第45話 錯乱
人という生き物は、基本的に直近の課題を優先する。将来に大きな不安を抱いていたとしても、目先の出来事に囚われてしまう。
奏も同様である。
蛇孕神社の一室で端座しながら、奏は一人で震えていた。
昨夜は薙原家の命運、自分の将来、果ては天下の行く末に想いを巡らせていたが……夢すら見ないで熟睡。一晩明けて平静を取り戻すと、頭の中は狒々祭りの演目で埋め尽くされていた。
すでに女物の衣装に身を包み、巫女衆が用意した朝餉を平らげ、いつでも舞台に立てるが……未だに覚悟が定まっていなかった。
これは何の仕打ちだ……?
改めて現状を鑑みると、何かの罰としか思えない。
これで笑いが取れるなら構わない。それこそ宴の余興と割り切れる。然し何も知らない分家衆は、驚愕を通り越えて唖然とするだろう。神聖な巫女神楽を見物する為に蛇孕神社へ伺候し、不意打ちで素人の女踊りを見せられるのだ。血の気の引いた年寄衆の顔が、奏の頭に思い浮かぶ。
冷や汗が止まらない。
緊張で胃が軋む。
唯一の救いは、意外に熟睡できた事か。持参した枕に頭を乗せた瞬間、すぐに意識を手放してしまった。
睡眠時間は普段と変わらない筈だが、いつもの倍近く眠れた気がする。お陰で
幼い頃にマリアから睡眠の話を聞いた事がある。
人の睡眠は、浅い眠りと深い眠りの二種類がある。就寝中は、二種類の眠りが複雑に絡み合い、脳が完全に休む事はないという。舞踏の稽古で疲れた所為か、深い眠りが多く訪れたのだろう。尤も目が覚めた時、掻巻が乱れていたので、寝相の悪さは変わらないようだ。
最近、理由の分からない眠気に悩まされていたので、普段より頭が覚醒している分、余計に精神的な抑圧を感じる。
奏は心を掻き乱されると、読書で気分を紛らわせる。内容は二の次。文章を眼で追い掛けていると、自然と気持ちも落ち着くのだ。
彼の習慣を知るおゆらが、気を利かせてくれたのだろう。朝餉の時に、巫女衆が数十冊の書物を持ち込んできた。気持ちは有難いが……難解な学術書ばかりだ。
おゆらは学問を娯楽と断言していたが、それは頭の良い人の理屈である。書物の内容に拘りを持たない奏でも、今から学問に勤しむ気はない。
ていうか、まだ『チェーンソーサムライ』も読んでないよ……
常盤を看護している間に、おゆらが主君に無断で
何故、そこまでマリアを除く中二病を忌避するのか。
おゆらの考える事は、奏にもよく分からない。
他の人は、どんなふうに気分転換してるんだろ?
常盤が高価な着物を買い漁るのも、おそらく気分転換の為だ。符条は兵法書を読み漁る事か。然しマリアやおゆらの趣味は、奏にも判然としない。強いて言えば、マリアは技術革新。おゆらは
他に気晴らしになりそうな物も見当たらない為、山積された書物を手にする。
上から順に『
子供の頃は意味も分からず、傅役に武家故実や公家故実を教わり、延々と経書を素読させられた。近頃は『
職原抄とは、官制の成立や沿革、補任や昇進の流れ、それに伴う儀式、各職に任ぜられる家格、個々の省・寮・司・職・所の職掌や唐名などを漢文で記した故実書だ。
公家からすれば、官職の故実を学ぶうえで重要な書物である。ただ有徳人の居候からすると、無駄に難解な書物でしかない。
職原抄を平易に書き直した『
僕……下賤者の隠し子なんだけど。
故実書の表紙を眺めながら、奏は深い溜息をついた。
気を紛らせる筈が、気分転換も現実逃避もできなかった。
書物を積み直していると、表紙に『肥沼家医術之心得』と書かれた古書を見つけた。奏も見た事のない書物である。
蛇孕神社で医学書というのも珍しい。どこから紛れたのか知らないが、ヒトデ婆の名が書いているので、本家の御殿医が書き記したのだろう。
好奇心を刺激されて、奏は表紙を
『一、
二、
三、
四、
五、金疵を焼酎で洗い、
六、
七、心が弱い者は、真珠を砕いて飲ませ候。
八、狒々神の生き血は、万病を癒やす薬に候』
八行読んだだけで、奏の心は掻き乱された。
加持祈祷も医療行為の時代。大凡の者なら疑問を抱く余地はない。然しマリアという天才が側にいた為、奏の知識は大凡を先んじている。
……衛生観念が微塵もないぞ。
一番から四番は、問題外と断言できる。
傷口から雑菌が入り込んで、破傷風を引き起こす恐れがある。
五番は惜しい。
焼酎で傷口を洗う事は悪くないが、その後で椰子の油と卵の油を塗る為、傷口を洗浄した意味がなくなる。
恐ろしい事に、六番は戦国時代に実在した医療法だ。
室町末期に成立した『
七番の真相は、奏にも判断がつかない。
当時の日ノ本では、真珠を
常盤も朝と晩に、砕いた真珠を白湯に混ぜて飲んでいる。
八番は、完全な作り話であろう。
狒々神の生き血を飲んだ者など、奏も聞いた事がない。
諸国の伝聞をもとに、先祖伝来の体験談を加えた医学書。つまり真面目に読むだけ無駄という事だ。
……なんだろう。
余計に緊張してきた。
自分でも錯乱気味なのが分かる。
無益な情報を求めていた筈なのに、本当に無益な知識を深めていくと、得体の知れない焦燥感が込み上げてくる。
お……落ち着け。こういう時は、初心に返るんだ。出番が来るまで、かなたん音頭の稽古をしよう。
女童でも気軽に踊れるくらいなので、踊り自体は極めて簡単だ。
右腕を持ち上げて、左手で右肘を支える。右手をぷらぷらさせ、蛇の頭を表現する。次は左腕で同様の所作を行う。これを繰り返すだけだ。
奏は立ち上がり、一人で練習を始めた。
何度も同じ所作を繰り返すと、
さらに歌もつければ、宴も盛り上がるだろう。その場の気分で、思い浮かんだ歌詞を口に乗せる。
かなたん音頭 作詞・薙原奏 作曲・薙原家の先祖の誰か 編曲・薙原奏
踏み出せば村の中 金色の稲穂が 風に揺らめいて
楽しさと嬉しさと 輝きとドキドキで 子供も大人も踊り出す
僕を見つけてくれた君の瞳が
今も変わらず僕の顔を こんじき金色で見つめている
大切な僕の夢 君と歩む未来の夢
変わりゆく世界の景色 僕は君に愛を誓うよ
ふらふら 夢みたいで ふらふら 君の隣で
ふらふら 頑張れるのは ふらふら 君のためだよ
蛇孕神社の一室が、不気味な沈黙に包まれていた。
かなたん音頭を舞い踊り、奏は興奮気味に天井を仰いだ。充血した眼から、理性の色が消えている。
かなたん音頭に歌詞をつけてしまった!
数百年間、語り継がれてきた蒼蛇ノ舞。陽気な踊りと音曲は伝えられていたが、その場のノリで作詞したのは、奏が初めてではなかろうか。
凄い。
神が降りてきた気がする。
自分の才能が恐ろしい……
緊張と現実逃避が限界点を突破した奏は、まるで自分が歴史的な偉業を成し遂げたような錯覚に酔い痴れた。
あくまでも錯覚である。
奏に音楽的な才能はない。
「よーし、この調子で二番の歌詞も――」
「――奏いる? 準備できたけど」
木戸を開けた常盤が、舞い踊る奏を見て硬直する。
かなたんも右手を掲げた姿勢で、ピキ――ッと凍りついた。
「ふにゃあ……」
経書……儒教の経典
胞衣……胎児を包んでいた膜や胎盤
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