第38話 夜這い

 奏とおゆらの会話が終わり、一刻ほど過ぎた後。

 常盤は蛇孕神社の廊下を歩いていた。

 寝巻姿で右手に手燭を持ち、左脇に南蛮製の柔らかい枕を抱えている。行き先は、奏の眠る部屋だ。

 存外顔色も良く、先程まで酸素欠乏症で死に掛けていた人物とは思えない。身体は虚弱だが、一途な乙女心は疲労など容易に吹き飛ばす。

 奏に夜這いを迫る。

 この当時、庶民や下級武士の間で、夜這いは有り触れた行為だった。意中の相手を口説く為、男は女の家に忍び込む。

 勿論、女にも拒否する権利はあった。女が大声を上げれば、父親や家人が問答無用で手討ちにする。夜這いは命懸けだ。

 女が男を夜這う事もあるが……本家猶子の常盤が、神聖な蛇孕神社で夜這いを迫るなど赦されない事だ。

 夜這いが発覚すれば、蛇孕村から追放されるだろう。

 それでも常盤の青い双眸が、強い決意で輝いていた。

 常盤は、二つの情動に衝き動かされている。

 燃え盛る恋慕の情と恐怖を伴う焦りだ。

 一応形の上では、今でも本家の猶子である。然し薙原家と血の繋がりはない。先代当主の気紛れで、難民の娘を本家の猶子に迎えただけだ。

 二年前、後ろ盾の先代当主が亡くなり、薙原家から追い出されそうになるも、奏が常盤の身分を保障した。奏が後見人を引き受ける事で、年寄衆の暴走を食い止めたのだ。

 今でも常盤と年寄衆の確執は続いている。

 常盤は嫌がらせを受けながらも、奏に相談しなかった。彼に打ち明ければ、无巫女アンラみこの力を借りて解決するだろう。それでは、余計に年寄衆から恨みを買う。

 加えて常盤は、致命的な失敗を犯した。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスたぶらかされて、奏と共に蛇孕村から逃げようとした。

 奏は熟考の末、事実の隠蔽に奔走した。

 全ての失態を一人で被り、常盤の関与を否定したのだ。

 気持ちは嬉しいが、奏の善意が状況を悪化させた。分家衆の間で断片的な情報や憶測が広まり、常盤の立場が際限なく悪くなる。今度こそ常盤を蛇孕村から追放しようと、年寄衆が動き出してもおかしくない。

 常盤は人を喰らう妖怪ではない。

 おゆらの妖術で余計な記憶を消し去り、外界の豪商や武将の側女にすれば、穏便に追い出す事ができる。

 常盤は、庵の一室に引き籠もった。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが死んだ事も衝撃を受けたが、自分の置かれた状況に恐怖を覚え、庵の外に出られなかった。

 常盤が引き篭もり続けても、奏は懸命に看護してくれた。

 やはり奏は、他の連中と違う。

 あの妖怪共は、いつも強者に媚びへつらい、人の命など塵芥だと考えている。幼い頃に常盤を苛めていた悪童と同様。それより悪辣な妖怪だ。


 奏と引き離されるなんてイヤ……


 献身的な看護のお陰で、不安定な精神状態も持ち直し、前向きに物事を考えられるようになった。急に胸が苦しくなる事もない。

 今でも奏以外の人物には、怖くて近づけないが……今後の事を考えれば我慢できる。

 狒々祭りで小鼓を叩く程度では、常盤の名誉は回復されない。これからも奏の傍に居続けるなら、明確な既成事実が必要だ。

 奏の側室になる。

 許婚と祝言を行う前に、男子が側室を迎える事は、決して不自然な事ではない。奏と契りを結び、先代当主が存命の頃と同様の権力を取り戻す。


 力こそ全て。


 常盤が短い人生で、何度も思い知らされた事だ。

 権力でも財力でも武力でも構わない。

 理不尽な暴力に抗う力を持たない弱者は、一方的に強者から搾取されるだけだ。

 二度とあの頃に戻るものか。

 髪や瞳の色が他の者と違うというだけで虐げられ、日々の食事にもありつけず、洞窟の中で寒さに身を震わせる。寝ているうちに凍死できれば、どれだけ楽に人生が終わるだろうと思い続けた幼少期。

 思い出しただけで、屈辱で身体の震えが止まらなくなる。

 常盤は他人に見下される事もなく、愛する異性と平穏に暮らしたいだけなのだ。それをおゆらやマリアが邪魔をする。

 奏の傍に居続ける為にも、薙原家の中枢に食い込まなければならない。年寄衆の影響力を排除しなければ、常盤に安寧の日々は訪れないのだ。


 奏もそれを望んでいる筈……


 無論、常盤も相手の心情を理解している。

 おそらく常盤の事は、年の近い妹くらいに考えているのだろう。

 然し入浴中の奏に近づいた時、常盤の裸身に魅力を感じていた筈だ。途中でマリアが現れなければ、最後まで進んでいた筈だ。


 私は奏が好き……


 常盤は、短絡的な気性の持ち主だ。

 非常に思い込みが強く、熟慮という言葉とも縁がない。感情の抑制が利かない分、自分本位に物事を捉えてしまう。


 奏も私を拒んだりしない……


 何度も自分に言い聞かせ、奏の部屋の前に立つ。

 急遽、奏が寝所を隣に移した事も確認済みだ。

 懐の中には、匂い袋も忍ばせている。


「奏……起きてる?」


 木戸越しに震えた声で尋ねた。

 暫く待つが、奏からの返答はない。

 すでに寝ているのだろうか。静かに寝かせてあげたい処だが、此処まで来て引き返すわけにもいかない。

 胸の高鳴りを感じながらも、そろりと木戸を開ける。

 やはり燭台の灯りは消されており、部屋の中は暗闇で閉ざされていた。右足を踏み入れると、手燭の光で奏の横顔が浮かび上がる。

 なんとも幸せそうな顔だ。

 余程、神楽の稽古で疲れたのだろう。

 手燭の炎を吹き消し、奏の耳元に唇を寄せた。


「奏」

「……」

「奏」

「……」


 何度も小声で呼び掛けるも、目を覚ます事はない。


「奏! いい加減に起きて!」


 感情を爆発させて怒鳴り、慌てて口元を両手で覆う。

 蛇孕神社には、異常に聴覚が発達した怪物がいるのだ。大きな音を立てると、夜這いがバレてしまう。


「……網走湖でワカサギ釣り」


 一体、どんな夢を見ているのか。

 興奮する常盤を尻目に、意味不明な寝言を呟いていた。


「奏……起きて。お願い」


 常盤は焦り始めて、懸命に常盤の肩を揺さぶり、ぽかぽかと身体を叩く。南蛮枕を顔面に叩きつけても、一向に目を覚まさない。

 寝付きが良いにもほどがある。


「……もう。奏の馬鹿」


 疲れ果てた常盤が、大きく息を吐いた。

 穏やかな寝顔を見ていると、意気込んでいた自分が滑稽に思えてくる。

 なぜか少しだけホッとした。

 焦燥感も嘘のように消え去り、改めて安堵感を覚える。

 強引に契りを結ばなくても、少しずつ前に進んでいけば、いつかこの気持ちも届くのではないか?

 平和そうな奏の寝顔が、答えを示してくれているような気がした。


 奏……


 なんとも涼しげで端麗な顔立ちだ。

 急に安堵した所為か……夜這いとは、別の欲求が芽生えてきた。

 悪い事だと理解しているが、耐え難い衝動に衝き動かされて、奏の頭の隣に南蛮枕を置いた。


「……お邪魔します」


 掻巻の下に潜り込み、南蛮枕の上に頭を乗せる。

 愛する者の臭いに包まれ、常盤は恍惚に酔い痴れる。鼻孔で異性の香りを感じ取り、高揚感で思考が蕩け、己の下半身に手を伸ばそうとした刹那――


「ううん……」


 突然、奏が寝返りを打ち、常盤の方を向いた。


「――ッ!?」


 常盤は驚いて、ハッと息を止めた。

 奏の顔が目の前にある。

 胸の鼓動が高鳴り、頬が赤く染まる。然し心の準備をする間もなく、常盤の身体に両腕を絡めてきた。


「奏――起きてるの?」


 無理矢理、わきの下に腕を差し込んできたのだ。

 目覚めているとしか思えない。


「ねむねむ……」


 然し奏は寝ていた。

 妙な寝言を呟きながら寝ていた。

 さらに不幸が襲い掛かる。


「くはあ――ッ!!」


 バキバキと音を立てて、常盤の肋骨が軋む。

 寝ている筈の奏が、鬼神の如き力で胴を締めつける。


「は……離して」


 苦悶の声を上げるが、力ずくで抑え込まれて、逃げる事も叶わない。奏は幸せそうな顔で、常盤の肋骨を砕きに掛かる。

 そして不幸とは、追い討ちを掛けてくるものだ。


「きゃ!?」


 常盤が頓狂な声を発した。


 はむはむ。

 ねむねむ。


 唇を巧みに使い、常盤の耳朶を甘噛みし始めたのだ。

 本当に無意識とは思えないほど、絶妙な具合で耳朶を甘噛みする。歯を立てずに、唇だけで耳朶を愛撫してくれるのだ。


 はむはむ。

 ベキベキ。

 ねむねむ。

 ベキベキ。


 甘噛みと鯖折りが止まらない。

 快感と激痛が交互に襲い掛かり、常盤は悶絶寸前である。


「助けて……もう無理」

「ぺろぺろ」

「ひイああああッ!!」


 舌先で耳を擽られて、頓狂な声を発した。

 夜這いを企んだ罰であろうか。

 常盤が寝所から逃げ出した頃には、東の空に太陽が昇り始めていた。




 一刻……二時間

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