第41話 古強者

 半之丞は、ごふりと血を吐いた。

 雁金に斬り下げられた大刀が、心臓と左肺を瓜の如く切断。刀身が腰まで到達し、左半身が斬り裂かれた。

 当然の如く即死である。


「半月ノ太刀……」


 獺がぼそりと呟いた。

 半月ノ太刀に起こりはない。

 正確に言えば、起こりを視認できない。

 半月ノ太刀も他流の抜き付けと同様、膝落しつらくと伸張で速度を上げる。

 直立の姿勢から膝を抜き、重力に任せて上体を落とす。踵に生じた反作用の力を摺り足で方向転換。体内の筋肉を利用して前方に跳ぶ。

 上体の落下速度は、秒速4.9m――半月ノ太刀の起こりは、百分の一秒以内に終了してしまう。

 人間の動体視力では、相権者たかえしもの刻突きざみづきすら視認できないのだ。百万の一秒以内に、対手の上体が落下したかどうか……を初見で見極められようか。

 しかも朧は、腸腰筋ちょうようきん踵骨腱しょうようけんが異常に発達している。腸腰筋の太さは、日本人の平均の三倍以上。踵骨腱の長さも平均の三倍近くに達する。強靱な肉体が瞬発力を生み出し、膝落で発生した反作用の力も加えて、朧は三間の間合いを一歩で跨ぐ。

 起こりを消し去り、対手の意表を衝く抜き付け。

 半之丞が躱せる筈がない。

 朧は大刀を引き抜くと、左肩から鮮血が迸る。

 半之丞の屍が柄尻で弾き飛ばされ、どぼんと水濠に落下した。後で女中衆が回収するのだろう。朧の与り知らぬ事だ。

 それより――


 是は良い太刀じゃ。


 昔馴染みを斬り伏せた朧の心情は、感傷と程遠いものだった。

 『神寄カミヨリ』討伐の前に試し斬りしたいと考えていたが、朧の予想を遙かに上回る切れ味。柄の長さが気になるが、立ち合いに支障が出るほどではない。刀身の重さと鋭さが、見事に比例している。

 何より変な癖がついていない。

 前の持ち主は、余程の使い手であったのだろう。刀身に歪みが見当たらず、新身の如き鋭さを保持している。

 同田貫の切れ味に満足し、朧は完爾かんじと嗤った。


「卑怯とは申さぬよな?」

「無論。半之丞の油断が招いた事」


 呆れ果てたように、小原は溜息をついた。


「是は試し合いに非ず。武士と武士が命を奪い合う仕合しあい。数度の斬り合いを制した程度で増長し、試合と仕合の区別もつかぬとは……指導の仕方を間違えましたかな」

「お主は面倒見が良すぎる。獅子は、我が子を谷底に突き落とすものじゃ。半之丞は、斬り合いの経験が不足しておった。儂と命の遣り取りがしたくば、最低でも百人は斬り殺してこい」

「成程。畢竟、拙者は朧殿と斬り合えると」


 菩薩の如き笑みを浮かべて、小原は脇差を抜き放つ。


「次の相手は小原か?」

「いやいや、待たれよ」


 急に左手を突き出し、小原は及び腰になる。

 途端に、両者の緊張が緩んだ。

 油断を誘いたいわけではない。

 朧の戦闘意欲を少しでも削ぎたいのだ。

 対手の意図は読めているが、朧からも仕掛けにくい。脇差一振りと見せかけて、他にも武具を用意しているのではないか。

 然し無駄に会話を続けると、小原の術中に嵌まる。


「斬り合いの前に、お伺いしたい事があります」

「なんじゃ?」

「先度の抜刀術……覇天流の技ではありませぬな。落とし差しの大刀を用いた抜き付け。膝落で間合いを侵略する歩法。誰に学びました?」

「儂に師などおらぬ。半月ノ太刀も斬り合いで自得したのじゃ。もうよいか? 儂は早うお主を斬りたい」

「やはり修羅の子は修羅。間違いなく覇天殿の血を引いておられる」

「何が言いたい? 簡潔に申せ」

「朧殿は気づいておりますかな? 己の本性に――」

「……」


 朧は眼を細めて、肩の力を抜いた。

 中二病を卒業した者は、極めて戦いにくい。得意の心理戦に持ち込み、対手の思考を誘導していく。


知人しりびとを斬り斃しておきながら、眉一つ動かさない胆力。事もなげに、己の恩人を殺めたいと言い放つ残虐性。それらは士道に非ず。持て余す殺戮衝動こそ根源。朧殿も覇天殿と同様――」

「もうよい。その手の話は聞き飽いた」


 朧は退屈そうに首を鳴らし、小原の言葉を遮った。


「話術も立ち合いの妙ではあるが……半之丞は、ただの述懐。お主の場合は、年寄りの長話じゃ。畢竟、斯様に申したいのであろう? 我欲を満たす為に、御曹司を利用しておると」

「……」

「まさしくその通りじゃ。御曹司の側におれば、斬り合いに事欠かぬ。儂は生来、人として大事なモノが欠落しておる。母が病で死んだ折も、何の痛痒も感じなかった。別に憎んでいたわけではないが、特に愛着も感じておらんかった。忌々しいが、儂も覇天と何も変わらぬ。他者の命を奪う時、極上の快楽けらくを味わう。所詮は、その程度の人斬り包丁。決して余人と交われぬ」


 酒で唇を濡らし、朧は滑らかに語る。


「然れど御曹司と出会うた所為で、不思議な感情が芽生えてしもうた。御曹司の事を考えると、胸の奥がモヤモヤする。御曹司に関わると、儂と縁のない感情を楽しめる。真に面白うて仕方ないわ」

「中二病らしい酔狂ですな。自らに制約を課す事で、身の危険を謳歌する。覇天殿と同じ道を歩まれますか」

「同じかどうかなど、結果を見ねば分からぬよ。然れど小難しい話ではない。御曹司を想うと、自然と力が湧いてくる。大凡の者が申す恋慕とは、斯様なものであろう?」

「奏様を守る事が、世俗と交わる唯一の術とは……」


 憐憫の視線を向けられて、朧は不快そうに鼻を鳴らす。


「語り合いも飽いた。斬り合うつもりがあるなら、一歩前に進み出よ。命が惜しくば、この場より立ち去れ」

「命は捨て難きものなれど……息子に武門の家を継がせたく」


 菩薩の如き笑顔が、武人の面構えに変わる。

 元々小原は、合戦で日銭を稼ぐ足軽だった。

 宇喜多直家が存命の頃、明善寺合戦で手柄を立てて仕官。渡辺家の寄騎に任じられ、覇天と共に数多の戦場を駆け抜けた。勇んで先馳さきがけをする者ではないが、戦巧者という評価を得ていた。

 然し齢五十を過ぎると、仕官も難しくなる。

 天下に名を轟かすほどの武将であれば、諸大名から引く手数多であろう。然し今の小原は、地縁も血縁もない老武士。武家奉公人ならともかく、侍として取り立てられるほどの伝手は、渡辺家の他にない。

 加えて十年前に妻と死別。

 前妻の三回忌を済ませた後、二十も年の離れた村娘を娶り、念願の嫡子を得た。

 余程嬉しかったようで、鼻つまみ者の朧も小原の家に招かれて、元気に泣き喚く赤子を見せられたものだ。

 当時の朧は、小原の行動を怪訝に思った。


 儂に気を遣うて、此奴こやつに如何なる利益があろうか?


 朧も経験を積んできたので、今なら小原の気持ちを推察できる。

 理解はできないが、推察はできる。

 小原は、純粋に朧の行く末を案じていたのだ。

 妾腹とはいえ、上役の娘に違いない。朧が安寧の道を進めるように、彼なりに腐心していたのだろう。

 老武士の努力も虚しく、朧は死屍血河の修羅道を選んだわけだが……結果はどうあれ、幼少期に小原から恩を受けた。

 然し奏ほど情が湧かず、恩人を斬り捨てる事に躊躇いを感じない。朧の頭の中は、単純な価値観で支配されていた。


 主君の命を狙う奴原やつばらは、親兄弟でも斬り斃す。


 恩人といえども、微塵も容赦しない。


「クククッ、左様か。ならば、後ろに隠した得物を出せ」

「気づいておりましたか」

「背面に意識を向け過ぎじゃ。機先を制した時より、他の武具を取り出す時を稼いでおったか」

「やはり朧殿に隠し事はできませぬな」

「手裏剣か? 分銅鎖か? まさか焙烙玉ではあるまいな?」


 小原が苦笑しながら、背中から鉤がついた金属棒を取り出す。

 鉄拵えの十手だ。

 これを手に入れる為に、使い慣れた大刀を売り捨てたのだ。

 右手に脇差、左手に十手。

 脇差と十手の二刀流。

 此度の立ち合いに向けて、小原は万全の準備を整えていた。


「十手は覇天流の武具ではあるまい。何処いずこで学んだ?」

「何処で学んだわけでもなく。己で工夫した次第。この三年余り、拙者も遊んでいたわけではありませぬ」


 やおら小原が歩み寄る。


「朧殿の実力は、拙者が一番承知しております。脇差と十手だけでは心許ない。さらに小細工を弄します」

「どれだけ汚い手を使うてくるのか……ゾクゾクしておるよ」


 朧は獰猛な笑みを浮かべて、泰然と待ち構える。

 十手は、飛び道具と別の意味で厄介な得物だ。対手の刀を絡め取る事に適しており、打撃用の武具としても威力を発揮する。戦場で使う機会は滅多にないが、剣士との立ち合いを考慮すれば、攻守を兼ね備えた道具だ。

 膝落で間合いを侵略し、大刀の間合いで斬り合う。

 それが最も堅実な戦い方だ。

 然し同じ技を何度も使いたくない。朧の美意識に反する。天邪鬼の中二病は、幽玄オサレに対手を斃さなければならない。


 ゆるりと間合いを詰めてみるか……


 敢えて朧は跳び込まず、大刀を担いでにじり寄る。

 その時、小原が忽然と反転し、無防備な背中を晒した。

 やはり奇策を用いるつもりか。

 暗器か飛び道具か毒物か爆薬か。

 奇襲を警戒した朧が、動きを止めた刹那、


「ダルマさんが転んだ!」


 小原は笑顔で振り返った。


「なアアアアにイイイイッ!?」


 朧は絶叫を上げて、大刀を担いだ姿勢で止まる。

 動けない。

 鬼に見られているから動けない。


「まさか……『成田なりたのダルマ』か!?」


 兵法へいほう数寄者オタクのカワウソが瞠目した。


 成田のダルマ。

 それは中二病の禁忌と言える。

 天正十八年、天下統一を目指す豊臣秀吉は、小田原征伐に二十二万の軍勢を動員した。北条勢の武将は支城しじょうを捨て、小田原城で籠城の構え。

 おし城の城主――成田なりた氏長うじながも、主命により小田原城へ帰陣。忍城の城代を成田なりた康季やすすえに託した。忍城に立て籠もるのは、五百の兵と三千の百姓。

 対する豊臣軍は、石田三成を筆頭に二万三千の大軍が、忍城を取り囲んでいた。

 それでも城兵の士気は高かった。

 忍城は、利根川とねがわ荒川あらかわの間に築城された天然の要害。七倍の敵軍に包囲されても、容易に陥落する城ではない。

 然し忍城に激震が奔る。

 城代の康季が、合戦の前に病没したのだ。

 康季は命を落とす直前、「息子(成田なりた長親ながちか)を城代に」という遺言を残し、家臣や雑兵の結束を固めた。

 忍城の士気の高さを見た三成は、損害の激しい総攻めを断念。備中高松びっちゅうたかまつ城と同じく、水攻めの計を用いる。僅か七日で四里に及ぶ長大な堤をつけ、忍城を完全に水没させた。

 降伏も時間の問題と思われたが、天運は成田勢に傾いた。

 忍城が水没して二日後、暴風雨に見舞われ、突貫工事で造られた堤は決壊。濁流が石田勢に押し寄せ、二百名の溺死者を出した。

 支城の攻略に手間取る石田勢に、浅野長政の軍勢が加勢し、虎口からの正面突破を試みる。報告を受けた長親は出陣を決意するが、成田氏政の娘――甲斐姫が「我に秘策あり」と押し止めた。武人気質の甲斐姫は父と行動を共にせず、忍城に留まり続けていた。

 猩々緋の陣羽織を身につけ、成田家に伝わる名刀――波切なみきりを携え、二百騎余りを従えて出陣。豊臣軍の中二臭さを見抜いた甲斐姫は、忽然と敵兵に向かって「ダルマさんが転んだ!」と叫んだ。

 その刹那、浅野勢は恐慌状態に陥った。

 中二病である限り。

 甲斐姫に見られている限り。

 一毫たりとも動く事はできない。

 結局、真田さなだ昌幸まさゆきらが加勢しても陥落せず、小田原城が降伏した後、ゆるゆると城の明け渡し交渉を始めたという。


「小田原征伐の後、甲斐姫の武勲は天下に轟いた! 然し成田のダルマを恐れた秀吉が、『ダルマさんが転んだ禁止令』を発布し、合戦や私闘で『ダルマさんが転んだ』を使う事を禁じた筈だ!」

「確かに『ダルマさんが転んだ禁止令』で、この技は禁じられております。然し立ち合いの経緯など、生き延びた者が自由に語るもの。それは大凡の武士も中二病も同じ事」


 朧に視線を定めたまま、小原は無造作に接近する。


「そして中二病である限り、朧殿は絶対に動けない。幽玄オサレを追求する者は、童の頃に遊んだ娯楽を否定したり、寝る前にしとねの中で考えた妄想を打ち消せぬ。無論、拙者は中二病を卒業した身。立ち合いに美意識を求める事はありませぬ」

「……」


 実際、動きを封じられた朧は、瞬きをする事すらできない。

 これが中二病を卒業した者の恐ろしさだ。

 朧が自分の意志で動けば、中二病を捨てた事になる。中二病の美意識は、己の命より重いもの。ましてや禁じ手を使う者に禁じ手で対抗するくらいなら、朧は迷わず死を選ぶ。

 家族を養う為なら、衆人環視の中で平然と土下座する。掟破りの汚名も喜んで受け入れる。中二病と正反対の強さ。言うなれば、大凡の者の強さである。


「――」


 まるで時間が停止したように、全く動けない朧。

 兵法へいほう数寄者オタクの獺は、「眼福だ……」と禁じ手を見物できて大興奮。中二病を卒業できない羅首領ラドンは、「恐るべし、小原さん……」と驚愕を禁じ得ない。

 三者三様の反応を示す中、小原は間合いを詰めて、朧の弓手に立った。朧の首を斬り落としやすい位置に移動したのだ。


「来世は大凡の人生を歩んでくだされ。さらば――」


 勝利を確信した小原が、朧のうなじに向けて脇差を振り下ろす。

 次の刹那、朧は旋風の如く前方に回転。地面を転がり、その反動で立ち上がる。


「ふう……危うく首と胴が、離れ離れになる処であった」

「なんと!?」

「あっ――」


 小原が頓狂な声を発し、羅首領ラドンが目を丸くする。


「避けたああああッ!! 紙一重で避けたああああッ!!」


 最後に仰天した獺が、朧を見上げて絶叫した。


「何故、脇差の打突を躱した!? 鬼にガン視されながらも動く! それは『だるまさんが転んだ』に対する冒涜! 況てや朧は中二病! 命惜しさに中二を捨てたか!」

に非ず」


 朧はニヤリと嗤い、殊更に豊かな胸を張った。


「確かに鬼に見られておる限り、儂は動く事能わぬ。然れど鬼が儂に触れれば、話は別じゃ。儂も場定ばさだめから解放される」

「小原の打突を受け流したというのか!? 刃が項に触れた刹那、体捌きで打突を受け流したと!?」

「左様。相権たかえし当流あたりながしの応用じゃ。尤も刃物を体捌きで受け流す者など、儂の他におらぬであろう」


 大袈裟に驚く獺と、偉そうに威張り散らす朧。

 場の空気についていけない小原は、ぽかんとした様子で佇む。


「ただの屁理屈にしか聞こえないのですが……」

「耄碌したのではないか、小原よ。中二病とは、美意識という屁理屈を貫き通す為、我が身を危うきに晒す虚氣じゃ」


 特に未練も無く中二病を卒業した小原は、中二病を拗らせていた頃を振り返り、後悔と苦悩で顔を歪めた。


「加うるに……是は武士もののふの立ち合い。決着の際は、どちらかが死んでおらねばならぬ」

「……ふう。やはり朧殿に子供騙しは通じませぬか」


 小原は溜息を漏らし、脇差を逆手に持ち替えた。


「などと言いつつ、ダルマさんが――」

「二度もやらせるかああああッ!!」


 掟破りを阻止すべく、朧は袈裟に斬りつける。

 人差し指を立てた朧の打突は、小原の小袖を斬り裂いた。

 後方に下がらなければ、小原は死んでいただろう。成田のダルマに拘り過ぎると、言葉を放つ前に斬り伏せられる。

 朧と小原では、身体能力が違い過ぎる。

 技倆も朧が遙かに上。

 老境の小原では、朧の動きについてこれない。

 然して。

 小原は、果敢に前へと進み出た。

 後手に回り続けても、最終的に圧し負ける。

 大刀の間合いを潰す為に、自ら危険を冒して接近する。力の強い武士と戦う時の常道だが、容易く実行できる事ではない。

 正面から朧と向き合い、弓手から十手の打突を繰り出す。

 朧は長い柄を利用して、十手の打突を受け止めた。

 次の刹那、朧は「――おおッ!?」と驚いて、地面に左膝をつけた。

 十手の打突は囮か。

 本命は蹴返けかえし。

 相手の脛を踵で蹴り飛ばし、体勢を崩す相撲の技だ。

 高度な足技で朧の動きを止めた後、立ち上がる前に脇差を振り上げた。


「――ッ!?」


 小原の動きが止まった。

 突如、眼前に瓢が飛び出してきたのだ。

 左腕に紐で巻かれた瓢が、一瞬小原の視界を封じた。


「くっ――」


 対手を見失いながらも、容赦なく脇差を振り下ろす。

 手応えがない。

 左腕の袖を斬りつけただけだ。

 朧が態勢を立て直す前に、間合いを詰めて攻め立てる。

 十手の突き。

 脇差の切り上げ。

 蹴足から身の当たり。

 十手や脇差に当て身を加えて、変幻自在に攻め立てる。

 気がつけば、朧は押し込まれていた。

 体勢を立て直せない。間合いを取れない。大刀を使えない。全く攻め手が止まらない。老境と思えないほどの持久力で、途切れる事なく攻め立てる。

 然し小原の攻め手に偏りが見えてきた。

 得物は違えど、互いに覇天流兵法の遣い手。

 小原の攻め手を先読みする事もできる筈だ。

 地面に左膝をついた状態で、首を狙う横薙ぎを回避。脇差が頭上を通り過ぎた。すかさず立ち上がり、小原の顔面に頭突きを打ち込む。


「ぶふっ――」


 鼻血を噴き出し、小原は蹈鞴たたらを踏んだ。

 十分に間合いを広げて、大刀を振るおうとするも……同田貫の刀身が、横薙ぎの途中で止まった。

 十手だ。

 小原の十手が、朧の大刀を絡め取ろうとしていたのだ。


「残念」


 右腕で鼻血を拭いながら、菩薩の如き笑みを浮かべる。


 やりにくい。

 歴戦の老兵とは、これほど戦いにくいものなのか。

 今度は鉄拵えの十手が、朧の妖艶な美貌に迫る。


 狙いは眼か。


 朧が瓢で受け払うと、


「瓢は捨てた方がよいですな。覇天殿も常日頃から申しておりました。太刀は片手で使うものなり。逆腕を空けた方が、今より戦いやすくなるかと」


 小原は飄々と言い放った。


「小原アアアアッ!!」


 朧は猛虎の如く咆吼を発した。


「……ほう。流石に朧の性格を熟知している。瓢を捨てろと言われたら、天邪鬼の朧は捨てられない。話術で片腕を封じたわけか」


 獺が解説を付け加えた。


「ならば、是はどうじゃ」


 脇差の逆手斬りを躱しながら、交差気味に瓢で小原を殴りつけた。

 強かに顔面を叩くも、威力は零に等しい。所詮は瓢である。少しでも対手の勢いを削げば十分。

 覇天流――柄之鎚つかのつち

 対手に密着された際、刀の柄尻で相手の鎖骨を打ち砕く技である。然し右腕を振り下ろす寸前、己の左腕に阻まれた。


「何――ッ!?」

「十手術は、太刀を絡め取るだけに非ず」


 左袖を十手の鉤に絡めて、内側に引き寄せていたのだ。

 朧の両腕に衝撃が奔る。

 両腕を十字の形で封じられた。

 無防備な左脇腹に、脇差の切先が迫る。


「がらあッ!!」


 朧は叫びながら、軽やかに宙を舞う。

 両腕を塞がれた状態で、馬手に側面宙返り。脇差が空振りするばかりか、朧の宙返りに巻き込まれて、小原は体勢を崩してしまう。

 加えて着地と同時に、長い髪が小原の顔面を覆う。

 再び小原の視界が封じられた。

 黒髪が消えた刹那、朧は人差し指を立てながら、大刀を上段に構えていた。

 ぞくり……と小原の背筋に悪寒が奔る。


「がらああああああああッ!!」


 ――斬ッ!!


 同田貫が大気を斬り裂き、小原の頭巾を掠めた。一太刀で鎧武者を断裁するほどの唐竹割。後ろに蹌踉よろけていなければ、頭を縦に割られていた。


「攻守逆転……追い詰めたぞ」

「これほどの駆け引きを会得していたとは……御見事です」


 小原は、朧の業前を称賛した。

 ちらりと背後に視線を向けると、水濠の水面が見えた。小原が攻め立てる最中、朧は如何に対手を水濠へ追い詰めるか考えていたのだ。


「是が最後じゃ。もう退け。お主が死ねば、女房や倅が悲しむ」


 鷹揚な態度で宣言し、瓢の酒を口に含む。


「やれやれ……拙者も歳を取りましたな。敵に情けを掛けられるとは……やはり斬り合いは若者に任せて、老兵は穏やかな余生を――」


 弱々しく呟きながら、小原は十手を投げつけた。


 対手の行動を予測していたようで、朧は軽々と十手を避けた。然しその隙に、間合いを詰められる。

 小原が脇差を振り上げた刹那、


「ぷううううっ!」


 朧が清酒の霧を吹いた。

 恐るべき腹圧で口腔内の酒を噴射。

 小原の顔面に清酒の霧を浴びせたのだ。


「ぐはっ――」


 小原は左手で顔を押さえて、反射的に身体を丸めた。

 朧に視界を奪われたのは三度目。瓢や髪の毛で視界を塞がれた時は、何の痛みも感じなかった。然し三度目は違う。眼球に清酒の霧を浴びせ掛けられ、激痛で瞼を開ける事すらできない。


「斯様な技を何処いずこで……?」

「技ではない。宴の席で覚えた芸じゃ」


 目を閉じた小原を見下ろし、頸動脈に大刀の刃筋を添える。


「お互いに守るものがあると大変じゃのう。昔のお主なら追い詰められた時点で、勝負無しの道を選んでおった。背を向けた逃げた処で、儂は追わぬと承知しておろう」

「……」

「たとえ無様でも生き残りさえすれば、決して負けに非ず。儂が幼い頃、斯様に教え諭したのは、お主であろう」

「……」


 小原は沈黙で応えるしかない。

 子供を持たない頃なら、危険を感じた時点で逃げていただろう。然し我が子を武士にする為、奏の首級を挙げなければならない。


 見え透いた挑発に乗るほど、拙者は追い詰められていたのか……


 昔のように守る者がいなければ、生き延びる事もできただろうが……小原の心に後悔はない。自ら望んで、こういう生き方を選んだのだ。


「手早くお願いします」

「うむ」


 大刀の柄を握り締めた刹那、


「おおっ――」


 朧は頓狂な声を発した。


「お主に申し忘れていた事がある」

「なんでしょう?」

「昔、お主の家に招かれた時、居間の花瓶が割れたであろう。アレはお主の倅の仕業ではない。儂がやった」

「存じておりました」


 朧が大刀を引くと、鮮血が噴き出した。


「ぱぱみや――」


 大量の血が弧を描いて飛び、地面に血溜まりを作る。

 頸動脈を切断されており、助かる見込みはない。次第に意識も混濁していく。小原は傷口を押さえず、自らの意志で後退あとずさり、水堀へ落下した。




 起こり……攻防の予備動作


 上体の落下速度及び時間……地球の重力加速度が約9.81m/s 2 。(距離)=1/2 ×(加速度)×(時間)^2の為、空気抵抗を無視した場合、人間の上体は一秒後に4.9mほど落下する。秒速4.9m。脚の長さにもよるが、上体が落下する距離は5㎝未満。距離が短すぎる為、空気抵抗を無視すると、上体の落下時間は0.01秒以内に収まる。


 相権者……日本古来のボクサー


 刻突……ジャブ


 三間……約5.63m 太閤検地後


 天正十八年……西暦一五九〇年


 成田なりた長親ながちか……成田康季の嫡男


 四里……約15.6㎞


 堤をつけ……戦国時代の建築用語。堤や堀や土塁など、防御設備を新たに設置する時、「~をつける」と表現した。


 場定め……一時的に決めた規則


 相権の当流……日本古来のボクシングのスリッピング・アウェー


 身の当たり……体当たり

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