第30話 蝉の夢
慶長四年
墨川家の屋敷は、昨年に改築されたばかりだ。
さながら武家屋敷の如き豪邸である。墨川家の当主の意向もあり、豪華な庭園も造られていた。本家屋敷に劣るが、様々な樹木が生い茂る。
この季節、最も目を引くのは、桜の木だ。
屋敷の濡れ縁に座るおⅡは、何気なく桜の花びらを見ていた。舞い落ちる花びらに、自然と視線が吸い寄せられる。
綺麗……
白い花びらを目で追うと、大きな庭石の上に落ちた。
母が言うには、屋敷の庭に相応しい河石を遠国より取り寄せたそうだ。母の趣味は、庭園の造営と
桜が舞い散る庭園を眺めていると、「遅刻遅刻~っ」と聞き覚えのある声が、おⅡの耳に飛び込んできた。
「あ……玲奈ちゃん」
「……」
玲奈は親友の呼び掛けに応えず、全力疾走でおⅡの前を通り過ぎ、自分から大きな庭石にぶつかった。
「いった~い! もう! どこ見て歩いてんのよ!」
「――」
尻餅をついて怒鳴るが、庭石は何も応えない。
着物が乱れている事に気づき、慌てて太腿を両手で隠しながら、頬を赤らめて上目遣いに問い掛ける。
「……見たでしょ?」
「――」
「嘘! 絶対に見た! しらばっくれても分かるんだから!」
「――」
「ふん……別にアンタの手なんか借りなくても、一人で立てるんだから」
小袖についた汚れを落とし、玲奈が一人で立ち上がった。
当然の如く、庭石が手を差し伸べたりしない。
……何、この一人芝居?
おⅡは状況についていけず、ぽかんと玲奈の乱行を静観する。
「本当ならぶっ飛ばしてる処だけど、まあ……お互い不注意っていうか? 不幸な事故だし? 今回は許してあげるけど、二度目はないんだからね!」
「――」
ビシッと人差し指を向けるが、庭石が応える筈がない。
玲奈は屋敷の庭を押し潰さんばかりの沈黙や、おⅡの冷たい視線もどこ吹く風と言わんばかりに、一仕事終えたような顔で振り返った。
「やっほー、元気してた?」
玲奈が軽やかな足取りで縁側に近づいてくる。
年齢は、おⅡと同じ十四歳。明るい茶色の短髪で、瞳から生気が満ち溢れている。黄色の小袖に白い湯巻。薙原本家の女中装束だ。
「私は元気だけど……玲奈ちゃんは正気?」
「酷いなー。別に乱心したわけじゃないぞ。ツンデレの練習をしていたのさ」
「ツン……デレ?」
「普段はツンツンしてるけど、好きな人と二人きりになると、急にデレデレになるの。この落差に、世の男共は萌えるのよ。分かる?」
「よく分かんない……」
「いかんいかん。いくらおⅡが可愛くても、ツンデレぐらい修得しておかないと、好きな男子に『つまんない女』だと思われるぞ」
おそらく
物知り顔で、唖然とするおⅡに持論を語る。
「因みに暴力はいけないぞ、暴力は。理不尽な暴力系ツンデレは、男子からも嫌われるらしい。今度、あたしの実家にある
「玲奈ちゃんの母上のお許しを得てからね」
「大丈夫! 母上は、おⅡが借りパクするなんて思わないから!」
「多分、玲奈ちゃんが疑われると思うな……」
右隣に腰を下ろした親友に、おⅡは用意していた麦湯を勧める。
「グラシィアス」
遠い異国の言葉で礼を言いながら、玲奈は湯飲みを受け取った。
いつも活発で裏表がない。
おⅡの理想を体現したような娘だ。然し言動が過激過ぎるというか、巷で言う処の中二臭い。まだ子供なので大目に見て貰えるが、来年は十五歳。そろそろ周囲の視線も厳しくなる頃だ。
例えば、田中家の当主が一年前に代替わりした。
田中家の先代当主――
本家の家蔵を横領した挙句、「
結局、
いつか
親友としては、玲奈の将来が心配でならない。
「はあ……和みますなー」
おⅡの懸念を余所に、玲奈は麦湯を飲んで和んでいた。
「そ・れ・で……あたしに何の相談をしたいのかにゃ?」
「え? なんで分かるの?」
「生まれた時から親友してるしねー。突然、おⅡの家に招かれたら、大事な相談があると気づくんだにゃー」
「……ごめんなさい。お仕事で忙しいのに、折角の休日が……」
「すぐ謝るのは、おⅡの悪い癖だぞ。自分を卑下しすぎ。
幼い頃から何千回も繰り返された遣り取り。
玲奈に励まされる度に、おⅡの表情は曇るのだ。
「そう言われても……自信なんか持てないよ。千鶴さんは本当に綺麗だと思うし。玲奈ちゃんも凄く可愛いもん。
「ちょっとお待ちよ、おⅡさん」
「……?」
「
「ええええ?」
「あの人さあ……顔面偏差値高いんだけどさあ。お友達が金銀で買えると、本気で信じてるからさあ。滑り台要員――ていうか、抑も滑り台に上れない気がするのよ。おⅡとは違うね。おⅡからは気品を感じる」
「最近まで小袖二枚で過ごしてたんだけど」
「なんて言うかなー。佇まいよ佇まい。おⅡは髪も綺麗だし、
玲奈が自分の着物を見ながら自嘲する。
「小袖は関係ないよ。私の場合、名前が変だもん」
「まあ……独創的な名前だと思うけど」
珍しく玲奈が言い淀む。
おⅡは、自分の名前に劣等感を抱いている。
無理もない。煌びやかにもほどがある。姉が『
「私も玲奈ちゃんみたいな名前が良かったな」
「こればかりはどうにもならないよ。
落ち込む親友を励ますように、玲奈は明るい口調で続けた。
「でもほら、薙原家は変な名前の人多いから。墨川Ⅱは、そんなに目立たない方だと思うよ。
苦しそうに腹を抱えて、涙ながらに爆笑する。
「玲奈ちゃん……私も不憫なんだよね」
「……ごめん。やっぱこれ、どうにもなんねーわ」
盛大な誤爆に気づき、がくりと項垂れた。
ぶつぶつと「イキリ顔ダメ絶対」と呟いているので、一応反省しているのだろう。空気が読めない処もあるが、裏表がなくて親しみやすい。少なくとも、変に気を遣われるよりマシだ。
「とにかく玲奈ちゃんは、私の理想だもん。玲奈ちゃんに比べたら、私なんて……ただの引き篭もりだし。村中の笑い者だよ」
「んー……爆笑した手前、否定はできないけどさ。笑い者というより人気者でしょ。おⅡの場合」
急に何かを思いついたように、玲奈が再び笑みを浮かべた。
「どういう事?」
「最近、自主的に外出してるみたいだし。その効果が出たのかもねー。村の男共から恋文が送られてきたとか。いいなーいいなー。あたしも恋文ほしいなー」
「なんで知ってるの!?」
「あたしみたいな女中見習いは、偉いさんのパシリみたいなものだから。自然と噂話は耳に入るんだよね。それに本家の御屋敷でも有名だよ。蛇孕村の小宰相様なんて呼ばれてるくらいだから」
驚くおⅡに、にやにやと笑顔で返す。
「小宰相様なんて大袈裟だよ」
おⅡは恥ずかしそうに俯いた。
小宰相とは、平安時代後期の女性だ。
平家物語によると、
夫に先立たれた妻は、仏門に身を寄せるのが世の常。平安時代の人々は、「忠臣は二君に仕えず。貞女は二夫にまみえず」と言い合い、小宰相の散り際を褒め称えたという。
「でも恋文が送られてくるのは、本当なんでしょ?」
「よく知らない人達が、急に手紙を送ってきて……ただの悪戯だよ」
「いやいや、こいつはガチですよ。滅多に顔を出さない分、ちょろっと外出しただけで、村中の男共は一目惚れ。おⅡ様の女子力は半端ねえって、さっきアンタん
「調べてるじゃない! この事は内緒にしておくように、申しつけておいたのに……」
「こういう事は、いつまでも隠しておけないって。残業続きの本家女中衆に明るい話題を届けてくれてありがとう」
「もう!」
けらけらと笑う玲奈に、ぷいと顔を背けた。
「おⅡは拗ねた顔も可愛いにゃー」
「……」
羞恥のあまり、おⅡは返す言葉を失う。
彼女に悪気はないのだろうが、どうしても冷やかしに聞こえる。
おⅡの思い込みもあるが、戦国時代の女性は活発だ。好き勝手に外を出歩き、泥酔するまで酒を飲む。何度離縁しても名誉を損なう事はなく、妻から離縁を申し込んでも構わない。夫婦の財産も別々に管理し、武家に嫁いだ女性は政務を取り仕切る。
何事にも積極的に取り組み、大勢の前で堂々と振る舞える者が、戦国時代の女性の理想像なのだ。況てや薙原家は女系一族。異性を従えるくらいの度量はなければ、一人前と認められない。
やはり玲奈のような女性が、男性からも好かれるのだろう。
「……玲奈ちゃん、そんなにお仕事忙しいの?」
なんとか話題を変えようと、おⅡは小声で尋ねた。
「女中の数が
「……」
「もう辞めたい……でも辞められないの。郁島家の長女だから。ビクンビクン」
玲奈は頭を抱えて、ビクンビクンと小刻みに震えた。
四年前、行儀見習いに出されて以降、玲奈は本家屋敷で暮らしている。
郁島家は三姉妹。長女の玲奈は、郁島家が本家に差し出した人質だ。分家が本家に人質を差し出す事は、何百年も続いてきた慣習。分家の長女に生まれた以上、女中奉公を拒む事はできない。
一方、おⅡは墨川家の次女だ。五歳年上の姉が、墨川家を代表して女中奉公に励んでいる。長女のお咲のお陰で、おⅡは実家に引き篭もり続けていられるのだ。
「ごめんなさい。折角の休日なのに――」
「また謝る……あたしの事は気にしなくていいから。実家も改装の途中で、あたしの居場所がないのよ。ああ、今夜この家に泊めてくれる?」
「いいよ」
「うし! 久しぶりに牡丹鍋が食べられる!」
玲奈が無邪気に喜ぶ。
この瞬間、郁島家の夕餉の献立が決定した。
蛇孕村の猟師に頼めば、猪の肉を調達してくれるので、特に問題はないが……本当に彼女の性格が羨ましい。
「それで結局、相談とはなんぞや? 名前の話? それとも恋文の話?」
親友は単刀直入に訊いてきた。
「うん、えっと……」
この期に及んで、言葉を濁す自分が情けない。
然し一年前に彼女が打ち明けてくれた時から、自分から告げようと決めていたのだ。胸の苦しみを吐き出すように、消え入りそうな声で言う。
「……私も蛇神様の使徒になったの」
「そっち?」
急に玲奈が、頓狂な声を発した。
「そっち――って?」
「あ……いや、こっちの話。気にしないで」
「?」
困惑するおⅡを尻目に、玲奈は「成程成程」と何度も頷いた。
「具体的にいつの話?」
「先月の中頃……」
「もう一ヶ月近く経つわけだ。
「うん……」
おⅡの顔が青ざめていく。
凄惨極まりない餓鬼共の宴。顔見知りの
油壺家の当主が頭蓋を斬り裂き、男性の脳味噌を啜る。田中家の当主が、女性の喉に噛みつく。朽木家の当主が子供の腹を割いて、肝臓を抜き取る。
獄卒の呵責の如き有様。
尊敬する母も妹も
予想以上に硬い歯応え。血肉が喉に絡む感触。人倫を踏み越えたという絶望。忘れたくても忘れられない。
然しおⅡの暗い顔を見ても、玲奈は「そっかそっか」と嬉しそうに頷いていた。
おⅡは唖然となった。
彼女も自分と同じ苦しみを持つ妖怪。親友の苦悩を理解している筈なのに――玲奈が何を喜んでいるのか、全く理解できない。
「ペルドンペルドン。おⅡが辛い思いをしてるのに、喜んでるように見えるよね」
「……」
「でも嬉しいんだ。おⅡが自分から打ち明けてくれたから。あたしたち、親友なんだなーって実感できたよ」
「玲奈ちゃん……」
「長い間、本家の御屋敷で女中奉公してるとさ。簡単に他人を信じられなくなるんだよ。派閥争いやら抜け駆けやらイジメやら……本家の女中衆なんて、全部で二十人もいないんだよ。それなのに『よく同輩の足を引っ張ったり、恥を掻かせたりできるなー。あたしはついていけないなー』とヘコんでたわけ。だからさ……おⅡの大切さを実感できて、凄く嬉しいんだ」
玲奈は涼しげに語るが――
おⅡの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
どれだけ自分は愚かなんだろう。
玲奈の方が、郁島家の嫡子として苦しんでいるのに――
おⅡより一年も早く、人喰いに目覚めたというのに――
私は悲惨な体験をしました……と親友に打ち明けていたのだ。
玲奈の笑顔が涙で霞んで見える。
「泣かない泣かない。おⅡが泣くかもしないから、言葉を選んだつもりなんだけど……寧ろ逆? こういう時は、思い切り泣いた方がいいのかな?」
玲奈は軽口を叩きながら、おⅡを優しく抱きしめた。実の妹を見るような目で、おⅡを温かく見守る。
親友の胸に縋りつき、おⅡは泣き崩れた。暫時の間、散々に泣きはらした後、えぐえぐと嗚咽を漏らす。
「あたしたち、なんで妖怪に生まれてきたんだろ? どうせ妖怪に生まれるなら、心も化物にしてくれたらいいのに」
「……」
「年寄衆とは、世代が違うからね。蛇神様を奉る儀式と言われても、あたしらも世事に疎いわけじゃないし。今更、真に受けたりしないよ」
親友の嗚咽を聞きながら、玲奈が諦観を込めて語る。
十六年前に本家の当主が代替わりしてから、薙原家の有様は激変した。
人から妖怪と蔑まれながらも、必死に生きてきた使徒が、『銭』という世俗の欲望に取り憑かれたのだ。
それまで銭という物は、蛇孕村に
有徳人に借書を転売すれば、本家の屋敷が大きくなる。
唐物屋を始めれば、煌びやかな調度や反物が集まる。
銭の欲に取り憑かれるほどに――世俗と交わるほどに、妖怪の価値観も変わる。おⅡの母親の代は、
外界の常識に触れなければ、現実と理想の落差に苦しむ事もなかった。外界の欲望に取り憑かれなければ、後悔や恐怖を覚える事もなかった。
無論、若い娘達が後悔した処で、薙原家を浸蝕する欲望は抑えきれない。金銭は欲望を叶えるだけではなく、持ち主の心に安寧を与えてくれる。生活に余裕が生まれれば、昔より規律が緩くなるのも当たり前。今更、蓄えた富を捨て去り、近隣の集落を襲う化物に戻れはしない。豊かな生活を捨てるなど、今の薙原家では考えられない事だ。
どれくらい泣いていただろう。
おⅡの背中を撫でて、涙で溢れた顔を布子で拭う。親友の世話を焼く玲奈の眼差しは、妹を気遣う姉のようだ。
「もう大丈夫?」
「……うん」
おⅡは涙声で頷いた。
両の瞼を腫らし、頬を赤く染めている。母親に慰められた子供のようだが、もう涙は出てこない。
「うし。じゃあ、妖怪の先輩からの助言。心して聞くように」
「……」
「辛くても我慢して。それしかない」
「……」
「あたしたちは妖怪なんだよ。人を食べないと生きていけない」
「でも……あんな酷い事できない」
「アレは蛇神崇拝の神事だけど。薙原家の結束を固める為の儀式でもある。
「……」
「おⅡは死にたくないよね?」
内気な少女は、静かに首肯した。
「あたしも死にたくない。幸せになれるかどうか分からないけど……遣りたい事は、たくさんあるからさ。自分の命を粗末にしたくないんだ」
虚空を見つめながら、玲奈が強い口調で断言した。
「勿論、おⅡにも死んでほしくない。次の
「ありがとう、玲奈ちゃん……」
親友の助言を心に刻むように、おⅡは神妙な面持ちで頷いた。
「気にするねい。あたしたちはマブダチだぜ」
その様子を見て安心したのか――玲奈は悪戯を思いついた童のような顔で、おⅡの肩に手を乗せた。
「え~、それでは今日の本題に入りたいと思います」
「……え?」
「どうすれば、奏様と結ばれるでしょう?」
「キャ――――ッ!!」
いきなりおⅡが絶叫して立ち上がった。
おⅡの反応を予想していたようで、玲奈は両耳を塞ぐ。
「突然泣き出したり叫び出したり……あたしより忙しい子ですなー」
「ど……どうして分かったの?」
「妖術云々も大事な話だけどさ。告白と相談は根本的に違うしねー。そして女の子の大事な相談なんて、色恋沙汰しか考えられないのだよ」
「……」
混乱していたおⅡは、茫然自失の態で聞き入る。
「さら~に。村の男共と話した事もないアンタが好意を抱く相手なんて、本家の奏様しか考えられない――ていうか、急に自分から屋敷の外に出たり、奏様について訊いてきたりするんだもん。誰だって気づくわ」
とうっ――とおⅡの頭に手刀を入れる。
「あう……」
突っ込まれた側は、頭頂部に両手を乗せて押し黙る。
全て玲奈の言う通りだが、この話題は先送りにしたかった。使徒の苦悩に区切りをつけた後、改めて相談するつもりだった。
「ほれほれ、あたしに恋バナを聞かせなさい。浮いた話の一つもなかったアンタが、奏様に惚れたキッカケみたいなもんがあるんでしょ? それを包み隠さず話すといいさ」
動揺を隠しきれないおⅡは、両手の人差し指を絡めながら、ぽつりぽつりと呟いた。
「えっと……お正月の事なんだけど」
「ほうほう」
玲奈は好奇心丸出しで促す。
毎年、正月になると、本家屋敷で新年祝賀の宴が催される。
本家当主に祝賀の挨拶をする為、おⅡも母と姉に付き添われて、本家屋敷に赴いたのだが、あっという間に迷子となった。
本家屋敷の敷地面積は、
広大な庭園は、とても静かで
そこに奏がいた。
彼は大きな庭石の近くで、池の鯉に撒き餌をしていた。
「……」
奏の横顔を見つめて、おⅡは状況も忘れて立ち止まった。
本家当主の甥で
詳しい事情は、おⅡも聞かされていない。ただ母から「奏様に近づいてはなりません。話し掛けてもいけません。奏様から話し掛けられた時は、『世話役の女中にお尋ねください』とだけ答えなさい」と言い含められていた。女中の姉からも「御本家様は、分家衆が奏様に近づく事を懸念しています。くれぐれも母上に迷惑を掛けたりしないように」と念を押されている。
その為、おⅡは年中行事で本家屋敷に訪れても、彼には近づかないようにしていた。遠くから奏の顔を見た事はあるが、一度も会話をした事がない。近くで顔を見たのも初めてだった。
だから余計に驚いた。
年長の者達は、奏の顔と母親の顔が瓜二つと言う。然しおⅡは、本家当主の顔を思い浮かべる。当代の本家当主――薙原沙耶と先代の
同じ顔でも性格が違うだけで、こんなに雰囲気が変わるんだ……
新鮮な驚きを覚えながらも、奏の姿に見惚れていると、不意に背後から「――おⅡ!」と呼び掛けられた。
咄嗟に振り返ると、姉のお咲が足早に近づいてくる。
おⅡを捜しに来てくれたのだろう。だが、お咲の表情に安堵の色はない。寧ろ眉間に皺を寄せて、おⅡに怒気の視線を向けている。
お咲は誤解していた。
私や母上の目を盗んで、奏様に近づこうとしていた……と思い込んでいる。
お咲の声で、ようやく奏もおⅡの存在に気づいた。おⅡとお咲の表情を見比べて、現状を認識したようである。
厳しい叱責を恐れて、おⅡが身を竦めた刹那――
「
奏が忽然と悲鳴を上げた。
お咲が目を丸くした。
おⅡも反射的に振り返る。
奏が右手を押さえながら、身体を丸めて呻いていた。
お咲が慌てて、おⅡの脇を通り過ぎ、石橋を渡って奏に駆け寄る。
「如何なされましたか!?」
「右手をぶつけちゃって……」
奏が右手を挙げると、手の甲が紫色に変色していた。打撲か骨折か。怪我の具合は分からないが、
「すぐに世話役の女中を呼びます」
お咲は慌てふためき、再び石橋を渡る。
途中で「貴女も来なさい」と手を掴まれて、おⅡも主殿まで引き戻された。
その後の事は、おⅡにも教えられていない。
ただ「斯様な折は、近くの女中を呼ぶように」と軽く注意された。
偶然、怪我をした奏と出会い、何をしてよいのか分からず動転していた……というふうに解釈してくれたようだ。
勿論、お咲の勘違いである。
あの時、奏は撒き餌をしていた。ぱらぱらと右手で池の鯉に餌を与えていたのだ。右手を負傷したとすれば、おⅡの存在に気づいた後だ。
間違いない。
彼はおⅡを助ける為に、わざと右手を負傷したのだ。
一瞬で二人の認識の違いを把握し、躊躇いもなく自分の右手を庭石に叩きつけた。お咲の位置からでは、庭石が邪魔で奏の行動が見えない。それも見越していたのだろう。
一連の手慣れた所作に、おⅡは想像を膨らませる。
これまでにも、奏は似たような事を繰り返してきたのではないか。失態を犯した女中見習いやおⅡの如く慣例に疎い者を庇い、己の身体や名誉を傷つけてきたのではないか。
おⅡには、彼の行動が理解できない。
何の見返りもない筈なのに、分家の娘を庇う。
おⅡは何度も彼の事を思い出した。やがて屋敷に籠もるのも辛くなり、村の中を散策してみた。
然しおⅡの行動は、全くの逆効果だった。都合良く奏に会える筈もなく、代わりに村の男達から恋文が何十枚も届いた。
見ず知らずの男達から恋文を送られても、喜びの感情など湧きようもない。寧ろ「奏様から手紙が送られてこないかな……」と馬鹿な事を考えてしまう。
流石におⅡでも、自分の気持ちに気がついた。
本家の若君に懸想しているのだと……
「それで奏様の事を意識し始めて、いつも奏様の事を考えるようになり、奏様の顔を思い浮かべると、胸がドキドキするようになったと」
「はい……そうです」
洗いざらい喋らされたおⅡは、憔悴した様子で俯いた。
一方、玲奈の興奮は最高潮に達し、薄い胸の前で両手を握る。
「完っ璧! 紛れもない初恋よ! ついにおⅡにも春が来たのね! あたしは親友として凄く嬉しい! 女中さ――ん! 今夜は牡丹鍋に赤飯も追加してくださ――い!」
「お願いだから声を抑えて。噂が流れるだけで、墨川家がお取り潰しになる……」
おⅡは周囲を見渡し、恐る恐る玲奈を宥めた。
「大丈夫。アンタが絶叫した時点で、屋敷の女中さんは台所に待機してるよ。触らぬ神に祟りなしってね。どうしても気になるなら、後で口止めしておけば? それこそ墨川家の命運に関わる事だから、他言しないと思うけど」
「あわわわ……」
「――うし! 大事な親友の頼みだ。無碍に断るわけにもいかないよね。あたしがアンタと奏様の仲を取り持ってあげよう」
玲奈は薄い胸を叩き、自信満々に宣言した。
「待って玲奈ちゃん。私を置き去りにしないで。そんなお願いしてないし……」
「何を悠長な事を言ってるのかね、この子は……奏様の事が好きなんでしょう! それなら行動しないと! 片想いに浸った処で、相手は振り向いてくれないぞ!」
「奏様は
「それがどうした!
「その例え話、何かおかしい……」
ただの浮気である。
しかも甲斐国と甲斐性を掛けられて、甲斐の人々に誤爆していた。
「とにかく! 奏様の側室になれなくても、子供さえできてしまえば、こっちのモノよ! 案ずるより産むが易し! 既成事実に勝る事実はないわ!」
「側室とか子供なんて……そんなの考えられないよ。それに母上や姉上に、どれだけ迷惑を掛ける事になるか……」
「この馬鹿弟子がああああああああッ!!」
「ひっ――」
不意打ちの怒声に、おⅡは声を裏返して驚く。
「今は後白河法皇の時代じゃないのよ! 小宰相様みたいに、都合良く意中の相手から恋文が送られる事なんてないの!」
師弟の契りを結んだ覚えはないが、玲奈が早口で
「
「そ……そうなのかな?」
玲奈の勢いに気圧されて、頭が混乱してきた。
冷静に考えると、鍋島清房が慶誾尼に嵌められただけである。
「それにおⅡは運が良い」
「……え?」
急に声を潜めて、おⅡの耳元に顔を寄せる。
「御本家様が、奏様を蛇孕村の外に出そうとしてる」
「ええええッ!?」
おⅡは思わず頓狂な声を発した。
静かに――と諫めてから、玲奈は小声で続ける。
「ホントに極秘事項なんだから。これは絶対、誰にも話したらダメよ」
おⅡが神妙な面持ちで頷くと、玲奈も真面目な顔で語る。
「どうも最近、奏様の処遇を巡って、御本家様と年寄衆が揉めてるみたい。奏様は
「どうして奏様は、江戸と小田原に行けないの? 京都も奈良も大坂も論外なんて……」
「それは……超極秘事項よ。おⅡにも言えないわ」
こほんと咳払いをした後、玲奈は話を戻す。
「そういうわけで、中老衆を集めた会合が行われまして。どこかの娘を奏様の側室にするように、御本家様に進言するんだってさ」
「……そんな話、母上から一度も聞いてない」
「まだ本決まりじゃないし。誰を奏様の側室に推薦するかで、色々と揉めてるみたいだから――んで、案ずるより産むが易しに戻るわけよ。アンタが他の娘より早く既成事実を作れば、薙原家の混乱も収束。墨川家も安泰って寸法さ」
玲奈は満面に笑みを浮かべる。
だが、それでもおⅡの心は定まらない。
「そんなの無理だよ。最近、ようやく外に出られるようになったんだよ。それが急に奏様の側室とか……考えられない。多分初恋とか、そういうんじゃないよ。ただ奏様に憧れてるだけで。遠くから見てるだけで幸せだから……」
俯き加減でぼそぼそと答えると、
「奏様が他の女と寝てもいいの?」
「――え?」
おⅡの顔が強張った。
一気に血の気が引いて、
「ほらね、今凄い『女』の顔してたよ。独占欲出まくり」
動揺するおⅡの顔を見ながら、玲奈は穏やかに言う。
咄嗟に両手で顔を隠すが、自分の表情は分からない。然し彼女の言う通り、酷く醜い顔をしていたのだろう。本当に自分が嫌になる。
「他の女が、奏様の側室になるってそういう事なの。他の女が奏様と子作りするの。その女が懐妊したら、祝福して
玲奈の声は優しい。
だが、眼差しが普段と違う。
「奏様はマジで倍率高いよ。状況が状況だから、他にも抜け駆けしようとする娘は出てくる。だから村の外に出そうとしてるんだけど……アンタはそれでいいの? 遠くから見ている事もできなくなる。本当にそれでいいの?」
「……イヤ」
玲奈は顔を隠したまま、小さな声で答えた。
「じゃあ行動するしかないでしょ。手始めに恋文作戦からいきますか」
「恋文作戦……?」
作戦名を聞いただけで悪い予感がする。
「そ。小宰相様で思いついたんだけど、アンタが奏様に恋文を書くの。で――あたしが夜更けに奏様の庵に忍び込んで、枕元に恋文を置いてくる! 完璧!」
「……本気?」
「本気も本気。ほれほれ、
困惑するおⅡを尻目に、強引に話を進めようとする。
「玲奈ちゃん、恋文書いた事あるの?」
「ない! 一度もないけど『墨川Ⅱ。十四歳。生娘。タダ』って書いとけば、喜んで来てくれるんじゃね?」
「いやああああああああッ!! 奏様、絶対に来ないイイイイッ!! 私が変態だと思われるだけええええッ!!」
それで本当に来たら、百年の恋も冷めるだろう。
「ええと、確か筆も紙も
「勝手に開けちゃダメ――――ッ!!」
「うっわ。何コレッ!? 恋する乙女の妄想日記!? 『三月三日晴れ。今日も奏様の夢を見ました。舞い散る桜の下で、優しく私の手を取り、そっと耳元に顔を近づけ――』」
「朗読しちゃダメ――――ッ!!」
再びおⅡの絶叫が、墨川家の屋敷に響いた。
慶長四年閏三月上旬……西暦一五九八年四月下旬
練緯……生糸と
練糸……精練した糸
グラシィアス……ポルトガル語で「あざーす」
成通……
唐衣……大陸製の生糸で仕立てられた着物
上西門院……鳥羽上皇の第二皇女
女房……侍女
ペルドンペルドン……ポルトガル語で「めんごめんご(死語)」
躑躅ヶ崎館……甲斐守護識――武田氏の居館
織田三位中将……
松姫……武田信玄の六女
慶誾尼……
袋棚……床の間の脇に設けられ、引き違いの襖をつけた戸棚
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます