第28話 経済事情

 眩い太陽が、中天まで上り詰めた。

 無慈悲に降り注ぐ日光は、百姓に不安を与える。

 飢饉の恐れがあるからだ。

 昔より天候も落ち着いてきたが、今でもシュペーラー極小期の影響が続いている。冬は異常に寒く、夏は異常に暑い。ある程度、地面の温度が高くないと、水田に植えた苗も育たない。地面が温まるまで待たなければならないが、春と秋の期間が短い為、大抵は梅雨時に田植えを行う。梅雨が終わると、猛暑と颱風たいふうが襲い掛かる。大雨と強風が続き、河川の氾濫で田畑が破壊される。壊滅を免れた水田も旱魃かんばつで収穫が見込めなくなる。

 つまり凶作――

 全国各地で慢性的な飢饉が続く。飢えた百姓が食料を求めて、余所の土地に攻め込む。戦地で乱取らんどりを働き、女子供を遠国おんごくに売り飛ばす。非道な行いだが、悪事に手を染めなければ、百姓は生きていけない。

 それが戦国時代である。

 近年は気候も穏やかになり、耕作技術も発達した為、作物の収穫量も増加した。豊臣秀吉が人身売買禁止令を定めたので、公然と奴婢を売買する事もできない。それでも諸人は飢饉に怯え、人身売買も半ば黙認という状況。人商人は城下町の広場を避けて、郊外や街道で市を開く。今の時点では、その程度の違いでしかなかった。

 冷害や水害の被害を受け、村落を捨てる者も多い。関ヶ原合戦で禄を失い、野伏に身を堕とす牢人も数多。

 関ヶ原合戦から一年が過ぎても、天下静謐の目処は立たない。

 どこで自分が野垂れ死ぬか分からない。それゆえ、中二病は己の掟を尊ぶ。いつ死んでも悔いを残さないように、独自の美意識を貫いて死ぬのだ。

 田圃の畦道を歩きながら、朧は遠くを眺めていた。

 広大な水田や豊富な農業用水に驚かされるが、それより作男や下人が見当たらない。肥料をやるなり、雑草を抜くなり、この時期なら仕事はいくらでもあるだろう。

 青田褒められ馬鹿褒められ、という諺もある。

 稲が順調に育とうと、必ず穂が実るとは限らない。神童と称えられた童が、凡夫に成り得る。未来の予測は、誰にもできないという意味だ。

 農村なら気を張らなければならない時期である。

 然し年貢を徴収されないなら、百姓の負担は軽減される。加えて不作に陥ろうと、薙原家が食料を配給してくれる。これでは、趣味の家庭菜園と変わらない。農作業に従事する下人も多い為、他の村より勤労意欲に乏しいのだろうか。

 寧ろ天邪鬼の中二病からすれば、蛇孕村の村民が働く事自体、不思議で仕方がない。


 何故、食うに困らぬ者が働いておるのじゃ?


 事情を知らない者が見れば、桃源郷や蓬莱山の如く見えるだろう。蛇孕村の住民が、人喰いの非常食と知る朧は、胸糞悪い光景としか思わないが――

 前方で童が集まり、賑やかに遊んでいた。


「だるまさんが転んだ!」


 一人の童が振り返ると、大勢の童が動きを止めた。

 全然関係ないが、朧もぴたりと停止する。再び童が顔を背けると、朧は無邪気に喜ぶ童の脇を通り過ぎた。

 童の遊びだけは、どこの地域でも変わらない。外界と変わらぬ共通点を見出し、朧の心は少し弾んだ。

 今日も酒が美味い。

 瓢の清酒を煽りながら、昼寝に適当な場所を探していると、畦から獺が顔を出した。


「獺殿か」


 妖艶な美貌に喜色を浮かべて、獺を見下ろす。


「随分と暇そうだな」

「実際、遣る事がなくてのう。神社で儀式を行うとかで、御曹司は暫く屋敷に戻らぬ。御曹司がおらぬのでは、屋敷に入り込んだ意味がない。加えて屋敷の廊下で雌狗プッタと擦れ違おうものなら、首の骨をへし折りたくなる」

雌狗プッタ? おゆらの事か? 別に止めないぞ」


 獺は気楽に答えるが、朧は眉根を寄せた。


雌狗プッタは用心深いからのう。儂と会う時は、必ず共を連れておる。彼奴きゃつを討ち損ねれば、後顧の憂いとなろう」

「慎重な物言いだな。お前らしくもない」

「再び御曹司の記憶を改竄されては適わぬ。無謀と中二は似て非なるもの。己の命を懸けて、博打を打つから面白いのじゃ。他人を巻き込んでもつまらぬ。況てや御曹司を危険に晒すなど論外よ」

「やはり数寄者オタクと中二病は別物だな。私は他人を巻き込む事に躊躇しない。己の知識を披露しなければ、息が詰まりそうになる」

「それも人それぞれ。獺殿の性分であろう」


 朧は酒で喉を潤しながら、カカカカッと嗤う。

 獺は、朧の後ろに付き従う。


「で――如何なる用向きで参った?」


 朧は僅かに眼を細めた。


「そう警戒するな。状況を確認しに来ただけだ」

「獺殿もマメよのう」

「何事もなく本家に召し抱えられたようだな。これで暫く蛇孕村に滞在できる」

「別段、仕官に拘らずとも、食客で構わぬのじゃが……まあ、是も獺殿の思惑通りなのであろう」


 気安く語り合いながらも、朧は警戒心を解いていない。

 元々朧は、符条を全く信用していない。

 奏を蛇孕村から連れ出すという目的は一致しているが、お互いに利用し合うような関係だ。方針が食い違えば、対立する事も有り得よう。


「然れど如何せん太刀がない。大小を腰に帯びておらぬと、どうにも落ち着かん。数打物でよいから、その辺りに落ちておらぬか」

鐚銭びたせんでもあるまいし……道端で見掛ける物ではないだろう。武具が必要なら、おゆらに相談しろ。寄親寄子の制で集められた雑兵の如く、数打物を貸してくれるだろう。孫子曰く――故に優れた将は、務めて敵をむ」


 戦国期の寄親寄子の制は、戦国大名が家臣団を統率する為の制度だ。家中の有力な武将が寄親、国衆や地侍が寄子に該当する。合戦ともなれば、寄親は寄子を従え、寄子は雑兵や足軽を指揮する。


「獺殿は、儂の禄高を存じておるか?」

「いや……おゆらはしわいからな。百石くらいか」


 薙原家は、蛇孕村の住民から年貢を取らない。加えて知行権ちぎょうけんという概念を持たない為、家来に土地を分け与えるという習慣もない。結局、外界で唐物屋や土倉を営み、分家衆や女中衆に金銭を授けていた。


「四十石じゃ」

「それは……徒士かちだろう」

「一応侍に取り立てられたが、馬には乗れそうもないのう。薙原本家では一番下。女中衆より禄が低い。御曹司は二百石で推挙してくれたが、後から雌狗プッタに言い含められたようでの。先ずは四十石から武功を立て、家中に認められろという事らしい。初めから分家衆も気に入らぬ様子。本来ならば、人品骨柄を見定めてから召し抱えたいのであろうが、蛇女の下知ゆえ背くわけにもいかぬ。落とし処は、こんな処であろうよ」


 他人事のように騙るが、武士の立身栄達の道は限られている。

 武士らしく戦場で武功を立てるか、縁組で上役と結びつきを強めるか。薙原家に仕える限り、どちらの道も困難である。

 当分の間、朧を屋敷に置いて監視し、手に余るようであれば処分する。おゆらの腹積もりが透けて見えるようだ。薙原家で気づいていないのは、奏と常盤だけだろう。


「動乱の京都で武名を高め、関ヶ原合戦では明石あかし勢の殿軍しんがり。他の大名家なら十倍の俸禄を用意するだろう」

「儂は御曹司を守る太刀。強者と斬り合えれば、それで十分じゃ」


 言葉の途中で、ふあ……と欠伸をする。


「加えてあの雌狗プッタ……色々と施してくれたぞ」

「ほう」

「長屋の一室を好きに使えと勧められた」

「……」

「何年も使われておらぬようでの。引き戸は動かない。床はぼろぼろ。天井はスカスカ。部屋の中は、御器被ごきかぶりの巣窟と化しておった。引き戸と床板と天井を修繕し、部屋から御器被を追い払い、なんとか住めるようにしておいたが……お陰で御曹司と話能ういとますら与えられなんだ」

外面如菩薩内心如夜叉がいめんにょぼさつないめんにょやしゃ。おゆらも変わらないな」

「仕官の祝儀も貰うたぞ」

「……あまり聞きたくないが、一応聞いておこう」

鎧一領槍一筋よろいいちりょうやりひとすじ

「……」

「儂は具足を好まぬ。槍も邪魔臭くて適わぬ。売り払いたくても買い手がおらぬ。手狭な部屋が余計に狭くなったわ」

「嫌がらせが露骨過ぎる」

「儂の精神を疲弊させたいのであろう。廻国の武芸者からすれば、屋根があるだけマシじゃ。衣食住が保障してくれる分、他の大名家より待遇は良い」


 太閤検地が実地されて以来、知行地から集められた玄米は、大阪城下の米市場で紙幣、金、銀、銅銭と兌換だかんされた後、武士の禄として支給される。

 これを石高制という。

 石高制に当て嵌めると、朧は四十石取りの下級武士。敢えて銅銭と交換するなら、一三八貫と四八〇文取り。緡銭さしぜにで一四二貫と七六二文取り。大名家に仕えていれば、足軽小頭という処か。辛うじて足軽ではない。

 中世の日本には、省陌せいはくという習慣があった。百文未満の銅銭を十分の一貫と見做す習慣だ。中世の日本では、銅銭九十七枚を百文と見做した。何故、九十七文なのかは分からない。省陌は銅銭のあなに紐を通して繋いでいる場合、緡銭と呼ばれて適用された。バラバラであれば、百枚で百文となる。


「寧ろ『米』と『兌換紙幣だかんしへい』を兌換能わぬ事に驚いた。折角、三好筑前が『三好経世論』を咀嚼能わぬ者共の為に、『不換紙幣ふかんしへい』ではなく『兌換紙幣』をばらまいたというのに……関東の銭の遣り取りは、儂にもよう分からぬ」

「……」

「薙原家の申す銭とは、精銭せいせんと兌換能うのであろうな? 鐚銭を大量に渡されても、儂の部屋に置き場がないぞ」

「それについては、何とも言えないな。銭の遣り取りは、関東でも地域で異なる。昔より銭の整理は進んでいるが……もう暫く時間が掛かるだろう」

「不便不便。是もひなの醍醐味か」


 朧は皮肉を込めて嗤った。

 シュペーラー極小期で、全国的に飢饉が続き、年貢として納める米が不足すると、戦国大名は年貢米を銅銭や兵役で代替させた。銭が出せない百姓は、雑兵として戦場に駆り出される。合戦の間は、寄子が米を支給してくれる為、飢えた百姓も食うに困らない。乱取で食料の略奪もできる。積極的に銭を差し出す有徳人は、兵役の免除という特権を勝ち取り、巨額の戦費を武将に貸し付けた。

 これを貫高制という。

 室町期の守護大名は、深刻な貨幣不足を補う為、大陸から輸入された精選の他に、国内で製造された私鋳銭も徴税の対象物に組み込み、守護大名の支出としてばらまいた。それでも総需要不足乖離デフレギャップを埋められず、総需要不足デフレ生産費用増大型供給能力不足コスト・プッシュ・インフレが続いた。その結果、地方の権力者達は、私利私欲を満たす為、己の都合で銅銭の選別を始めた。

 具体例を挙げると、洪武通宝こうぶつうほうは九州の商取引で好かれたが、本州の商取引で嫌われた。永楽通宝えいらくつうほうは十六世紀前半に畿内で嫌われたが、十六世紀後半に関東で好かれた。

 地方の権力者の都合で通貨の価値が変わる為、民間の商取引が混乱する。

 鐚銭十枚で食料が買える時もあれば、鐚銭百枚で買えない時もある。こつこつと貯めてきた銅銭が、唐突に無価値と決めつけられ、一晩で破産する商人も現れた。

 これでは円滑な商取引など望めない。

 室町幕府も地方の権力者による鐚銭の排除――撰銭えりぜにの禁止を定めた。

 然れど諸大名が素直に従う筈もなく、室町幕府の弱体化を契機に、独自の財政政策を行った。

 その最たる例が、織田信長である。

 大軍を率いて上洛した後、三好長慶が残した非営利団体――『日本政府』を奪い取り、『日本政府』の負債という形で兌換紙幣を発行。長慶同様、御所再建の費用や人夫の手当として支出し、兌換紙幣を徴税の対象物と定め、通貨として領内に流通させた。

 続いて鐚銭四枚を精銭一枚と兌換するように取り決め、巷に溢れる銅銭の等級分けを行い、機内の通貨整理を行う。天下諸色てんかしょしきで金銀も通貨に組み込み、領内の商取引の活性化させた。商取引の安定は、応仁の乱より廃れていた信用取引を呼び起こす。割符さいふの復活や借書の売買が盛んとなり、商取引の決済に借書を使う者が現れ始めた。商人の変化に気づいた土倉は、銭を借りに来た者に借書を渡す。借り手も借書で決済できれば、金銭を借りる必要がない。織田家の武将が土倉から戦費を借りれば借りるほど、現世に貨幣が生み出される。

 これが貨幣の信用創造である。

 新たに領土を獲得すれば、すぐに検地を実施する。田畑の面積や作物の収穫量、土地の持ち主を明確にする事で、公家や寺社や土豪の中間搾取を阻止し、確実な徴税に努めた。ある程度、気候が穏やかになると、貫高制を廃止。米の収穫量で年貢や兵役を定めた石高制に移行する。

 石高制に移行した理由は、年貢米を兵糧に使う為だ。天下布武を掲げて、侵略戦争を繰り返す信長は、兵糧の確保が必須。加えて百姓が市場で余剰米を販売する機会を奪った。諸人から『米』という通貨の発行権を取り上げたのだ。

 通貨とは、権力者の為の道具だ。権力者が己の都合でばらまき、己の都合で回収する。権力者の徴税権力から免れる為、民衆は通貨を貯め込み、同時に通貨を流通させる。

 長慶が執筆した『三好経世論』を熟読した信長は、租税貨幣論に基づいて領地を経営した。徴税の対象物は、兌換紙幣、金、銀、米、銅銭となる。

 豊臣秀吉は、本能寺の変で横死した信長の財政政策を継承し、改めて領国の検地を徹底させた。所謂いわゆる太閤検地である。耕作地の面積や作物の収穫量を正確に把握したうえで、信長の遺志――唐入りの大軍を募るべく、生産力に基づいた軍役を課し、諸大名に兵の動員を求めた。九州征伐や小田原征伐で二十万の大軍を動かせたのも、太閤検地の実績があればこそだ。

 加えて貨幣に限らず、はかりの基準やますの体積など度量衡どりょうこうも統一。畿内や西国の商取引の決済は、兌換紙幣、金、銀、米が主流となり、銅銭を使う機会は少なくなった。

 然れど東国と西国では、経済事情が異なる。

 秀吉が諸大名に一国御前帳いっこくぶぜんちょうの提出を求めたのが、天正十九年の事。僅か十年という短い期間で、関東や奥州の商取引まで統率する事はできない。一応種類の違う銅銭を複数の等級に区分し、貨幣観の共有に辿り着いた。然し今でも関東では、価値の異なる銅銭が使われている。徳川家も今年から慶長小判を鋳造し始めたが、全国に普及するまで何十年掛かるか。

 それも豊臣政権から徴税権力を完全に奪い取らなければ、慶長小判は通貨として認められない。関ヶ原合戦は、豊臣政権の内部抗争である。太閤薨去後、武断派と文治派の政治闘争が表面化し、家康が武断派に加担した結果、豊臣政権で最大の派閥を形成。前田利家の死後、露骨に政敵を排除し始めた。関ヶ原合戦で勝利を収めたが、豊臣家と徳川家の主従関係は切れていない。道行く者に天下人は誰かと尋ねれば、大坂城の秀頼と答えるだろう。

 兎にも角にも、京から来た武芸者は、複雑な銅銭の取引を好まない。

 商取引の決済は、兌換紙幣か銀銭という上方の風潮に染められており、ちまちまと銅銭を数えて支払うなど、朧の性に合わない。店で物を買う時は、銀銭でぱんぱんに膨らんだ革袋を机に叩きつけ、「釣りはいらぬ」と言い放ち、颯爽と立ち去りたいのだ。

 本音を言えば、銅銭を銀銭と交換して貰いたいが……おゆらに揉み手で催促するくらいなら、鐚銭十三万八四八〇枚でも構わない。

 この村で銭を使う機会もないだろう。


「『兌換紙幣』と『米』を兌換できないが、村人に『米』を売却する事はできるぞ。『兌換紙幣』の代わりに『神符じんぷ』を渡されるが」

「『神符』?」

无巫女アンラみこの神通力が込められた護符だ。『神符』の持ち主は、蛇神の御加護を授かるという」

「騙りか」

「蛇孕神社の元神官が断言しよう。騙りだ」


 朧が呆れた様子で言うと、獺も諧謔かいぎゃくで応じた。


「蛇孕神社の巫女衆が、紙切れに字を書いただけだからな。蛇神の神通力など宿る筈もない。然し村内に限定すれば、霊験灼れいけんあらたかと言える。村人は『神符』で物を買い取り、『神符』で出挙すいこの利子を払う」

「『神符』とは、蛇孕村に流通する『不換紙幣』か」

「流石は伽耶の従者。きちんと『三好経世論』も読んでいたか」

「……悪魔崇拝者に騙されぬようにと、伽耶様より授けられし物。一言一句違わずに諳んじ能う」


 珍しく朧は、語気を強めて言い放つ。


「『神符』と銅銭があれば、大抵の物は村内で手に入る。太刀が欲しければ、蛇孕村の刀工が数枚の『神符』と交換してくれる。次の市まで待てば、具足と槍を売り払う事もできる。田舎暮らしも、少しは便利になるだろう」


 蛇孕村では、月に六度、広場で市を立てる。太刀でも酒でも、朧が必要だと思う物は、次の市を待てば手に入る。


「偖も偖も……銅銭と『神符』を兌換するか?」

「……」


 朧は唇に手を当てて黙考した後、


「止めておこう」


 明確に拒絶の意志を示した。


「儂の目的は、御曹司を蛇孕村から連れ出す事。この村に根を張るつもりはない。禄は鐚銭で構わぬ。部屋も手狭で結構。銭の支配に屈するならば、不便な暮らしを選ぶ」

「中二病らしい答えだ」


 獺は納得したように言う。

 伽耶の教育の成果を試したのだろうが、朧は全く違う事を考えていた。


 何故、食うに困らない村民が働いているのか?


 薙原家に耕作地の借地料や出挙の利子を『神符』で支払う必要があるからだ。権力者の支出と徴税と変わらない。年貢がないというのも、ヒトデ婆の詭弁に過ぎなかった。

 朧はぐいと酒をあおり、暫時の思考を飲み込む。


「銭の話はもうよい。それより斯様な場所で、儂と話し込んでよいのか? 人気がないとはいえ、誰ぞに見つかれば面倒であろう」


 朧は億劫そうに話題を逸らす。


「問題ない。誰も近づけないように妖術を発動させている。それに明日は狒々祭り。村の大人達は、狒々祭りの準備に大忙しだ」

「村祭りか?」

「狒々神を討伐した雅東がとう流初代宗家――マリアと奏の祖父の武功を後世に伝え残す為の伝統行事だ。毎年六月の中旬になると、蛇孕神社で无巫女アンラみこが神楽を舞い、他の巫女は犠牲者の鎮魂の為、広場で大掛かりな焚き火を行う。村人は便乗して騒いでいるだけだ」

「それは面白そうじゃのう」


 朧の表情が喜色で歪む。

 丁度暇を持て余していた処だ。

 祭りで憂さを晴らすのも悪くない。


「然れど蛇の神様に狒々の神様か……儂も諸国を巡り、様々な物を見てきたが、神様を見た事はないのう」

「お前は獺と会話しているぞ」

「是はしたり」

禍津神マガツガミは実在する。狒々神の恐ろしさについては、年寄衆から何度も聞かされた。当時の『薙原衆』の半分近くが喰い殺されたとか。雅東がとう流初代宗家の助けがなければ、薙原家は滅んでいただろう」


 朧は眼を見開き、唇の両腕を吊り上げた。


「儂も狒々神と立ち合うてみとうなった。どうにかならぬか?」

「どうにもならん」

「即答か」

禍津神マガツガミの現出は、天災の如きものだ。いつ現れるかなど、私にも分からん」


 朧は冷静に答えながら、朧の美貌を見上げた。


「私もお前の存念を聞いておきたい。これからどうするつもりだ?」

「無論、御曹司を蛇孕村より連れ出す」

「それは先程も聞いた。何か策でもあるのか?」

「儂は武芸者じゃ。軍師ではない。易々と策など思い浮かばぬ。然れど方針は定まった」


 朧は厚めの唇に舌を這わせ、獰猛な笑みを浮かべた。


「御曹司は、村の外に出たいと考えておらぬ。それは『情け』という鎖で縛られておるからじゃ。ならば、御曹司を鎖で縛る者共を撫で斬りにすればよい。手始めに雌狗プッタ以外の者から斬り捨てていく。仔細は存ぜぬが、あの雌狗プッタ――あまり御曹司の記憶を書き換えたくないようじゃ。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使うのは、夜伽を隠す為と、御曹司を村の外に出さぬ為であろう。儂を生かしておくのが、何よりの証じゃ。その間に女中衆や分家衆を一人ずつ斬り斃し、薙原家を窮地に追い込む」

大事おおごとになるぞ」

「それが狙いよ。儂を始末する為に、雌狗プッタも強引な手立てを用いよう。すれば、純朴な御曹司も現状を訝しむ。其処に勝機が生まれるのじゃ」

「場当たり的な弥縫策……実に中二病らしい発想だ。然し奏は荒事を望まない。お前の思い通りに進んでも、主君の不興を買うだけだろう」

「儂は御曹司を守る太刀。寵愛を求める側女に非ず。唯只管ただひたすらに、御曹司に仇成す者を斬り伏せるだけじゃ。荘子も申しておるぞ。君子の交わりは淡き事水の如く、小人の交わりは甘き事あまざけの如し」

「お前が君子とは知らなかった。それに無謀極まる。孫子曰く――十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍すれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちこれと戦い、少なければ即ちこれを逃れ、苦しからざれば即ちこれを避く。人の兵に屈するも、戦うにあらざりき。敵の城を抜くも、攻めるにあらざりき。人の国をこわるも、久しきにあらざるなり。必ず全きを以て天下に争う――これぞ兵法の極意。お前の話は合理的とは言えん」


 朧の強弁に呆れて、獺が兵法の理を以て諭す。

 自陣の兵が相手の十倍なら取り囲み、五倍なら常道で戦い、倍なら兵を分割して攻め、互角なら覚悟を決めて戦い、劣勢ならば退却し、勝機がなければ戦うべきではない。

 戦わずして勝利を収め、攻撃せずに城をとし、長期戦に持ち込む事なく、兵を失わずに天下を狙え。

 孫子らしい合理的な発想だが、それができれば苦労しない。然し例え話として、今は攻め時ではないと、獺は説いているのだ。


「先程も申したであろう。中二病と無謀は似て非なるもの。合理性を求めるなら、初めから太刀など使わぬ。鉄砲を使う」

「ならば、蛇孕神社に一人で攻め込むか? マリアに瞬殺されるぞ」

「儂は蛇女に敗れたりせぬ。関ヶ原の話をしておるのであろうが、アレは勝負無しじゃ」

「勝負無し? なんだ、それは?」

「覇天流の秘太刀を返されたのは事実。それは認めよう。然れど儂は間髪を入れず、二之太刀を放つ心積もりであった。それを明石勢の残党が邪魔しおって……殿軍の役目は終えたからと、無理矢理引き戻されたのじゃ」

「明石勢も存外、仲間思いではないか」

彼奴きゃつらの存念など知らぬ。興味もない。とにかく儂と蛇女の決着はついておらん。片方が死ぬまで勝負無しじゃ」


 中二病の女武芸者は、獺の冷静な指摘を無視した。


「……具体的に、いつ決着をつけるつもりだ?」

「一番美味そうな獲物は、最後まで残しておくタチでのう。本家の女中衆や人喰いの分家衆……加えて『薙原衆』か。ことごとく血祭りに上げた後で、最後に蛇女と立ち合う。是が理想かのう」


 朧は鷹揚に嗤う。

 決して虚勢ではない。

 本気で薙原家と一人で戦い抜くつもりだ。この揺るぎない自信が、朧の強さの源泉なのだろう。


「早く『薙原衆』と斬り合うてみたいものよ。諸国より呼び戻しておるというが、いつまで待てばよいのじゃ」


 外界では、『薙原衆』と薙原家が同列に扱われているが、実情は風評と異なる。十二分家の中で、潜在能力の高い娘を集め、仕物専門の透波に育成した特殊部隊――それが『薙原衆』の正体である。


「基本的に『薙原衆』は集団で動かず、個人で役割を果たす。今は蛇孕村の外に出ているからな。全員揃うまで、半年くらい掛かるぞ」

然程さほどに待たねばならぬのか。御曹司が危険に晒されておるというのに、えらくのんびりしておるのう」

「現存兵力で十分、奏を守り切れる……というのが、おゆらの見立てだ。それに『薙原衆』の仕事が片付いていない」

「薙原家は仕物から手を引いたのであろう」

「二年前に先代当主を討ち果たしてから、仕物の依頼を引き受けていない。流石に関ヶ原合戦は例外だが……事実上、薙原家は透波を廃業したのだ。然し先代当主は、何十件も仕事を引き受けていたようでな。すでに手付けを渡されている」

「依頼人に手付けを返せばよかろう」

「手付けの返還は、倍返しが基本だ」

「カカカカッ、雌狗プッタなら難癖をつけても返さぬな」

「薙原家の財政に絡んだ理由もある。先代の本家当主は、借書の投機に長けていた。お陰で大名並に成長したわけだが……利益の拡大に逸るあまり、資産の蓄積が疎かになった。具体的に言えば、『米』という外貨が圧倒的に足りない。然りとて本家の家蔵から金銀を吐き出すほど、米俵が不足しているわけでもない。それで引き受けた依頼を片付け、金銀の代わりに米俵を貰う。三好長慶が兌換紙幣を発行してから、銅銭の価値は下がる一方。対して米相場は、莫大な利潤を生んでいる」

「商いの対象が、借書の売買から米の転売に転じたと?」

「米の価値は豊作不作、或いは地域差で異なる。奥州の米を畿内で売れば、十倍の利益を生み出す。欲深い年寄衆が、年若い女中頭にへりくだるわけだ」

「日ノ本の米相場は、上方の頭取衆に独占されておる。用心深い雌狗プッタが、上方の頭取衆と競い合うとも思えぬが……畢竟、年寄衆を動かす為の方便か」


 獺は、おそらく……と頷いた。


「然し薙原家が隆盛を極めているのも、先代当主が土倉と唐物屋で『金銀』という外貨を集めていたからだ。先代当主は文武に秀でていたわけではないが、銭儲けの才能に恵まれていた。商家に生まれていれば、謀叛など起こされずに済んだろう」


 獺が諦観を込めて言った。


「それもよう分からん。敢えて有能な当主を害する必要もあるまい。長生きしてくれた方が、薙原家も栄えるであろう」

「年寄衆が謀叛を起こした理由は、本家の専横に対する不満だ。然し後先考えずに謀叛を起こしたわけではない。先代当主に頼らなくても、利益の拡大を見込めると確信したからこそ、年寄衆は下克上を決意した」

「先代当主に匹敵する商人が現れたか」

「その通り。篠塚家の先代当主だ。分家の中でも随一の出世頭。篠塚家は薙原家の雑物庫を任されていたが、先代の本家当主――沙耶に才能を認められてな。外界で土倉や唐物屋の大店を任されるようになった。やがて身銭で借書や舶来品の取引を始め、分家衆の中でも最大の権益を獲得したのさ」

「分家衆が勝手に商いなど初めてよいのか? それこそ本家当主に睨まれそうなものじゃが……」

「先代当主は、自分に従う中老衆を重宝した。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが良い例だ。自分を裏切らない限り、多少の越権行為も目を瞑った」

「その成り上がりも中老衆であろう。何故、逆賊に寝返る? いや……皆まで申すな。蛇女か」

「御名答。マリアに勝てるわけがない――というより、マリアが年寄衆についた時点で、先代当主の敗北は決定していた。謀叛の兆しを察した篠塚家は、本家に人質として差し出した一人娘を連れ出し、本家にも年寄衆にも属さず、薙原家の内訌を静観し続けた。謀叛が成功すると、一人娘に家督を譲り、マリアに忠誠を誓う起請文を送り、本家に商いの利益を納めると約束しつつ、当人は蛇孕村に戻らない……本当に強かな女だよ」

筒井つつい順慶じゅんけいみたいなヤツじゃの」

「言い得て妙だな。篠塚家からすれば、御家の安寧と利益の確保に努めていたのだろう。二年前から私と文の遣り取りをしていたが……」

「獺殿が追放されたゆえ、取次が雌狗プッタに変わった」

「おゆらに身の安全を保障されてもな。まあ……篠塚家も信用しないだろう。それゆえ、マリアから帰参の許しを得る為、蛇孕神社に寄進を続けているというわけだ」

「目障りな蝙蝠も銭儲けの要なれば、本家や分家衆も無碍に扱えぬか」

「そういう事だ。おゆらも時間を掛けて、篠塚家を懐柔するつもりだろう。村の外に出た分家衆は他にもいるが、現状は似たり寄ったり……早々に薙原家を見限り、謀叛が起こる前に逃亡した帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは賢明だよ」


 獺の声音は、低く沈んでいた。

 然し余所者の朧は、それほど理不尽な話とも思えない。

 責任の所在が曖昧な合議制を廃止し、指揮系統が明確な階級制に造り替える。それは時代の流れに沿うものだ。

 話に聞く限り、薙原家は惣村そうそん宮座みやざに近い。

 惣村とは、中世から続く自治的な共同体を指す。平等や公平という理念に基づき、寄合という合議で問題を話し合い、自衛の為に一致団結して戦う。権力者の横暴に耐えきれなくなると、惣村の支配層は武力で対抗する。戦国時代の百姓は、普段から刀や槍で武装していた。権力者を苦しめるだけの武力を背景に、徳政令や年貢の軽減を要求する。惣村の有力者が、地侍という事もあるだろう。

 宮座は惣村の一種で、自然崇拝や祖霊崇拝を共有し、村人の役目を定める。村人が共通の神を崇め、神主も交代制で決めるのだ。薙原家の場合、蛇孕神社が精神的な支柱。神主が交代する事もない。

 蛇孕神社の无巫女アンラみこは、二十歳まで還俗できない。それに无巫女アンラみこは本家の娘から選ばれるが、娘が二人以上産まれなければ、籤引くじびきで分家衆の中から選ぶ。分家衆から无巫女アンラみこが選ばれても、薙原家の共同体意識は変わらない。无巫女アンラみこは蛇神の信託を授かる存在。薙原家から崇拝されるが、薙原家の政に関与しない。分家は役割こそ違えど、対等の身分を保障されており、薙原家の命運を懸けて武士団と戦う。

 それを何百年も続けてきたのだろう。

 だが、戦国乱世の気風にそぐわない。

 朧が連想したのは、紀伊国きいのくに雑賀衆さいかしゅうだ。

 五つの惣村が統合した惣郷で、紀伊北部に拠点を置き、数千挺の鉄砲で武装し、独自の海軍を保有。応仁の乱以降、諸大名の要請で各地の合戦に参加。強力な傭兵団として、天下に名を轟かせた。合戦で使う弾薬を仕入れる為、海上貿易にも力を入れており、尾張国おわりのくにから薩摩国さつまのくにまで交易船を出していた。

 畿内で信長が台頭すると、石山本願寺に加勢。第一次紀州征伐では、十万の織田軍に小勢で対抗し、降伏とは名ばかりの痛み分けに持ち込む。その後、本願寺が降伏しても織田家や羽柴家と戦い続けたが、第二次紀州征伐で雑賀衆は敗れた。

 雑賀衆の敗因は二つある。

 一つは合議制である事。

 全ての物事が話し合いで解決するなら、この世に争いなど起こらない。惣村の場合、寄合の結果に不満を持つ者が現れる。合議制に不満を持つ者は、敵方の調略に乗りやすい。

 二つ目は利権の問題。

 雑賀衆は既得権益を守る為、信長や秀吉に抵抗した。

 既得権益とは、自治権と海運業の利益だ。戦国大名の支配下に組み込まれると、自治権と海運業の利権も奪われる。

 それゆえ、大名家に雇われる事はあれど、従属するを良しとせず。特に信長の強権支配に反発していたが――

 信長が近江国おうみのくにで安土城を築城した際、城下で楽市を認めた時点で、雑賀衆の力は衰え始めていた。

 天正七年に完成した安土城は、日本でも比類なき近代城郭である。信長に招かれた伴天連が「欧州のどの城よりも壮大で豪華である」と感嘆したほどで、城下は南蛮寺や寺社商家民家が建ち並び、石山本願寺の寺内町を凌ぐほどの賑わいを見せ、天下に織田家の栄華を見せつけた。

 その結果、本願寺と雑賀衆の士気は著しく低下する。

 既得権益の確保や自治独立を掲げても、財政拡大を推し進める信長が、征服した土地を豊かにする。信長に認められた領主も善政を行う。さらに安土城という繁栄の象徴を見せつけられ、世論も信長の政治体制を認め始めた。

 本能寺の変で信長が横死しても、秀吉が天下統一事業を引き継ぎ、徳川や長宗我部と秀吉包囲網を形成するも、世の流れに逆らう事はできず、第二次紀州征伐で敗れ去った。

 一連の流れを考えれば、先代当主が独裁に逸るのも分かる。合議制では、どうしても決断が遅れる。戦国大名の如く指揮系統が明確でなければ、乱世は生き残れない。

 符条は伽耶を追放した事を恨んでいるようだが、先代当主の乱行がなければ、朧は奏と出会えなかった。感謝する気もないが、非難する気もない。

 結局、朧は当事者ではないのだ。

 先代当主は、銭の欲に取り憑かれていた。

 分家衆の信望を得られなければ、急激な組織改革は為し得ない。分家衆の信望を得られず、権威を示す為に苛烈な処分が続き、余計に人望の低下を招く。織田信長の末路と変わらない。松永久秀が裏切り、荒木あらき村重むらしげが逆心を抱き、明智光秀の謀叛で自害に追い込まれた。

 抑も先代当主は、薙原家の行く末を考えていたのか?

 奏を家康に売り渡し、何が得られるというのか?

 人を喰らう妖怪が、徳川家に取り立てられるとでも考えていたのか?

 もはや先代当主の心中を窺う術はない。

 朧自身、殊更興味もない。

 それより恐るべきは、おゆらの政治手腕だ。

 本家当主を下克上で殺害すると、本家が蓄えた金銀を公平に分配し、年寄衆の不満を抑え込む。同時に年寄衆の望む合議制を復活。予言の成就や米相場の旨みをちらつかせ、薙原家の政治体制を一新させた。

 それも実態は、マリアを政教の頂点に定めた絶対君主制。合議もおゆらの決断を追認するだけの行事に過ぎない。マリアに无巫女アンラみこと本家当主を兼任させ、奏と祝言を終えた後、二人の娘を次代の无巫女アンラみこに据える。

 先代当主が十数年掛けて失敗した改革を僅か二年で達成したのだ。飴と鞭を巧みに使い分け、分家衆を蛇神崇拝と金銭欲で自在に動かす。唯一の失敗は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを逃がした事くらいか。

 なんとも腹立たしい事だが、おゆらの才覚を認めざるを得ない。奏が信頼するのも、おゆらの実務能力を高く評価しているからだ。

 おゆらの事を考えただけで、苛立ちが抑えられない。


「話を戻すと、『薙原衆』は戻りたくても戻れない。北は蝦夷島から、南は琉球まで派遣された者もいる。やはり全員が揃うまで、半年くらい掛かるだろう」

「ふん……つまらぬ」


 朧は瓢を逆さに振り、不機嫌そうに通りの真ん中を歩く。

 所詮は他人事。妖怪共の不毛な権力争い。深入りするつもりはないが、蚊帳の外というのも面白くない。

 朧は一旦、本家屋敷に向けて踵を返す。

 こそりと台所に忍び込んで、秘蔵の酒を盗み出すつもりだ。

 後ろに従う獺が、急に動きを止めた。


「如何した? 馬糞でも踏みつけたか?」

「蛇神の使徒が近づいている」

「――ッ!?」


 急に酔いが覚めた。

 大刀の柄に右手を添えようとしたが……刀がない事を忘れていた。


「おゆらの眷属だろう。今は会いたくない。私は帰るぞ」

雌狗プッタに伝えておく事はあるか?」

「早く自害しろ。以上だ」

「ふむ、承知した」


 獺は田圃の畦に隠れた。

 暫時の後、獺の言葉通り、朧の前に薄紅色の蛾が現れた。

 毒蛾は一匹だけで、薄紅色に光る鱗粉を撒き散らす気配はない。

 朧は、忌々しそうに眉根を寄せる。


 なんと口惜しい……

 雌狗プッタの眷属を握り潰す理由がのうなった。


「何用じゃ?」

「符条様の眷属はお帰りで? 私を除け者にして、二人で密談なんて……うふふっ、怖い怖い」


 薄紅色の毒蛾が笑声を漏らす。


「何故、獺殿の存在を感知能う? 獺殿もお主の出現を予測しておった。何か特別な理由でもあるのか?」

「妖怪にしか分からない感覚ですが……近くに使徒や眷属がいると、対象の妖気を察知できます。個人の区別もつきますが、正確な方向は分かりません」

「妖怪にしか知覚能わぬというわけか。もう少し詳しく話せ」


 朧は命令口調で上役を急かす。


「詳しく? ナントカ家のナントカさんが、何となく近くにいるな~という感じでしょうか? うまく言語化しづらいですね」

「獺殿は、誰も近づけぬと申しておったぞ」


 ああ……と毒蛾は、合点がいったように言葉を続ける。


「符条様は思慮深い御方。然れど変な処で抜けております。おそらく朧様以外の者は、符条様の眷属に近づけない――という願い事を叶えたのではないかと。然して蛾は、何者でもありません。朧様を除く人も妖怪も眷属も近づけない――というふうに、願い事の内容を変えるべきでしたね」

「獺殿らしいと申すか……お主の妖術の方が、使い勝手が良さそうじゃの」

「まさか。符条様の妖術と取り換えてほしいくらいです。それで朧様は、符条様と妖術の話をしていたのですか?」


 朧はニヤリと嗤い、蛾に視線を向けて話す。


「丁度お主の話をしておった。本家の女中頭ほど、世に稀な雌狗プッタはおらぬと」

「ぷった?」

「儂が西国にいた頃、伴天連から聞いた話でのう。お主が如く気立ての良い娘を、海を隔てたPortuguesaという国では、尊敬の念を込めてputaと呼ぶそうじゃ」

「えらい発音が良いですね。褒められていないという事は、よく分かりました」


 蛾は声音を弾ませ、朧の周囲を飛び回る。

 実に鬱陶しい。


「それで儂に何の用じゃ? これから台所の酒を拝借し、涼しげな木陰で昼寝をする――という大事な使命があるのじゃ。邪魔立ては許さぬぞ」

「まあまあ、朧様も興味を引かれる話だと思いますよ。一つ騙されたつもりで、本家の御屋敷にお戻りください」

「ほう……それは楽しみじゃのう」


 朧は蛾から視線を外し、再び獰猛な笑みを浮かべた。

 ようやく朧に押しつけられそうな荒事が発生したか。

 武芸者の血が騒ぐ。

 早く強者と斬り合いたい。


「寄り道しないでくださいね」

「儂は方向音痴の蛇女ではない。午の刻までに戻る。加えて獺殿から伝言を預かっておるぞ」

「はて、なんでしょう?」

「今すぐ死ね――以上じゃ」


 朧は端的に伝言を伝えた。




 シュペーラー極小期……西暦一四二〇年頃から一五七〇年頃を指す。地球の気候が平均より寒冷な時期だった。太陽活動の低下と因果関係があるかどうかは不明。


 鐚銭……価値の低い銅貨


 知行権……領土支配権


 徒士……馬上の武士に従う士卒。侍ともいう。


 御器被……ゴキブリ


 具足……兜・胴・袖の事


 足軽小頭……足軽の小隊を率いる身分。大名家の序列は、小者(足軽)、徒士(足軽小頭)、馬に乗れる武者(足軽小頭)、物頭ものがしら(足軽大将や足軽頭)、番頭ばんがしら(侍大将)、宿老(家老)の順に偉くなる。


 兌換……通貨の交換


 扶持……給与の米


 銅銭……銅貨


 銭……貨幣


 兌換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障された法定紙幣。奥州と関東を除く日本各地に流通する紙幣。三好長慶が非営利団体――『日本政府』を設立。足利将軍家を京都より追放したにも拘わらず、『日本政府』の負債という形で兌換紙幣を発行。兌換紙幣を神社仏閣の再建費用や人夫の手当としてばらまいた。続けて兌換紙幣を徴税の対象物に組み込み、通貨として領内に流通させる。三好長慶が確立した『三好経世論』に基づく領地経営は、織田信長や豊臣秀吉に引き継がれた。


 不換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障されていない法定紙幣。現在の日本で喩えると、日本銀行券(日本銀行借入券)の事。蛇孕村の場合は、蛇孕神社が発行する神符という護符。


 精銭……価値の高い銅貨


 鄙……地方


 私鋳銭……国内で製造した偽造銭


 地方の権力者……戦国大名や地方の土倉


 総需要不足乖離……デフレギャップ。本来の供給能力(実質GDP)が総需要(名目GDP)を上回る時、本来の供給能力と総需要の差を指す。総需要が本来の供給能力を上回らない限り、総需要不足から供給能力不足に変わらない。


 総需要不足……デフレーション。国家・地域的に物価が下がる事。本来の供給能力(潜在GDP)が総需要(名目GDP)を上回る事。国家的に需要不足の状態。国民経済に悪影響を齎す状態。人間の需要(欲望)は無限に等しい為、余程の事がない限り、国家はインフレーションを維持する。然し世界恐慌や疫病の蔓延など、一時的なデフレーションに陥る事もある。政府が緊縮財政(政府支出の削減と増税)を推し進め、規制緩和や構造改革(市場の参加者を増やして値下げ競争を激化)すれば、意図的にデフレーションを起こす事も可能である。


 供給能力不足……インフレーション。デマンドプル・インフレとも言う。国家・地域的に物価が上がる事。本来の供給能力(潜在GDP)が総需要(名目GDP)を下回る事。国家的に供給能力不足の状態。国民経済に良い影響を齎す状態。人間の欲望(需要)は終わりがない為、政府がデフレギャップを埋め続ける限り(財政拡大を続ける限り)、国家はインフレーションを維持する。


 生産費用増大型供給能力不足……コスト・プッシュ・インフレーション。悪性インフレとも言う。インフレではあるが、国民経済に悪い影響を齎す状態。製品を作る際の費用が増加して、生産費用の増大を賄う為、物価は上昇するものの、国民の所得が増えていないので、庶民は物価の上昇に苦しめられる。


 天下諸色……臨時徴税。織田信長は、金銀も徴税の対象物に組み込んだ。


 割符……為替手形。発祥は鎌倉時代に遡る。遠隔地から年貢を運ぶ手間を省く為に発達した制度。戦国時代には廃れていた。


 借書……借用証書。室町前期に信用取引が発達し、土倉が扱う金融商品に変わる。応仁の乱以降、全国的に信用取引は廃れるが、戦国時代の後期から復活した。


 天正十九年……西暦一五九一年


 一国御前帳……石高帳


 銀銭……銀貨


 出挙……古来より続く米の貸借制度。権力者が民に種籾を貸し付け、民は稲穂に利息を付けて返す。政府は存在しないが、権力者の支出と徴税である。


 神符……神社が氏子に配布する紙の札


 頭取衆……畿内の経済を支配する豪商連合。堺の会合衆が解体し、諸国の豪商を取り込んで再編された。


 雑物庫……穀物貯蔵庫


 寄進……神社や寺院に金銭や物品を寄付する事


 天正七年……西暦一五七七年


 puta……プッタ。ポルトガル語で「娼婦」、「あばずれ」という意味。


 午の刻……正午


 渡辺朧の年収……米四十石。現代の価値で一八〇万円。家賃、食費、衣装代は薙原家持ち。

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