めていた時、不意に背後で茂みが揺れた。
おⅡが驚いて振り返ると、
「――おⅡッ!?」
「……玲奈ちゃん?」
木陰から出てきた玲奈と目が合う。
「どうして此処にいるのよ!?」
驚く玲奈の様相は、尋常ならざるものだった。
着物がズタズタに斬り裂かれ、左腕に矢を突き立てられている。鏃の(やじり)返しが肉を抉り、素手で抜く事もできず、左腕から出血が止まらない。
「玲奈ちゃんこそ! その傷は――」
負傷した親友の姿に驚き、おⅡは悲鳴のような声を上げた。
「大丈夫。鏃が肉を咬んで抜けないだけ。村の外に出たら、矢鋏で引き抜く」
「村の外?」
「おそらく墨川家の奉公人も連中に懐柔されてるわ。アンタもあたしも……自分の屋敷に戻れない」
「一体、何が起きたの?」
「本家の御屋敷で謀反が起きた」
困惑する親友を諭すように、玲奈は平坦な口調で告げた。
「……え?」
「謀叛人は、
「そんなの……急に言われても信じられないよ」
「誰も信じられないような事が、現実に起きたの! 現場は見てないけど、すでに御本家様も討ち取られた筈よ!」
「母上と姉上は?」
死人のような顔で、おⅡは家族の安否を伺った。
「墨川家の当主は御討死。咲殿は
「母上と姉上が……」
「おⅡの家族だけじゃない。あたしの母上も連中に殺された。村内の中老衆と人質の女中衆は、あたしを除いて殆ど全滅よ」
「――ッ!?」
「まさか
玲奈は語気を強めて、おⅡの右肩を強く掴む。
「今回の謀叛は、何年も前から仕込まれてたんだ! でなけりゃ都合良く加勢が来るわけない! 村に蔓延する疫病も奴らの仕業! 下克上を達成する為に、
忌々しげに吐き捨て、おⅡの顔を見据える。
「蛇孕村は逆賊に占領された。もうあたしたちは、この村で生きていく事はできない。だからあたしについてきて。もう時間がないの」
必死の形相でおⅡの腕を引くが、彼女の足取りは覚束ない。
全く頭が働かない。
母上と姉上が死んだ……?
とても信じられない。
呆然とした様子で立ち竦むと、猿頭山の麓に橙色の光が灯る。
紅蓮に燃え盛る炎が、瞬く間に本家屋敷を呑み込む。現実を直視できないおⅡは、狒々祭りの焚き火を思い出した。
「あいつら……御屋敷に火を放ちやがった! 早くこの場から逃げないと――」
「
「だから村の外! 今は蛇孕村から逃げるしかない! 暫く外界に身を隠して、
「……私達が戦うの?」
「
「
「
「え……?」
「符条様も田中家も頼りにならない! もうあたしたちの力で、奏様をお救いするしかないの! その為にも、今は蛇孕村から逃げないと――」
玲奈は苦痛で顔を歪めながらも、必死におⅡの手を引く。
然し急かされても、身体が言う事を聞かない。
蛇神の使徒が、蛇孕村の外に出る……?
アテもなく外界に飛び出して、如何に生き残るというのか。人を喰らう妖怪が、
どうして私は、馬鹿な夢を見ていたんだろう。
幸福な未来なんて、妖怪の手に届く筈ないのに……
おⅡは絶望を感じながらも、冷静に状況を把握していた。
もう終わりだ。
彼女の望む世界は、すでに崩壊していた。
大切に育てていた夢の卵は、顔も知らない誰かに叩き壊された。卵の中から溢れ出てきたのは、どろどろに腐り果てた悪夢だけ。
玲奈は何かに気づいて、慌てて周囲を見回す。
「近くにアイツが来てる! 逃げて――」
おⅡを突き飛ばした刹那、玲奈の顔面が潰れた。
忽然と右側頭部が弾け飛び、脳漿と血飛沫を撒き散らす。右眼球が飛び出し、地面に両膝をついて座り込んだ。
おⅡの顔が、親友の血液で赤く染まる。
「……玲奈ちゃん? どうしたの、玲奈ちゃん?」
尻餅をついたおⅡが、玲奈の両肩を揺さぶる。
何度、親友の名を呼んでも、何も応えてくれない。頭蓋の穴から大脳が
「いくら呼び掛けた処で、死人は応えてくれませんよ」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
玲奈の頭蓋骨を打ち砕いたのは、
「妖気の感知に手間取るとは……実戦経験のない使徒は、
「ああ……」
「年寄衆曰く――地道に精神修練を積めば、妖気を察知する感覚も鋭くなるとか。然れど
「……」
恐怖で身体が硬直し、おⅡは立ち上がる事すらできない。
一方、おゆらは分銅鎖を唸らせる。
「うふふっ。噂通りの美しさ。やはり
涼しげに微笑みながら、分銅の回転速度を上げる。
「先ず貴女が殺される理由を説明しましょう。端的に申せば、貴女が無能だからです。女中の変化に気づかず、村掟で定められた外出禁止令を破り、夜遅くに外へ出た事。妖気を感知する感覚が鈍い事。裏切り者の粛清を目撃した事。無能にも程がありましょう」
カチカチと歯を鳴らすおⅡに、おゆらは懇切丁寧に説明する。
残酷な内容と裏腹に、柔和な笑みを浮かべて声音も穏やかだ。
「裏切り者?」
「玲奈さんの事ですよ。彼女は、我々と通じていたのです」
「……え?」
「蛇孕神社の取次役に選ばれた時、彼女は
「――ッ!?」
おⅡは、衝撃的な事実に絶句した。
まさか玲奈が、中老衆から鞍替えしていたなんて……それもおⅡに最も危険な派閥と忠告していた『
「尤も彼女は、我々からも信用されていませんでした。
「……」
「剰え無知な親友を焚きつけ、奏様を独占しようとしました。畏れ多くも
「貴女も貴女です。無能なら無能らしく妄想日記の続きでも書いていればいいものを……奏様と結ばれようなど、思い上がりも甚だしい。利用価値すら見出せない無能に、奏様の
おゆらは穏やかに死刑を宣告し、腰を抜かしたおⅡに近づく。
「ああ……でも困りました。本当は昆布や
緩く波打つ髪をなびかせ、「んー……」と考え込む。
「では、こうしましょう。貴女の寿命は、ゆるりと五つ数えたら尽きてしまいます。私がそう決めました。さあ、一緒に大きな声で数えましょう。明るく朗らかに冥土へ旅立つのです」
おゆらは心底楽しそうに、死刑執行を始める。
「ひと~つ、ふた~つ……あら? 一緒に数えてくれないのですか? 役立たずの無能にできる事など、他にないと思いますが?」
「ふたつ……」
恐怖で何も考えられない。
自然と唇だけが動いていた。
おゆらは、うふふっと小さく笑声を漏らす。
「良い子良い子。とても良い子です。では、声を合わせて――」
「「み~つ」」
「「よ~つ」」
「「いつつ」」
童歌のように、ゆるりと五つを数え終えた。
「はい、お疲れ様でした。死んでください」
おゆらは朗らかに言いながら、右手の分銅鎖を放つ。
金縛りの如く身動きが取れなくなり、目を閉じる事すらできず、おⅡが死を待ち侘びていると――
「――止めろ!」
低い女の声が割り込んできた。
高速で飛来する分銅は、おⅡの顔の一寸手前で停止した。
分銅が地面に落ちる寸前、瞬時に鎖が巻き戻る。おゆらは鎖を手繰り寄せ、頭上で分銅を回転させた。
「符条様……」
おゆらは、意外そうに目を丸めた。
暗闇の中から、獺が姿を現す。
「墨川家の娘! 早く逃げろ!」
「あ、あ……」
「同じ事を二度も言わせるな!」
「ひい――」
獺の怒声で、おⅡの身体を蝕む硬直が解けた。
暫時、おⅡの後ろ姿を眺めた後、おゆらは獺に微笑みかけた。
「符条様……我々を裏切るつもりですか?」
「お前達に加担した覚えはない。符条家は、蛇孕神社の神官の家柄。政治的にも中立な存在だ。御本家が遠行したのであれば、もはや政に関与する理由もない」
神妙な様子で聞きながら、おゆらは心の中で嘲笑する。
中立……なんて使い勝手の良い御言葉。
「一度手にした権力を捨て去り、蛇神崇拝の祭祀に専念すると?」
「いずれはな。然し今は、お前達を野放しにできない。謀叛の混乱に乗じて、何をしでかすか分からんからな」
「
分銅鎖を袖の中に隠し、おゆらは沈痛な面持ちで言う。
慇懃無礼な態度が、獺の癪に障る。
「あの女に薙原家を思う気持ちなどあるものか」
「なんと無礼な物言い。これからは、
おゆらは穏やかに宥めると、豊かな胸の前で手を合わせた。
「処で……墨川家の次女を生かす事に、如何なる利益があるのですか?」
「利益など求めていない。然し無益な殺生も見飽きた」
「……」
「あの娘は無害だ。外界に逃げられたとしても、生き
「……」
おゆらは艶やかな唇に手を当て、符条の言葉を吟味する。
概ね獺の言う通りだ。
用心深いおゆらからすれば、無能な羽虫だからこそ始末しておきたい処だが……現在の第一義は、薙原家を掌握する事。今後の統治を考えると、蛇孕神社の神官と対立するわけにもいかない。
符条は中老衆の重鎮だが、意外に年寄衆からも信望を得ている。符条が本家当主の暴走を食い止める為に尽力してきた事は、分家の皆が知る処。本家の独裁に不満を持つ者達を宥め、中老衆と年寄衆を取り次いできた。
符条巴の影響力は無視できない。
権力の座から蹴落とすまでは、存分に符条の力を使わせて貰う。
「符条様が左様に仰るのであれば、致し方ありません」
「それより
「逃げられました」
おゆらは平然と答えた。
「田中家の当主は、此方で抑えていたのですが……
「私は関係ないぞ」
「無論、承知しております。
「放置していいのか?
「これも致し方ありません。概ね世の中は、思い通りにいかぬもの。此度の政変も不慮の事態です」
「不慮の事態? 全てお前の筋書き通りだろ」
「お戯れを……私は政変に備えて、年寄衆を調略していただけです」
「外様衆に焼き討ちを命じたのは?」
「私の指示ではありません。おそらく外様衆の誰かが、政変の証拠を隠蔽する為、御屋敷に火をつけたのでしょう」
おゆらは溜息をついて、燃え盛る本家屋敷を眺める。
「御屋敷の再建費用を考えると、頭が痛くなりそうです。尤も『転売用』に珍樹奇石や木材を買い集めていたので、資材調達の負担は軽くなりましょう。年内には、御屋敷の再建も終わるかと」
「転売用か……」
隠す気もない虚言に、獺は怒気を発した。
「焼き働きの犯人は?」
「此度の火災は、火元の不始末が原因です」
「お前……」
おゆらが右手を挙げて、獺の激情を制する。
「村人の動揺を抑える為の方便です。火付けの犯人は、我々が処断します」
「外様衆への
「左様です」
「……」
獺は、おゆらに侮蔑の視線を向けた。
死人に口なし。
事前に改築用の木材や珍樹奇石を用意するなど、おゆらが外様衆に焼き働きを命じていた証。付け火の責任を外様衆の一人に被せ、己は何も知らぬ顔で裁く。
間違いない。
全ておゆらの思惑通りだ。
「人質の女中衆を粛清し、年寄衆を恐怖の鎖で縛りつけました。然し欲深い年寄衆が、素直に服従するとは思えません。寧ろ
警戒する獺を尻目に、おゆらは今後の展望を語る。
「奏を懐柔できなければ……何をしでかすか分からんな」
「それゆえに奏様が気懸かりなのです。突然の変異ゆえ、大変驚かれている事でしょう。一刻も早く記憶を書き換え、御心に安寧を齎さなければなりません。平静を取り戻された後は、蛇孕神社でお任せできますか?」
「ああ……」
不承不承、獺は低い声で答えた。
謀叛の混乱に乗じて、皆が奏を求めるだろう。
ゆえに
然し奏を蛇孕神社で預かると、符条家は中立性を失う。結局、年寄衆やおゆらを監視する為、新政権の樹立に協力せざるを得ない。
薙原家は当面、符条家と悠木家の二頭体制になるだろう。おゆらに対抗する勢力を形成するまで、符条も迂闊な行動は取れない。どれだけ口惜しくても、今はおゆらの筋書き通りに動くしかないのだ。
「常盤はどうするつもりだ?」
「……常盤? ああ、南蛮人形の事ですか? 精神操作を施した後、年寄衆にお任せします。アレも利用価値がありませんからね。売るなり喰うなり好きにするでしょう」
おゆらは雑事の如く言い捨てた。
「……墨川家は断絶か」
「まさか。きちんと御家は残りますよ」
おゆらが軽い口調で言った。
「生き残りがいないだろう」
「長女のお咲様が生きております」
「自害したのではないのか?」
「懐剣で己の胸を突くには、腕力と覚悟が必要です。一突きだけでは死に至らず……ヒトデ婆の『
おゆらの説明を聞いて、獺は安堵の息を漏らす。
「そうか。それは僥倖と言うべきだな」
「まさしく僥倖です。『
「お咲は家族を亡くしたばかりだ。お前が行けば、相手も頑なとなろう。説得は私に任せろ。御家の存続こそ肝要と説き伏せれば――」
「その必要はありません」
おゆらが弾んだ声で否定した。
「なぜだ? お咲は使徒だ。お前の『
「お咲様は、御屋敷の地下牢に閉じ込めております。自害も逃亡もできないように、きちんと拘束しておりますが……妖術を使われると面倒です。ゆえに両眼を抉り取りました。加えて頭に針を打ち込み、眷属を使えないようにしております。後で符条様にも検分して頂きましょう。気位の高い娘が、無様に悶え苦しむ様は、それなりに見応えのあるかと」
「お前……」
「混乱が落ち着いた後、村の男衆を『
「お咲の他にも女中衆を生け捕りにしたのか?」
「併せて四名ほど」
「……」
「うふふっ。生け捕りにした者達は、我々の理想の為に有効活用すべきです」
おゆらが艶然と笑う。
「お前は正気か?」
「さあ、どうでしょう? あまり自信はありませんが」
「……」
「偖も偖も此度の政変で、三十六名の生贄を捧げ終えました。然し奏様の権威を高める為には、更なる生贄も必要となりましょう。加えて周りは、権益の拡大を狙う俗物や身の程を弁えぬ虚氣ばかり。中二病を拗らせておりますが、
「軍備の増強だと!? マリア以外の娘を木偶に変えるつもりか!? 分家衆の娘は、お前の下僕を産む為の道具か!? どれだけ他人を弄べば気が済むんだ!」
獺は怒気を咆吼に変えた。
然しおゆらは相手の怒りなど意に介さず、両腕を広げて冷静に語る。
「全ては薙原家の繁栄を願えばこそです。混乱が長引けば、奏様の身に危険が及ぶかもしれません。ゆえに我々の力で本家を盛り立て、一刻も早く本来の秩序を取り戻す。それが奏様と『伽耶様』の為となりましょう」
おゆらが伽耶の名を告げた刹那、獺の怒気は限界を超えて、露骨に牙を噛み鳴らす。
「お前は妖怪でも人間でもない。それ以下のクズだ」
「そんなに虐めないでください。感じてしまうではありませんかあ」
他人の悪意を慈しむ魔女は、得体の知れない快楽に身を焦がし、邪悪に歪む笑顔を右手で覆い隠した。
慶長四年五月上旬……西暦一五九九年六月上旬
一間……約189㎝ 太閤検地後
疫神……疫病を司る神様。日本古来の民間信仰。
矢鋏……矢を抜く道具
生害……自害
咳逆……インフルエンザ
傀儡師……人形遣いの大道芸人
只管打坐……延々と座禅を組む事
曹洞宗……
一寸……約3㎝
遠行……死亡
外様衆……外界から連れてきた手練。後の本家女中衆。
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