第35話 狂言

 一刻ほどで常盤は目を覚ました。

 酸欠と湯あたりで昏倒していたが、程なく意識を取り戻し、夕餉も普段通りに食べていた。あれなら明日の狒々祭りも問題ないだろう。

 奏も夕餉を食べる為、簡素な板張りの部屋に入る。蛇孕神社に逗留を許された際、いつも同じ部屋を借りていた。

 ぼんやりと火が灯る燭台しょくだいと古めかしい文机。部屋の隅に畳んで置かれた寝具。部屋の中央に置かれた折敷おしきが、奏に用意された夕餉であろう。

 今晩は遅めの夕食となる。

 騒動の連続で疲れ果て、くぅとお腹が鳴る始末。食べ応えのある食事を期待していたが……やはり夕餉の献立は変わらない。

 胡瓜と山芋と白湯さゆだけ。

 これは蛇孕神社の基本的な献立だ。

 蛇孕神社の戒律により、蛇孕岳の外より持ち込まれた物は、全て不浄の物と定められている。それゆえ、无巫女アンラみこはらいの儀式を行い、食物の穢れを清めてから食べるのだ。

 無論、无巫女アンラみこも暇ではない。

 マリアは暇を持て余しているが……超越者チートが、自発的に祓いの儀式を行う筈がない。加えて蛇孕岳では、農作業を禁じている。マリアや巫女衆は、蛇孕岳に自生した山菜で食を賄うのだ。

 寝巻姿の奏は、ぼりぼりと胡瓜を囓る。


 物足りない……


 成長期の奏には、山芋と胡瓜だけでは物足りない。本音を言えば、白米と味噌汁を追加してほしい。

 加えて――


「不味い……」


 奏は顔をしかめて愚痴った。

 当時の胡瓜は苦い。

 水戸みと光圀みつくにも書物で「毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず」と記しており、儒学者の貝原益軒かいばらえきけんも野菜について記した書物――『菜譜なふ』で『これ瓜類の下品なり。味良からず。かつ小毒あり』と辛辣に紹介していた。

 噛み応えがなく水気もない。

 外界には、河童という妖怪がいるという。なんでも胡瓜が大好物だとか。おそらく人間と味覚が違うのだろう。

 野菜を食べているのに、なぜか喉が渇く。

 白湯を飲むと、少し塩っぱい。

 蛇孕岳は岩塩が多い為、河川から汲み上げた水に塩分が混じる。

 関東の山奥でありながら、蛇孕村は塩に恵まれてきた。たとえ蛇神崇拝がなくても、住民は蛇孕岳を霊山と称えていただろう。加えて霊山から湧き出る水を飲めば、肉体の穢れも取り除くというが、飲めば飲むほど喉が渇く。

 ふと思いついた。


 胡瓜に塩水をつけると、少しは美味しくなるかも……


 手掴みで胡瓜を食べている時点で、食事の作法を気にする事もなかろう。万が一、巫女衆に見られても、叱責される事はあるまい。

 食べかけの胡瓜を塩水に浸した時、折敷の下に置かれた紙を見つける。


 ……なんだ、これ?


 最初に思い浮かんだのは、奏宛の密書だ。

 マリアや巫女衆の仕業とは思えない。

 直接、口頭で伝えれば済む事だ。

 他には常盤しか思い浮かばないが、今の常盤に密書を忍ばす余裕もあるまい。

 不思議に思いながら、奏は紙を拾い上げた。


 春画だった。


 それも醜悪な代物である。

 三人の破戒僧が、妙齢の尼僧を輪姦する様子を描いていた。

 無駄に肥えた荒法師が、無理矢理尼僧の袈裟を剥ぎ取り、下劣な笑みを浮かべて乳房を揉みしだく。もう一人の荒法師は袴を脱いで、尼僧の顔に逸物を突き出していた。最後の一人は、黙々と陵辱に没頭している。

 純粋な奏が、嫌悪感を抱く類の春画だ。

 一瞬で状況を把握し、静かに目を閉じた。


「おゆらさん」

「はい」


 突如、おゆらが木戸を開けて部屋に入り込む。


「何をしているの?」

「育ち盛りの奏様には、蛇孕神社の夕餉だけでは足りません。それゆえ、オカズを一品追加してみました。どうですか? お好みに合いましたか?」


 何が楽しいのか分からないが、奏の前に笑顔で座り、豊かな胸の前で両手を重ねながら尋ねてくる。


「全く好みに合わない。寧ろ食欲が失せたよ」


 奏が春画を丸めて捨てると、


「――あんっ」


 おゆらは嬉しそうに拾う。

 留まる事を知らない女中頭。主家に忠誠を誓う変態の策謀家というのは、如何に扱えばよいのか。奏も判断に迷う処である。


「なんでおゆらさんが此処にいるわけ?」

无巫女アンラみこ様の御命です」

「マリア姉がおゆらさんを?」

「奏様が神楽を舞うならば、必然的に笛の奏者が空きます。その代役を選ぶように仰せつかり、女中衆より笛の名手を連れて参りました」

「おゆらさんも一緒に来なくていいのに……明日は宴の接待役でしょ? 巫女神楽と関係ないじゃん」

「御無体な事を仰らないでください。本家女中頭は御屋敷に留まり、かなたん音頭を鑑賞するべからず……などと、あまりに理不尽な申しつけ。これでは、无巫女アンラみこ様に奏様の女装を進言した意味が――」

「おい」

「へぶし!」


 奏の右手が、おゆらの顔面を鷲掴みにする。


「そうかそうか……やっぱり女踊りもおゆらさんの差し金か。まあ、そんな事だろうと思っていたよ。もういい加減、顔面を握り潰してもいいかな?」


 おゆらの頭蓋骨が軋む音を聞きながら、奏は優しく語り掛ける。


「うふふっ。鉄指てつゆびの返し技を御存知ですか?」

「?」

「ぺろぺろ」

「掌を舐めるな――――ッ!!」


 奏は叫びながら右手を引いた。

 袖口から布子を取り出し、おゆらの唾液で汚れた掌を拭う。


「奏様……斯様な技は、達人には通用しませんよ」

「達人は掌を舐めたりしないよ!」


 おゆらが勝ち誇ると、奏は涙目で反駁した。


「うう……舌の感触が掌に残ってる」

「そこまで嫌がらなくても……我々の業界では、寧ろ御褒美ですよ」

「どこの業界の話だ! 僕はそんな業界に入りたくないよ!」


 おゆらにツッコミを入れた後、奏は息を整えた。

 いつの間にやら、おゆらの話術で煙に巻かれている。一旦、奏は心を落ち着け、冷静に話題を戻す。


「それより大事な話があるんじゃないかな? あれから十日も経った。まさか下ネタだけ見せて帰るつもりじゃないよね?」

「下ネタだけ見せて帰るつもりでした。ああ……でも奏様の女装も見たいです」

「……真面目に答える気がないなら、僕も禁断の必殺技を使うからね」

「まさか!? アレを行うつもりですか!?」


 おゆらが両手で口元を隠す。

 奏は作り笑いを浮かべて、禁じ手を使った。


「おゆらさんは立派だね」

「ヒイイイイッ!!」

「本当におゆらさんは凄い人だと思う。齢十八で本家を仕切り、世話役としても優秀な人材だ。才色兼備という言葉は、おゆらさんの為にあるんだね」

「やめてください。称賛の言葉など聞きたくありません! 偏頭痛と吐き気で気持ち悪い……うぷっ」


 青褪た表情で口元を押さえ、必死に吐き気を堪える。

 被虐癖を持つ変態。

 その最大の弱点は、純粋に他人から褒められる事だ。それも奏から褒められると堪えるらしく、船酔いしたような気分になる。

 世の中は広い。

 いや、狭いのか?

 身内に、こんな変態がいるとは……


「どうか……どうかこれ以上、私を褒めないでください! このままでは、自我が崩壊してしまいます!」


 一瞬、自我が崩壊するまで褒めてやろうかとも考えたが……掌を舐められた恨みも晴れた。この辺りで止めておこう。


「きちんと話してくれるよね?」

「……畏まりました。奏様の成長ぶりに、歓喜と吐き気が込み上げております。寧ろ吐き気の方が強いかも……」


 眉間を指で押さえながら、おゆらは弱々しく呟いた。


「ええと、気分が良くなるまで待つけど?」

「それには及びません。いずれこの日が来ると覚悟しておりました。奏様を焦らすのも楽しそうですが……また褒められそうなので止めます」


 神妙な面持ちで呟いた後、豊かな胸の前で両手を握り締めた。


「それでは決着をつけましょう! 『ああんっ、らめええええ! もうらめなのおおおお!』をどちらがエロく言えるか――」

「そんな勝負した覚えがない」


 奏は拳を固めて、おゆらの左脇腹に鉤突かぎつきを打ち込む。


「がぼし!!」


 おゆらは左脇腹を右手で押さえて、肺腑を抉る激痛に悶え苦しむ。肋骨は折れていないが、当て身の衝撃で息ができない。


「次はないよ」


 奏に冷めた言葉を浴びせられ、呼吸困難と倒錯的な快楽で「はあはあ……」と卑猥に呻きつつ、袖の中から何かを取り出した。


「これを御覧ください」


 おゆらの掌には、干からびた半透明の袋がある。


「……なにそれ?」

「本当は、奏様がもう少し成長してから、お伝えするつもりでしたが……もはや是非もない事。この場で打ち明けましょう」


 おゆらの声が固くなる。

 これも奏の出自に関わる物だろうか?


「これは魚の浮き袋を干した物です。今は乾いて小さいですが、水に浸せば伸びて如意棒の鞘となります。私以外の女子おなごを犯したい時は、これを如意棒に装着してください。どぷゅどぴゅっと発射しても、子種は外に漏れません。つまり種付けされないのです。まさに安心の一品ひとしな。これからは思う存分、他の女中と性行に励んでください」


 奏は折敷を脇に置き、徐に立ち上がった。


「それでは詳しい説明を致しましょう。直接、如意棒に被せて腰を振ると、膣の中で浮き袋が乾き、奏様も相手の女子おなごも痛い痛いになります。相手の女子おなごは構いませんが、奏様が痛い思いをする必要はありません。浮き袋を水に浸した後、内側と外側に軟膏を塗るのが宜しいでしょう。ぬるぬると滑りますので、殿方も大変心地良くなれます。とても素敵な言葉なので、もう一度言わせてください。ぬるぬると滑ります」


 おゆらの右腕を取り、板張りの床に寝転ぶ。

 それでも女中頭は、変態の意地にかけて避妊具の説明を続ける。


「寸法は奏様の如意棒にぴたりと合わせております。それでは実地を兼ねて、私の身体で試してみましょう。奏様の如意棒に被せ……腕拉うでひしぎ逆十字イイイイッ!!」


 奏が両手に力を込めると、おゆらは悲鳴を上げた。


 変態にも関節技は効くのか…… 

 今度からおゆらさんが暴走した時は、捕手で極めを狙おう。


 奏はまた一つ、無駄な知識を得てしまった。


「ギブ! ギブです、奏様! 折おお折れ折れ折れてしまいます!」


 右腕の関節を極められたおゆらが、左手で床を叩いて叫ぶ。


「どうして卑猥な話に結びつけようとするかな」


 腕拉ぎ逆十字固めを解くと、奏は冷静に端座した。


「避妊は大事ですよ。私以外の娘を孕ませると、側室の序列に狂いが生じます」

「前提からおかしい! 僕の許婚はマリア姉だけ! 避……なんて……その、マリア姉と相談するし……」


 奏は顔を赤らめて口を噤む。


「避妊と言えないかなたん可愛いよかなたん」

「マリア姉ーッ!! おゆらさんを罷免してもいいよねーッ!!」

「申し訳ありません! 私が話せる事なら何でも話します! どうか无巫女アンラみこ様に上申しないでください!」


 おゆらが取り乱す様子を見て、奏は一先ず安堵した。

 ようやく真面目な話ができそうだ。

 然し本家に対する忠義ゆえか、奏に対する後ろめたさゆえか、おゆらは懸命に話題を逸らそうとしていた。

 奏から切り出さなければ、話が進みそうもない。


「単刀直入に訊くね。どうして僕や常盤の記憶を改竄したの?」


 神妙な面持ちで尋ねると、おゆらは恭しく平伏した。


「全ては私の一存です。罪科つみとがを背負う覚悟はできております。どうか奏様の手で処断してください」

「……僕は質問をしているんだ。おゆらさんを責めるつもりはない。だから素直に答えてくれ。なんでマリア姉は謀叛を起こしたの?」

「全ては私の一存です。罪科を背負う覚悟はできております。どうか奏様の手で処断してください」


 おゆらは顔を伏して、同じ言葉を繰り返す。


「どういう質問なら答えられるかな……」


 奏の声に苛立ちが混じる。

 明らかに空気が変わった。

 疑似家族の愉快な団欒は、終わりを迎えたのだ。一言でも間違えば、二人の関係は破綻する。奏の猜疑心は拭いきれなくなり、主従の絆も消え失せる。


「これが最後の質問だよ。どうして薙原家が妖怪の家系だと隠していた? なんで僕の父親が秀吉公だと教えてくれなかった?」

傀儡くぐつとも人とも知れぬ年月としつきで。夢も燃え散る翅も燃え散る」

「……?」


 奏が訝しむと、おゆらは顔を上げた。

 普段通りに柔和な笑顔で、左袖に右手を忍ばせる。


「辞世です。今までお世話になりました」


 事もなげに言うと、白木拵えの懐剣を取り出す。

 刀身を抜き放ち、自分の胸に突き立てた。

 一拍遅れて、傷口から血が滲む。豊かな胸の谷間から、銀色の刀身に血が伝わる。どぶどぶと赤黒い血液が溢れ出し、端座の姿勢で前方に倒れた。

 板張りの床に、おゆらの血が広がる。


 ……は?

 自害したの?

 なんで?


 頭の中が白くなり、状況を把握できずに硬直する。

 思考が働き始めると、奏の身体が動き出した。


「おゆらさん!」

「申し訳ありません。死に損ねてしまいました」

「うわああああッ!!」


 安堵より恐怖が先走った。

 悲鳴を上げて仰け反る奏に頓着せず、おゆらが血のついた懐剣を眺めて、「うふふっ」と笑声を漏らす。


「ヒトデ婆の妖術です」

「……」

「『起死再生きしさいせい』と申します。朧様の怪我を治した時と同じです。私の着物に眷属が貼りついていたのでしょう。勝手に負傷を癒やされました」

「大丈夫……なの?」


 奏は身体を震わせて尋ねた。


「はい。自害し損ねるというのは、なんとも気恥ずかしいものです」


 血塗れのおゆらは、照れ笑いを浮かべた。

 自殺未遂を起こしておきながら、どこに羞恥心を覚えるというのか。欠片も理解できないが、奏を襲う恐怖は収まらない。

 目の前で起きた事が、未だに信じられない。

 然し間違いなく現実の光景である。

 おゆらの胸部が血で染まり、板張りの床に血溜まりが残されている。己の血で汚れた両手を挙げて、今度は喉元に切先を向けた。


「今度は即死できるように、きちんと喉を刺しますね。改めてお世話になりました」

「やめてくれ!」


 咄嗟に身体を動かした。

 奏は涙声で叫びながら、おゆらの懐剣を右手で弾き飛ばす。


「奏様……」

「僕は誰かに責任を取って貰いたいわけじゃない! 真実が知りたいだけなんだ! おゆらさんが傷つく処なんて見たくない! もうこんな……自分の命を粗末にするような事は、二度としないでくれ……」


 嗚咽で言葉が続かず、ぽろぽろと涙を零す。

 ようやく恐怖心に安堵が追いついたのだ。奏は大粒の涙を零し、幼子の如く肩を震わせていた。

 泣き喚く主君を見遣り、世話役が優しく背中を撫でた。さながら慈母の如く、奏の両手を握り締める。


「私が自決すると、奏様は悲しまれるのですね?」

「当たり前だよ……」


 嗚咽を漏らしながら、奏は涸れた声で答えた。


「ならば、私に命じてください。自決してはならぬと」

「……」

「私が答えられる事は、包み隠さずお答えします。然し私は、本家女中頭という大役を仰せつけられた身。たとえ死を命じられても、答えられない事柄もあるのです。どうか御承知ください」

「……分かった。もう無理強いはしないから。自決なんかしないで」

「畏まりました」


 涙ぐむ奏の手を取り、おゆらは甘い声で囁いた。

 然し――

 奏の眼前で自決してみせたのは、おゆらの芝居である。

 おゆらは、初めから自害する気などなかった。

 彼女は手練の透波だ。命に関わるような急所を外して突き刺し、派手に出血する事など容易い。当然、ヒトデ婆の眷属が着物についていた事も確認済み。懐剣を傷口に刺し込んだ状態では、『起死再生きしさいせい』は発動しない。己の力で懐剣を引き抜かない限り、刺し傷が癒やされる事はないのだ。

 端から見れば、取るに足らない三文芝居に映るだろう。

 それゆえ、純朴な奏は騙される。

 家族に等しい世話役が、自害を試みたという事に狼狽し、おゆらに対する疑念も吹き飛ばされた。冷静に考えれば、世話役の自決と主君をたばかり続けた事実に、因果関係など存在しない。それにも拘わらず、おゆらに会話の主導権を握られた。

 奏の世話役を務めてきたおゆらは、主君の性格を熟知している。

 清廉で純朴な性分は、周囲の者を惹きつける反面、己の首を絞める欠点と成り得る。どうしても他人を信用したがるからだ。

 純粋であるがゆえに危うい。

 だからこそ、おゆらの邪悪な情念を揺さぶる。

 奏の高潔な魂が歪まないように、おゆらも色々と腐心してきた。漫画マンガ板芝居アニメなど、余計な娯楽や知識を与えず、学問や芸事に専念させ、世間の悪意や醜聞から隔離し、気立ての良い少年に育て上げた。少々潔癖過ぎる気もするが、おゆらの卑猥な言動が反面教師となり、清廉な若者に成長した。


『嘘をつかない者は、決して信用してはならない。特に事実しか語らない者は、奏様を騙そうとしているんだよ』


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの言葉だが、それは透波の心得である。優れた判断力を持つ奏に事実を突きつけても、解答に辿り着く為の助言を与えているようなものだ。

 抑も大凡の民は、他人の言葉を一言一句、確認しながら生きていない。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスほどの胆力がなければ、家の外に出る事すら覚束なくなる。齢十六の奏に、そこまで求めるのは酷だ。

 しかも先日、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが死んだばかり。知り合いの死に様を二度も目撃し、奏の心は麻の如く乱れている。

 加えて重要な事実を確認できた。

 奏は、薙原家の真相に辿り着いていない。


 母親の死の真相も。

 おゆらの目的も。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞かされていない。


 これらの事実を知れば、奏は絶望の淵に追い詰められ、常盤の看護に専念する余裕もなくなる。おゆらと話し合いの場を設けようとすら考えなかった筈だ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスと奏の遣り取りは、ヒトデ婆の眷属を通じて聞かされていたが、抑もおゆらはヒトデ婆を信じていない。

 正確に言うなら、ヒトデ婆の了見を理解しかねていた。年寄衆は分かりやすい。薙原家の伝統や蛇神崇拝の戒律に固執し、外面だけでも平等な支配体制を選んだ。然し百年近く生きた老婆は、保身など全く考えない。世捨て人の人生観と言うべきか。我欲が希薄過ぎて、おゆらにも思考が読み切れない。

 ゆえにおゆらは、ヒトデ婆を近くに置いている。

 薙原家の実権を握り続ける限り、おゆらを裏切る事はないだろう。換言すると、最初におゆらを裏切る者は、ヒトデ婆に他ならない。最も危険な存在は、己の目に届く範囲に置いておく。嫌がるヒトデ婆を肥沼家の当主に戻し、いくつかの情報を共有する事で、老婆の行動を観察しているのだ。当然、両者の間に信頼関係はなく、おゆらはヒトデ婆の一挙手一投足を監視している。

 結果だけ言えば、今回もヒトデ婆の言葉は正しかった。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは奏を拐かそうとした時、薙原家の暗部や奏の出生の秘密を伝えたが、最も重要な情報は秘匿し続けた。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、上辺だけでも奏の信頼を得る為、推測を挟まないようにしていた。安易な憶測を避けたのだ。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスらしい判断であり、お陰で奏の記憶を改竄しなくて済んだ。おそらく人身売買を仄めかしたのだろうが、それも想定の範囲内である。

 現時点では、朧も警戒に値しない。

 世話役が怪しげな妖術を使い、主君に性行を強要しているなど、奏に打ち明けても信じて貰えないだろう。縦しんば、朧の言葉に信を置いたとしても、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で記憶を書き換えれば済む話だ。

 それを承知しているからこそ、朧も自分の知る情報を打ち明けられない。中二病と無謀は似て非なるもの。五分五分の博打なら喜んで打つが、一分の勝機も見出せない博打は避ける。これも彦造を見捨てた事で確認済み。朧は中二病だが、頭の悪い猪武者ではない。当て馬の如く、奏に他の女の悪評を吹き込み、不信感を持たれるような真似はしないだろう。

 伽耶様の死の真相についても、想定の範囲内で収まりそうだ。おそらく朧は、伽耶の死の真相を知らされていない。

 大方、本当に病死だと考えているのだろう。

 多少予定を繰り上げなければならないが、おゆらの想定通りに事が運んでいる。後は奏の精神が落ち着いてから、都合の良い真実と虚偽で乗り切る。

 どのみち无巫女アンラみこと夫婦になる前に、差し障りのない情報を伝える予定だった。ダメウソと人斬り馬鹿の所為で、謀略の細部を修正しなければならないが、薙原家を導くうえで問題はない。

 この十日間、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。童の如く泣きはらす奏を見下ろし、おゆらは愉悦の笑みを浮かべた。


 悲嘆に暮れる奏様も素敵……


 純粋無垢な奏の心は、欲望と保身に縛られた薙原家に光明を射し込んでくれる。彼の魂は凄烈な輝きを放ち、無明に墜ちた妖怪を照らしてくれるのだ。

 奏は薙原家の希望。

 曇り一つない鏡に等しい。

 奏という鏡の光が、おゆらの醜悪な魂を揺さぶる。

 同時に――

 曇り一つない魂を汚す事で、おゆらの歪んだ情念がたぎる。

 常軌を逸した独占欲。

 おゆらの心の内を知る者は、マリアと符条の二人だけ。篠塚家の先代当主もヒトデ婆も気づいていないだろう。つまりおゆらの謀略は、无巫女アンラみこの追認を受けている。分家衆の誰もおゆらを止められない。

 丹念に鏡の汚れを拭うように、嘘八百の思考で誘導し、无巫女アンラみこに対する疑念を解消して貰う。おゆらは穏やかな笑みを浮かべながら、魔女の如き冷徹な打算に衝き動かされていた。




 白湯……お湯


 鉄指……アイアンクロー


 鉤突……肘を曲げて打ち込む拳打


 極め……極め技。関節技の事。


 人斬り馬鹿……渡辺朧の蔑称

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