第37話 薙原家(二)

「薙原家についてですか? 何から御説明致しましょう?」

「先ず『妖術』と『魔法』の区別がつかない。数寄者オタク文化に疎い僕には、二つの区分がつかないんだよ」

「左様でございましょう。妖術とは、禍津神マガツガミが使徒に与えた権能。現世うつしよの摂理を創り変える御業です」

「権能?」

「朝廷が公家に官位を叙任するように。武家が嫡子に土地を譲るように。僧侶が弟子に経典を残すように。蛇神の使徒は、蛇神様より授けられた権能を娘に伝えるのです。端的に申せば、妖怪の使う異能が妖術。対して魔法は――」

「……」


 奏が唾を飲み込む。


「私にもよく分かりません」

「なんで溜めたの!?」


 おゆらは口元を袖で隠し、ころころと笑う。


「私にも分からない事があります。それに私は中二病ではありません。妄想癖の激しい中二病が、己に課した『設定』を貫く事で編み出す必殺技――みたいなものではないかと」

「ごめん。何を言いたいのか、さっぱり分からない」

「元々漠然としたものなのです。例えば、妖怪の大軍を率いた三好長慶や童貞を貫き通した上杉謙信は、私から見ても化物と変わりません。中二病が蔓延る昨今、魔法使いを騙る者は無数に存在します。然し本物の魔法使いが、その中に存在するのか……私にも判断できません」


 中二病や魔法使いに不審を抱きながらも、


「然れど魔法に関して言えば、一つだけ確かな事があります」


 おゆらは柔和な笑顔を崩さない。


无巫女アンラみこ様の使う魔法こそ唯一無二。その他の魔法は、手業てわざと断言して構いません」

「どうして?」

「使徒が使う妖術に、空気中に漂う微弱な稲妻を操るものがありません。无巫女アンラみこ様が使徒を逸脱し、蛇神様の化身と崇められる所以です」

「そうなんだ。僕は薙原本家の妖術かと思った。それなら本家の妖術って何?」

「本家の妖術は、薙原家の秘中の秘。私如きが打ち明けられる事ではありません。奏様は本家の血を引く御方。本家の妖術について知りたいのであれば――」

「マリア姉に訊けって事だね。無理におゆらさんが答えなくていいよ」

「格別の配慮、恐悦至極に存じます」


 おゆらは頭を垂れながら、心の中で「物分かりの良い奏様も素敵……」と呟き、想定通りの返答に満足する。


「元来、蛇神の使徒は無欲な存在でした」

「どうしたの、いきなり?」

「薙原家について知りたければ、薙原家の歴史を知らなければなりません。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様から聞いた御話の捕捉ともなりましょう。どうか私の話に耳を傾けてください」


 おゆらは前置きをした後、薙原家の歴史について語り始めた。


「御存知の通り、薙原家は山間に隔離された者共の末裔です。蛇神様より異能を授けられても、外界の者共に復讐する意志を持たず……夜更けに山を下りて、村落の墓を掘り起こし、新鮮な屍を持ち帰る。或いは、山の中に迷い込んだ旅人を拐かす。その程度の存在でした」

「その程度って……墓荒らしも拐かしもしてる」

「凶賊が跋扈ばっこする古来の山間部に於いて、我らの先祖は殊更に危険な存在と認識されていなかったのです。当時は外界の者共も『山』に対する畏敬の念を持ち、山と里の間に明確な境界線がありました」

「……」

「然し関東で武家が台頭すると、外界の者共も我々に対する見方が変わります。人を喰らう妖怪は、人の世に仇成す存在。それ以上でもそれ以下でもない。鎌倉執権家は何度も武士団を派遣し、我々を討伐しようとしました」

「……」

「鎌倉執権家の治世から室町将軍家の治世に変わろうと、関東の武士団は我々を敵視します。蛇神の使徒と関東の武士団の闘争は、三百年余りも続きました。然し応仁大乱以降、室町将軍家の権威は失墜。外界は地獄と成り果てました。暗雲が天を覆い尽くし、颱風たいふうが家々を薙ぎ倒す。豪雨が容易くつづみを切り、河川の氾濫を引き起こす。大量に増えた鴉や鼠の群れが、僅かな作物を食い散らかし、疱瘡ほうそう赤痢せきりなど疫病えやみが村々を襲い、武士は合戦に明け暮れる」


 急に語り部のような口調で、戦国時代について語り出す。


「話が見えてこないんだけど……」


 奏が訝しむと、おゆらは如才なく微笑んだ。


「まあまあ、最後までお聞きください。外界で飢饉が長引いた結果、再び我々に対する見方が変わりました。在る時、関東の武家から申し出てきたのです。薙原家と手を組みたいと。戦に勝つ為に、異能の力を借りたいと」

「……」

「当時の薙原家も武士との戦いに飽いていたのでしょう。そこで四代前の御本家様が、妖怪らしい商いを思いつきました。特定の人物を妖術で殺害し、依頼人から報酬を貰う。新鮮な屍と銅銭を同時に集めようとしたのです」

「『薙原衆』の誕生……」

帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様から聞きましたか? 然し仕物しもの専門の透波も儲かる商いではありません。我々が身を危険に晒しても、依頼人からの報酬はごく僅か。我々が妖怪だから、依頼人も足下を見てくるのです、これでは、妖怪のやりがい搾取です」

「……」


 おゆらの戯言は全く笑えなかった。


「それゆえ、御先代は作物や借書を運用し、銭を増やす事にしました。つまり土倉を始めたのです。これが大当たり。唐物に手を広げると、これも大当たり。当家の家蔵は、僅か十数年で数十倍に膨れ上がりました。もはや透波を続けるのも馬鹿らしいほどです」

「本当に御先代は凄い人だったんだね」

「御先代の才覚には、我々も驚かされました。それに土倉を始めた時期も良かった。秀吉公が日ノ本を統一し、大規模な唐入りの支度を始めた頃。豊臣政権は領土拡張政策を推し進め、太閤検地で兵糧を調達しておりましたが、諸将は合戦続きで銭不足。合戦に勝利する為には、鉄砲を集めなければなりません。加えて武功を立てる為には、立派な武具や馬は無論の事、優秀な家臣団が必要となります。然りとて矢銭を調達する為、年貢を増やす事もできません。領内で大規模な謀叛が起これば、唐入りの武功も消え去ります。本当に御武家様は大変ですね」

「ようやく話が呑み込めてきたよ。諸国の武将に高利で矢銭を貸し付け、『薙原衆』も唐入りに参加させ、債務者に手柄を立てさせた。債務者が失態を犯したら、借書の価値が暴落する。薙原家も看過できない事態だ。それでも勝てない債務者は、屋敷も土地も家財も没収。加えて債務者と一族郎党を一人残らず始末する。他の債務者に対する見懲みこらし餌贄えにえの確保で一挙両得。僕なら絶対に薙原家から銭は借りないよ」


 奏様は陰鬱な表情で呟いた。

 戦国武将から武力で借銭を取り立てるなど、薙原家にしかできない離れ業である。短い期間で他の土倉を追い抜くわけだ。


「私も同感です。然れど武士もののふは他の道を選べません。功名心や出世欲に取り憑かれた者共は、冷静な判断ができなくなります。一貫でも多く銭を集めたい。一刻も早く確実に……斯様な願いを叶える土倉は、当家の他にありません。合戦の趨勢に拘わらず、我々は武士に銭を貸しつけました」


 おゆらは笑顔で両手を組み、他人事のように言う。


「最悪だ……」


 逆に奏は、青白い顔で呻いた。

 合戦の趨勢を問わず――という事は、借銭の元本と利子を返済させる為、病気や負傷で帰還した武将も戦地に送り返したのだ。


「でも徳川家は唐入りに参加してないよね?」

「そうですね。徳川家を含めた東国の諸将は、朝鮮に攻め込んでおりません。秀吉公より『唐入りの支度をせよ』と命じられ、軍備を整えて名護屋城に到着した後、『貴殿らは名護屋城にて待機』と申しつけられたのです。ゆえに唐入りで武功を立てる事も、敵地で乱取に励む事もできず――」

「莫大な借銭だけが残った……」

「仮に関ヶ原合戦で東方が負けていたら……所領は安堵されていたとしても、東国の諸将は利息すら払えなくなります。左様な事にならないように、我々は東方についたのです」

「悪魔崇拝者か」

「妖怪です」


 おゆらは、奏の罵倒を笑顔で返す。


「まあ、いいや……いや、良くはないけど、当時の状況は理解できた。それで誰が借銭の取り立てをしていたの? 虎の子の『薙原衆』は、唐入りで日ノ本を離れていた筈だ」

无巫女アンラみこ様です」

「マリア姉が!?」

「私も仔細は存じませんが、御先代の命と聞いております。无巫女アンラみこ様の御力があれば、諸大名からも容易に借銭を回収できるでしょう。その過程で城を消し飛ばしたり、武将の首を刎ね飛ばしていたとか。外界の者共が、无巫女アンラみこ様を超越者チートと呼ぶ所以です」

「……」


 奏は絶句するしかない。

 時折、マリアが蛇孕村の外に出掛けて、毎度の如く行方知れずになる為、「またか」としか考えていなかった。然し現実は、奏の想像を遙かに超えていた。


「どうしてマリア姉は、そんな汚れ役を引き受けたの? 蛇孕神社の无巫女アンラみこだよ? 年寄衆も反対した筈だ」

无巫女アンラみこ様の御心は、私にも推察できません。然し御先代は、声望の高い娘が己の地位を脅かすと考えたのでしょう。伽耶様と同じように放逐したつもりが、土地と財産を差し押さえ、天下の公道に債務者(戦国武将)の首を晒す」

「……」

「途中から御先代も无巫女アンラみこ様の利用価値に気づいたのでしょう。无巫女アンラみこ様は御先代の指示通り、何も言わずに汚れ役を続けました。それゆえ、余計に年寄衆の憎悪を煽るのですが……御先代は、年寄衆の言葉に耳を傾けませんでした」

「……」


 奏が暗い顔で俯くと、おゆらが明るい声で言う。


「暗い顔をしないでください。現在の薙原家は高利貸しより、唐物屋や米相場に重きを置いております。もう二度と无巫女アンラみこ様の御手を煩わせる事はありません」

「だといいけど……」


 おゆらに諭されても、奏の表情は冴えない。


「関ヶ原合戦は例外です」

「……」


 奏は何も答えられなかった。

 関ヶ原合戦の時、マリアを止められなかったからだ。

 何故、薙原本家の当主が危険な戦場に立つのか?

 あの時の奏は、全く理解できなかった。

 然し今なら分かる。

 奏の安全を確保する為だ。

 徳川家と取引する為に、関ヶ原合戦で武功を立てる必要があった。それも奏の安全と蛇孕村の不入を認めさせるほどの武功だ。超越者チートでなければ、武功第一など望めない。

 奏は自責の念を覚えたが――

 超越者チートの胸中など、超越者チートにしか分からない事だ。

 これも後でマリアに相談してみよう。


「御先代亡き後、よく外界の大店をまとめられたね。篠塚家の当主も代替わりして、色々と大変なんじゃないの?」

「家督を一人娘に譲られた後も、隠居した前当主が商いを差配しております。御懸念は無用かと」

「唐物屋と米相場は、篠塚家に任せてるんでしょ? 大丈夫なの?」

「二年前の政変で色々とありましたが……本家と篠塚家の関係は修復に向かいつつあります。今年中には、篠塚家の当主も蛇孕村に戻りましょう。それで万事解決です」

「そうか。ならよかった」


 奏が安堵の息を吐くと、おゆらも笑顔で返した。

 これは嘘ではない。

 篠塚家の前当主は、おゆらも認めるほどの女傑。短絡的に粛清するつもりはないが、取次役が符条からおゆらに代わると、篠塚家は露骨に警戒感を示した。本家屋敷に伺候するように命じても、「薙原家の利益拡大の為、豊臣政権の混乱を利用すべきだ」と理由をつけて応じない。

 然し本家と対立するつもりはないと、蛇孕神社に進物を送り続けている。運良く謀叛から逃れた分家衆も篠塚家に倣い、土下座外交に徹しているが、やはり伺候の命には応じてくれない。篠塚家が、他家と示し合わせているのは明白だ。

 それでも本家は、篠塚家の行動を黙認していた。

 薙原家が商売を続ける為には、篠塚家の存在は欠かせない。何より篠塚家を断絶させれば、利益の拡大が見込めなくなる。

 无巫女アンラみこが謀叛を起こした時、畿内の情勢は混迷を極めていた。

 五大老の次席――前田利家が病没し、豊臣政権の政治的矛盾が爆発。武断派諸将の暴走に家康が付け込み、豊臣政権の権力闘争が抑えきれなくなる。

 同時に豊臣政権を支えていた政商も、身の振り方を考えなければならなくなった。己の支援する派閥が没落すれば、対外貿易の利益から外されてしまうからだ。

 武断派諸将に与するか。

 文治派諸将に与するか。

 家康や他の大名に与するか。

 恥も外聞も捨て去り、全ての派閥と誼を通じる政商も多かった。

 文禄の役以降、日ノ本と大陸の貿易は廃れた。その結果、豊臣政権はルソン島を中継地点とした南蛮貿易に傾倒していく。

 黒色火薬の原料である塩硝。鉄砲を造る為の鉄鉱石。弾丸を鋳造する為の鉛。石油製品の製造に必要な臭水くそうず。マカオから東南アジアに転売された天目てんもく景徳鎮けいとくちん梅園石ばいえんせき唐糸からいと。他にも異国の奢侈品しゃしひんを日ノ本に輸入する。

 日ノ本は、石見銀山から採掘された銀。精巧な武具や漆器。硫黄や真珠。価値の低い銅銭などを輸出していた。

 対外貿易の売上は、仕入の数十倍に及ぶ。

 これに数寄者オタク産業を加えたらどうなるか。

 対外貿易に加工製品を含めた産業革命は、信長の時代から畿内で成功していた。外国から輸入された原材料が、堺から水路で畿内に運搬される。

 塩硝や鉄鉱石や鉛などの軍需物資は、大坂砲兵工廠に運び込まれて、最新型の鉄砲や弾丸に変わる。臭水は大和国の製油所に持ち込み、化学繊維の原材料に使用する。最後に化学繊維を買い占めた頭取衆が、数寄者オタク職人に南蛮幼姫ゴスロリ装束や社畜制服リーマンスーツ運動靴スニーカーを造らせるのだ。日本独自の製品を南蛮諸国に輸出すれば、純輸出で明国を抜き去り、世界一の貿易大国となろう。

 もう一つは米相場への投機だ。

 織田政権も豊臣政権も数寄者オタク産業の保護・育成に注力していたが、同時に全国の物流を支配する事も考えていた。天下統一事業の過程で諸国に蔵入地を設置。諸大名の不正を監視する――という名目で、全国の交通・流通の要衝を抑え、各地の特産品が畿内へ集まるように仕向けた。

 特に各地の米は、最優先で畿内に集められた。

 米の価格は、豊作不作・地域差で異なる。豊作の地域で生産された米を中央に集め、不作の土地に分配すれば、食料を奪い合う合戦は終わる。

 蔵入地の廻専業は、上方の頭取衆に独占させた。

 合戦で儲けていた頭取衆に、米相場という新たな利益を与えたのだ。

 頭取衆は日ノ本の米相場を牛耳り、他の商人の介入を一切許さなかった。

 銭の欲に取り憑かれた篠塚家や年寄衆からすれば、対外貿易と米相場の利権は、是が非でも分捕ぶんどりたい処だ。然し関東の土豪には、政治的な足掛かりすらない。

 強欲な先代当主も手出しができず、畿内の仲介業者を金銭で買収し、関東で横流し品を売り捌くしかなくなった。

 だが、太閤薨去後の政治的な空白は、状況を一変させる好機だ。その為の裏工作を「薙原家の繁栄の為」と言われると、符条もおゆらも止められない。欲深い年寄衆の反発を買うからである。

 篠塚家は、僅か二年で優秀な『科学者』を引き抜き、京都や大坂の大店を次々と買収。対外貿易や米相場に食い込んでみせた。

 篠塚家の隠居は、先代の本家当主を超える偉業を成し遂げたのだ。

 無論、年寄衆を味方に引き込むほどの成果を出さなければ、蛇孕村に帰参しても影響力を発揮できないと見越していたのだろう。

 符条を追放した現在、おゆらの最大の政敵は篠塚家の隠居だ。

 然しおゆらは、篠塚家を警戒していない。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスのように、薙原家を裏切る度胸はなかろう。家康や如水に恩を売るほど愚かでもない。

 篠塚家の隠居が求めているのは、御家の守護と安堵。超越者チートの寵愛と庇護だ。マリアの信頼を得れば、篠塚家の家名と財産を守り抜ける。マリアの武威を背景に、篠塚家の権益を拡大する事も可能だ。即ちマリアと奏を取り込む事が、薙原家の支配に直結する。その為におゆらを排除し、再び薙原家の権力を握る事が、篠塚家の本当の狙いであろう。

 今は家蔵を蓄えながら、蛇孕村の情勢を静観しているのだ。

 ゆえに符条と手を組む事もない。

 奸知に長けた篠塚家の隠居は、マリアの不興を買うような真似はしない。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの言葉ではないが、理に適うゆえに読みやすい。

 篠塚家が一人娘を蛇孕村に寄越すまで、両家の交渉を続く。

 全てがおゆらの想定通りであった。


「薙原家の概要については、概ね説明したかと。分家衆の妖術や眷属についても説明致しますか? 話し終えた頃には、夜が明けていると思いますが?」

「明日は狒々祭りで忙しいからね。徹夜はできないよ。取り敢えず、アンラの予言と餌贄えにえについて知りたい」

アンラの予言は、先程申した通りですが?」

「『蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国するため、無限の殺生をいとはぬ者なり』」

「……」

帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんから聞いたよ。おゆらさんが三十六名の生贄を捧げて、予言の魔女に選ばれたって」


 奏が神妙な面持ちで問い詰めると、おゆらも表情を曇らせた。


「欲深き者共を掣肘する為です」

「?」

「年寄衆は无巫女アンラみこ様の支持を取りつけ、御先代や中老衆を粛清しました。然し御先代の圧政から解放された者共は、火事場泥棒の如く本家の権益を狙い、无巫女アンラみこ様に取り入ろうとしたのです。挙句の果てに、奏様を拐かそうとする者まで現れました」

「――ッ!?」

「奏様を人質にすれば、无巫女アンラみこ様を思い通りに動かせると考えたのでしょう。それでは御先代と代わりません。私は奏様を守る為、傅役の符条様と手を携え、年寄衆の暴走を食い止めたのです」

「……」

「尤も私は符条様と違います。无巫女アンラみこ様の威光がなければ、何も決められない小娘。年寄衆から信望を得る事もできず、符条様にも愛想を尽かされました。本家女中衆も新参者ばかりで、私の言葉を聞く者は少ないのです。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様や符条様は、現在の私の立場を知らないのでしょう。私如きが予言の魔女に選ばれるなど……有り得ない事です」


 おゆらが自嘲気味に笑う。


「僕はおゆらさんの実務能力を認めてる。家中の者達もそうだ。今の薙原家は、おゆらさんのお陰で成立しているのだ。自分を卑下する事はないよ」

「奏様! 本心から褒めてはなりません! 再び吐き気が込み上げて……」


 両手で口を押さえて、吐き気を堪える。


「ああ、ごめんごめん。今のナシ。それより餌贄えにえについて知りたい」


 本当に面倒臭い世話役だ……と胸の内でぼやきながら、奏は話題を逸らした。

 おゆらは白湯を飲んで、平静を取り戻す。

 何気なくおゆらが飲んだ白湯は、奏が口をつけたものである。


「狭義では、蛇神の使徒が必要な部位。広義では、人を餌贄えにえと呼んでおります。外界の武士団と対立していた頃の名残でしょう」

「必要な部位? 奇妙な表現だね」

「本当に特定な部位だけを食べるのです。本家と十二分家。それぞれの妖術が異なるように、必要な部位も異なります。耳を欲する分家もあれば、心ノ臓を欲する分家など様々。我々は、蛇神崇拝の戒律に縛られているわけではありません。蛇神の使徒が、生きる為に必要な薬なのです」

「薬か……」


 奏がぽつりと呟いた。


「薙原家の女性にょしょうも、女童めのわらわも、子供の頃は、人と何も変わりません。強いて違いを申せば、大凡の者より身体が強いくらいです。然し子が産める年頃になると、蛇神様より授けられた妖術に目覚めます。妖術に目覚めれば、薙原家の中でも『蛇神の使徒』と認められます。然し蛇神の使徒は、餌贄えにえを食べなければ生きていけません。人肉を食べなければ、衰弱して命を落とすか、『神寄カミヨリ』に堕落します」

「『神寄カミヨリ』という言葉も初めて聞いた」

「使徒の乱心者です。一度『神寄カミヨリ』に堕落すれば、手の施しようがありません。被害が出る前に始末しなければなりません」

「乱心者も出るのか……」


 奏が興味深そうに聞き入る。


餌贄えにえの代わりになりそうな物はないの?」

「薙原家も試行錯誤を続けましたが、餌贄えにえの代わりになるような物は……」

「そうなんだ」


 奏は両腕を組んで考え込む。

 おゆらは再び嘘をついた。

 実際は人に限らず、妖怪の部位でも餌贄えにえと成り得る。妖怪の共食いで飢えを凌ぐ事もできるが、それでは『神寄カミヨリ』と何も変わらない。人喰いの妖怪からすれば、問題外の手段である。

 然し奏は、妖怪という捕食者ではない。

 人という非捕食者である。

 身分や立場を超えて、決定的に種が異なる。共食いの情報を与えた後、奏が如何なる行動を取るか、おゆらにも予想できない。

 用心深いおゆらは情報を隠して、沈思黙考する奏を見遣る。


「意外に冷静ですね」

「ああ……冷静というか、現実味が湧いてこないんだよ。身内が人喰いの妖怪と言われても、地方の怪談話を聞いてるみたいで」

「我々が人を喰らう姿を見たいと?」


 おゆらの問い掛けに、


「帑亞翅碼璃万崇さんに一度見せられたから……正直、二度と見たくない。でもいずれは直視しなければならないと思う」


 奏は沈痛な面持ちで答えた。


「どうも奏様は、物事を真剣に捉え過ぎです。現実逃避や自己満足も悪い事ではありません。寧ろ睡眠と同じくらい重要です」

「そうかな? 具体的に何をすればいいんだろうね?」

「学問を修めるのです」


 おゆらは朗らかに断言した。


「学問を修めれば、物事を考える力が身につきます。教養の有無は、人品を推し量る材料となりましょう。加えて賢い者ほど知識を盲信します。現実逃避と自己満足の極地。私が良い例ですね。奏様も学問という『娯楽』を堪能してください」

「その話は、子供の頃に聞きたかったよ」

「今からでも遅くありません。学問に年齢は関係ありませんよ」


 他愛もない世間話のように、二人は顔を綻ばせた。

 次の刹那、奏は薙原家の核心を突いた。


餌贄えにえを食べる回数は?」


 おゆらは両目を見開いた。

 同時に得体の知れない快感が、五体の隅々まで駆け回る。

 過保護な母親が、不意に我が子の成長を目撃した気分と言うべきか。柔和な表情を保つ為に、感情の揺らぎを消し去り、冷静に思考を働かせる。

 奏はコレを訊く為に、おゆらと話を合わせていたのだ。

 おゆらの自決を見せつけられて動揺するも、徐々に平静を取り戻し、己の中で最も重要な案件を選び出す。そのうえで、冷静に情報を聴き取りつつ、おゆらに『使徒が餌贄えにえを食べる回数』を喋らせようとしていたのだ。

 生来、奏は清廉な気質の持ち主である。

 人喰いの妖怪と話を合わせるだけでも辛い筈だ。

 然し事を荒げると、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で記憶を書き換えられてしまう。奏はおゆらの妖術を警戒し、世話役の掌で踊る虚氣を演じているのだ。


餌贄えにえを食べる回数だよ。薬なら服用する回数が決められてるよね。朝餉と夕餉の後。一日二回服用するとか。そういう話」

「……個人差はありますが、月に一度が目安となります。ゆえに蛇孕神社では、月に一度饗会きょうらいという儀式を催しております。饗会きょうらいとは、蛇神の使徒が蛇孕神社に伺候し、餌贄えにえを貪り喰らう儀式です」

「――」

餌贄えにえを喰らう量も個人差があります。餌贄えにえが一つで構わない使徒もいれば、三つも食べなければならないという使徒もいますね。ヒトデ婆から聞いた話ですが、強力な使徒ほど多くの餌贄えにえを欲するそうです」


 刹那の間に思考を巡らせ、おゆらは真実を伝えた。

 意表を衝かれたが、質問自体は想定の範囲内。軌道修正するほどではなく、虚言で乗り切るほどでもない。

 無論、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使うほどでもないが――

 偽りを語らないのは、若き主君に敬意を示す為だ。おゆらの上に立つ者は、マリアの如く傑物でなければならない。


「稀にですが、五日から十日に一度、餌贄えにえを食べなければ、『神寄カミヨリ』に墜ちるか、命を落とす困り者もおります。符条様のように、餌贄えにえ自体が妖術と結び付く事例もあります」

「『神寄カミヨリ』は?」

「『神寄カミヨリ』は知性の欠片もない化物です。妖術の優劣に関係なく、欲望のままに餌贄えにえを喰い続けるでしょう」


 おゆたは凄惨な話を穏やかに話す。


「薙原本家の餌贄えにえは?」

「人の生き血です」

「――ッ!?」

「一ヶ月に数度、蛇孕神社の巫女衆が、无巫女アンラみこ様に生き血を捧げております。軽い貧血を起こす程度で、命に関わる事はありません」

「そうなんだ……」


 一瞬、絶句した奏が安堵の息を吐いた。


「他にも質問があるんだけど」

「どうぞ」

「蛇孕村の住民は、薙原家の秘密を知ってるの?」

「奏様の出自については、全く知らされておりません。伽耶様の忘れ形見という事だけです。薙原家の歴史についても同様。奏様に教えてきた御伽噺を真実だと刷り込まれております」

「……」

「尤も蛇孕村の住民は、我々の正体を承知しております。妖術についても、多少は知識を得ているでしょう。山奥の村落で何百年も隠し通せる事ではありません」

「薙原家の正体を知りながら、蛇孕村に住み続けているのか……」


 奏は怪訝そうに言う。


「御存知の通り、蛇孕村には年貢も賦役もありません。段銭を課した事もなければ、運上を課した事もありません。水利権も平等。医師も無料で診断します。その代わり、村人が天寿を全うした際、蛇神崇拝の戒律に従い、蛇孕神社で葬儀を行います」

「新鮮な屍を回収するわけだ」

「我々は強制しておりません。蛇孕村の外に出る事も許します。実際、蛇孕村の外に飛び出した若者もおります。勿論、薙原家や蛇孕村について広めないように、外界へ出る前に精神操作を施しますが……然れど皆一様に、外界の醜さに嫌気が差して、蛇孕村に戻るのです。これも道理ですね」

「……」


 符条から聞いた話だが、外界は毎年の如く飢饉が発生し、天変地異も日常茶飯事。野伏が我が物顔で街道を闊歩し、平然と人々が殺し合うという。

 蛇孕村で平穏を享受してきた者が、耐えられる環境だとは思えない。甲信から移り住んできた難民も安寧を求めてきたのだろうか。


「薙原家が仕物を始めて八十年余り……その間、蛇孕村の住民を手討ちにした事はありません。不安さえ感じなければ、民は統治者に従います」

「……」


 換言すると、薙原家が仕物に手を染める前、蛇孕村の住民は『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操られた挙句、進んで人喰いに喰われていたのだ。八十年以上前、家畜同然に扱われていた記憶も改竄されている。薙原家も都合の悪い記録は破棄しているのだ。


「おゆらさんはアンラの予言を信じているの?」

无巫女アンラみこ様と奏様が結ばれた暁には、薙原家に永久とわ弥栄いやさかが訪れます」

「根拠に乏しい話を信じるなんて、おゆらさんらしくないね」

「私はアンラの予言よりも、奏様を信じております。必ずや我らの救い主になると確信しております」

「……」

「私の期待は、奏様の重荷となりますか?」

「……」


 痛々しい沈黙が、両者の間を行き交う。


「再来年まで待つのは、流石に辛いかな……」


 沈黙に耐えられなくなり、奏が思いを吐き出すように呟いた。


 素晴らしい。 

 ここまで取り乱す事もなく、平静を保ち続けるとは……半月足らずの経験が、奏様を成長させたのですね。


 おゆらは心の中で称賛した。

 然し最後の発言も、おゆらの想定の範囲内である。


「祝言の日取りは、再来年の一月一日と定められております。変更はできません」

「どうして? 祝言の日取りを変えられない理由でもあるの? アンラの予言? 蛇神崇拝の戒律? マリア姉は予言や戒律なんて気にしないよ。突然、巫女神楽の演目を変えるくらいだから。狒々祭りが終われば、すぐに――」

「祝言の日取りを早めても無駄ですよ」


 奏が語気を強めると、おゆらは冷静に遮った。


「無駄かどうかなんて分からないよ! 僕がマリア姉を説得する! 因果律や運命なんて話は、子供の頃から聞き慣れてるから大丈夫! マリア姉が決断すれば、祝言の日取りも早められるよ!」


 奏は早口ではやし立てたが、おゆらの表情は変わらない。


无巫女アンラみこ様の御意志は絶対です。祝言の期日は変わりません」

「――ッ!!」


 気色ばんで怒鳴りかけたが、ぐっと言葉を飲み込む。


「……後でマリア姉と話してみるよ」


 奏は暗い声で答えた。

 これ以上、おゆらと問答を続けても無駄か。やはりもう一度、マリアと話し合わなければならない。


「私からもお伺いしたい事があります」

「何?」

「これからどうなさるおつもりですか?」

「……」

「朧様は、奏様を蛇孕村の外に連れ出したいようです。符条様も同じでしょう。然し我々は、奏様の真意を知りません。どうか御存念をお聞かせください」


 湯呑を折敷に置いた後、奏は暫く黙考する。


「朧さんと諸国を巡るのも楽しそうだけど……屍山血河しざんけつがの修羅道だ。行く先々で、無関係な人々を巻き込むと思う。それなら山奥で隠棲していた方が、被害も少なくて済む。僕は蛇孕村を出ていくつもりはないよ」

「その言葉を聞いて安心しました。奏様の安全は、我々が保障します。奏様も御存知の通り、薙原家は強者つわもの揃い。もう二度と曲者に出し抜かれる事はありません。无巫女アンラみこ様の許で安らかにお過ごしください」

「何から何までありがとう」

「なんと勿体ない御言葉。恐悦至極に存じます」


 期待通りの返答に満足し、おゆらは笑いながら頭を垂れた。


「今宵の講義は、これまでと致しましょう。明日は奏様の晴れ舞台です。外界から上手じようずと名高い絵師を招きました。奏様が舞い踊る姿を描き残し、当家の家宝にする所存です」

「その時は、僕が絵を燃やすから。絶対に燃やすから」

「あらあら」


 おゆらは笑声を漏らすと、折敷を持って立ち上がる。


「明日のかなたん音頭は、眷属を通して拝見します。薄紅色の蛾を見掛けても、邪険にしないでくださいね」

「分かった。虫籠に閉じ込めておくよ」


 奏は軽口を叩き、前方に両脚を伸ばした。

 長時間、端座で話を聞いていたので、脚が痺れて動かない。ふくはぎを両手で揉みほぐしながら、おゆらの後ろ姿を見送る。

 おゆらは木戸に向かう途中、ぴたりと立ち止まった。


「最後にもう一つだけ……お伝えしたい事があります」

「ん?」

「奏様が无巫女アンラみこ様をお慕いする気持ちは、自然と心の内から芽生えたものです。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操作したわけではありません」

「……」


 奏は押し黙り、頬を赤く染める。

 純粋無垢な少年の反応は、世話役を満足させるものだった。

 おゆらは笑顔の仮面を貼り付け、「お休みなさいませ」と言い残し、部屋の外に出た。その後、数名の巫女が現れて、寝具を敷いて立ち去った。

 暫時の後――

 奏は溜息をついた。

 急に緊張は解けた所為か、全身から汗が滲み出てきた。

 おゆらから情報を得ようとすると、細心の注意を払わなければならない。一言でも間違えば、記憶を書き換えられるか、精神を支配されてしまう。

 薙原家について聞いた処から、おゆらの思惑に乗せられていると気づき、情報収集に徹したつもりが、奏の演技も見抜かれていたようだ。

 然しおゆらは、奏に真実を打ち明けた。

 おゆらの魂胆は計り知れないが、奏が一番知りたい情報を教えてくれた。

 奏が求めていた情報とは――

 薙原家が一年間に購入する奴婢の数だ。

 蛇孕村に住む分家衆は、三十名を僅かに超える程度。外界で活動する分家や『薙原衆』を含めると、概算で四十名くらいか。餌贄えにえの不要な女童を除けば、人を喰らう妖怪は三十名程度に絞られる。

 蛇孕村の住民も病気や事故で命を落とす。然し年に十人いるかどうか。外界から大量に奴婢を購入しなければ、深刻な餌贄えにえ不足に陥る。

 然し本家が養う下人は、餌贄えにえの代わりに成り得ない。

 彼らは、蛇孕村の貴重な労働力だ。

 下人の労働内容は、農作業や普請や作事など多岐に渡り、本家が与えた雑用も遣り遂げる。勿論、おゆらの妖術で操られているだけだが、薙原家も多様な仕事をこなす下人を処分したくないだろう。

 つまり薙原家は、奴婢を労働用と食用に分けている。労働用の下人は隠す気もないが、食用の奴婢は奏に知られたくなかった。

 然しおゆらの話から、重要な情報が得られた。

 先ず食用の奴婢を管理する場所は、蛇孕神社の他にない。蛇孕神社で饗会きょうらいを行う事が何よりの証。勿論、マリアが下人の管理を行う筈がないので、これもおゆらに任せきりなのだろう。

 しかも薙原家では、『備蓄分の餌贄えにえ』と『生きた食用の奴婢』は同義語である。

 人喰いの妖怪が餌贄えにえと聞いて、特定の部位を想定するだろうか?

 おゆらは外界の武士団と対立していた頃の名残り……と話していたが、分家衆が「備蓄分の餌贄えにえを一つください」と蛇孕神社に懇願した際、特定の部位を塩漬けにして送りつけられても困る。特に首級の塩漬けは、酷い悪臭がする為、人喰いの妖怪でも食べられなくなる。広義であろうと狭義であろうと、分家衆に餌贄えにえ一つを頼まれたら、『生きた食用の奴婢一名』を送る筈だ。

 加えて饗会で喰らう餌贄えにえと備蓄分の餌贄えにえも異なる。

 蛇孕神社の儀式で使徒一人に餌贄えにえを一つ配るなら、一ヶ月に必要な餌贄えにえは三十人弱。一年間なら三六〇人以上。これが饗会きょうらいで喰らう餌贄えにえの人数。餌贄えにえを二つや三つ喰らう使徒もいるなら、これでも足りないような気がする。儀式に必要な餌贄えにえが足りなければ、備蓄分の餌贄えにえから補充するのだろう。

 問題は備蓄分の餌贄えにえの数だ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞いた話を信じるなら、薙原家は二年前まで毎年、千人以上の奴婢を買い集めていた。当時の薙原家は、女童を除いても五十名余り。先程と同じように概算すると、必要な餌贄えにえは六百人以上。備蓄用の餌贄えにえを四百人以上も購入していた。

 フェミニ推定という言葉は知らないが、これだけ条件が揃えば、奏でも実数に近い人数を推定できる。

 現在の薙原家は、一年間に七百人以上の奴婢を買い集めている。

 内訳は饗会で喰らう餌贄えにえが、最低でも三六〇人以上。

 備蓄分の餌贄えにえが、四百人以上の六割六分で二六四人以上。

 二年前の謀叛で二十二名も使徒が死亡した為、全体で四割も減少した。その結果、薙原家に必要な奴婢の数も少なくなった。

 換言すれば、毎年六二〇人以上の奴婢が人商人に売り飛ばされた挙句、妖怪に喰い殺されている。労働用の下人の補充も考えると、七百人を超えているのではないか。

 毎年七百人以上の奴婢を関東から集められる筈がない。薙原家は、全国から奴婢を買い集めている。

 用心深いおゆらの事だ。

 足がつかないように、人身売買に何人も仲介業者を挟んでいる。仲介業者を増やす分、奴婢の購入費用も上積みされていく。奴婢一人の値段など想像もつかないが、毎年千人以上も奴婢を購入すれば、餌贄えにえの調達費用もかさむ。無秩序に使徒が増え続けると、本家の外貨準備が消えてなくなる。

 奏は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの言葉を思い出す。


餌贄えにえの備蓄や下人の補充を考えると、必要な数も多くなる。加えて使徒が増えれば増えるほど、餌贄えにえの調達費用も増えていく。薙原家の悩みの種さ」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの話を聞いた時から、奏は疑問を抱いていた。

 謀叛を起こした後、如何に利益を分配したのか?

 先代当主や中老衆や人質を殺害すれば、天から砂金まさごが降り注ぐというのか?

 本家の新たに女中衆を召し抱え、年寄衆に利益を分配する余裕はない。稼ぎ頭の篠塚家も蛇孕神社や本家に貿易の利益を納めており、他の分家に金銭を融通していない筈だ。他の分家に金銭をばらまくと、本家から「叛意有り」と決めつけられ、粛清の対象にされてしまう。篠塚家の隠居は、聡明な人物だ。おゆらに弱みを見せたりしないだろう。

 ならばどうするのか?

 使徒の数を減らせばよいのだ。

 先ず使徒の五分の三を殺害し、餌贄えにえの調達費用を五割近くも削減。予算の削減で浮いた費用を年寄衆に分配する。冷遇されていた年寄衆に利益を譲り渡す事で、平等な利権の分配を実現したのだ。

 後は時間を掛けて使徒の数を減らし、薙原家に『餌贄えにえを喰わない人』を増やしていく。二年前に起きた謀反は、何十年も先を見据えた財政政策の一環。なんて用意周到で残酷な計画であろうか。


 人殺し。

 人買い。

 人喰い。

 挙句の果てに、同胞が利権を求めて殺し合う。


 これが薙原家の現状だ。


 おそらく。

 考えたくはないが。

 謀叛の首謀者はおゆらだ。


 これほど冷酷な策略を実行できるのは、悪党揃いの薙原家でもおゆらくらいだ。律儀な奏の傅役は、思いついても実行を躊躇う。

 今は迂闊に行動できない。

 否。

 決断したからこそ、蛇孕神社で暗い天井を見上げている。

 蛇孕村の外に出ない。

 自分の力で薙原家の問題を解決する。

 奏とマリアが結ばれても、人が産まれるかどうか分からない。使徒を側室に迎え入れた処で、他の使徒が人を産むかどうかも不明だ。

 それでも奏は、蛇孕村に残ると決めた。

 数百の奴婢と数十万の民の命を天秤に掛けて、己の意志で数十万の民を選んだ。解決策が見つかるまでとはいえ、人喰いという蛮行を黙認するも同然。


 選択と集中。


 奏が忌み嫌う発想の一つである。

 下唇を強く噛むと、血が滲んできた。

 許婚を戦略兵器と割り切れば、犠牲者を減らす事もできる。マリアに『薙原家の殲滅』を懇願すれば、許婚は即座に実行するだろう。蛇孕村に住む妖怪共は討伐され、奴婢が喰い殺される事もなくなる。

 然し蛇孕村の外に出た分家衆は、外界に身を隠すだろう。

 やがて日ノ本の各地に使徒が散らばり、爆発的に妖怪が増えていく。現在の武芸座に妖怪の拡散を阻止する力はない。日ノ本は異国の侵略に怯えながら、妖怪と人が殺し合う時代に戻るだろう。

 本当に馬鹿みたいな話だが、マリアにそれを防ぐ手立てはない。

 方向音痴のマリアは、人の世に隠れた使徒を見つけられないからだ。仮に魔法で発見できたとしても、追い詰める前に逃げられてしまう。

 使徒の増殖と拡散を防ぐ為にも、使徒は一箇所に留めておくべきだ。奏と同じように、山の奥に閉じ込めておくべきだろう。

 そして奏も情けを捨てきれない。

 おゆらからも忠告された。

 奏がマリアを想う気持ちは、自然に芽生えたものだと。誰かを想う気持ちが偽りなら、どれほど良い事か。やはり奏には、マリアを道具のように扱う事はできない。

 それに知らない情報が多過ぎる。

 人間も妖怪も等しく救う手立てはないものか。万に一つの可能性でも、何もしないで諦めるよりマシだ。


 まだ頑張れる。

 僕は、この場所で踏ん張れる。


 心の中で呟くが、様々な思考が脳裏を過ぎる。


 人を喰らう妖怪。

 薙原家の妖術。

 秀吉公の御落胤。

 生き血をすする許婚。

 これからも罪もない人々が、妖怪に喰い殺されていく。


「畜生……」


 奏は呻くように、小さな声で呟いた。

 もはや隠すつもりもないのだろう。いつの間にか、口の痛みが消えている。唇の傷が、ヒトデ婆の妖術で完治していた。

 奏は立ち上がり、薄暗い部屋を出た。


 まだ眠れない。

 もう一度、アリア姉と話し合わないと――




 鎌倉執権家……鎌倉幕府の上層部


 矢銭……軍資金


 臭水……石油


 天目……大陸製の茶道具


 景徳鎮……大陸製の陶磁器


 梅園石……大陸製の凝灰岩。神社の狛犬や石灯籠を造る時に使う。


 唐糸……大陸製の生糸


 純輸出……輸出額と輸入額を引いた差


 段銭……臨時租税


 運上……職業別の租税


 甲信……甲斐国と信濃国の総称


 外貨準備……中公銀行、或いは中央政府など、金融当局が保有する外貨

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