第34話 風呂
慶長四年四月上旬――
おⅡは両腕で膝を抱えて、浴槽に裸身を沈めていた。
墨川家の屋敷を改修した時、浴室に立派な檜風呂を拵えた。
去年まで
自分の屋敷に風呂があるという事は、それだけで裕福な証である。武士でも身分の低い者は、昔の墨川家のように水浴びしかできない。
御家が栄えるという事は、おⅡも素晴らしい事だと考えている。それだけ母や姉の働きが、本家に認められているからだ。
然し現在の心境は複雑だ。
口元まで湯に浸かり、ぶくぶくと気泡を放つ。
無理矢理、恋文を書かされた挙句、玲奈に「きちんと奏様に渡しておくから! 朗報をお待ちしてやがれ!」と言われたのが、一ヶ月前の事。
それ以来、一向に音沙汰がない。
待つ時間は長い。
僅か一日が、三日にも四日にも感じられる。
何度も此方から連絡を取ろうと考えたが、玲奈の実家を訪ねても仕事で留守。本家屋敷に訪問する度胸もなく。結局、おⅡは自室で悶々と過ごすしかなかった。
本当に玲奈ちゃんは、奏様に恋文を渡したのかな?
玲奈の性格を考えると、恋文の一件を忘れているのではないか。後々の事を考えると、恋文を渡さない方が良い気がする。
後ろ向きな考えが、頭の中を埋め尽くす。
自分でも弱気だと思うが、連絡も無く待ち続けるのは辛い。
僅かに顔を上げて、おⅡは溜息をついた。
「玲奈ちゃん、遅いよ……」
ぽつりと呟いた直後、ばたんと木戸が開かれた。
「タント・ティエンポー」
おⅡは瞠目した。
突然、玲奈が全裸で浴室に入り込んできたのだ。
「玲奈ちゃん!?」
玲奈は裸身を隠さず、堂々とおⅡに近づく。
「凄い! 我が家の風呂と全然違う!」
興奮した玲奈が、不躾に浴室を見回す。
「ど……どうして玲奈ちゃんが此処に!?」
「勿論、お仕事で来たんだぞー。墨川家に書状を届けたら、アンタの母上に『今晩は御屋敷に帰らず、当家に泊まりなさい』と勧められたんで。御厚意に甘えさせて頂きました。あとおⅡが入浴中だと教えてくれたのもおⅡママだにゃー」
「母上……」
軽い悪戯のつもりか、敢えて気を利かせてくれたのか。どちらにしても、おⅡの母親の差し金らしい。
「ああ、もう少し隅に寄ってくれる? アタシも入るから」
「ええええッ!!」
「アンタは、あたしに全裸で風呂だけ眺めろというのか!」
「酷い難癖……」
おⅡは困り顔で、身体を浴槽の隅に寄せた。
浴槽の縁を跨ぎながら、玲奈はぴたりと動きを止める。
「あたしがお風呂に入ると、表面張力を超えてお湯が零れると考えているな?」
「全然考えてないけど」
「違うんだな、それが――」
玲奈が湯船に浸かると、ざばーんと大量の湯が零れた。
「……」
「……」
重苦しい沈黙が、湯気の籠もる浴室を押し潰す。
「なんでや!?」
「私に訊かれても――」
「きちんと女中さんに頼んで、お湯の量を調節したのに! 湯気で蒸発した分も計算に入れて、ギリギリでお湯が零れないように、念入りに準備を進めてきたのに! アタシの体重は増えてない! 断じて増えてないわ!」
「玲奈ちゃん、実は暇だよね……」
おⅡは冷たい声で言う。
いつの間にか、墨川家の女中衆を懐柔している。
「体重が増えたのはおⅡよ! 特に胸の脂肪が増えたのじゃああああッ!!」
背後から両腕を伸ばし、おⅡの胸を揉みしだいた。
「きゃあっ!」
おⅡの可憐な悲鳴を聞き流し、手の内の感触を確かめる。予想以上の柔らかさに、おⅡの両手に力が入る。
「でかッ!? いつの間に、こんなにでかくなったの!?」
「お願いだから離して……」
おⅡが
乳房の感触を思い出すように、両手の指を動かす。それから己の胸元を見下ろし、浴槽の壁に背中を預けた。
「アンタなら挟める。確実に奏様を挟めるわ」
「何の話?」
「アンタが知らなくてもいい話よ……」
玲奈が暗い声で言った。
なんで意気消沈しているのか、おⅡには分からない。
「あーあ。恋文の話をするつもりで来たんだけどな~。もうそんな気分になれないな~。明日も仕事だしな~」
「……勿体つける気なら、夕餉から一品抜くから」
おⅡが冷たい声で言う。
「うう……仕方がないなあ」
ごほん、と咳払いをすると、玲奈は満面に笑みを浮かべた。
「結論から申しますと……ごめん。奏様に恋文渡せなかった」
「へえ……そうなんだ」
「おⅡの眼差しが怖い! でもあたしなりに頑張ったんだって! 奏様の庵に忍び込む処までは成功したのよ! でも廊下の暗がりから『どちらさまですか?』って呼び掛けられて! いきなり分銅が飛んできたのよ! もう逃げるだけで精一杯! ホント死ぬかと思ったわ!」
「……」
おⅡの疑念に満ちた視線が、玲奈を焦らせる。
「嘘じゃないってば! アレは奏様の世話役ね」
「奏様の世話役?」
「そう。殆ど薙原家の行事に参加せず、奏様の身の回りの世話を任された女中よ。確か悠木家のおゆらさんだったかな? 母上から近づくなって言われてるから。アタシも詳しくは知らないんだけど……アレはヤバい。うまく説明できないけど……おⅡは関わらない方がいい。残念だけど、恋文作戦は失敗よ」
玲奈は残念そうに呟くが、おⅡは安堵していた。
やはり恋文作戦は、時期尚早であろう。
恋文を渡すのであれば、奏と親睦を深めてからだ。今の奏は、おそらくおⅡの顔と名前も一致していない。殆ど赤の他人のようなものだ。
おⅡが自分の考えを伝えようとした刹那、玲奈は拳を強く握り締めて、跳ねるように立ち上がった。
「でも安心して。ちょ~頭の良いあたしは、次の作戦を思いついたわ」
「次の作戦?」
「夜這いよ! 奏様の庵に夜這いを仕掛ける!」
「よ……夜這いなんてしたら、本家屋敷の女中衆に捕まるよ!」
「その辺りは、アタシがなんとかするから! 世話役の女中も、アタシの妖術で黙らせるわ!」
「郁島家の妖術って大木を切断するという……」
「それは
「大丈夫なの、それ?」
「山から下りてきた獣を保護する時に使う技だから。手加減すれば、命を奪う事もない。アタシが立ち塞がる強敵を薙ぎ倒し、おⅡは奏様と結ばれる。完璧!」
玲奈は自信満々に言うが、おⅡは恐怖心しか湧いてこない。
「全然、完璧じゃないよ。奏様に夜這いを仕掛けるなんて……そんなの無理。私にはできない」
「アンタが弱気になってどうすんのよ。他の分家の娘達は本気だよ。
「でも……」
「とりゃあ!」
言い淀むおⅡの左胸に、おⅡが人差し指を突き立てた。
「きゃああああ!」
おⅡは両腕で胸を隠し、再び口元が水面に浸かるまで沈む。
「ふっふっふ。あたしの人差し指は、的確に相手の乳首を
改めて親友の行動力が恐ろしくなる。
玲奈には申し訳ないが、もうついていけない。
恋文を送るだけでも大騒ぎしたのだ。このうえ、自分から夜這いを仕掛けるなんて、おⅡの想像を超えている。
「……もう無理だよ。これ以上はできない」
「まだ何もしてないでしょ!」
「……本当にごめんなさい。でも墨川家の行く末に関わる事だから。母上や姉上に相談しないとダメだよ」
「家族に相談しても、反対されるのがオチよ! 寧ろ墨川家の当主なら、おⅡの姉君を奏様の側室に勧めようとするわ! それでもいいの!?」
「仕方ないよ。誰かと争うなんて、私には向いてないんだよ」
「馬鹿!」
玲奈は真剣な表情で、弱気なおⅡに活を入れた。
「競争を恐れてどうするの! これが最後の機会になるかもしれないのよ! 薙原家は奏様を利用する事しか考えてない!
いつも優しい幼馴染みが、本気で激昂している。
「そんなに自信がないなら、あたしが奏様の側室になるわ! 今までアンタに隠してきたけど、アタシも奏様の事が好きだったの! アタシと奏様が結ばれるのを指でも咥えて見てなさい!」
「えッ――」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
玲奈ちゃんも奏様の事が好き……?
そんなの嘘……
嘘だよ……
玲奈の怒鳴り声が遠くに聞こえる。
繊細なおⅡの心には、彼女の言葉が受け入れられなかった。頭が真っ白になり、徐々に視界が歪んでいく。完全な放心状態である。
自然と身体の力が抜けて、ぶくぶくと湯の中に沈む。
「お……おⅡ!? どうしたの、おⅡ!?」
玲奈の叫び声を聞きながら、おⅡは意識を手放した。
慶長四年四月上旬……西暦一五九九年五月上旬
タント・ティエンポー……ポルトガル語で「おひさー」
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