第29話 神寄
薙原本家の屋敷は、異常な広さを誇る。
総坪数およそ四万八五〇〇坪。そのうちの三分の二が、趣向を凝らした庭園である。どこから集めてきたのか、珍樹奇石が巧みに配置され、風雅な佇まいを形成していた。屋敷の構造は、高床式の
奏の住む庵が屋敷の北西で、庭園の樹木に囲まれている。朧に与えられた長屋は、南東の大手門近く。奏の庵と反対側にあり、武装する女中衆が待機する詰所の近くだ。
両者の位置関係だけで、おゆらの用心深さがよく分かる。朧が案内された部屋も、東の詰所の一室。主殿と庭園には、絶対に近づけないという徹底ぶり。
しかも他人を呼びつけておきながら、おゆらは一向に現れない。暫く待つように、名も知らぬ女中に言われてから、半刻近くも過ぎている。
朧は自他共に認める中二病。
他人を待たせるのは好きだが、待たされるのは嫌いだ。相手の都合に合わせるのも我慢ならない。
加えて隣の部屋から、朧の嫌いな臭いが漂う。
憮然とした表情を崩さず、朧は右手の指関節を鳴らす。我慢も限界に達し、退出しようと決断した刹那、頃合を見計らったように、おゆらが部屋に現れた。
「お待たせして申し訳ありません。色々と立て込んでおりまして」
柔和な笑顔で軽く侘び、当然の如く上座に座る。
不機嫌そうに鼻を鳴らす朧は、平伏もせずに仰臥していた。おゆらは軽輩の無礼を叱責せず、穏やかな笑顔の仮面を貼り付けている。
おゆらの衣装は、普段と変わらない。相変わらず、黄色の小袖に茶色の湯巻。金具のついた黒革の首輪を嵌めている。
朧は判断に迷う。
一見すると、中二病の如き装いだ。然し常盤もそうだが、珍しい装束を好むから中二病というわけではない。貴人の道楽という可能性もある。それにおゆらは、マリア以外の中二病を軽んじている筈だ。
「近く本家の御屋敷で宴があるのです」
朧の疑念を余所に、おゆらは話を続ける。
「獺殿より聞いておる。狒々祭りがどうとか」
「はい。我々も宴の支度で大忙し。毎年六月になると、蛇孕神社で
「それは御苦労な事じゃ」
「招かれる分家衆はともかく、接待する方は大変なのです」
おゆらは溜息を零すが、朧は多少溜飲を下げた。
「本家の御屋敷で行われる酒宴は、朧様も参加できます。然れど、その前に片付けておきたい事がありまして。朧様の御力を拝借したく、お呼び立てした次第です」
「宴の支度や後片付けならやらぬぞ。儂は宴の席では、『飲んで食って騒いで、御天道様が昇るまで誰も帰さぬ』を信条としておる」
「傍迷惑な信条ですね。朧様に、宴の支度や後片付けを頼んだりしません。覇天流の太刀に期待しているのです」
「ようやく儂にも御役目が与えられるのか」
「『
おゆらは笑顔を崩さず、穏やかな声音で告げた。
「『
「食べ物ではありません。『
「お主の事か?」
「違います。『
「妖怪の乱心者か?」
「有り体に申せば、左様なものです。今朝方、猟師達が本家の御屋敷に駆け込んで参りました。仔細を尋ねた処、猿頭山で狩りをしていたら、仲間の一人が爆発したとか」
「お主が乱心しておるように聞こえるぞ」
「猟師の言葉です。どかーんと弾け飛んだそうです」
おゆらは両手を広げて、爆発の規模を表現する。
「
「その猟師は、中二病を拗らせていたわけではありません。勿論、派手に自害したわけでもありません。『
「薙原家の分家筋に、火薬を使う使徒がおると?」
「火薬に頼らず、視認した物を爆発させる妖術です。墨川家と申すのですが、蛇孕村の作事や普請を務める家柄で、道普請の際に岩を爆発させたり、開墾の際に木の根を爆発させたり……本家の御屋敷を改築する際も、存分に力を発揮してくれました。我々も重宝しておりますが、一睨みで人を殺傷できる妖術。極めて危険と言わざるを得ません」
「それで?」
「現在、蛇孕村に住む墨川家の者は二名。一人は身動きが取れない妊婦さん。もう一人は乳飲み子です。どちらも山を登る事も人を殺める事も困難。おそらく二年前の政変から逃れた中老衆の生き残りが、この村に舞い戻ってきたのでしょう。しかも『
「自信に満ちた物言いよのう。根拠を聞こう」
「先ず猟師を殺害する理由がありません。我々を挑発したいのであれば、
「己を『
「どちらも論外です。私も兵法は
「一応、筋は通るの」
おゆらは口元を袖で覆い隠し、上品な仕草で笑う。
「朧様も人が悪い。私を試そうとしないでください。此度は何も企んでおりません。奏様の庵の柱に『渡辺朧参上!』と彫り込むのも止めてください」
「暫く御曹司と顔を合わせぬうちに、記憶を書き換えられては適わぬ。如何にお主らが偽装を重ねようと、あれなら御曹司も疑念を抱くであろう」
「朧様も符条様も誤解しているようですが、好きこのんで奏様の記憶を改竄しているわけではありません。全ては御家の繁栄を思えばこそ。『
「己の主を意のままに操り、毎夜の如く夜伽を強制し、都合の悪い記憶を書き換える。お主の忠義とは、権力の頂きに至る為の道具か?」
朧が厳しい視線を向けると、おゆらは人差し指を立てた。
「下克上とは、己の欲望を肯定する思想です。それに中二病ではありませんが、私も朧様と共通点があります」
「……?」
「私は
おゆらの言葉に、朧の美貌が強張る。
「……お主、クソバアアとの会話を盗み聞きしておったか」
「滅相もない事です。先程、ヒトデ婆から直接聞きました。使徒であれば、両者の距離が離れていても、眷属を飛ばして会話できます」
「やはり妖術は便利だと思うぞ。人を産む必要もあるまい」
「妖怪には、妖怪の苦労があるのです」
「ふん」
朧は鼻を鳴らした。
妖怪の苦労など知りたくもないが、薙原家の妖術を甘く見ていた。
獣の如き視聴覚を誇る朧でも、虫一匹の気配までは察知できない。逆に朧の言動や居場所は、おゆらに逐一報告される。
「我々の事情など、朧様の興味を引くようなものではないでしょう。それより蛇孕村の民を守る為、覇天流の太刀をお貸しください」
おゆらは胸の前で両手を組む。
「特に異存はないが……此度の一件、御曹司は存じておるのか?」
「奏様は、狒々祭りで多忙を極めております。些事で御心を惑わせる事もないかと」
「理解し能うた」
「はい?」
「儂の前は、お主が薙原家に仇成す者を始末しておったか。道理で腕が立つわけよ」
「うふふっ」
おゆらは含み笑いを漏らす。
肯定も否定もしない。
「まあ、よい。丁度退屈していた処じゃ。女中頭様の御下知に従おうではないか」
「ありがとうございます。これで民も救われます」
「民の生き死になど、儂と関わりなき事ぞ」
「狒々祭りの最中に死傷者が出れば、薙原家の面目に関わります。祭りが延期になるかもしれません」
「ふ~む。祭りの延期は困るのう」
朧は顎に手を当て、考え込むような仕草をする。
「ゆえに期限を設けます。狒々祭りの前……明日の夕刻までに『
「それは構わぬ。構わぬが、大小を持ち合わせておらぬ。まさか儂が如きか弱き乙女に、丸腰で妖怪と立ち合えとは申さぬよな?」
体当たりで檻を打ち砕いた乙女が、大仰に肩を竦めた。
「御安心ください。
おゆらが胸の前で手を叩くと、濡れ縁から新たな女中が現れた。
十代半ばの小柄な娘だ。肩口で切り揃えた黒髪。端正な造形の顔立ち。然し表情が乏しい所為か、人形の如き硬さを感じる。寧ろ背中に、大きな
背中にネジ?
まさか
いや……
おゆらに動揺を悟られないように、強固な意志で数々の疑問を抑え込み、珍妙な女中が携える大小に視線を向けた。
大小共に、無骨ながらも立派な拵えだ。黒漆塗りの鞘に、鮫革に糸が巻かれた柄。大刀の柄が、異様に長い。対手の打突を柄で受ける為か。
流石に鞘から抜いてみなければ、鋼も焼きも鍛えも判断できない。だが、数多の修羅場を潜り抜けた朧は、鞘を抜かなくても、刀身の鋭さを見抜いていた。
「
「刀工は?」
「
「それも聞いた事がないのう」
「同田貫は、数十年前から九州に拠点を置く刀工衆です。特に藤原清虎は、
「ほう」
朧が爛々と眼を輝かせた。
鬼神の如き身体能力を活かす為には、頑丈な武具が必要だ。特に刀剣は、使い込まれた物の方が優れている。
刀は数人も人を斬れば、使い物にならなくなるというのは、人斬りの素人の発想だ。熟練の剣士が刀を使えば、刀身に余計な血脂を残さず、刃毀れも起こさない。寧ろ人を斬れば斬るほど、刀は切れ味を増していく。
朧はニヤリと嗤いながら、大刀に手を伸ばした。
「二振りで銀銭二十枚となります」
「――ッ!?」
朧の右手が、ビクッと止まった。
「二振りで銀銭二十枚となります。米五百石でも構いませんよ」
とても大事な事なので、おゆらは笑顔で二回言った。
「お主……敵より鹵獲した物を家臣に売りつけるのか! しかも銀銭二十枚じゃと?
「三好筑前亡き後、三好一党は
「日ノ本一高い値で売れた太刀を例えに出すな! 足下を見るのも大概致せ!」
「足下を見るなど人聞きの悪い。斯様な心積もりは毛頭ございません。然れど敵から得た戦利品でも、今は本家の所有物です。
「さらりと騙りを申すな!」
「根拠もないのに、騙りと断言しないでください。お春さん……この大小は、銀銭で二十枚の値がつきましたよね?」
「おゆらさんの言葉を肯定します」
背中に巨大な
誰も彼女の存在に突っ込みを入れない為、自然とその場に溶け込んでいる。
「お春さんも左様に申しております。疑う余地などないでしょう」
「疑う余地しかあるまいて……」
朧は右手を差し出した姿勢で、虎の如く唸る。
おゆらと女中衆が口裏を合わせれば、朧に確認する手立てはない。
「儂が大金を持ち歩いておるように見えるか?」
「俸禄の前借りと致しましょう」
「儂は二十年余りも
「いえ、あと六十四年は
「――なんじゃと!?」
朧は頓狂な声を発して、思わず膝立ちの姿勢を取る。
語気を荒げる朧に、のんびりと仔細を打ち明かした。
「貴女が真水の如く飲み明かす清酒も高いのです。それを十日で酒樽を二つも空けるなんて……ザルにもほどがあります」
「衣食住の心配はいらぬと聞いたが……」
「住は長屋を用意しました。衣は朧様が他の着物を好まず、洗濯すらなさらないので、百姓の娘達に小袖を何枚も作らせております。朝昼晩の食事は無料で提供しますが、お酒は嗜好品。別儀です」
「酒は、お主の配下の女中が勧めてきたのだぞ」
「さあ……私は存じあげません。何かの手違いではありませんか?」
おゆらは小首を傾げた。
朧は必死に怒りを堪える。
年若くても諸国を
「……確かに儂は十日で
朧は怒気を抑えながらも、殺気を交えた声で尋ねた。
「朧様の言い分は、景気の良い畿内の話。関東では、下り物が法外な値で取引されております。特に京師の
「御忠告痛み入るがの。やはり大小と酒代だけで、六十四年も
「実は斯様な物を隠しておりました」
おゆらは満面に笑みを浮かべて、袖の中から紙の束を取り出す。
「朧様の借書です」
「――ふあッ!?」
眼を剥く朧の前で、おゆらは借書の束を天井に放り投げた。
「京で名を挙げたとはいえ、畿内の土倉から相当借りていたようですね。多くの有徳人が泣いていましたよ」
ひらひらと大量の借書が、部屋中に舞い落ちる。
その中の一枚を手に取り、内容を読んで唖然とした。
間違いなく朧の借書である。
「な……何故、お主が是を?」
「当家は土倉を営んでおります。朧様の借書を買い占めるなど容易な事。借書を書かずに借りた金銭も、我々が立て替えておきました」
おゆらは下唇に指を当てながら笑う。
この当時、土倉や有徳人の間で、借書の売買が頻繁に行われていた。
例えば――
『甲』が『乙』から銅銭で一貫を借りたとする。『甲』は『乙』から銭を借りた事を証明する為、借書を書いて『乙』に渡す。金銭の貸借は個人の契約なので、利率は当事者同士で自由に決められる。年に五割と定めるなら、一年後に一貫と五百文を支払わなければならない。
然し『乙』は、急に多額の金銭が必要になり、一年も『甲』の返済を待てなくなった。そこで『乙』は『丙』に借書を一貫と百文で売却する。『乙』に対する返済義務が『丙』に移り、『甲』は『丙』に一貫と五百文を支払う事になった。この時点で『乙』は貸した銭を回収し、百文の儲けを得る。『丙』は一年後に、四百文は儲かるという仕組みだ。
然し借書の取引は、政治的な危険を伴う。
借銭を帳消しにする徳政令だ。
一年後に『丙』が『甲』の家を訪ねると、合戦に巻き込まれて一家全滅。屋敷も畑も焼け打ちに遭い、骨と灰しか残されていないという事も有り得る。一貫と五百文の借書も、一晩で紙屑と成り得るのだ。
加えて合戦の勝敗は、借書の価値を激変させる。
商売に失敗した有徳人や合戦に敗れた武将の借書は、文字通り一文の値打ちもない。逆に羽振りの良い豪商や勝率の高い武将の借書は、額面以上の価値を持つ。
一介の牢人に過ぎない朧が、方々から銭を借りられたのは、京で武名を高めていたからだ。畿内の土倉は朧の出世を見込んで、多額の金銭を貸しつけた。然し関ヶ原の敗戦で返済手段を失い、逃げるように奏を捜す旅を続け、その間も高価な地酒を買い続けた。
計画性のない中二病の末路である。
「お酒欲しさに
おゆらが慇懃無礼な態度で言い放つ。
対する朧は、屈辱に総身を震わせていた。
土一揆に身を投じた百姓の気持ちが、今なら身に染みて分かる。朧も一五〇年早く生まれていれば、土倉や酒屋の打ち壊しに参加していただろう。
「返すアテもないのに借りるから、斯様な憂き目に遭うのです。内訳は大小と酒代と借銭の返済。それに借書の購入費用と利払い。併せて金六十四枚と銀三匁。先度の働きも踏まえて、金六十四枚丁度と致しました。きちんと働いて返してくださいね」
「儂は――」
「銭の支配に屈したりせぬ。薙原家に支配されるならば、不便な暮らしを選ぶ……などと申しませんよね?」
「やはり獺殿との会話を盗み聞きしておったか!」
「いえいえ。然れど斯様な戯言を並べて、貸した銭を返さない
「……ッ」
「それに申しましたよ? 一つ騙されたつもりでお戻りくださいと」
「――ッ!!」
朧の美貌が憤怒で紅潮する。
確かに斯様に言われたが。
誠に騙すか!
朧は獰猛な笑みを浮かべていた。
この場で
一生、飼い殺しにされてなるものか。
今すぐ
朧は拳を握り締めて、懸命に殺戮衝動を抑え込む。
普段なら絶対に我慢しないが、中二と無謀は似て非なるもの。主君に迷惑は掛けられない。
おゆらは十日足らずで、朧の借銭を買い占めた策略家。感情の赴くままに動けば、それこそ薙原家の思う壺。
おゆらの隣に、見知らぬ女中が控えている。
加えて鉄砲を携えた女中が三名、隣の部屋で待機しているのだ。
朧の鋭敏な嗅覚は、木戸越しに火縄の臭いを嗅ぎつけていた。万が一、この場で仕留め損ねれば、再び奏の記憶を書き換えられてしまう。
耐えろ……耐えるのじゃ。
御曹司の笑顔を思い出せ。
朧は荒い息を整え、眼前の女中頭を見据えた。
「……よかろう。敢えてお主の挑発に乗ろうではないか。然れど『
「今日飲んだ分なら構いませんが」
「十日分じゃ」
「一日分」
「十日分」
「一日分」
「十日分」
「……」
おゆらは唇に手を当て、軽く黙考する。
「二日分?」
「熟慮してそれだけか!
「それでは五日分という事にしておきましょう」
「もうそれでよいわ。お主と話しておると苛々してくる」
おゆらの思惑通りと知りながらも、朧は退かざるを得なかった。これから化物討伐に向かうのだ。これ以上、おゆらを相手に手間取りたくない。
抑も薙原家に飼い慣らされるつもりもない。寧ろ前向きに考えれば、薙原家が借書を買い集めた事は、僥倖と捉えるべきだろう。
なぜなら死人に銭を返す必要はないからだ。
百余名の女中衆を斬り伏せ。
分家衆と『薙原衆』を討ち取り。
マリアとおゆらの首を取る。
これで借銭が消えるなら、一挙両得ではないか。
朧は平静を取り戻し、大刀の柄に手を掛けた。
ゆるりと刀身から鞘を抜き放つ。
話に聞いた通り、身幅広く重ねの厚い刀身。刃文も美しく、清冽な輝きを放つ。澄んだ湖面の如く、同田貫は朧の美貌を映す。
青白い地金に、殺気に満ちた眼が浮かんだ。
どこまでも前向きな中二病だった。
書院造……室町期から近世に掛けて成立した住宅の様式。
矢倉……城壁などの上に造った建物で、諸方を展望して偵察したり、矢や弾丸を発射して、専ら防戦に使う設備
本家屋敷の広さ……東京ドームおよそ十二個分
松永弾正……松永久秀
鋼……玉鋼
鍛え……地金
焼き……刃文
三尺二寸五分……約98㎝
一尺八寸……約54㎝
加藤主計頭……加藤清正
新身……新品
三好筑前……三好長慶
三好一党……
足利義晴……室町幕府第十三代将軍
若党……新参者
四斗樽……約72ℓ
七匁……約26.25g
八匁……約30g
廻船……港から港へ旅客や貨物を運んで回る船
相州……
渡辺朧の借金……金六十四枚。天正大判六十四枚。金六四〇両。現在の価値で一億一五二〇万円。同田貫二振りの費用も含む。
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