第44話 虎と虎

 小原の落下音を聞き届けると、朧は満足げに振り返る。


「お主は無駄話をせぬよな」

「そうだな。特に語る事はない」


 同門の士を討たれても、羅首領ラドンは表情を変えない。

 炯々と輝く猛獣の如き眼光。剥き出しの殺気は、小原や半之丞と根本的に異なる。寧ろ朧の纏う武威に近い。常時、野生に身を置く者の気配だ。

 朧の知る限り、羅首領ラドンは出世を望んでいない。己の武名を高めるつもりもないだろう。奏の首級を求めているかどうかも疑問だ。

 羅首領ラドンが太刀を抜く理由は、刹那的な優越感に酔い痴れたいからだ。強者の命を奪う事で、生の実感を堪能する。つまり朧と変わらない。

 おそらく実力も互角。

 双方共に太刀を構えていない。

 覇天流には、殆ど構えが存在しない。

 虎が鹿の動きを読んで、我が身を前方へ放つように。孔雀が蛇の動きを捉えて、鉤爪を繰り出すように。ただ『太刀は片手で使うべし』という理念に基づき、経験に基づく勘と野生の本能を組み合わせ、自由に動いて太刀を振るう。

 相対しながら動かない両雄。


「起こりの読み合い……いや、間積まづもりのせめぎ合いか」


 兵法へいほう数寄者オタクが、憶測混じりに膠着の要因を語る。

 一流の武芸者同士が立ち合うと、起こりの読み合いはしない。目線の動きや予備動作に惑わされない為、虚隙きょげきが意味を成さなくなるからだ。

 対手の思惑に関わらず、間境まざかいを越えたら斬る。

 間境とは、間合いの限界線の事だ。彼我の距離に応じて、間境も常に変化する。双方共に動いていないように見えるが、少しずつ距離を詰めているのだ。

 当然、対手を斬るには、間境を越えなければならない。一歩踏み込めば、対手を斬り込める間合い。逆に対手が一歩下がれば、打突を躱せる間合い。即ち一足一刀の間合いに、自分の意志で飛び込まなければならない。

 それに加えて、片手打ちは五寸の徳あり、という言葉がある。刀を両手で正眼に構えるより、片手で中段に構えた方が、間合いは五寸ほど伸びるという意味だ。しかも片手で打ち込む時は、自然と半身の姿勢になるが、実際は二尺近く伸びる。『打突の間合い』という一点に於いては、刃渡り四尺余の野太刀を正眼に構えているようなものだ。敢えて構えを解いているにも拘わらず、一足一刀の間合いが遠い。覇天流の剣士は、野太刀の間合いで立ち合う。

 互いに先手を取るべく、間境を探り続けているが……間積りの鬩ぎ合いなら、羅首領ラドンが有利となる。単純に羅首領ラドンの方が、朧より腕も刀も長いからだ。

 羅首領ラドンが先の先を打ち込み、朧が後の先を狙う。

 常識的に考えれば、斯様な展開に落ち着く。然し朧が先手を譲るとは思えない。たとえ無理攻めでも、先の先を狙いたがる筈だ。

 先の読めない状況に、獺は高揚感を抑えきれない。

 結論を言えば、朧が先に動いた。

 朧が一歩退いたのだ。

 無理にでも先手を取るつもりでいたが、おゆらに握り鉄砲を向けられた時と同様に、己の意志と関係なく、身体が勝手に後退を選択していた。

 結果的に、本能が朧を窮地から救った。

 羅首領ラドンが片手で刺突を放つ。

 限界まで伸びた太刀の切先は、朧の喉元の一寸手前で止まる。


 はやい――


 神速の刺突に、朧は瞠目した。

 片手刺突は読めていた。

 相手より間合いが広いのであれば、刺突で最短距離を狙う。定石通りではあるが、羅首領ラドンの刺突は、朧の予想を遙かに超えていた。

 始めから後の先を狙う気はないが、興味本位で抜き技を試していたら、喉を突かれて死んでいただろう。

 二之太刀も迅速だった。

 羅首領ラドンは間合いを詰めながら、太刀を逆胴に振り抜く。

 速さと強さは、朧と同等以上。

 朧は後方に飛び退き、危うく難を逃れた。


「凄まじい……猛虎の如き強靱つよさと孔雀の如き敏捷はやさ。技倆も朧と引けを取らない。覇天流を体現したような武芸者だな」


 獺の感想は当を得ていた。

 羅首領ラドンの実力は、覇天流門下でも五指に入る。未熟者の井上や老境の小原とは、身体能力も技倆も比較にならない。

 朧を追い掛け、袈裟斬りを浴びせる。

 後退の拍子を狙われた。

 小袖の胸元は、はらりと斬り裂かれる。

 朧も無論、百戦錬磨の強者つわもの。更なる追撃を横薙ぎで食い止めた。羅首領ラドン光沢上着スカジャンに切先を掠める。着物を斬り裂いたが、皮一枚届いていない。朧の反撃を遣り過ごし、羅首領ラドンは三尺余の太刀を斬り上げた。

 再び後方に退く朧。

 羅首領ラドンの袈裟懸け。躱す。朧の袈裟斬り。躱す。左斬上。躱す。逆胴。躱す。右斬上。半歩退いて躱す。唐竹割。躱す。逆袈裟。躱す。脚斬り。素速く後退して躱す。指捕ゆびどり。躱す。斬り上げ。躱す。打突と離脱の輪舞曲ロンド。さながら剣舞でも舞うように――一息たりとも留まる事なく、攻撃と回避を繰り返す。

 双方共に、動体視力だけで打突を躱してるわけではない。

 対手の行動を先読みする。

 同門であるがゆえに、互いの攻め手が読みやすい。と同様。指し手の手筋を予測し、逆にアタリを掛けるのだ。

 尤も時が経つほど、斬り合いと棋戦の違いは明確となる。


「流石にされるか……」


 多少興奮も冷めたようで、獺が感情を込めずに言う。

 読みも技倆も身体能力も互角。然し正面から斬り合うと、体格と得物の差で、必然的に朧が追い込まれる。

 水堀を離れて、二人は雑木林に近づいていく。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスと対決した時は、大刀を振り回すだけの空間があった。然し後方の雑木林に入れば、大刀を振るうのも難しい。朧は狭い空間で刀を振るうのも得意である。体格で勝る羅首領ラドンの方が、不利な状況に陥るだろう。処が、羅首領ラドンは地の利を気にも留めず、朧を雑木林へ追い込もうとする。


 意の掴めぬ手が増えてきおった。

 儂を四丁シチョウに追い込むつもりか。

 面白い。


 危険を承知しているが、好奇心に勝てる中二病はいない。

 朧は踏み止まらずに後退った。

 寧ろ回避に専念する。

 対手の切先を限界まで引きつける。

 猩々緋の長袖を掠らせ、長い髪に触れさせ、端正な鼻先に引き付け……太刀筋の見切りを一寸以内に縮める。

 羅首領ラドンも異変に気づいたのだろう。


「馬鹿が」


 一瞬、苦笑いを浮かべたが、すぐに餓狼の如き眼光を取り戻した。地面を蹴りつけ、朧の美貌に土砂を浴びせる。


「――ッ!?」


 朧は両眼を細めるも、完全に瞼を閉じない。眼球に砂や小石を叩きつけられても、強烈な自我で眼瞼閉鎖反射がんけんへいさはんしゃを抑え込み、視線を大刀に据えている。


 ――不覚ッ!!

 左手に飛び道具!


 ぞくりと背筋に怖気が奔り、咄嗟に身構えた。

 視界を広げると、羅首領ラドンが左手に棒手裏剣を構え、投擲の予備動作を終えていた。如何に朧の動体視力が優れていようと、大刀の間合いで飛び道具は躱せない。

 狙いは二択。

 右脚か左脚。

 顔や喉を狙う事はあるまい。地面を蹴り上げて、視界を狭めた意味がなくなる。心臓もないだろう。豊かな乳房が邪魔となり、心臓まで到達しない。

 儂の動きを止めるのが狙い……と頭の中で考えていたが、再び肉体が思考を裏切る。反射的に瓢で美貌を防いでいた。

 ドスッと瓢に投擲物が突き刺さる感触。


「目を狙いおったか!」


 やはり対手も生粋の中二病。素直に脚を狙わず、細めた左目を狙う。型に嵌められるのを良しとせず、難易度の高い選択肢を選ぶ。


 雌狗プッタとの立ち合いが役に立つとは……


 これも真剣勝負の妙とはいえ、忌々しい限りだ。


「止めたか。やりおる」


 朧の行動を称賛しながら、太刀で左脚を狙う。

 易々と脚一本を斬り飛ばすほどの打突。

 朧は飛び退いて、強烈な脚斬りを躱した。

 不意に、どんと背中をぶつけた。


「カカカカッ、棋盤の隅で四丁とな。投了してもよいか?」


 朧は完爾と嗤う。

 杉の木に背面を取られ、もはや退避も叶わない。

 すでに羅首領ラドンは、太刀を担いでいた。それも朧の独特な握りを真似て、ぴんと人差し指を立てながら、がら空きの胴に狙いを定める。


「ダメだ。死ね」

「まあ……碁ではないからの。指し手を読み間違えても巻き返し能う」


 朧は軽口を叩きながら、両膝を抱えて五尺も跳び上がり、横薙ぎの一閃を回避する。


「――ッ!?」


 高い。

 突き出された両膝が、羅首領ラドンの身の丈を超えていた。仮に瞬発力が互角なら、体重の軽い朧の方が、跳躍力は上となる。


「お主が死ね」


 落下の勢いを加えた片手の唐竹割。

 常人であれば、防御も回避も不可能。然し羅首領ラドンも野生の本能を頼りに動く強者つわもの。余力を残して、後方に飛び退いた。

 朧が着地した途端、背後で杉の木がズレた。羅首領ラドンの横薙ぎで切断された太い幹が、真横に五寸ほどズレた状態を維持している。


「覇天流――片手甲冑割かたてかっちゅうわり


 朧が前方を見据えて、ぽつりと呟いた。

 片手甲冑割とは、覇天流を代表する技だ。

 中二病の覇天が戦場を駆け抜け、屍の山と引き替えに完成された技術。稽古の時は、青竹の案山子に具足を着せ、片手打ちで具足を青竹ごと断裁する。片手甲冑割を成し遂げた者が、覇天流目録免許を授けられるのだ。

 確かに片手甲冑割を会得していれば、樹木ごと対手を斬り捨てられる。雑木林の中で立ち合おうと、両者共に地の利は変わらない。

 覇天が合戦に出始めた頃、武士は槍を専らとした。刀は首をる時に使う道具――という認識が定着し、刀身の短い打刀が普及していた。上泉信綱や塚原卜伝が、刀を主体とした武術を広めようと、武者修行という宣伝活動に励んでいたのは、覇天が来日する数十年前の事。一人は剣の道を説く為に行動し、一人は鹿島の剣術を諸国に伝えた。数多の武芸者が大志を抱き、廻国修行に明け暮れていた時代。

 立身出世を目指す覇天は、中二病らしい結論を得た。

 太刀を両手で使うという事は、両腕を縄で縛られてるようなものだ。太刀を片手で扱えば、他の武芸者より俊敏に動ける。片手打ちの方が、一足一刀の間合いも広い。右手が疲れたら、左手を使えばよい。空いた手は、組討や飛び道具に使える。

 素直に槍を使おうと考えない処が、間違いなく朧の父親である。

 覇天の武名は中国地方に広まり、宇喜多直家の目に留まった。宇喜多家に二百石という破格の厚遇で仕官。修羅の如き太刀は、戦場で味方に恐れられるほどの威力を発揮した。異国の武芸者が、城持ちにまで出世できた所以である。

 備前無双の噂を聞きつけて、多くの若者が弟子入りを願った。

 然し覇天は、弟子を育成する気がなかった。

 その頃には、三好長慶が寿命で死んでいたからだ。

 もはや乗り越えるべき壁もない。強迫観念の如き出世の妄念に取り憑かれ、弟子の事など顧みようとしなかった。


 俺の動きを見て真似ろ。

 合戦で身体を鍛えろ。

 真剣勝負で技を磨け。

 強者を斃せない者は、覇天流に必要ない。


 師匠の理不尽な命令に従い、多くの弟子が命を落とした。過酷な環境に耐えきれず、覇天の下から逃げ出した者も多い。

 宇喜多家が豊臣政権に組み込まれた後、ようやく覇天は領内に稽古場を設けた。小原が三本の巻物を解読し、覇天流の技術を体系化したのだ。死亡率の低い稽古法を確立した事で、門弟の数も格段に増えた。小原が行う片手甲冑割の演武も評判を呼び、最盛期は門弟も五百人を超えた。

 弟子の指導を任されていた小原は、覇天流目録免許の師範代。羅首領ラドンも目録免許を得ていたが、師範代の地位に収まらず、強者を求めて廻国修行に出掛けた。

 覇天が武者修行を認めたのは、羅首領ラドンが諸国で武芸者を討てば、己の武名が一層広まると考えたからだ。それゆえ、渡辺家中の確執や朧の出奔に全く関与してない。殊更興味もないだろう。羅首領ラドンが興味を抱くのは、強者と板芝居アニメだけである。


「左手は使うな。これでいいか」


 羅首領ラドンが低い声で挑発すると、朧の美貌が喜色で歪む。


「すまぬな。気を遣わせた」


 朧は瓢を捨て、右半身の姿勢を取る。

 大刀を上段に構えて、左手を刀の峰に据えた。

 一方、羅首領ラドンは太刀を担いで、左手を腰に添える。

 戦いが変わった。

 剣舞の如き美しい理詰めの斬り合いから、泥臭い組討有りの斬り合いへ。

 互いに刀を大きく振り回せば、袖や襟を逆腕で掴まれる。関節技や絞め技――最悪の場合、投げ技から馬乗りで地面に押さえつけられる。

 再び動きを止めた両雄。


「これが真剣勝負の膠着状態か。意外に見ている方もドキドキするな」


 単なる観客と化した獺を尻目に、朧は眉間に皺を寄せる。

 距離が遠い。

 両雄の距離が、五間も離れている。羅首領ラドンが唐竹割を躱す時、後方へ跳んで止まらずに間合いを広げたのだ。流石に五間も距離を空けると、斬り合いの間合いではない。公家が蹴鞠を楽しむ間合いだ。

 半月ノ太刀で間合いを潰し、大刀から小刀に持ち替え、接近戦に持ち込む事もできるが……同じ技を使う事に抵抗がある。

 抑も半月ノ太刀は、初見殺しの曲業くせわざ。『起こり』は消せるが、『打突』と『飛び込み』は消せない。何度も使うと、対手も慣れてしまう。

 朧が攻め手を決めかねていると、一瞬で膠着状態が破られた。

 完全に起こりを消し去り、羅首領ラドンが遠距離から仕掛けてきたのだ。


「――膝落しつらくかッ!?」


 検分役の獺が、くわっと瞠目した。

 突如、巨体が四間も前方に飛び出し、太刀を片手で逆胴に振り抜く。落とし差しの抜き付けでなければ、唐竹割に拘る理由もない。

 朧は虚を突かれた。

 垂直跳びで躱す余裕もない。

 後方に飛び退く事もできず、腹部に噸痛とんつうが奔る。


 斬られた――


 五間も離れていたお陰で、傷は浅いが……あと一寸深く斬られていたら、臓物が飛び出していただろう。


「胴を断裁するつもりが……間積りを誤った。俺でも飛び込みの間合いは、一歩四間という処か」

「儂の技を盗みおったな!」

「技を盗むのは、覇天流の十八番おはこだろう」


 不敵に笑う羅首領ラドンは、右肩で当て身を打ち込む。

 弾き飛ばされる朧の長袖を掴み、左手で強引に引き寄せた。間髪を入れず、朧の額に太刀の柄尻を振り落とす。

 羅首領ラドンの懐が見えた時、頭頂部から臓腑まで衝撃が奔り抜けた。頭蓋骨から脊髄に振動が伝わり、体内の筋肉や内臓が震える。


 覇天流――雷振らいしん


 柄尻を頭頂部に叩きつけ、対手の脳と内臓を揺さぶる大技だ。朧の視界に、ぱちぱちと火花が飛び散る。脳震盪で意識が朦朧とする。

 太刀が振るう間合いを空ける為、左手で朧を突き飛ばした。意識が飛んだ朧は、蹈鞴を踏んで後退するが――

 同時に羅首領ラドンも前方に引き寄せられる。


「――ッ!?」


 いつの間にか、人差し指を立てた朧の左手が、羅首領ラドンの右手首を掴んでいたのだ。


「意識が飛んだ状態で、対手の右腕を掴んでいたのか!」


 獺の声が耳に届いたのか、朧の意識が覚醒する。


「ふんっ!」


 軽く左手を巻き込むと、羅首領ラドンの身体が宙を舞った。

 覇天流に伝わる小手投げ。後世に於いて小手返しと呼ばれる技法だ。己の体重に円運動も加わり、六尺を超す巨体が地面に叩きつけられた。

 羅首領ラドンが立ち上がる前に、木履の踵蹴りを顔面に打ち込む。

 鼻血を出しながら、仰向けに倒れた羅首領ラドン

 完全に意識を取り戻した朧が、馬乗りになろうとする。胴体を両脚で跨いだ途端、美貌に砂が飛んできた。羅首領ラドンが空いた手で砂を巻き上げたのだ。


「悪足掻きをしおって!」


 怒鳴りながら、大刀を首に添えた刹那、羅首領ラドンの左拳が朧の美貌を打ち抜いた。


「くっ――」


 中高一本拳なかだかいっぽんけん

 中指の第一関節を折り曲げ、朧の人中じんちゅうを直撃。体重が乗らない打撃にも拘わらず、経穴を打ち抜かれて仰け反る。呻く朧の右脚を抱え込み、弓手に転倒させた。体勢が入れ替わり、今度は羅首領ラドンが馬乗りとなる。重心を朧の胸に置く事で、上体の動きを押さえ込む。

 両雄の刀がかつと鳴る。

 朧の両腕は、鍔迫り合いで封じ込められていた。


「馬乗りの鍔迫つばぜまりに返し技はない。これで勝負有りか」


 朧が嘆息混じりに言う。

 事実、朧に抗う術はない。

 羅首領ラドンは刀身に右手を添えて、喉元に刃を押し込む。


「これで終わりだ」

「首をるまでしまいに非ず」


 朧がニヤーッと嗤う。

 突然、羅首領ラドンの背後から、朧の両脚が伸びてきた。

 長い脚が腋の下から肩に掛けられ、凄まじい勢いで後方に引き倒される。脚力で羅首領ラドンの上体を封じ込め、全身の反りで組み伏せた側を弾き飛ばす。類い希な瞬発力と身体の柔らかさが生み出した妙技。


「返したああああッ!! 馬乗りを返したああああッ!!」


 絶叫する獺。

 驚いているのは、羅首領ラドンも同様である。馬乗りの返し技など、覇天流の技術ではない。これも朧が自得した技か。

 羅首領ラドンは後頭部を地面に打ちつけ、軽い脳震盪を起こす。

 視界が波を打つように歪む。

 対手を視認する余裕もなく、無我夢中で脚斬りを放った。捨て鉢の一閃は、牽制と成り得たようだ。羅首領ラドンが立ち上がると、朧も泰然と佇んでいた。


「危うい危うい。自慢の脚に傷がつく処であった」


 小袖の隙間から右脚を出し、殊更に羅首領ラドンを挑発する。半之丞なら怒髪天を衝くだろうが、羅首領ラドンの表情は冷めていた。


「……不思議な気分だ。お前と話す事はないと考えていたが……実際に太刀を交えると、急に無駄話がしたくなった」

「馬乗りの返し技なら教えぬぞ」

「それも興味深いが……本当に無駄な話だ。覇天様にいとまを出された牢人衆の事よ」


 羅首領ラドンが太刀を下ろして、一足一刀の間合いから遠ざかる。


「半之丞が良い例だ。覇天流門下の若武者は、意外に実戦経験が少ない。なかには、皆無という者すらいる。如何に鍛練を重ねようと、実戦では雑兵程度の働きしか望めない。全ては覇天様の不徳に起因する。涼雲星友りゅううんせいゆう様の太刀になれても、備前宰相様の太刀にはなれなかった」


 異国渡りの武芸者が直家に重宝されたのは、純粋に剣技を見込まれたからではない。覇天が世事に疎い余所者だからだ。外様の新参者でありながら、直家に忠義を尽くす武将。

 主命であれば、古参の忠臣だろうが、主君の親族であろうが、躊躇なく討ち果たす。

 同輩や上役に疎まれようと、進んで汚れ役を引き受ける。直家が主家筋の浦上宗景うらがみむねしげを備前国から追放し、下克上を達成する為には、これほど便利な『道具』はない。下克上を望む直家と立身出世を望む覇天。両者の利害は一致していた。

 然し直家が岡山城下で病死した途端、覇天を取り巻く環境は激変した。

 家督を継いだ秀家は、まだ十歳の子供である。政治ができるわけもなく、直家の異母弟の直忠なおただや家宰の戸川とがわ秀安ひでやすが、幼い当主を補佐した。

 徐々に権力は旧来の家臣に集中し、覇天は宇喜多家の中枢から外れていく。元々古参の家臣から憎まれていたうえに、不意打ちや騙し討ちが得意な武将は、世代交代された宇喜多直家の重臣――戸川とがわ達安たつやすおか紀伊守きいのかみからも戦場で蔑ろにされた。

 小田原征伐の際、宇喜多勢も関東に出陣しているが、覇天は海上封鎖を命じられ、何ヶ月も船の上から小田原城を眺めていた。

 つまり覇天は、小田原征伐で武功を立てていない。

 それ以降は、事実上の隠居状態。主君の秀家に直訴して、なんとか慶長の役に加えて貰えたが、渡辺家の御家騒動で家来衆に不信感を抱いていた覇天は、身銭で野伏や足軽を集めて出陣し、古参の家来に渡辺城の留守を任せた。弟子から武功を立てる機会を奪ったのだ。


「お主の無駄話など初めて聞いた。面白い。続けよ」


 興味が湧いたようで、朧も半歩後ろに下がる。


「小田原征伐で軽んじられていた時点で、覇天流に未来はないと確信した。ゆえに覇天様の許しを得て、早々に渡辺城を飛び出した。他の門弟も理由をつけ、他国の武将に鞍替えした。後に残されたのは、時世も読めぬ虚氣うつけばかり。宇喜多家の御家騒動に乗じて、逐電する事もできなかった」


 宇喜多家の御家騒動とは、関ヶ原合戦の前年に起きた内紛である。

 慶長四年、惣国検地そうこくけんちを取り仕切る中村なかむら次郎兵衛じろうべえと一部の重臣の対立が表面化した。

 次郎兵衛は豪姫ごうひめ輿入れの際、前田家より宇喜多家へ遣わされた者で、算用や築城に優れており、秀家の信任を受けて領国検地を任されていた。然し新参者の専横や所領の安堵を宛行あてがいに変革する施策に反発。重臣の戸川とがわ達安たつやすらが次郎兵衛の処分を求めるが、秀家はこれを拒絶。身の危険を感じて、次郎兵衛は前田家に逃亡。怒りの収まらない達安らは、抗議の意志を示すべく、大坂城下の主家屋敷を武力で制圧する。露骨な示威行為に激怒した秀家は、謀叛の主導者――達安の暗殺を企むも、秀家と折り合いの悪い坂崎さかざき直盛なおもりが達安一派を庇い、一触即発の状態に陥った。

 最終的に徳川家康の調停で沈静化したが、秀家に反発した家臣団や一門衆は宇喜多家を出奔し、関ヶ原合戦で東方につく。

 主家の御家騒動の最中、覇天は中立を貫いた。

 どちらの派閥につくかを迷う間に、宇喜多騒動が終結していたのだ。

 当然、秀家についた重臣は、覇天の日和見を快く思わない。秀家の信頼も得られず、関ヶ原合戦では城詰めを命じられた。覇天の家来衆は戦場で太刀を振るう事もなく、城を枕に討ち死にする事もなく、惨めな生き恥を晒す事となった。

 合戦の勝敗は、あくまでも結果論だ。

 どちらの軍勢が勝つかなど、一兵卒に分かる筈もない。

 ただ多くの覇天流門下の武士は、中二病を自認しながら、己の生き方を選ばなかった。

 羅首領ラドンのように渡辺家を見限るわけでもなく、関ヶ原合戦の前に主家を変えようとしなかった。覇天流の肩書きに胡座を掻き、時代の流れから取り残されただけ。

 羅首領ラドンは、奏の首級を狙う牢人衆を非難しているのだ。

 惰性で生きてた者は、真の中二病に非ず。渡辺家の御家騒動や朧の出奔に関与してない羅首領ラドンは、心の中で覇天流を捨てている。


「人の斬り方しか知らぬ者が、合戦に出ないでどうする? 俺は武者修行の旅を続け、合戦が起こる度に陣を借りた」

「……」

「唐入りの際は、脇坂わきさか様の陣で働いた。昨年の大戦おおいくさでは、伊予国いよのくに宇和島うわじま城に詰め、毛利家に扇動された一揆勢を鎮圧。その時の武功を認められて、伊予いよ今治いまばり二十万石に仕官する事もできた。然し昨年の秋頃か……面白い噂を聞いた。関ヶ原合戦で、五十余名の兵を斬り伏せた中二病がいると。具足も着ないで、片手で大刀を振り回す女武芸者……お前しか思い浮かばなかった」

「……」

「俺は仕官の誘いを断り、伊予今治を出奔した。覇天様が黒田様の下に身を寄せていると聞き、福岡まで赴いてみれば……なかなか愉快な事になっているではないか。奏様の首級と引き替えに、渡辺家に仕官できるという。加えてお前が奏様を守護しているとか」


 居丈高に語りながら、羅首領ラドンは一歩ずつ後退を続ける。


 何を企んでおる?


 朧は、羅首領ラドンの行動を注意深く観察する。


「小原さんから、お前の話を聞いたぞ。俺のいない間に、随分と暴れたそうだな。三十余名の門弟を叩き伏せ、印可状と極意書を奪い取ったとか。然しどうにもせん。あの覇天様が、娘の脅迫に屈したとは思えん。ましてや親子の情とも無縁であろう。ならば、正当な理由で印可を授けられた事になる。秘太刀を会得した者は、覇天流門下でも四人しかいない。渡辺わたなべ朱雀すざく棗橘なつめたちばな親子とお前。秘太刀を継承した武芸者と斬り合えるとは……これほど昂ぶる立ち合いはない。奏様の首級など無用。仕官など二の次。今はお前を斬り殺す事しか頭にない」


 ふんと朧は鼻で嗤う。


「やはり立身出世に興味なしか。お主も儂と同じ人斬り包丁。遣い手が定まらねば、世に災いを齎す妖刀に過ぎぬ。一振りでも少ない方が、世の為人の為であろう」

「同感だな。どちらか一振りは折れるべきだ。それでこそ中二病――」


 羅首領ラドンは水堀の手前で止まり、大仰に両腕を広げた。


「秘太刀――虎ノ爪。見せて貰おうか」


 背水の陣で、朧の攻め手を誘う。

 免許皆伝の者しか見る事を許されない秘剣。然し羅首領ラドンは荒稽古に励みながら、独自に秘太刀を調べていた。覇天の何気ない話に耳を傾け、虎ノ爪が突進系の技であると確信したのだろう。確固たる自信は、対処法を工夫してきたからか。突進する朧を体捌きで躱すか、秘剣封じの返し技を考案したのか。どちらにしても、秘太刀が決まらなければ、朧は水堀に落下する。

 退路を断つ事で中二病を誘導し、奥の手を引き出させる。

 発想は悪くない。

 だが――


「――断る」


 途端に興味をなくしたようで、朧は億劫そうに言い捨てた。


「この期に及んで、天邪鬼を気取るか」

「お主は勘違いをしておる」

「何?」

「剣の奥義は、己の力で開眼かいげんするものじゃ。師から手解きを受けたり、極意書を読んだくらいで会得能おうか」


 小刀に左手を添えて、朧は前に進む。


「覇天の太刀捌きを見ておれば、自ずと奥義も予想能う。お主らの稽古を見ておれば、秘太刀を伝授されるまでもない。覇天は、儂が奥義を自得したと悟り、止む無く印可状と極意書を渡したのじゃ。極意書をひもとくまで、技の名も知らなんだ」

「そんな馬鹿な! 騙りを言うな!」

「語りに非ず。朱雀や棗橘も秘太刀を自得したそうじゃ。抑も人の斬り方など、他人から教わる事か。それでは、お主が虚氣と呼ぶ者と変わらぬ」

「ぬう!」


 羅首領ラドンの顔が、怒りで紅潮した。

 彼の誤解は他にもある。

 虎ノ爪の術理を予測できていない事だ。踏み出す一歩目から高速で間合いを詰め、確実に先の先を奪い、刺突か逆胴の二択で最適な打突を選ぶという神業。高速移動と緊急停止に耐え得る脚力がなければ、如何に天稟があろうと会得できない。必要な才能は、鬼神の如き身体能力だけなのだ。

 生来の強者が、より強くなる為の秘術。

 虎ノ爪を避けられたとしても、朧は水堀の手前で緊急停止できてしまう。これでは戦闘意欲も削がれる。

 無造作に歩み寄り、朧は小刀を抜いた。


「二刀流……?」


 羅首領ラドンが瞠目した。

 覇天流に二刀流の技は存在しない。片手で太刀を使うべしという理念もあるが、何より一太刀で対手を斬り裂く事こそ幽玄オサレであり、無闇に何度も対手を斬るべきではないと教えられてきた。二刀流という発想自体が、覇天流では邪道扱いされてきたのだ。


「加えてもう一つ、お主の誤解を解いてやろう。覇天流の秘太刀は虎ノ爪のみに非ず。二つあるのじゃ」

「なんだと!?」


 驚愕する羅首領ラドンに頓着せず、朧は間合いを詰めていく。


「偖も偖も……此処で第二の秘太刀を見せると、捻くれ者の儂は面白うない。代わりに、珍しい技を見せよう」


 朧は嗤いながら、左手の小刀を掲げた。


「京にいた頃、見様見真似で覚えた技での。梟爪剣きゅうそうけんと申す。他流の技なれど、なかなか中二臭い」


 羅首領ラドンは身構えた。


 投げる?

 それとも小刀は誘いか?


 朧は、天に向けて小刀を放り投げた。


「一体、何の真似だ?」

「今投げた小刀はの。お主の頭上から落ちてくる」

「――おのれッ!?」


 羅首領ラドンは、後手を踏んだ事に気づいた。

 朧は摺り足で間合いを詰め、右手の大刀で逆胴を狙う。

 羅首領ラドンは、横薙ぎを垂直跳びで躱せない。朧と同等の瞬発力を持ち合わせても、体重が違うからだ。迂闊に真似れば、両脚を斬り飛ばされる。運良く跳んで躱せたとしても、真上から小刀が落ちてくる。

 羅首領ラドンは馬手に動きながら、刀身に左腕を添えて構えた。

 刀を刀で受けるなど、剣士が最も恐れる行為。

 それでも鎬で受けを試みる以外、生き残る道は残されていない。左腕と太刀を失う覚悟がなければ、横一文字に胴を断裁される。


「ほい」

「――ッ!?」


 気の抜けた声を発して、逆胴を途中で止める。素速く大刀を戻した後、切先を無防備な胸の中心に当てた。

 同時に小刀が、羅首領ラドンの左肩に突き刺さる。黒い光沢上着スカジャンが血に染まった。馬手に動いた分、頭頂部から外れた。

 そして決着がついた。

 三寸も大刀を押し込めば、切先が羅首領ラドンの心臓に到達する。

 梟爪剣とは、高度な心理戦。言葉で対手の行動を制限し、投擲した小刀に意識を向けさせ、必殺の横薙ぎを放つ――と見せかけ、硬直した対手の急所を貫く。精密な技術と巧みな駆け引きを交えた妙技と言えよう。


「何か言い残す事はあるか?」

「……」


 ニヤリと嗤いながら尋ねた。

 羅首領ラドンは憤怒と屈辱で顔面を強張らせたが、やがて憑き物が落ちたかの如く澄んだ表情を浮かべた。


 もはやこれまで――


 中途半端に躱そうとしても、深手を受けて二之太刀で仕留められる。能登のと羅首領ラドンという人斬り包丁は、すでに折れたのだ。

 己の太刀を力なく地面に落とす。一瞬顔を顰めて、左肩の小刀を引き抜く。血塗れの小刀は、軽く脇に投げ捨てた。

 朧は一部始終を見届ける。

 中二病の死に様を汚すつもりはない。

 右手の人差し指と中指を頭に添え、羅首領ラドンは笑顔で舌を出した。



「テヘペロ (・ω<) 」



 次の刹那、大刀が羅首領ラドンの胸を突き刺す。

 刀身を引き抜いた後、返り血が朧の頬を染めた。羅首領ラドンは仰向けに倒れて、水堀に転がり落ちていった。

 実に見事な死に様だった。

 無論、辞世の句ではない。

 中二の台詞だ。

 己の生涯や死の概念を詠うのではなく、人生で一度は口にしたい台詞を言い残し、中二病として華々しい最期を遂げるのだ。

 頬に付着した血を拭いながら、大刀の血も振り払う。


「ふむ……斯様な処かの。如何であった、獺殿?」


 強者を斃した興奮を抑えきれず、獰猛な笑みを浮かべる朧に対し、


「たーのしー」


 獺は努めて冷静に応えた。




 間積り……間合いの見切り


 虚隙……対手の攻め手を誘う隙。フェイント。


 五寸……約15㎝


 一尺……約30㎝


 四尺……約120㎝


 アタリ……次に打てば、石を取れる状態


 四丁……アタリの連続で全ての石を奪う


 四間……約7.56m


 五間……約9.45m


 人中……人間の急所の一つ。鼻の下と上唇の間。


 涼雲星友……宇喜多直家


 備前宰相……宇喜多秀家


 慶長四年……西暦一五九九年


 豪姫……前田利家の娘


 安堵……土地の権利保障


 宛行……土地の権利委託


 坂崎直盛……旧名・宇喜多うきた詮家あきいえ。宇喜多秀家の従弟。


 脇坂様……脇坂安治わきさかやすはる


 黒田様……黒田長政

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