第36話 薙原家(一)
おゆらの自決騒動の後、奏は隣の部屋に移った。
血塗れの部屋で寝る度胸はない。
おゆらは着替えの為、別の部屋に移動している。彼女が身を清めて、新しい装束に着替えた後、改めて話を聞く事になった。
おゆらが着替えを終えるまでの間、奏は一人で黙考していた。
怖かった。
身の毛が
血溜まりに倒れ伏したおゆらの姿が、眼に焼きついて離れない。家族を失う恐ろしさに背筋が震えた。
とにかくおゆらさんが無事で良かった……
奏は壁を眺めながら、大きく息を吐いた。
これ以上、死人を増やしたいわけではない。
己の意志で決断する為に、真実が知りたいだけだ。
「お待たせしました。巫女装束のおゆらです」
主君の苦悩を気にも留めず、おゆらは木戸を開けた。
蛇孕神社の巫女から白衣と朱袴を借りてきたのだろう。巫女装束に着替えたおゆらが廊下で端座し、優雅な仕草で入室する。
おゆらは足のない折敷を持ち、奏の前に腰を下ろした。
折敷の上には、黒漆塗りの
「どうですか? 似合いますか?」
「普段着の次に似合うよ」
「……それは『似合わない』という意味ですか?」
「おゆらさんの所為で、御世辞を言う気分になれないんだよ」
「うふふっ。
おゆらは微笑を零しながら、湯桶を白湯を注ぐ。
「白湯をお持ちしました。暖かい物で喉を潤せば、御心も落ち着くかと」
「ありがとう」
奏は湯呑を受け取り、素直に礼を言った。
散々に泣きはらしたばかりなので、酷く喉が渇いていた。
「もう一杯如何ですか?」
「いや。それよりおゆらさんの話を聞きたい」
「質問を質問で返す無礼をお許しください。奏様は、
「吹き込む? 二人が僕を騙したというの?」
「滅相もない事。然れど
「ヒトデ婆から聞いてないの?」
「私が尋ねても、仔細を打ち明けてくれないのです。おそらく薙原家の現状を楽しんでいるのでしょう。元より世捨て人の如き御仁。信を置く事はできません」
「マリア姉は?」
「私如きが
「僕が聞いたのは……薙原家の女性は、人を喰う妖怪で妖術を使う。僕と母上が帰郷してから、年寄衆と中老衆の対立が激化。二つの派閥争いの間で若い娘達が暗躍。薙原家の内訌が収束できなくなり、年寄衆と若い娘達が謀叛を起こした。結果は、年寄衆と若い娘達の勝利。先代当主や中老衆や女中衆は粛清され、二年前の火災も謀叛が原因。その後の権力争いの末に、若年のおゆらさんが下克上を成し遂げた。薙原家は、
「なんと申しますか……断片的な情報ばかりですね」
「朧さんが生きるか死ぬかの瀬戸際で、僕も混乱していたんだ。正直、今でも狐に化かされたような気分だよ」
何も知らない奏が混乱するのも当然だろう。
十日前の夜。
朧が毒に侵された時、マリアは朧の血を舐めて、身体の中で解毒剤を精製。傷口に人差し指を突き立て、朧の身体に解毒剤を注入した。
朧の痙攣が治まると、マリアは虚空に向かい、「ヒトデ婆、渡辺朧の負傷を癒やしなさい」と命令。
奏が不思議そうに周囲を見回すと、脈絡もなく「ぞえぞえ~」という奇声が響き、一瞬で朧の怪我が完治した。
異常事態の連続で、奏も理解が追いつかない。
マリアに説明を求めても、「おゆらから聞いてないの?」と問い返され、奏が返答に窮する始末。それでも執拗に問い詰めたが――
『奏ふうに説明すると、
奏は全く理解できなかった。
「マリア姉の説明は、漢文の故実書より難しい。先生に話を訊くわけにもいかない。結局、おゆらさんに訊くしかないんだよね」
「主君を欺いてきた仇は、恩にて報じなければなりません。奏様の質問には、誠意を以てお答えします」
早速主君に嘘をつくと、おゆらは唇に指を当てた。
「……そうですね。先ずは現状の確認から済ませましょう。奏様の御下知に従い、朧様を侍に取り立てました」
「粗略な扱いはしてないよね?」
「勿論です。朧様は二度も奏様を助けた御仁。主君の恩人に相応しい待遇を用意したつもりです」
「そうか……良かった」
奏は頬を緩めた。
嘘である。
本当は借銭で雁字搦めにしているのだが、奏に教える必要はなかろう。
「ヒトデ婆の眷属に関しては、我慢して頂くしかありません。ヒトデ婆の眷属は、一瞬で奏様の怪我を癒やします。加えてヒトデ婆の眷属は、他の者に気取られないように隠れております。奏様が気にする必要はありません」
「気にするなと言われても……着物に蚤をつけて歩きたくないよ」
「日々の暮らしに障りはありません。全ては奏様の身を守る為です」
「僕の身を守る為? 僕を監視する為だろ?」
「奏様の安全こそ第一義。奏様の監視役は、ヒトデ婆の他にもおります」
「……」
おゆらの答えを聞いて、奏は沈思黙考する。
奏の想像通りだ。
ヒトデ婆の他にも、複数の監視役を揃えている。おそらく奏の護衛を任された家人であろう。それ以外にも、多くの女中衆が奏の言動を監視している筈だ。
過保護を超える用心深さに、奏は心の中で舌を巻いた。
「猿頭山の隧道は、我々の手で塞ぐ予定です。
「それもおゆらさんに任せるよ」
疑念を悟られないように、奏は落ち着いた様子で答えた。
「やっぱりもう一杯貰えるかな?」
「どうぞ」
おゆらが湯桶を傾けて、湯呑に白湯を注ぐ。
今度は喉を湿らせるように、少しずつ口に含んだ。
「それでは御話を続けます」
奏の様子を確認し、おゆらは穏やかに話を進める。
「おそらく奏様は、御自身の心の在り方に不安を抱いているのではありませんか? 今も私が奏様の精神を操り、思い通りに誘導していると」
「違うの?」
「奏様の精神に打ち込んだ楔は二つ。一つは、二年前の火災に疑念を抱かない事。もう一つは
「……」
特定の記憶を思い出すとは、
「嘘ではありません。事実、奏様は二年前の出来事に関心を示しております」
「……まあ、そうだね」
一応、おゆらの言動に納得する。
確かに傀儡の如く操られていたら、現状に疑念を抱く事もなく、おゆらを問い詰めようとも思わなかった。
「
おゆらは虚実を交えて、ぺらぺらと語る。
「だから
「左様です。加えて『
「例えば?」
「そうですね……例えば、奏様が桃を柿だと思い込むように、『
「桃じゃないの?」
「ぶぶー。不正解です。正解は、私にも分かりません」
豊かな胸の前で両手を交差させ、おゆらは嬉しそうに答えた。
「人間の認識や思考は、記憶や状況に応じて如何様にも変わります。相手の思考を読み取る妖術でも使わない限り、術者にも認識の変化を想定できません。極端な例えになりますが、桃を焙烙玉と思い込むと、大変な事になります。庭の木に焙烙玉が生えるなんて……奏様は心の病と疑うでしょう」
「それは怖いね」
「とても恐ろしい事です。それゆえ、認識に齟齬が生じた場合……他人から『桃は桃』と指摘された場合、精神操作から解放されるように設定しております」
つまり……奏が口を挟む。
「僕が二年前の火災に関心を抱かないように、みんなで示し合わせていたのか……」
「それは私の――」
「独断じゃないよね。先生も僕に教えてくれなかった」
「……」
「別にみんなを責めているわけじゃないんだ。なんとなく理由も分かるから。記憶の改竄も同じ手法だよね?」
「左様です。然れど一度改竄した記憶は、二度と元に戻りません」
「……」
冷たい沈黙が室内を覆い隠す。
「私を恨みますか?」
「まさか。おゆらさんの立場を考えれば、仕方のない事だと思う。御家を守る為に、憎まれ役を引き受けたわけだ……」
秀麗な面差しに悲嘆を滲ませ、己を納得させるように呟いた。
物憂げな表情を貼りつけたおゆらは、主君の心理状態を推察する。
あらあら。
激情に身を任せるかと思いきや、悲嘆に暮れる道を選びますか。あまり奏様の脳に負担を掛けたくありません。
他の楔も抜いておきましょう。
おゆらは『
一、自分から隷蟻山に近づかない。
一、自分から難民に興味を示さない。
一、自分から蛇孕村の百姓に近づかない。
一、本家屋敷と蛇孕神社を行き来しても、寄り道をしようと考えない。
一、蛇孕村の通貨について関心を示さない。
一、蛇孕村の供給能力の高さに疑念を抱かない。
一、薙原家に高転びの危惧を抱かない。
一、『三好経世論』に関する事柄を思い出さない。
他にも複数の楔を打ち込み、奏の思考や行動を縛りつけていたのだ。加えて精神操作が解除されないように、細心の注意を払いながら、奏の行動を監視してきた。
それも今日で終わりだ。
朧を薙原家に迎え入れた事で、不確定要素が一気に増えた。他人の口から聞き出し、再び疑念を持たれるより、この場で楔を外した方がよかろう。
『
即ち朧の言動を抑制すれば、今後も奏の思考を誘導できる。
「私の役目は、奏様の御心に安寧を取り戻す事。加えて奏様の誤解を解く事です」
落ち込む奏を気遣い、おゆらが話を進めてくる。
「二年前の政変は、自分に責任があるのではないか。奏様を守る為に、
「心得違い?」
「
「でも年寄衆が謀叛を起こしたのは、御先代が僕を内府様に差し出そうとしたからだ。その所為で御先代も中老衆も……人質の女中衆まで殺された」
「仰る通りです。然し政変を起こした年寄衆が、予言の成就という大義名分を求めていたのも事実です」
「?」
奏は首を傾げた。
「
「マリア姉は?」
「……」
「マリア姉が、年寄衆に利用されるわけがない。僕を蛇孕村の外に出さない為に、年寄衆や若い娘達を利用したんじゃないの? 謀叛の首謀者は、マリア姉じゃないの? 僕を守る為に、おゆらさんは下克上を起こしたんじゃないの?」
「奏様……残念な事ですが、乱世は続いております」
おゆらは沈痛な面持ちで、奏の詰問を遮った。
「秀吉公が
「それでも子供が親を殺めるなんて――」
「
「……」
「内府も家臣団の分裂を防ぐ為、正室と嫡男を処断しております。誰も彼もが争い続ける乱世に於いて、御家を守り抜く為には、家族を処断するほどの覚悟が必要なのです。
「……」
「無論、私如きが
「……」
「統治者とは、誰よりも己を律する者です。己の感情すら律し得ない者に、民を率いる事などできません」
「おゆらさん……」
「私を疑うのは構いません。然し
「……」
奏は返す言葉が見当たらなかった。
己を取り巻く環境に翻弄され、マリアの気持ちを考えようとしなかった。
マリアは薙原家の内訌を沈める為に、親殺しという禁忌を犯したのだ。おそらく『ラブコメハーレム』や『十八禁のエロゲー』と呟いていたのも、奏に心配を掛けないように誤魔化していたのだろう。
マリア姉が一番心を痛めていた筈なのに……許婚の僕が、マリア姉を信じなくてどうするんだ。
己の不甲斐なさを恥じ入り、奏は目頭が熱くなった。
「どうか御身を責めないでください。奏様に落ち度はありません。私の浅慮が招いた事なのです」
今にも泣き出しそうな奏に、おゆらは慈母の如く微笑みかけた。
「奏様には、平穏な暮らしを続けてほしかった。薙原家の秘密など知らず。我々が人喰いの妖怪など気づかず。
自らの罪を告白するように、おゆらは頭を垂れた。
「何度も言うけど、おゆらさんの所業を責めるつもりはない。だけど、これまで通りの生活もできない。僕は真実を知った。薙原家が隠してきた事実を知ったんだ。おゆらさんの気持ちも嬉しいけど、僕は薙原本家の血を引く者だ。マリア姉に迷惑を掛けない為にも、相応の覚悟が必要だと思う」
奏は涙を堪えて言う。
「奏様……」
おゆらは顔を上げて瞠目した。
「ありがとう。おゆらさんのお陰で色々と吹っ切れたよ」
「此方こそ奏様の成長に感服した次第です」
おゆらは柔和な笑みを浮かべながら、
この程度の詭弁で騙される奏様も可愛い……
と邪淫に満ちた喜悦を感じていた。
マリアが薙原家の行く末など、真面目に考える筈がない。二年前の謀叛も、母親の殺害も気に留めていないだろう。
奏も平静を取り戻していれば、おゆらの虚言に気づいた筈だ。然し彼女の言動に惑わされ、魔女の囁きを受け入れてしまう。
こうして一度破綻した疑似家族は、おゆらの手練手管で容易く修復される。
「ええと、質問を続けるね。僕の父親が秀吉公というのも事実なの?」
「それは……『おそらく』としか申せません」
「確証ないの!?」
奏の声が裏返る。
「十年も前の出来事ですよ。私も本家の御屋敷で女中奉公を始めたばかり。ヒトデ婆は、薙原家の政に興味なし。他の分家衆も詳しくは知らないと思います。御先代の命を受けた伽耶様が、単身で大坂城に乗り込み、行方知れずとなられて……数年後に奏様を連れて帰郷された事しか聞かされておりません」
「そんな曖昧な……」
「我々も裏取りは行いました。義元左文字と秀吉公の朱印状は本物です。ゆえに奏様を豊臣家の御血筋と考えてもよいのではないかと……」
天下を覆すほどの事実をさらりと言う。
やはり現在の薙原家は、外界の権力争いに興味がないのだろう。先代当主が望んだ政と反対の道を進んでいる。
「御先代は、母上の消息を調べなかったの?」
「私の口からは申しあげにくいのですが――」
「事実上の追放。寧ろ間接的に自害を命じた」
「これ以上の追求は御容赦ください。私の立場上、お答えできません」
「約束したからね。無理強いはしないよ」
奏は簡単に引き下がった。
本家の直系の血を引く者。
おそらくマリアでなければ、答えられない質問なのだろう。
「
「理由をお伺いしても?」
「有り体に言えば、
「……」
「それに使徒の真のさまが、予言の中で明言されていない。妖怪と人の間に、人が生まれる保障もない。永劫の
「やはり奏様もお気づきになりましたか。
奏の言葉を聞いたおゆらが、我が意を得たりと笑みを浮かべた。
「何しろ八百年前に書かれた古文書が頼り。我々の祖先が意図的に……或いは、恣意的に解釈する事もありました。特に『外界の
「どうして?」
「
「……」
質問に質問で返されて、奏は一瞬言葉に詰まった。
「薙原家の将来に絶望していたって。だから使徒が人を産んで、薙原家の呪縛から解放される事を望んだと」
「それが答えです。若い娘に限らず、頭の堅い年寄衆も薄々気づいていたのです。いつまでも人を喰らう妖怪が、外界と交わらずに生きていく事などできないと。一時隆盛を極めた武芸座は、日ノ本の妖怪を絶滅寸前まで追い込みました。本当は年寄衆も人を恐れていたのです」
「……」
「我々は
「薙原家の利権?」
「左様です。年寄衆も中老衆も若い娘達も関係ありません。人喰いの妖怪であれば、是が非でも欲しがるものです。奏様なら答えを導き出せると思います」
奏は難しい顔で黙考する。
「金銀? 所領?
「御見事です。流石は奏様。正解は守護と安堵です」
おゆらは両手を叩いて、奏を褒め称えた。
「薙原家の望みは、所領の防衛と利権の確保。外界には、我々に恨みを持つ者が数多おります。それでも薙原家の守護は、
「気位の高い年寄衆が、人に戻る事を望んだ……?」
「正確には、子孫が人に戻る事を承認した――ですね。その頃には、年寄衆も天寿を全うしております。
「そんな事の為に、娘や孫を殺したのか……」
奏は沈痛な面持ちで呟く。
「当時は行儀見習いという名目で、本家の御屋敷に人質を集めておりました。年寄衆も中老衆も、己の立場は弁えていた筈です。当然、若い娘達も行儀見習いに出された時から、命を捨てる覚悟はしていたでしょう」
「だから蛇神の生贄に捧げると?」
「左様な事は……何故、斯様な疑いを持たれるのですか?」
「予言を成就させる為に、大勢の生贄が必要なんでしょ?
「
「それは――」
「奏様の許婚は、生贄が増えたと喜ぶ御方ですか?」
「……」
おゆらの悲痛な問い掛けに、奏は返答を窮した。
奏の知る許婚は、犠牲者が増えて喜ぶような人物ではない。抑もマリアは、
「
「……」
「勿論、
おゆらは決然と言うが、奏は別の事を考えていた。
蜥蜴の尻尾切り。
おそらくマリアの集めた実働部隊が、勝手に焼き働きを行う可能性も考慮していたのだろう。謀叛の首謀者は、謀叛を起こす半年も前から、外界より改築用の木材や庭石を買い集めていた。
首謀者の予想通り、本家屋敷に火を放つ者が現れたので、
謀叛の首謀者は、絵に描いたような梟雄だ。
「……恐ろしいね」
奏は恐怖を覚えて、ぽつりと呟いた。
「痛ましい不幸が続き、哀しい家中争いが起こり、多くの
おゆらが決然と言う。
「――」
この場でおゆらを問い詰めても、虚言で言い逃れるだけだろう。決定的な証拠を押さえなければ、彼女を
「確かに誰が僕の父親だろうと、今の薙原家には関係ないね」
「たとえ奏様が秀吉公の御落胤でも、我々は身命を賭して御守りします。奏様も危うきに近寄らず、己の身を第一にお考えください。それが――」
「御家の為なんだよね」
「
「……その話は、また今度にしよう」
堂々巡りになりそうなので、奏も強引に話を打ち切った。
彼女の危うさに気づきながらも、奏はおゆらを重用していた。おゆらには、利己的な野心がないからだ。マリアや奏に忠義を尽くし、薙原家を第一に考えている。
本家の女中頭に選ばれても、
おゆらの言動に恐怖を感じる事もあるが、彼女の忠義に偽りはない。それにおゆらがいなくなると、薙原家の財政と所務が行き詰まる。
危険だからという理由で、薙原家の政道から遠ざける事もできない。本当に煮ても焼いても食えない女だ。
奏は黙考した後、現状の確認に話を戻す。
「先ず作州の牢人衆の事から考えよう。此方から手出し無用。暫く接触を避ける」
「すでに牢人衆の所在は突き止めております。此方から仕掛ければ、容易に殲滅できましょう。それでも手出し無用と?」
「そうだ。僕の首級が目当てなら、一度に全員で攻めてくる事はない。僕の首は一つしかないからね。仲間同士で手柄の奪い合いになる。おそらく小勢に分かれて、何度も蛇孕村に攻め込んでくるだろう。馬喰峠に手練の女中衆を揃えれば、十分に対処できる」
奏は神妙な面持ちで、今後の方針を語る。
「時が経てば、他の仕官先を探すなり、小商いを始めるなり……別の生き方を選ぶ者も出てくる筈だ。当分は様子見だね」
「岩倉の如く、問答無用で太刀を抜く者は如何しましょう? 生け捕りに拘ると、此方の被害も甚大となります」
「可能な限り、穏便に済ませてほしい。身の危険を感じた場合に限り、牢人衆の殺傷を許可する。後は本多佐渡守だけど……」
「徳川家に関しては、私にお任せください。外界の対応は心得ております」
「念の為に訊くけど、これまでどういうふうに対応してきたの?」
奏が恐る恐る尋ねると、おゆらは「うふふっ」と笑った。
「剣呑な事はしておりません。蛇孕村に伊賀者を送り込んでくるので、こそりと捕まえて情報を聞き出し、記憶を書き換えて江戸に戻すだけです。外界の権力者と事を構えても、我々に利益がありません」
「
「御懸念には及びません。関ヶ原合戦で東方についた見返りに、内府と不入の約定を交わしております」
「――」
「尤も奏様の存在は、内府も我々も公にできません。それゆえ、内府より言質を頂いております。内府曰く――徳川家及び譜代衆は、
「マリア姉、内府様脅してるじゃん」
一体、どこの祟り神の話をしているのか。
おゆらの説明が、胡散臭い与太話に聞こえてきた。
「私の言に信を置くかどうかは、奏様の判断に委ねます。然れど徳川家が大軍を率いて、蛇孕村に攻めてくる事はありません。伊賀者を送り込むだけで精一杯。縦しんば、徳川家が総力戦を仕掛けてきても、
「……幼い頃から強い強いと聞いてきたけど。マリア姉はどれくらい強いの? 実際にマリア姉が戦う処を見た事がないんだよね」
おゆらは唇に指を当て、んーっと考え込む。
「そうですねえ。蛇孕村に籠もるのであれば、二十万の軍勢に囲まれても退けられます。江戸城を
「へえ……凄いんだね」
奏は乾いた声で感想を漏らす。
おゆらはマリアに忠誠を誓う狂信者だ。
マリアの武力を過剰に捉えているのだろう。
然りとてマリアの強さを確認する為に、近隣の武士団と戦わせるなど論外だ。基本的にマリアは、現有戦力と考えるべきではない。
「
「当家の顧客には、徳川家の武将も数多おります」
「……徳川家の家臣団は、薙原家から借りた銭で雁字搦め。挙句の果てに、譜代衆が表沙汰にできない醜聞も掴んでいると」
「左様に」
薙原家らしい卑劣さというか、おゆらの用心深さがよく分かる。
一旦、奏は思考を整理する。
軍事的衝突は避けたいが、なんとか奏と薙原家を排除したい。
それが本多正信の魂胆だ。
黒田長政と手を結び、何も知らない作州の牢人衆を焚きつけ、奏の暗殺を謀る。没落した渡辺家の御家騒動に見せかけ、奏の首級を挙げれば僥倖。仮に失敗した処で、正信も長政も無関係を貫き通す。
実に恐るべき策略である。
然し裏を返せば、徳川家中に信頼できる者がいないのだ。
おそらく譜代衆の中でも、薙原家に弱みを握られた者を把握できていないのだろう。それゆえ、外様の大名に協力を仰ぐ他なかった。
「僕(豊臣秀吉の庶子)の存在を知る者は多いのかな?」
「正確な人数は、私も把握しておりません。徳川家では、内府と佐渡守……他数名の重臣に限られている筈です。おそらく豊臣家の方が、奏様の存在を知る者は多いかと。然れど関ヶ原合戦で、豊臣家の中枢を担う奉行衆は、殆どが粛清されました。武断派諸将が知らされていたとは思えず……」
おゆらが考え込んで言い淀む。
「そうなると、穏便に義元左文字を返還するのは……」
「難しい事になります。誰に渡しても、騒乱の火種となります」
「はあ……」
項垂れた奏は、大きな溜息をついた。
西軍で生き延びた大名家に渡せば、家康が謀叛の疑いを掛けて、その家を取り潰すだろう。最悪の場合、奏の存在を天下に広めかねない。
武断派は問題外。
豊臣政権の裁決を覆す為に、石田三成を襲撃した過激派である。義元左文字を与えた途端、何をしでかすか分からない。
淀殿も同様。
抑も奏の存在を知らない可能性がある。我が子が持つ義元左文字が偽物だと考えもしないだろう。無論、此方から淀殿に指摘する理由もない。
「
豊臣秀吉の正室――高台院は、秀吉の死後に政治を動かした事がない。
淀殿と対立して家康に加担したとか、子飼いの武断派諸将を焚きつけたとか。悪い噂が絶えないが、根拠の乏しい誹謗中傷ばかりだ。
「
「そうなの?」
「太閤御所は、合戦に備えた城ではありません。防御設備も警備体制も、京の寺院と変わりませんよ」
「もう内府様に渡してしまえば……余計に混乱を招くだけか」
「ですね」
奏が諦観を込めて言うと、おゆらも軽く追従した。
家康に義元左文字を渡した場合、徳川家は二者択一を迫られる。
一つは奏を暗殺したうえで、義元左文字を外交の道具に使う。
もう一つは
家康と正信は前者を選びたいのだろう。
然し家中の大半は、関ヶ原合戦の再現を望んでいる。
特に徳川別働隊三万八千は、関ヶ原合戦に遅参した。
彼らが奏の存在を知ればどうなるか?
先ず
関ヶ原合戦から一年近く経つが、未だに島津家は降伏していない。
次に徳川家が、奏を豊臣政権の後継者に推す。
豊臣家の家督争いを激化させて、天下分け目の合戦に持ち込む。
これで関ヶ原合戦の再現。
血気に逸る徳川家臣団の願いも叶う。
徳川家が勝てば、奏は関白に叙任される。
そして数年後に謎の病死を遂げるのだ。
世間知らずの奏でも思い浮かぶ事だ。
「他に安全な場所があれば、義元左文字を預けるんだけどなあ……」
「薙原家が義元左文字を手放しても、秀吉公の朱印状が残ります。此方は左文字と違い、偽物を作る事も容易です。仮に焼き捨てたとしても、如水は気にも留めないでしょう」
「はう……」
「私が義元左文字や秀吉公の朱印状を知り得たのは、薙原家で政変が起きた直後。すでに前田利家が遠行しており、天下の政道は混迷を極め、私如きの力ではどうする事もできず……奏様の安全を確保する為にも、当家で保管すべきと判断した次第です」
「暫く
行き場のない刀と人生に活路を見出せない少年。
僕の人生、これからどうなるんだ……
一年半後に許婚と祝言を挙げ、二人の間に子供を作る。薙原本家の血筋を残した後、マリアと蛇孕村で平穏に暮らす。
己の過去や二年前の謀叛を知らされても、奏は自分の考えを曲げるつもりはない。権力者の都合で振り回されるなど御免だ。
「義元左文字も重要ですが、それより大きな懸念があります」
「黒田如水……」
前回の騒動の黒幕。
当代随一の軍師であり、天下の覇権を狙う野心家。
「如水に関してはどうにもならない。これも保留だね」
「『薙原衆』を福岡に送る事もできますが?」
「それは絶対にダメ。情に流されてるわけじゃないよ。如水は
「空城の計かもしれません」
「そこまで追い詰められてるのかなあ……」
奏は両腕を組んで考え込む。
「悩めば悩むほど、如水の掌で踊らされているような気がする。やっぱりダメ」
「……理に適いませんが、奏様の御決断は良い方に当たります。喜んで御下知に従いましょう」
「そこまで持ち上げられても困るんだけど……まあ、僕に関しては、こんな処かな。後は臨機応変に対応しよう」
燭台の炎が揺らめき、奏の相貌に陰影を作る。
「次は薙原家について知りたい」
肯綮に中る剴切……物事の急所を巧く突く事。要点を巧みに探り当てる事。
高転び……経済的な理由による自滅。債務不履行の事ではない。
法性院信玄……武田信玄
内府……内大臣。徳川家康。
牧伯……大名諸侯
守護……安全保障
安堵……権利保障
本多佐渡守……本多正信
所務……所領の管理を行う事
関東御料……徳川家の直轄領
不入(不入の権)……治外法権。警察権・司法権・徴税権など、統治者の介入を拒否する権利。
伊達少将……伊達政宗
太閤御所……豊臣秀吉が生前に建てた館。現在は高台院の住居。
髀肉の嘆……実力を発揮する機会を得られずに嘆く事
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