第33話 温泉

 蛇孕神社の別棟の浴場で、奏はのんびりとくつろいでいた。

 岩場に囲まれた露天風呂である。


「はう……しんどかったよう」


 肩まで湯に浸かり、天然の温泉に包まれ、安心感と爽快感を満喫する。

 本家屋敷の檜風呂も心地良いが、蛇孕神社の露天風呂も素晴らしい。

 武装した巫女衆が露天風呂の周囲を警護している為、おゆらの乱入を気にする必要もない。巫女衆には、問答無用で追い返すように伝えている。

 んーっと両腕を伸ばし、大きく息を吐いた。

 ようやく魔界から解放された。

 まさか巫女神楽の舞手が、急遽変更されるとは思いもよらず。加えて奏が、舞手の代役に指定されるという異常事態が発生した。奏は巫女神楽を舞えないので、演目も薙原家の基礎教養――『蒼蛇ノ舞』に変更。挙句の果てに「堅苦しい」という理由から、かなたん音頭に改名された。

 先代当主の頃から、分家衆も祭事や行事の変更に慣れている。然し今回は、流石に度肝を抜かれる事だろう。

 偖も偖も――

 かなたん音頭の稽古は、奏の想像を超えていた。


「見なさい。これが電動式自動舞踏矯正装置――『かなたん養成ギブス十一号』よ。この『かなたん養成ギブス十一号』を装着すれば、電動式自動舞踏矯正装置が作動し、かなたんの所作を洗練させ、且つ自重に倍する負荷を掛け、力士と同等の筋力を養える。さあ、明日まで時間がないわ。すぐに取りつけましょう」

「――」

「……変ね。修正箇所が六十三箇所から二五七箇所に増えたわ。しかもかなたんが舞台の床を突き破り、潰れた蛙の如く悶えている。ああ……ようやく状況を理解したわ。これは『かなたん養成ギブス三号』――自重の十倍の負荷を強いる試作品。確か屋敷の蔵に放置していた筈だけれど……かなたんが勝手に持ち出したのね。『かなたん養成ギブス十一号』では物足りない。たとえ全身の骨が砕け散り、内臓が破裂しようと『かなたん養成ギブス三号』を克服する。それがアイドル声優の宿命。日本武道館で単独ライブを開催する為なら、命も惜しまないという決意の表れ」


 完成品と試作品を間違えたマリアは、絶体絶命の奏を見下ろす。


「勿論、私もかなたんを信じているわ。それが正室メインヒロインの宿命だから」

「――」

「でもかなたんを想う気持ちが、私の心に不安の陰を落とす。このままだと全身の骨が折れて、複数の臓器が破裂する。私はどうしたらいいのかしら?」

「助けて……」


 地獄の特訓は、日が暮れるまで続いた。

 九死に一生を得たとは、まさにこの事である。

 とにかく今は、無事に生還した事を喜ぼう。まさか舞の稽古で圧死しかけるとは思わなかった。

 マリアの言動は、応仁の乱と似ている。

 足利将軍家の御家騒動の筈が、あれよあれよという間に諸国の守護を巻き込み、数十万の兵が十年以上も戦い続けた。「いくら頭を捻っても、応仁・天文の乱が起きた原因が分からない」と尋尊大僧正記じんそんだいそうじょうきを記した興福寺大乗院門主こうふくじだいじょういんもんしゅの気持ちが痛いほど分かる。

 とにかく許婚指導・監修の下、ついにかなたん音頭の極意を会得した……らしい。他人に伝授するつもりはないが、正式に印可状まで授けられた。

 明日、アレを分家衆の前で披露するのかと思うと、『家出』という単語が脳裏を過ぎるが、これくらいの騒動で挫けていては、薙原家で生き抜く事はできない。

 臨済宗大徳寺派の僧侶――一休宗純が曰く。


 大丈夫だ。心配するな。大豆を食べろ。


 本当に先人は良い事を言った。

 奏は神社の居候だが、生臭坊主の言葉に随分と助けられている。


「ああ……良いお湯」


 右の掌で湯をすくい、首筋や肩に掛ける。夜空を見上げれば、幾千万もの星々が輝いていた。涼しげな虫の声も聞こえる。

 平静を取り戻すという事は、それだけで素晴らしい。心身共に疲れを癒やし、穏やかな気分で思考を整理できる。


 朧さん、今頃どうしてるかな……


 ヒトデ婆の妖術で負傷を完治させ、毒物の後遺症もないと確認された後、薙原本家に仕官を勧めた。

 朧に二度も窮地を救われた恩がある。

 それ以外に深い理由はないが、周囲の受け止め方は様々だ。

 分家衆は、奏の決断を快く思わないだろう。

 逆に本家女中衆は、気にも留めていない。

 問題は、女中頭のおゆらだ。

 朧に巫女殺しの濡れ衣を着せた張本人。今でも朧を警戒しているようで、色々と理由をつけては、奏と会わせないようにしている。

 その所為で、朧と顔を合わせる機会がない。

 十日前に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを斃したばかりだ。おゆらも無茶な事はしないと思うが、念の為にもう一度強く言い含めておこう。

 朧も遺恨を残している筈だ。

 急に女中衆と仲良くしろと言われても、濡れ衣を着せられた被害者が、簡単に納得するわけがない。此方も奏が、うまく説得しなければならないのだ。尤も説明する以前に、女中頭と新参者が本気で殺し合いをした事すら知らないが。

 おゆらから「非常時ゆえ、朧様を座敷牢から出しました」と説得され、朧も否定しなかったので、純朴な奏は疑念すら抱かない。

 改めて話し合いが必要な案件。

 詳細に調べなければならない事実。

 明日の狒々祭り。

 不安材料は山積しているが、今は休息を取る事に専念しよう。何も考えずに、自然の開放感を満喫する。それが露天風呂の醍醐味というものだ。

 頭に手拭いを載せて、奏は岩場に背中を預けた。

 次の刹那、湯煙の向こう側から声が聞こえてきた。


「奏……いる?」

「常盤!?」


 奏の頓狂な声に驚き、常盤は胸元を隠す右腕に力を込めた。


「どうして常盤が此処に!?」

「……」


 動転する奏の問いに答えず、常盤は意を決して湯船に浸かる。

 月明かりに照らされた優美な肢体。

 幼くも儚い裸身を隠すのは、胸元から垂れた長い手拭いだけ。もう一枚の手拭いで銀色の髪を巻き上げた姿は、齢十四とは思えないほどの色香を感じる。


「ご……ごめんなさ――痛った!」


 奏はなぜか謝りながら、常盤から顔を背けて、岩場に額をぶつけた。

 事態についていけないというか……まるで意味が分からない。どうして変態痴女対策を施したら、代わりに常盤が現れるのか。


 落ち着け……僕。

 俯瞰して物事を見よう。

 管を以て天を窺い、錐を以て地を指すなり。


「――分かった! 黒田如水の陰謀だ! 落ち着くんだ、常盤! 敵の術中に嵌まっているぞ!」

「……黒田如水は関係ない。私は冷静……奏こそ落ち着いて」


 常盤が弱々しい声で否定する。


 そ……荘子が負けた! 


 あと役に立ちそうなのは、孔子の論語か!? 

 孫子の兵法!? 

 僕に大豆以外の知恵を授けてください、一休さ――――んッ!!


 混乱に極みに達した奏に、儚い声が掛けられる。


「大事な話があって……奏と二人きりになりたかったの」

「別に風呂場じゃなくても――」

无巫女アンラみこ様……凄く耳が良いから。拝殿や別棟で話しても筒抜け。御屋敷も似たようなものだし……お風呂場しか思いつかなくて。奏以外の人に聞かれたくない」

「常盤……」


 彼女の言葉も一理ある。

 確かに本家屋敷では、他の女中衆に盗み聞きされるだろう。蛇孕神社も同様だ。屋敷の外や鎮守の森で待ち合わせをすれば、奏と常盤が逢い引きをしていたとか、根も葉もない噂が広がる。加えて誹謗中傷の類は、奏より身分が低い常盤に向かう。

 薙原家で人質同然の扱いを受けてきた奏は、無用な争いを避ける為、周囲に気を遣いながら生きてきた。

 それゆえ、常盤の気持ちも理解できるが……

 好きでもない異性と混浴に挑むくらいだ。精神的に追い詰められているのだろう。無碍に断れば、再び抑鬱よくうつとなりかねない。

 奏は黙考の後、


「勿論、話があるなら聞くよ」


 常盤に背中を向けながら、優しげな声音で言った。


「奏に謝りたかったの」

「謝る?」

「私……いつも足手纏いだから。牢人に襲われた時も役に立たない。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスに襲われた時も、自分の事ばかり考えて……奏の気持ちを考えなかった」

「それは帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの謀略で――」

「そうじゃない!」


 急に常盤は声を荒げた。


「私は蛇孕村の外に出たかった! 奏と一緒に暮らしたかった! でも奏は、そんな事望んでなかった……」


 今にも泣き崩れそうな顔で、常盤は奏と背中を合わせる。


「奏は凄いよ。外界の事まで考えてた。私は無理。自分の事しか考えられない。だから怖くて……奏に見捨てられるのが怖くて。奏の優しさに甘えて、何度も奏に迷惑掛けて……酷い悪循環。どうして私は、奏みたいになれないの?」


 常盤の声が震えていた。

 奏は安堵感を覚える。

 ようやく感情の起伏が出てきた。常盤が精神の均衡を取り戻し始めた証だ。鬱々と部屋に引き篭もり続けるより、泣いた方が心の負担も軽くなる。


「常盤は勘違いしてる」

「……勘違い?」

「僕は、常盤が考えるほど凄くない」

「……」

「僕らの安全と無辜の民の命を天秤に掛ける事はできない……なんて公言したけど。僕は聖人でも君子でも超越者チートでもないから。本当に自分の命と他人の命を比べたら、自分の命を選ぶと思う」

「……」

「常盤と他人のどちらかを選ぶとすれば、僕は間違いなく常盤を選ぶ。僕は『共同体みんな』を守るだけで精一杯――いや、自分の身さえ守れないんだ。全ての民を守るなんて……おこがましいよ」

「……」

「だから帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの誘いに乗らなかった。向こうについたら、常盤が幽閉されてしまう。我ながら身勝手な理由だけど、常盤の傍から離れたくない。それだけの事なんだよ」


 奏は穏やかな口調で語り通した。

 背後から常盤の嗚咽が聞こえてくる。

 奏は本心を述べたつもりだ。

 然し悲観的な憶測は、意図的に避けていた。

 おそらく常盤も気づいているだろう。

 常盤は輿入れを望めない。

 本家の猶子という立場上、蛇孕村の百姓と結ばれる事はない。

 然りとて外界の武家や商家は、悪名高い薙原家の猶子など嫁に望まないだろう。しんば、婚姻が成立したとしても、政争の道具にしか成り得ない。

 政略結婚は乱世の常だが、先方は常盤に人質以上の価値を見出さない。

 薙原家も常盤を捨て駒としか考えない。常盤が危険に晒されても、毫も迷わずに見捨てる。

 それに黒田如水が、再び常盤を謀略に利用する。

 常盤を蛇孕村の外に出せば、如水の手先にかどわかされて、奏を誘い出す為の道具とされよう。

 自由恋愛も難しい。

 他家に嫁ぐ事もできない。

 常盤は純粋な被害者だ。薙原家の政争や奏の生い立ちに巻き込まれ、未来の選択肢を奪い取られた。

 常盤の将来を考えれば、現状維持が最善と言える。出家した尼僧の如き生き方だが、常盤は一人ではない。血の繋がりはないが、家族のように生きていく事はできる。

 先代当主が遠行した際、年寄衆の非道な行いに憤り、奏は心に決めたのだ。

 絶対に常盤を一人にしないと――


「だから、これからも僕の傍にいてほしい」

「私も奏の傍にいたい」

「うん」

「ずっと一緒にいたい」

「そうだね」

「前に行ってもいい?」

「勿論、良いけど……前?」


 あれ? 

 急に話が飛んだぞ。

 なんで常盤が僕の前に来るの?


 首を傾げる奏を尻目に、常盤は振り向いて回り込み――


「湯加減はどうかしら?」


「マリア姉――――ッ!!」


 奏は許婚の声に驚き、振り向いて立ち上がった。

 脱衣所の方から足音が聞こえてくる。白い湯気に紛れているが、徐々にマリアの神々しい裸身が浮かび上がる。

 一瞬。

 あくまでも一瞬だが、マリアの裸を見てしまった。

 冴え渡る月光が差し込む岩場に佇む姿は、等身大の水晶の如く輝いていた。

 穢れを知らない白磁の肌は、露を受けた白薔薇の如く。すらりと伸びた両腕と両脚は、鶴の如き趣があった。形の良い乳房は、大きく熟れた桃の実でありながら、開いたばかりの桃の花。湯煙で濡れた黒髪がくるぶしまで垂れ下がり、真白な首筋が奏の目に焼きつく。

 全てが完璧に整い過ぎて、綻びを見出す余地がない。神秘的な造形美を誇る肢体は、異性から欲望を奪い去り、尊崇の念すら抱かせる。

 それでも倫理観を奮い立たせて、強引に許婚から顔を背けた。


「どうして顔を背けるの?」

「突然、マリア姉が風呂場に入ってくるからだよ! いくら許嫁同士でも、男女が同じ湯に浸かるなんて――」

「仲睦まじい事だと思うけれど」

「意外に否定できない! いや、外界の人はそうかもしれないけど。神聖な蛇孕神社の浴場で混浴というのは、如何なものかと……」


 しどろもどろになりながらも、奏は辺りを見回す。

 常盤の姿が見当たらない。

 岩場の陰にでも隠れたのかと思いきや……水面を見下ろして瞠目した。

 常盤は身体を沈めて、お湯の中に隠れていたのだ。

 お湯の中で遣り過ごすつもりのようだが、ゆるりと百を数えるほど保つまい。一刻も早くマリアを浴場から追い出さないと、常盤が溺死してしまう。


「抑も! なんでマリア姉が此処にいるの!?」

「奏に大事な話があるの」

「どうしてみんな、風呂場で大事な話をしたがるんだ!」

「みんな?」


 マリアが怪訝そうに言う。


「おゆらさんです! おゆらさんが時々、風呂場に忍び込んで僕の背中を流すとか言い出すから! おゆらさんを露天風呂に入れないように、巫女さんに下知した筈なんだけど――」

「先程、巫女衆から聞いたわ。私はおゆらではないから、何の問題もないわね」

「意味ねえ――――ッ!!」

「それに天啓を授けられたの」

「天啓?」

「奏に『完璧な未来予知はできない』という事実を伝えなければならないと。それで奏の部屋を目指して歩いたら浴場に到着していた」

「マリア姉は、思いつきで行動しすぎる! あと自分の家で迷子になるな!」

「私が迷子? 有り得ないわ。それは奏の勘違いね。私は運命に導かれて、奏の許に辿り着いた。喜びなさい。二人の絆を証明したのよ」


 左手の人差し指を立てて、マリアは冷然と答えた。

 同じ言語で会話をしている筈だが、どうしても意思疎通がうまくいかない。

 混乱する奏を尻目に、マリアは未来予知について語る。


「誤解も解けた処で、完全な未来予知はできない理由を説明するわ。奏は『ラプラスの悪魔』という言葉を聞いた事があるかしら? 今から一八八年後にフランスの数学者――ピエール=シモン・ラプラスが提唱する概念よ。分かりやすく言えば、宇宙に存在する全ての原子の位置と運動量……運動量とは、質量と速度ベクトルを掛けたものね。これらを古典物理学の数式に当て嵌めるだけで、未来の状況を導き出せるという話よ。でも未来の学者には、そんな真似ができなかった。原子の位置と運動量を全て把握できたとしても、膨大な情報を数式で計算すれば、莫大な時間が必要となる。刹那の未来の計算する為に、刹那を遙かに超える時間を費やさなければならない。ゆえに未来を予知する事はできなかった。後の科学者達は、様々な方法で粒子や運動量を測定しようとした。でも粒子の位置を特定すると、運動量が不確定になる。運動量を特定すると、粒子の位置が不確定になる。時刻を特定すると、エネルギーが不確定となる。エネルギーを特定すると、時刻が不確定になる。つまり全物理量の測定は、不可能という結論になるわけ。然し粒子とは、原子と分子だけではない。全ての素粒子を測定しなければならない。素粒子とは――」

「話が長いうえに未来予知してる! さらっと未来の話をしてるよ、マリア姉さん! その話は、改めて聞くから――」

「何を狼狽えているの? 脳内の微弱な稲妻が、扁桃体へんとうたい前頭前野ぜんとうぜんやで活発に発現しているわ。それは恐怖や不安の表れ。加えて奏の意識が下方に向けられている。まるで浮気がバレた亭主のよう。まさか――」

「全部、僕の責任なんだ! 色々と事情はあるけど、全部僕の――」

「かなたん音頭を気に懸けているのね。安心しなさい。かなたん音頭は至高の舞。明日の夜には、幾万もの豚共が悶えブヒる事でしょう」

「――ワザとだろう! 全部知っててワザとボケてるだろう!」


 奏も焦り過ぎて、ツッコミが雑になってきた。


「どうも話が噛み合わない。私の思考が奏に追いついていないのかしら?」


 全裸のマリアが、顎に手を当てて考え込む。


 拙い。

 かなり無駄な時間を費やした。

 早く常盤を助けないと――


 水面を見下ろすと、常盤が見当たらない。

 マリアと馬鹿な遣り取りをしている間に、今度こそ湯の中を移動して、岩場の陰に隠れたのかと期待したが――

 常盤は。

 お湯の中で屈みながら。

 奏の股間を凝視していた。


「うわああああッ!!」


 奏は情けない悲鳴を上げて、両手を股間に当てて隠す。


 ――何をしてるの、常盤!? 

 そんな余裕あるの!? 

 本当に溺死するぞ!


「どうかしたの?」

「なんでもない! 急に叫びたくなったんだ! 天啓だよ天啓!」

「私も叫んだ方がいいのかしら?」

「二人で叫ぶ理由がない! とにかく混浴は拙いよ! 分家衆にとやかく言われるかもしれないし! マリア姉に迷惑が掛かるかも――」

「他にも大事な話を忘れていたわ」

「いい加減に、人の話を聞く習慣を持とう!」

「二人で話し合う必要があると思うの。あの時、渡辺朧が死んだら、婚約を解消すると宣言していたけれど――」

「ホントに大事な話キタ――――ッ!!」


 奏は頭を抱えて仰け反った。

 忘れてた。

 この数日の間、常盤の看護に夢中で失念していた。


「あれはですね……朧さんを救う為の方便と言いますか。誤解を生んだのであれば、誠に遺憾に思います」

「奏ふうに誤謬ごびゅうを正すなら、官僚答弁のような謝罪は無用よ。寧ろ私が謝罪しなければならない。奏が止めてくれなければ、私は取り返しのつかない過ちを犯す処だった。冷静に思い返せば、愛想を尽かされても仕方がない。とても後悔しているわ」

「マリア姉……」

「奏の許婚失格ね。愚かな私は、奏の隣に立つ資格もないのでしょう。それでも奏を想う気持ちに偽りはないわ。どうか私の罪を許してほしい」


 抑揚のない声音で呟きながら、ぺこりと頭を下げた。


 ――マリア姉が謝罪した!


 奏は後ろを向いているので、相手の表情までは分からないが、湯気が立つ浴場で冷や汗を掻くほど驚愕した。

 十年も幼馴染みを続けているが、マリアが謝罪するなど前代未聞。八百年の歴史を誇る薙原家でも、未曾有の大事件である。


 今日はおかしい。

 天変地異の前触れか? 

 富士山が噴火するのか?


 得体の知れない恐怖を覚えながらも、懸命に頭を働かせる。


「僕は何も怒ってないよ! 結果的に朧さんも助かったんだし! 僕が許してほしいくらいさ!」

「私を許してくれるの?」

「勿論!」

「婚約解消は撤回という事でいいのかしら?」

「当たり前だよ!」


 奏が大声で言うと、マリアは頭を上げた。


「良かった。やはり私と奏は因果律で結ばれていた。奏ふうに結論を語れば、現世はラブコメハーレムではなく、ただのエロゲーに過ぎなかった」

「……」


 遠い目をする許婚に頓着せず、マリアは持論を展開する。


「私は心得違いをしていたわ。許婚の浮気を容認した時点で、ラブコメハーレムから逸脱していた。奏に幽玄師匠オサレししょうと呼ばれるまで気づかないなんて……現世うつしよの在り方を予見できる――とうそぶいていた己を恥じるわ」

「……」

 幽玄オサレはつけてないから……と心の中で訂正する。

「つまり奏ふうに断言すれば、現世うつしよはラブコメハーレムではなく、ただの十八禁のエロゲー。奏は渡辺朧を攻略する為に、私を制止したのね。私は正室メインヒロインとして、奏に攻略される時を待ちましょう」

「世迷い言はそこまでだ! でもいつも通りのマリア姉で安心した! 僕は浮気なんかしていない! それだけは明言しておこう!」


 マリアの暴走を確認した奏は、強引に会話を打ち切った。

 全裸で夫婦漫才をしている場合ではない。

 そろそろ常盤が保たなくなる。

 この窮地を脱する策を講じなければ――


「あ……あれー? おかしいなー。僕の手拭いがないぞー。マリア姉、脱衣所まで探しに行ってくれないかなー」


 見事な棒読みだった。

 然しマリアは断らない筈だ。

 マリア姉が脱衣所に向かう間に、常盤を岩陰に――


「手拭いなら奏の頭の上にあるわよ」

「しまった――――ッ!!」


 もうダメだ。

 自分の手拭いを忘れるほど混乱している。

 もはや後に退けない奏は、強引に茨の道を突き進む。


「神社の手拭いじゃダメなんだ! 僕が普段から使ってる手拭いじゃないと、安心して身体を拭く事ができないんだ! 僕の手拭いを屋敷から持ってくるように、巫女さんに伝えに行って! 脱衣所まで!」

「それは奏の持参した手拭いよ!」

「なんてこった! 神社に泊まる度に、枕と手拭いを持参する自分が憎い!」


 人を騙す事が、こんなに難しいなんて……


 奏が頭を抱えていると、水面に気泡が湧き上がる。


 ぶくぶくぶくぶく……


 常盤の限界が近い。


「ぶくぶくぶく!」


 奏は声を張り上げ、気泡が弾ける音を掻き消す。


「今度は何?」

「突然だけど、これが巷で流行ってるんだよ! 男女が同じ浴場に入ると、男は『ぶくぶく』と呪文を唱え続けるんだ!」

「大変そうね」

「物凄く大変なんだぶく! もう色々と限界なんだぶく! 儂の為に、早く脱衣所に行ってくださいぞえ!」

「渡辺朧とヒトデ婆と『ぶく』が混同しているけれど……まあ、いいわ。私は脱衣所に行けばいいのね」

「可及的速やかにお願いします!」


 奏が頭を下げると、マリアは背を向けた。

 徐々に足音が遠ざかる。

 奏が安堵の溜息を零すと――

 急にマリアの足音が止まった。


「奏――」

「な……なんスか?」

「これも流行りなのかどうか分からないけれど――」


 マリアは振り返らず、抑揚のない声で言う。


「男女が同じ湯に浸かると、女は延々と湯に潜り続けるものなの? そろそろ空気を吸わないと、常盤が死ぬわよ」


 ぷはああああああああッ!!


 限界を超えた常盤が、水中から飛び出してきた。

 銀色の長い髪を扇状に広げて、ぷかーっと俯せに浮かぶ。


「常盤ああああッ!!」


 奏は大声を上げて、気絶した常盤に駆け寄った。




 半刻……一時間


 一刻……二時間

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