第40話 覇天流

 本家屋敷の庭に小鳥の声が響く中、朧は樹上で寝ていた。左脇に瓢を抱え、右手を大刀の柄に添えている。

 太い幹に背中を預け、枝の上に両脚を乗せていた。一流の武芸者は、睡眠中でも平衡感覚を失わない。

 周りは、無数の樹木が生い茂る木立。飛び道具で狙われにくい反面、樹木を取り囲まれると危うい。然し『危うき』が近づけば気づく。美作の山奥で暮らしていた朧は、己の生存本能を微塵も疑わない。

 寅の刻。

 群青色の空に、朝陽の朱色が足されていく。

 忽然と薄紅色の蛾が、ひらひらと飛んできた。

 朧の眼前まで近づいた刹那――

 腰間ようかんで白刃が閃いた。

 大刀の切先を蛾に向ける。


「おはようございます」

「……なんじゃ、雌狗プッタか。止めずに振り抜くべきであった」


 朧が瞼を擦りながら、大きな欠伸をした。

 身体が勝手に反応した後、睡眠から覚醒したのである。睡眠中といえど、朧は警戒心を緩めない。本家屋敷は敵陣の只中である。


「何故、斯様な場所でお休みしているのですか?」

「高い所が好きでの」

「馬鹿と人斬りは、高い所が好き――という格言は真だったのですね」

「左様な格言はない。儂に何の用じゃ」

「勿論、御役目の事です」

「朝早くから御役目、御役目とうるさいのう。儂は寝不足なのじゃ。昼には『神寄カミヨリ』を討伐致すゆえ、それまで寝かせよ」


 朧は目を瞑り、再び眠りに就こうとする。


「昨晩は遅かったのですか?」

「一晩中、日焼けと髭面の墓穴を掘っておった。その間に『神寄カミヨリ』が襲い来れば、それも一興と待ち構えておったが、一向に姿を現さぬ。畢竟、屋敷に戻りしは、明け方という有様。それゆえ、殆ど寝ておらぬ。せめてもう一刻は寝かせよ」


 朧が億劫そうに言う。

 『神寄カミヨリ』の猛攻から退いた後、再び元の場所に戻ると、戦場の如く荒れ果てた現場に屍が放置されていた。最初の犠牲者も含めて、耳の欠けた屍が三体。餌贄えにえの耳を四つも手に入れ、『神寄カミヨリ』も満足して立ち去ったようだ。

 朧は髭面のくわで穴を掘り、猟師の屍を埋葬した。

 酷く難儀な作業だった。

 深夜の森の中で、粉々に砕けた肉片を探すのだ。夜目の利く朧でなければ、朝までに終わらなかっただろう。

 東の空に朝陽が見え始めた頃、全ての作業を終えた朧は、本家屋敷の井戸で身体を洗い清め、庭木の上で眠りに就いた。

 それから一刻も経過していない。

 然しおゆらは、休憩中の朧を急かす。


「そうは参りません。大事な御役目です」

「昼と申しておる」

「『神寄カミヨリ』討伐ではありません。貴女の本来の御役目……作州の牢人衆が、先程から大手でお待ちです」

「――ッ!?」


 朧は両眼を開いて、軽やかに樹上から飛び降りる。


「それを先に申せ」

「眠気は覚めましたか?」

「無論じゃ。斬り合いに勝る事などあろうか。しかも覇天よりいとまを出された者共じゃ。弱いという事はあるまい。相手は何人じゃ?」

「三名です」


 薄紅色の蛾が、朧の後ろに従う。


「律儀に名乗りましたよ。井上いのうえ半之丞はんのじょう小原おはら茂兵衛もへえ能登のと羅首領ラドン。お知り合いですか?」

「知り合いも知り合い。儂と同じ覇天流じゃ。顔を合わすのは、何年ぶりとなろうか」

「……」

「三名とも腕は確かじゃ。特に小原は、中二病を卒業しておるからのう。如何なる手立てを用いるか、皆目見当もつかん。如何にして斬り伏せてくれよう」


 朧が獰猛な笑みを浮かべると、薄紅色の蛾は嘆息した。


「本当に朧様は、人斬り馬鹿なんですねえ」

「馬鹿で結構。愚かでなければ、生の充実など得られまい」

「作州の牢人について、奏様より御下知を授けられております」

「ほう」

「可能な限り、穏便に済ませてほしい。身の危険を感じた場合に限り、殺傷も致し方ないという事です」

「左様か」


 何かを思いついたのか、朧はニヤリと嗤う。

 大手門の潜り戸を開ける。水濠の上に橋が架けられていた。弓形の木橋の向こう側に、三人に牢人が佇んでいた。

 弓手に立つのが、井上半之丞。

 歳は二十代半ばくらいで、朧より頭半分ほど背が高い。月代さかやきを剃らない総髪だが、頭の後ろで髪を結んでいた。精悍な顔立ちだが、あまりにも装束が酷すぎる。桃色の鉢巻と桃色の小袖。桃色の袖無し羽織。桃色の軽衫カルサンと桃色の草履。打刀の鞘も桃色に染められており、色々な意味で近寄りがたい。間違いなく中二病を拗らせている。

 三人の真ん中に立つのが、小原茂兵衛。

 地味な商人の如き雰囲気を持つ初老だ。歳は五十代半ば。体格は中肉中背。茶色の頭巾で月代を隠し、白髪混じりの髪を肩まで垂らしている。藍色の小袖に紺色の野袴。帯に脇差を帯びていた。

 馬手で佇立する巨漢は、能登のと羅首領ラドンという。

 歳の頃は二十代後半。眉根太く風貌魁偉ふうぼうかいい縮毛巻髪ドレットヘア。袖のない光沢上着スカジャンを羽織り、胸に『王国民』と書かれた襯衣シャツを着込んでいた。鼠色の鉱山袴ジーンズ運動靴スニーカー。南蛮人の如く肩幅が広く、身の丈も六尺を超えている。全身の筋肉が盛り上がり、左腰に太刀をいていた。

 覇天流の門人という他に、彼らには共通点がある。

 全員、刀を一振りしか所持していない。

 禄を奪われた後、大小の一振りを売却したのだ。

 糊口を凌ぐ為とはいえ、武士の魂を売らなければならないという屈辱。然し彼らの姿には、気高い誇りを感じさせる。斬り剥ぎで金銭を得るつもりはない。必ずや奏の首級を挙げて、再び仕官しようという決意。揺るぎない自信を秘めている。

 敵ながら天晴れと、朧は心の中で敬意を示した。


「久方ぶりですな、お嬢」

「小原……儂をお嬢と呼ぶなと、何度も申したであろう」


 朧は、決まりが悪そうに言う。

 覇天流の稽古場で師範代を務めていた小原は、渡辺家中で爪弾き者にされていた朧を庇い、彼女が騒動を起こす度に、主君の覇天に取り成してくれた。理不尽な上意討ちで家中の結束が揺らいだ時も、覇天を擁護した数少ない忠義者である。

 後輩の面倒見も良く、多くの門弟から慕われていた。彼が覇天の側にいなければ、渡辺家は御家争いで滅亡していただろう。


「朧様……昔の同輩からお嬢と呼ばれていたのですか?」


「「蛾が喋った!?」」


 蛾が嘲笑すると、二人の牢人が仰天した。


「狼狽えるな、若者達よ。薙原家は透波の巣窟。おそらく忍術の類であろう」


 小原は鷹揚な態度で、両脇の牢人を制した。


「左様な了見で構いません。それより何故、お嬢と呼ばれているのですか?」

「……儂は幼い頃、覇天の娘と認められておらなんだ。その間に、お嬢という綽名が勝手に広まり、一部の家臣に定着したのじゃ」


 朧は苦々しい表情で、弁解じみた事を言う。


「成程。本来なら渡辺城の朧姫様ですからね」

「二度と儂を朧姫と呼ぶな」

「うふふっ。善処しましょう」


 薄紅色の蛾が笑うと、牢人の方に複眼を向けた。


「然し明け方に訪れるというのも無粋な話。どうやら覇天流の門人は、礼儀を知らない方が多いようで」

「これは申し訳ない。拙者は夜討ちの名手――渡辺覇天殿に仕えておりました。ゆえに合戦と申せば詭道きどう。対手の虚を突かねばなりませぬ」

「堂々と大手から訪れて、我々の意表を衝いたと?」

「夜討ちに適しておるのは、朝日が昇る直前。宵の警護疲れが、明け方に訪れますゆえ。逆光を浴びつつ、同士討ちを防ぐ事もできます」

「そういう事ではなく……如何に策を弄した処で、御屋敷の大手より攻め入れば、不意打ちの意味をなくしましょう」

「小原の話を真に受けるな」


 朧が苛立たしそうに、蛾と牢人の会話を遮った。


「おそらく蛇孕村に来る前に、色々と攻め手を考えておったのよ。然れど屋敷の警備を見て、方策の転換を迫られた。僅か三名では、夜討ちも朝駆けも適わぬ。ならば、堂々と大手より訪問し、儂を引き摺り出した方が早い。小原の考えそうな事じゃ」

「如何にも」

「それなら昼まで待つべきでは? 旅の疲れが残ります」

「小原は卒業しておるが、他の二名は中二病を拗らせておる。敵地を前に血が騒いだのであろう」

「弥縫策にもほどがあります。全く理に適いません」

「お主に中二病の事など分からぬよ」

「最近、少し勉強しましたよ。主人公が膣膨張ちつぼうちょうを使うとか」

「熱膨張じゃ。出産してどうする」


 朧に窘められて、蛾が「ふふふっ」と笑う。


「後の事は、朧様にお任せします。私は宴の支度がありますので。ああ……斬り合うのであれば、御屋敷の裏手でお願いします。大手を血で汚さないでください」

「左様な事は、お主に言われるまでもない。用があるなら、早々に立ち去れ」


 朧が邪険に手で払うと、薄紅色の蛾は屋敷の中に消えていく。

 余程人語を解す蛾に驚いたのだろう。蛾が見えなくなるまで、二人は刀の柄を握り締めていた。


「それで小原……念の為に訊いておくが、如何なる用向きで参った?」

「無論、奏様の首級を頂く為」

「お主らとは、まんざら知らぬ仲でもない。尻尾を巻いて逃げるというのであれば、見逃してやらんでもないぞ」

「我々も童の使いではありませぬ。武功を立てずに帰る事などできませぬ」


 小原が丁寧に答えると、


「おお、なんと恐ろしい口上じゃ。儂は身の危険を感じたぞ」


 朧は大仰に脅威を訴え、


「よし、斬り合おう。儂について参れ」


 手前勝手に後ろを向いて、水濠の側を歩き始めた。


「……」


 牢人衆は警戒しながらも、大人しく朧の後ろに付き従う。

 水濠の幅は、およそ二間半。深さは十尋ほど。この水濠と白い漆喰塀しっくいべいが、大手門から屋敷の裏手まで六町も続くのだ。

 屋敷の裏手に到着すると、朧は泰然と向き直る。


「今日は愉快な日よ。朝一番に昔の同輩と斬り合い、昼は『神寄カミヨリ』討伐。夜は祭りと、楽しい事尽くめじゃ」


 朧は屈託のない笑顔で嗤う。


「同感だな。私も混ぜて貰おうか」


 忽然と獺が、水濠から頭を出した。


「「獺が喋った!?」」


「狼狽えるな、若者達よ。先度と同じ忍術であろう。動揺すれば、対手の思う壺」

「忍術でも何でも構わないが、私は通りすがりの獺だ。お前達の争いに介入するつもりはない」


 獺は、朧と牢人衆の間を通り過ぎる。


「如何致した?」

「ただの見物だよ。兵法へいほう数寄者オタクを自認しているが、武芸者の立ち合いを検分した事がないのだ。ゆえに一度見ておきたくてな」

「意外じゃの」

「一方的な虐殺なら、嫌と言うほど見てきたが……私の事は気にするな。武芸者同士で好きなように始めてくれ」

「カカカカッ、獺が検分役というわけか。それも愉快。見物する者がおれば、斬り合いも盛り上がる」

「武士の立ち合いを愚弄するか!」

「図に乗るなよ……」


 半之丞は声を荒げて、羅首領ラドンも舌打ちをする。


「惑わされるでない」


 老獪な年配の武士は、激昂した若武者を抑えた。


「此処は戦場いくさば。心を乱した者から死んでいく。二人とも眼前の敵に集中せよ。拙者は周囲に気を配る」

「……」


 小原に指摘されて、二人は心を静めた。

 実力云々というより、他の二名より実戦経験を積んでいる。

 永禄十年の明善寺合戦みょうぜんじかつせんから天正十五年の九州征伐まで参戦した古強者ふるつわもの。予期せぬ事態が起きた時、戦巧者が最も頼りになる。


「偖も偖も最初は誰じゃ? 小原か? 半之丞か? 三人同時でも構わぬぞ」

「尋常な立ち合いにて貴殿を仕留めてこそ、堂々と奏様の首級みしるしを持ち帰れるというもの。多勢で襲うなど論外よ」

「我々は群れを成した山狗やまいぬに非ず。一人の武者なり」

「三対一でお願いします」


「「小原さ――――んッ!!」」


 半之丞と羅首領ラドンが、同時に頓狂な声を発した。


「狼狽えるな、若者達よ。すでに敵陣の只中。混乱すれば、対手の術中に嵌まるだけ。此処は拙者に任せなさい」


 諭すように言いながら、小原が一歩前に進み出た。

 油断を誘う話術や騙し合いも真剣勝負の極意だ。小原の巧みな心理戦は、半之丞や羅首領ラドンの及ぶ処ではない。

 先ず二人は、年長者に先手を譲る。


「あれから三年になりますか。覇天流の稽古場に押し込み、三十余名の門弟を叩き伏せ、覇天殿から印可状と極意書を奪い、城下より出奔。その後も修羅場を潜り抜けてきたのでしょう。背後から仕掛ける隙もなし。加えて水濠の側を歩くとは……もはや拙者の知る朧殿ではありませぬな」


 基本的に武士は、他人が弓手を歩く事を嫌う。左腰に刀を帯びているからだ。左を歩く者に不意を打たれると、咄嗟に刀を抜く暇がなくなる。

 加えて馬手は水濠だ。

 三人掛かりで水濠に突き落とせば、それで決着がついてしまう。濠を登る処を討たれて終わりだ。

 これも中二病の美意識と言うべきか。敢えて不利な状況に持ち込み、対手の動きを誘う剛胆さを称賛しているのだ。

 小原の言葉からは、敵愾心を全く感じない。頬を緩めて笑う姿は、地味な行商人のようである。


「抑も奏様の首級を挙げる事に、如何なる意味がありましょう。無益な争いを避けられるなら、それに越した事はありません」

「先度と申しておる事が違うぞ」

「拙者は中二病を卒業した身。屋敷の造りを見れば、思い込みも捨て去ります。田畑の広さも考慮すれば、大身と呼ぶに相応しい石高とお見受けしましたが……」

「薙原家の石高など知らぬ。獺殿」

「……諸大名に銭を貸す程度としか言えん」

「おおッ――」


 小原は感嘆の声を発した。


「ならば話は早い。どうか我々を薙原家に推挙して頂きたい」


「「小原さ――――んッ!!」」


 半之丞と羅首領ラドンは、同時に絶叫した。


「正気ですか!? 悪名高い薙原家ですよ!?」

「蛾や獺が人語を解す化物屋敷! 妖怪城で城勤めなど虫酸が走る!」

其方そなたらは若い。世情を理解しておらぬ。透波やら妖怪やらと、我々は主君を選べる立場ではない」

「然れど――」

「蛾が喋ろうと、獺が喋ろうと、拙者は気にも留めませぬ。何卒、朧殿から奏様に御口添えを――」


 半之丞の言葉を遮り、小原は身体を丸めて平伏した。


「「小原さ――――んッ!!」」


 本当に敵を騙す策略なのか?

 単に自分が仕官したいだけではないのか?

 当惑する二人を尻目に、小原は地面に額を擦りつける。


「ヒャハハハハハハハハハッ!!」


 土下座する小原に、朧は容赦なく哄笑を浴びせた。


「流石に中二病を未練なく卒業した小原じゃ。お主のそういう処は、決して嫌いではないぞ。然れど無理な話じゃ」

「何故?」

「私が説明しよう」


 検分役の獺が、横から口を挟む。


「仕官自体は不可能ではない。渡辺朧という前例もできたからな。今日は無理だが、明日屋敷に訪れれば、望み通り奏の推挙を得て、薙原家に士分として取り立てられるだろう。然し次の日に殺されて、裏山に埋められる。これ以上、おゆらも部外者が増える事を望まない。再び奏の記憶は改竄されて、いつもの日常に戻される。一日だけなら辻褄も合わせやすい」

「話が見えませぬが……」

「今日死ぬか、二日後に死ぬかという話じゃ。分かりやすかろう?」

「ならば、致し方ありませぬな」


 小原は残念そうな顔で立ち上がり、膝についた砂を払う。


「無念な事に、拙者の策は見破られた。然れど合戦とは、思い通りにいかぬもの。各々方、気を引き締めて掛かられよ」

「「お……おう」」


 どう考えても、薙原家と渡辺家を天秤に掛けていたと思うが、この場で仲間割れを始めても無益。抑も同門とはいえ、三名は一つの首級を奪い合う競争相手だ。

 半之丞と羅首領ラドンは刀を抜く事で、麻の如く乱れた心を切り替える。


「最初は誰じゃ?」

それがしが相手を務める」


 半之丞が一歩前に進み出る。


「半之丞か。お主、元々渡辺家の奉公人であろう。侍に拘らなければ、どこの大名家でも召し抱えてくれよう。それこそ作州に戻り、小者こものから遣り直せばよいではないか」

「誰が金吾に仕えるものか! 裏切り者に仕えるくらいなら、切腹して果てた方がマシよ!」


 半之丞は唾を飛ばして怒鳴った。

 小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室――高台院の甥だ。豊臣秀頼が生まれた後、小早川こばやかわ隆景たかかげの養子となり、秀吉の後継者候補から遠ざかるが、『秀頼が元服するまでの間、関白の地位を保障する』という条件で、西軍に加勢する事を決めた。

 然し徳川家とも内通しており、一万五千の兵を率いて松尾山に布陣。関ヶ原合戦が開始しても日和見を続け、最終的に西軍を攻め立てた。

 他の武将も秀秋に倣い、寡兵で持ち堪えていた大谷義継おおたによしつぐの部隊を襲撃。結果的に、彼の裏切りが勝敗を決定づけた。

 関ヶ原合戦の後、宇喜多秀家が治めていた岡山五十五万石に加増転封されたものの、裏切り者の汚名は天下に広がった。

 その為、小早川こばやかわ秀詮ひであきと名を改めたほどだ。

 いくら食い詰め牢人でも、余程追い詰められていない限り、今の小早川家に仕えたがらないだろう。


「某は貴殿を倒した後、仕官すると決めたのだ。他に望みはない」

「ほう」


 朧は嗤いながら、瓢に口をつける。今朝から水を飲んでいない。無論、中身は酒だが、起き抜けの一杯は欠かせない。


「貴殿も知る通り、某は百姓の次男だ。然し幼少の頃より武士に憧れた。漫画マンガ板芝居アニメの主人公の如く、煌びやかな中二病を目指していた。備前無双と誉れ高い覇天流の門下に加わり、歴戦の荒武者共と技を競い合い、家中でも指折りの使い手と認められた。合戦で手柄を立てれば、仕官の道が開けると信じていたのだ。然し某の慢心を打ち砕いたのは、渡辺朧――貴殿だ」

「……」

「忘れもしない。あの日……突然、貴殿は稽古場に現れた。いつも我らの稽古を木陰で眺めていた貴殿が、木剣を担いで押し入り、三十余名の門弟を叩き伏せた。そして覇天様から印可状と極意書を奪い、堂々と作州を出奔した」

「……」

「あれから三年余り……貴殿も成長した事だろう。然し某は、さらに腕を上げた。他流の武芸者と斬り合いもした。新當しんとう流の藤巻ふじまき神風斎じんぷうさい新陰しんかげ流の八重樫やえがし秀隆ひでたか鐘捲かねまき流のたつみ重蔵じゅうぞう本願寺ほんがんじ番衆ばんしゅう流の瞬英しゅんえい一羽いっぱ流の岡部おかべ則兵衛のりへえ。これまで斬り伏せた武芸者を挙げたら、片手では数えきれぬ。今なら渡辺わたなべ朱雀すざく殿と互角に戦えるだろう」

「……」

「貴殿を斬り終えた時、某は武士として生まれ変わる。煌びやかな中二の道を進むのだ。いざ尋常に――」

「前置きが長い」

「ぽふぽふ!?」


 朧の大刀が、半之丞の左肩を斬り裂いた。




 寅の刻……午前四時


 大手……大手門前。屋敷の入り口。


 月代……成人した男子が、頭髪を半月形に丸く剃った部分。


 二間半……約4.5m 太閤検地後


 十尋……約18.18m


 六町……約680m 太閤検地後


 永禄十年……西暦一五六七年


 天正十五年……西暦一五八七年


 小者……最下級の武家奉公人


 金吾……小早川秀秋


 士分……武士の身分

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