第28話 経済事情
眩い太陽が、中天まで上り詰めた。
無慈悲に降り注ぐ日光は、百姓に不安を与える。
飢饉の恐れがあるからだ。
昔より天候も落ち着いてきたが、今でもシュペーラー極小期の影響が続いている。冬は異常に寒く、夏は異常に暑い。ある程度、地面の温度が高くないと、水田に植えた苗も育たない。地面が温まるまで待たなければならないが、春と秋の期間が短い為、大抵は梅雨時に田植えを行う。梅雨が終わると、猛暑と
つまり凶作――
全国各地で慢性的な飢饉が続く。飢えた百姓が食料を求めて、余所の土地に攻め込む。戦地で
それが戦国時代である。
近年は気候も穏やかになり、耕作技術も発達した為、作物の収穫量も増加した。豊臣秀吉が人身売買禁止令を定めたので、公然と奴婢を売買する事もできない。それでも諸人は飢饉に怯え、人身売買も半ば黙認という状況。人商人は城下町の広場を避けて、郊外や街道で市を開く。今の時点では、その程度の違いでしかなかった。
冷害や水害の被害を受け、村落を捨てる者も多い。関ヶ原合戦で禄を失い、野伏に身を堕とす牢人も数多。
関ヶ原合戦から一年が過ぎても、天下静謐の目処は立たない。
どこで自分が野垂れ死ぬか分からない。それゆえ、中二病は己の掟を尊ぶ。いつ死んでも悔いを残さないように、独自の美意識を貫いて死ぬのだ。
田圃の畦道を歩きながら、朧は遠くを眺めていた。
広大な水田や豊富な農業用水に驚かされるが、それより作男や下人が見当たらない。肥料をやるなり、雑草を抜くなり、この時期なら仕事はいくらでもあるだろう。
青田褒められ馬鹿褒められ、という諺もある。
稲が順調に育とうと、必ず穂が実るとは限らない。神童と称えられた童が、凡夫に成り得る。未来の予測は、誰にもできないという意味だ。
農村なら気を張らなければならない時期である。
然し年貢を徴収されないなら、百姓の負担は軽減される。加えて不作に陥ろうと、薙原家が食料を配給してくれる。これでは、趣味の家庭菜園と変わらない。農作業に従事する下人も多い為、他の村より勤労意欲に乏しいのだろうか。
寧ろ天邪鬼の中二病からすれば、蛇孕村の村民が働く事自体、不思議で仕方がない。
何故、食うに困らぬ者が働いておるのじゃ?
事情を知らない者が見れば、桃源郷や蓬莱山の如く見えるだろう。蛇孕村の住民が、人喰いの非常食と知る朧は、胸糞悪い光景としか思わないが――
前方で童が集まり、賑やかに遊んでいた。
「だるまさんが転んだ!」
一人の童が振り返ると、大勢の童が動きを止めた。
全然関係ないが、朧もぴたりと停止する。再び童が顔を背けると、朧は無邪気に喜ぶ童の脇を通り過ぎた。
童の遊びだけは、どこの地域でも変わらない。外界と変わらぬ共通点を見出し、朧の心は少し弾んだ。
今日も酒が美味い。
瓢の清酒を煽りながら、昼寝に適当な場所を探していると、畦から獺が顔を出した。
「獺殿か」
妖艶な美貌に喜色を浮かべて、獺を見下ろす。
「随分と暇そうだな」
「実際、遣る事がなくてのう。神社で儀式を行うとかで、御曹司は暫く屋敷に戻らぬ。御曹司がおらぬのでは、屋敷に入り込んだ意味がない。加えて屋敷の廊下で
「
獺は気楽に答えるが、朧は眉根を寄せた。
「
「慎重な物言いだな。お前らしくもない」
「再び御曹司の記憶を改竄されては適わぬ。無謀と中二は似て非なるもの。己の命を懸けて、博打を打つから面白いのじゃ。他人を巻き込んでもつまらぬ。況てや御曹司を危険に晒すなど論外よ」
「やはり
「それも人それぞれ。獺殿の性分であろう」
朧は酒で喉を潤しながら、カカカカッと嗤う。
獺は、朧の後ろに付き従う。
「で――如何なる用向きで参った?」
朧は僅かに眼を細めた。
「そう警戒するな。状況を確認しに来ただけだ」
「獺殿もマメよのう」
「何事もなく本家に召し抱えられたようだな。これで暫く蛇孕村に滞在できる」
「別段、仕官に拘らずとも、食客で構わぬのじゃが……まあ、是も獺殿の思惑通りなのであろう」
気安く語り合いながらも、朧は警戒心を解いていない。
元々朧は、符条を全く信用していない。
奏を蛇孕村から連れ出すという目的は一致しているが、お互いに利用し合うような関係だ。方針が食い違えば、対立する事も有り得よう。
「然れど如何せん太刀がない。大小を腰に帯びておらぬと、どうにも落ち着かん。数打物でよいから、その辺りに落ちておらぬか」
「
戦国期の寄親寄子の制は、戦国大名が家臣団を統率する為の制度だ。家中の有力な武将が寄親、国衆や地侍が寄子に該当する。合戦ともなれば、寄親は寄子を従え、寄子は雑兵や足軽を指揮する。
「獺殿は、儂の禄高を存じておるか?」
「いや……おゆらは
薙原家は、蛇孕村の住民から年貢を取らない。加えて
「四十石じゃ」
「それは……
「一応侍に取り立てられたが、馬には乗れそうもないのう。薙原本家では一番下。女中衆より禄が低い。御曹司は二百石で推挙してくれたが、後から
他人事のように騙るが、武士の立身栄達の道は限られている。
武士らしく戦場で武功を立てるか、縁組で上役と結びつきを強めるか。薙原家に仕える限り、どちらの道も困難である。
当分の間、朧を屋敷に置いて監視し、手に余るようであれば処分する。おゆらの腹積もりが透けて見えるようだ。薙原家で気づいていないのは、奏と常盤だけだろう。
「動乱の京都で武名を高め、関ヶ原合戦では
「儂は御曹司を守る太刀。強者と斬り合えれば、それで十分じゃ」
言葉の途中で、ふあ……と欠伸をする。
「加えてあの
「ほう」
「長屋の一室を好きに使えと勧められた」
「……」
「何年も使われておらぬようでの。引き戸は動かない。床はぼろぼろ。天井はスカスカ。部屋の中は、
「
「仕官の祝儀も貰うたぞ」
「……あまり聞きたくないが、一応聞いておこう」
「
「……」
「儂は具足を好まぬ。槍も邪魔臭くて適わぬ。売り払いたくても買い手がおらぬ。手狭な部屋が余計に狭くなったわ」
「嫌がらせが露骨過ぎる」
「儂の精神を疲弊させたいのであろう。廻国の武芸者からすれば、屋根があるだけマシじゃ。衣食住が保障してくれる分、他の大名家より待遇は良い」
太閤検地が実地されて以来、知行地から集められた玄米は、大阪城下の米市場で紙幣、金、銀、銅銭と
これを石高制という。
石高制に当て嵌めると、朧は四十石取りの下級武士。敢えて銅銭と交換するなら、一三八貫と四八〇文取り。
中世の日本には、
「寧ろ『米』と『
「……」
「薙原家の申す銭とは、
「それについては、何とも言えないな。銭の遣り取りは、関東でも地域で異なる。昔より銭の整理は進んでいるが……もう暫く時間が掛かるだろう」
「不便不便。是も
朧は皮肉を込めて嗤った。
シュペーラー極小期で、全国的に飢饉が続き、年貢として納める米が不足すると、戦国大名は年貢米を銅銭や兵役で代替させた。銭が出せない百姓は、雑兵として戦場に駆り出される。合戦の間は、寄子が米を支給してくれる為、飢えた百姓も食うに困らない。乱取で食料の略奪もできる。積極的に銭を差し出す有徳人は、兵役の免除という特権を勝ち取り、巨額の戦費を武将に貸し付けた。
これを貫高制という。
室町期の守護大名は、深刻な貨幣不足を補う為、大陸から輸入された精選の他に、国内で製造された私鋳銭も徴税の対象物に組み込み、守護大名の支出としてばらまいた。それでも
具体例を挙げると、
地方の権力者の都合で通貨の価値が変わる為、民間の商取引が混乱する。
鐚銭十枚で食料が買える時もあれば、鐚銭百枚で買えない時もある。こつこつと貯めてきた銅銭が、唐突に無価値と決めつけられ、一晩で破産する商人も現れた。
これでは円滑な商取引など望めない。
室町幕府も地方の権力者による鐚銭の排除――
然れど諸大名が素直に従う筈もなく、室町幕府の弱体化を契機に、独自の財政政策を行った。
その最たる例が、織田信長である。
大軍を率いて上洛した後、三好長慶が残した非営利団体――『日本政府』を奪い取り、『日本政府』の負債という形で兌換紙幣を発行。長慶同様、御所再建の費用や人夫の手当として支出し、兌換紙幣を徴税の対象物と定め、通貨として領内に流通させた。
続いて鐚銭四枚を精銭一枚と兌換するように取り決め、巷に溢れる銅銭の等級分けを行い、機内の通貨整理を行う。
これが貨幣の信用創造である。
新たに領土を獲得すれば、すぐに検地を実施する。田畑の面積や作物の収穫量、土地の持ち主を明確にする事で、公家や寺社や土豪の中間搾取を阻止し、確実な徴税に努めた。ある程度、気候が穏やかになると、貫高制を廃止。米の収穫量で年貢や兵役を定めた石高制に移行する。
石高制に移行した理由は、年貢米を兵糧に使う為だ。天下布武を掲げて、侵略戦争を繰り返す信長は、兵糧の確保が必須。加えて百姓が市場で余剰米を販売する機会を奪った。諸人から『米』という通貨の発行権を取り上げたのだ。
通貨とは、権力者の為の道具だ。権力者が己の都合でばらまき、己の都合で回収する。権力者の徴税権力から免れる為、民衆は通貨を貯め込み、同時に通貨を流通させる。
長慶が執筆した『三好経世論』を熟読した信長は、租税貨幣論に基づいて領地を経営した。徴税の対象物は、兌換紙幣、金、銀、米、銅銭となる。
豊臣秀吉は、本能寺の変で横死した信長の財政政策を継承し、改めて領国の検地を徹底させた。
加えて貨幣に限らず、
然れど東国と西国では、経済事情が異なる。
秀吉が諸大名に
それも豊臣政権から徴税権力を完全に奪い取らなければ、慶長小判は通貨として認められない。関ヶ原合戦は、豊臣政権の内部抗争である。太閤薨去後、武断派と文治派の政治闘争が表面化し、家康が武断派に加担した結果、豊臣政権で最大の派閥を形成。前田利家の死後、露骨に政敵を排除し始めた。関ヶ原合戦で勝利を収めたが、豊臣家と徳川家の主従関係は切れていない。道行く者に天下人は誰かと尋ねれば、大坂城の秀頼と答えるだろう。
兎にも角にも、京から来た武芸者は、複雑な銅銭の取引を好まない。
商取引の決済は、兌換紙幣か銀銭という上方の風潮に染められており、ちまちまと銅銭を数えて支払うなど、朧の性に合わない。店で物を買う時は、銀銭でぱんぱんに膨らんだ革袋を机に叩きつけ、「釣りはいらぬ」と言い放ち、颯爽と立ち去りたいのだ。
本音を言えば、銅銭を銀銭と交換して貰いたいが……おゆらに揉み手で催促するくらいなら、鐚銭十三万八四八〇枚でも構わない。
この村で銭を使う機会もないだろう。
「『兌換紙幣』と『米』を兌換できないが、村人に『米』を売却する事はできるぞ。『兌換紙幣』の代わりに『
「『神符』?」
「
「騙りか」
「蛇孕神社の元神官が断言しよう。騙りだ」
朧が呆れた様子で言うと、獺も
「蛇孕神社の巫女衆が、紙切れに字を書いただけだからな。蛇神の神通力など宿る筈もない。然し村内に限定すれば、
「『神符』とは、蛇孕村に流通する『不換紙幣』か」
「流石は伽耶の従者。きちんと『三好経世論』も読んでいたか」
「……悪魔崇拝者に騙されぬようにと、伽耶様より授けられし物。一言一句違わずに諳んじ能う」
珍しく朧は、語気を強めて言い放つ。
「『神符』と銅銭があれば、大抵の物は村内で手に入る。太刀が欲しければ、蛇孕村の刀工が数枚の『神符』と交換してくれる。次の市まで待てば、具足と槍を売り払う事もできる。田舎暮らしも、少しは便利になるだろう」
蛇孕村では、月に六度、広場で市を立てる。太刀でも酒でも、朧が必要だと思う物は、次の市を待てば手に入る。
「偖も偖も……銅銭と『神符』を兌換するか?」
「……」
朧は唇に手を当てて黙考した後、
「止めておこう」
明確に拒絶の意志を示した。
「儂の目的は、御曹司を蛇孕村から連れ出す事。この村に根を張るつもりはない。禄は鐚銭で構わぬ。部屋も手狭で結構。銭の支配に屈するならば、不便な暮らしを選ぶ」
「中二病らしい答えだ」
獺は納得したように言う。
伽耶の教育の成果を試したのだろうが、朧は全く違う事を考えていた。
何故、食うに困らない村民が働いているのか?
薙原家に耕作地の借地料や出挙の利子を『神符』で支払う必要があるからだ。権力者の支出と徴税と変わらない。年貢がないというのも、ヒトデ婆の詭弁に過ぎなかった。
朧はぐいと酒を
「銭の話はもうよい。それより斯様な場所で、儂と話し込んでよいのか? 人気がないとはいえ、誰ぞに見つかれば面倒であろう」
朧は億劫そうに話題を逸らす。
「問題ない。誰も近づけないように妖術を発動させている。それに明日は狒々祭り。村の大人達は、狒々祭りの準備に大忙しだ」
「村祭りか?」
「狒々神を討伐した
「それは面白そうじゃのう」
朧の表情が喜色で歪む。
丁度暇を持て余していた処だ。
祭りで憂さを晴らすのも悪くない。
「然れど蛇の神様に狒々の神様か……儂も諸国を巡り、様々な物を見てきたが、神様を見た事はないのう」
「お前は獺と会話しているぞ」
「是は
「
朧は眼を見開き、唇の両腕を吊り上げた。
「儂も狒々神と立ち合うてみとうなった。どうにかならぬか?」
「どうにもならん」
「即答か」
「
朧は冷静に答えながら、朧の美貌を見上げた。
「私もお前の存念を聞いておきたい。これからどうするつもりだ?」
「無論、御曹司を蛇孕村より連れ出す」
「それは先程も聞いた。何か策でもあるのか?」
「儂は武芸者じゃ。軍師ではない。易々と策など思い浮かばぬ。然れど方針は定まった」
朧は厚めの唇に舌を這わせ、獰猛な笑みを浮かべた。
「御曹司は、村の外に出たいと考えておらぬ。それは『情け』という鎖で縛られておるからじゃ。ならば、御曹司を鎖で縛る者共を撫で斬りにすればよい。手始めに
「
「それが狙いよ。儂を始末する為に、
「場当たり的な弥縫策……実に中二病らしい発想だ。然し奏は荒事を望まない。お前の思い通りに進んでも、主君の不興を買うだけだろう」
「儂は御曹司を守る太刀。寵愛を求める側女に非ず。
「お前が君子とは知らなかった。それに無謀極まる。孫子曰く――十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍すれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちこれと戦い、少なければ即ちこれを逃れ、苦しからざれば即ちこれを避く。人の兵に屈するも、戦うにあらざりき。敵の城を抜くも、攻めるにあらざりき。人の国を
朧の強弁に呆れて、獺が兵法の理を以て諭す。
自陣の兵が相手の十倍なら取り囲み、五倍なら常道で戦い、倍なら兵を分割して攻め、互角なら覚悟を決めて戦い、劣勢ならば退却し、勝機がなければ戦うべきではない。
戦わずして勝利を収め、攻撃せずに城を
孫子らしい合理的な発想だが、それができれば苦労しない。然し例え話として、今は攻め時ではないと、獺は説いているのだ。
「先程も申したであろう。中二病と無謀は似て非なるもの。合理性を求めるなら、初めから太刀など使わぬ。鉄砲を使う」
「ならば、蛇孕神社に一人で攻め込むか? マリアに瞬殺されるぞ」
「儂は蛇女に敗れたりせぬ。関ヶ原の話をしておるのであろうが、アレは勝負無しじゃ」
「勝負無し? なんだ、それは?」
「覇天流の秘太刀を返されたのは事実。それは認めよう。然れど儂は間髪を入れず、二之太刀を放つ心積もりであった。それを明石勢の残党が邪魔しおって……殿軍の役目は終えたからと、無理矢理引き戻されたのじゃ」
「明石勢も存外、仲間思いではないか」
「
中二病の女武芸者は、獺の冷静な指摘を無視した。
「……具体的に、いつ決着をつけるつもりだ?」
「一番美味そうな獲物は、最後まで残しておくタチでのう。本家の女中衆や人喰いの分家衆……加えて『薙原衆』か。
朧は鷹揚に嗤う。
決して虚勢ではない。
本気で薙原家と一人で戦い抜くつもりだ。この揺るぎない自信が、朧の強さの源泉なのだろう。
「早く『薙原衆』と斬り合うてみたいものよ。諸国より呼び戻しておるというが、いつまで待てばよいのじゃ」
外界では、『薙原衆』と薙原家が同列に扱われているが、実情は風評と異なる。十二分家の中で、潜在能力の高い娘を集め、仕物専門の透波に育成した特殊部隊――それが『薙原衆』の正体である。
「基本的に『薙原衆』は集団で動かず、個人で役割を果たす。今は蛇孕村の外に出ているからな。全員揃うまで、半年くらい掛かるぞ」
「
「現存兵力で十分、奏を守り切れる……というのが、おゆらの見立てだ。それに『薙原衆』の仕事が片付いていない」
「薙原家は仕物から手を引いたのであろう」
「二年前に先代当主を討ち果たしてから、仕物の依頼を引き受けていない。流石に関ヶ原合戦は例外だが……事実上、薙原家は透波を廃業したのだ。然し先代当主は、何十件も仕事を引き受けていたようでな。すでに手付けを渡されている」
「依頼人に手付けを返せばよかろう」
「手付けの返還は、倍返しが基本だ」
「カカカカッ、
「薙原家の財政に絡んだ理由もある。先代の本家当主は、借書の投機に長けていた。お陰で大名並に成長したわけだが……利益の拡大に逸るあまり、資産の蓄積が疎かになった。具体的に言えば、『米』という外貨が圧倒的に足りない。然りとて本家の家蔵から金銀を吐き出すほど、米俵が不足しているわけでもない。それで引き受けた依頼を片付け、金銀の代わりに米俵を貰う。三好長慶が兌換紙幣を発行してから、銅銭の価値は下がる一方。対して米相場は、莫大な利潤を生んでいる」
「商いの対象が、借書の売買から米の転売に転じたと?」
「米の価値は豊作不作、或いは地域差で異なる。奥州の米を畿内で売れば、十倍の利益を生み出す。欲深い年寄衆が、年若い女中頭に
「日ノ本の米相場は、上方の頭取衆に独占されておる。用心深い
獺は、おそらく……と頷いた。
「然し薙原家が隆盛を極めているのも、先代当主が土倉と唐物屋で『金銀』という外貨を集めていたからだ。先代当主は文武に秀でていたわけではないが、銭儲けの才能に恵まれていた。商家に生まれていれば、謀叛など起こされずに済んだろう」
獺が諦観を込めて言った。
「それもよう分からん。敢えて有能な当主を害する必要もあるまい。長生きしてくれた方が、薙原家も栄えるであろう」
「年寄衆が謀叛を起こした理由は、本家の専横に対する不満だ。然し後先考えずに謀叛を起こしたわけではない。先代当主に頼らなくても、利益の拡大を見込めると確信したからこそ、年寄衆は下克上を決意した」
「先代当主に匹敵する商人が現れたか」
「その通り。篠塚家の先代当主だ。分家の中でも随一の出世頭。篠塚家は薙原家の雑物庫を任されていたが、先代の本家当主――沙耶に才能を認められてな。外界で土倉や唐物屋の大店を任されるようになった。やがて身銭で借書や舶来品の取引を始め、分家衆の中でも最大の権益を獲得したのさ」
「分家衆が勝手に商いなど初めてよいのか? それこそ本家当主に睨まれそうなものじゃが……」
「先代当主は、自分に従う中老衆を重宝した。
「その成り上がりも中老衆であろう。何故、逆賊に寝返る? いや……皆まで申すな。蛇女か」
「御名答。マリアに勝てるわけがない――というより、マリアが年寄衆についた時点で、先代当主の敗北は決定していた。謀叛の兆しを察した篠塚家は、本家に人質として差し出した一人娘を連れ出し、本家にも年寄衆にも属さず、薙原家の内訌を静観し続けた。謀叛が成功すると、一人娘に家督を譲り、マリアに忠誠を誓う起請文を送り、本家に商いの利益を納めると約束しつつ、当人は蛇孕村に戻らない……本当に強かな女だよ」
「
「言い得て妙だな。篠塚家からすれば、御家の安寧と利益の確保に努めていたのだろう。二年前から私と文の遣り取りをしていたが……」
「獺殿が追放されたゆえ、取次が
「おゆらに身の安全を保障されてもな。まあ……篠塚家も信用しないだろう。それゆえ、マリアから帰参の許しを得る為、蛇孕神社に寄進を続けているというわけだ」
「目障りな蝙蝠も銭儲けの要なれば、本家や分家衆も無碍に扱えぬか」
「そういう事だ。おゆらも時間を掛けて、篠塚家を懐柔するつもりだろう。村の外に出た分家衆は他にもいるが、現状は似たり寄ったり……早々に薙原家を見限り、謀叛が起こる前に逃亡した
獺の声音は、低く沈んでいた。
然し余所者の朧は、それほど理不尽な話とも思えない。
責任の所在が曖昧な合議制を廃止し、指揮系統が明確な階級制に造り替える。それは時代の流れに沿うものだ。
話に聞く限り、薙原家は
惣村とは、中世から続く自治的な共同体を指す。平等や公平という理念に基づき、寄合という合議で問題を話し合い、自衛の為に一致団結して戦う。権力者の横暴に耐えきれなくなると、惣村の支配層は武力で対抗する。戦国時代の百姓は、普段から刀や槍で武装していた。権力者を苦しめるだけの武力を背景に、徳政令や年貢の軽減を要求する。惣村の有力者が、地侍という事もあるだろう。
宮座は惣村の一種で、自然崇拝や祖霊崇拝を共有し、村人の役目を定める。村人が共通の神を崇め、神主も交代制で決めるのだ。薙原家の場合、蛇孕神社が精神的な支柱。神主が交代する事もない。
蛇孕神社の
それを何百年も続けてきたのだろう。
だが、戦国乱世の気風にそぐわない。
朧が連想したのは、
五つの惣村が統合した惣郷で、紀伊北部に拠点を置き、数千挺の鉄砲で武装し、独自の海軍を保有。応仁の乱以降、諸大名の要請で各地の合戦に参加。強力な傭兵団として、天下に名を轟かせた。合戦で使う弾薬を仕入れる為、海上貿易にも力を入れており、
畿内で信長が台頭すると、石山本願寺に加勢。第一次紀州征伐では、十万の織田軍に小勢で対抗し、降伏とは名ばかりの痛み分けに持ち込む。その後、本願寺が降伏しても織田家や羽柴家と戦い続けたが、第二次紀州征伐で雑賀衆は敗れた。
雑賀衆の敗因は二つある。
一つは合議制である事。
全ての物事が話し合いで解決するなら、この世に争いなど起こらない。惣村の場合、寄合の結果に不満を持つ者が現れる。合議制に不満を持つ者は、敵方の調略に乗りやすい。
二つ目は利権の問題。
雑賀衆は既得権益を守る為、信長や秀吉に抵抗した。
既得権益とは、自治権と海運業の利益だ。戦国大名の支配下に組み込まれると、自治権と海運業の利権も奪われる。
それゆえ、大名家に雇われる事はあれど、従属するを良しとせず。特に信長の強権支配に反発していたが――
信長が
天正七年に完成した安土城は、日本でも比類なき近代城郭である。信長に招かれた伴天連が「欧州のどの城よりも壮大で豪華である」と感嘆したほどで、城下は南蛮寺や寺社商家民家が建ち並び、石山本願寺の寺内町を凌ぐほどの賑わいを見せ、天下に織田家の栄華を見せつけた。
その結果、本願寺と雑賀衆の士気は著しく低下する。
既得権益の確保や自治独立を掲げても、財政拡大を推し進める信長が、征服した土地を豊かにする。信長に認められた領主も善政を行う。さらに安土城という繁栄の象徴を見せつけられ、世論も信長の政治体制を認め始めた。
本能寺の変で信長が横死しても、秀吉が天下統一事業を引き継ぎ、徳川や長宗我部と秀吉包囲網を形成するも、世の流れに逆らう事はできず、第二次紀州征伐で敗れ去った。
一連の流れを考えれば、先代当主が独裁に逸るのも分かる。合議制では、どうしても決断が遅れる。戦国大名の如く指揮系統が明確でなければ、乱世は生き残れない。
符条は伽耶を追放した事を恨んでいるようだが、先代当主の乱行がなければ、朧は奏と出会えなかった。感謝する気もないが、非難する気もない。
結局、朧は当事者ではないのだ。
先代当主は、銭の欲に取り憑かれていた。
分家衆の信望を得られなければ、急激な組織改革は為し得ない。分家衆の信望を得られず、権威を示す為に苛烈な処分が続き、余計に人望の低下を招く。織田信長の末路と変わらない。松永久秀が裏切り、
抑も先代当主は、薙原家の行く末を考えていたのか?
奏を家康に売り渡し、何が得られるというのか?
人を喰らう妖怪が、徳川家に取り立てられるとでも考えていたのか?
もはや先代当主の心中を窺う術はない。
朧自身、殊更興味もない。
それより恐るべきは、おゆらの政治手腕だ。
本家当主を下克上で殺害すると、本家が蓄えた金銀を公平に分配し、年寄衆の不満を抑え込む。同時に年寄衆の望む合議制を復活。予言の成就や米相場の旨みをちらつかせ、薙原家の政治体制を一新させた。
それも実態は、マリアを政教の頂点に定めた絶対君主制。合議もおゆらの決断を追認するだけの行事に過ぎない。マリアに
先代当主が十数年掛けて失敗した改革を僅か二年で達成したのだ。飴と鞭を巧みに使い分け、分家衆を蛇神崇拝と金銭欲で自在に動かす。唯一の失敗は
なんとも腹立たしい事だが、おゆらの才覚を認めざるを得ない。奏が信頼するのも、おゆらの実務能力を高く評価しているからだ。
おゆらの事を考えただけで、苛立ちが抑えられない。
「話を戻すと、『薙原衆』は戻りたくても戻れない。北は蝦夷島から、南は琉球まで派遣された者もいる。やはり全員が揃うまで、半年くらい掛かるだろう」
「ふん……つまらぬ」
朧は瓢を逆さに振り、不機嫌そうに通りの真ん中を歩く。
所詮は他人事。妖怪共の不毛な権力争い。深入りするつもりはないが、蚊帳の外というのも面白くない。
朧は一旦、本家屋敷に向けて踵を返す。
こそりと台所に忍び込んで、秘蔵の酒を盗み出すつもりだ。
後ろに従う獺が、急に動きを止めた。
「如何した? 馬糞でも踏みつけたか?」
「蛇神の使徒が近づいている」
「――ッ!?」
急に酔いが覚めた。
大刀の柄に右手を添えようとしたが……刀がない事を忘れていた。
「おゆらの眷属だろう。今は会いたくない。私は帰るぞ」
「
「早く自害しろ。以上だ」
「ふむ、承知した」
獺は田圃の畦に隠れた。
暫時の後、獺の言葉通り、朧の前に薄紅色の蛾が現れた。
毒蛾は一匹だけで、薄紅色に光る鱗粉を撒き散らす気配はない。
朧は、忌々しそうに眉根を寄せる。
なんと口惜しい……
「何用じゃ?」
「符条様の眷属はお帰りで? 私を除け者にして、二人で密談なんて……うふふっ、怖い怖い」
薄紅色の毒蛾が笑声を漏らす。
「何故、獺殿の存在を感知能う? 獺殿もお主の出現を予測しておった。何か特別な理由でもあるのか?」
「妖怪にしか分からない感覚ですが……近くに使徒や眷属がいると、対象の妖気を察知できます。個人の区別もつきますが、正確な方向は分かりません」
「妖怪にしか知覚能わぬというわけか。もう少し詳しく話せ」
朧は命令口調で上役を急かす。
「詳しく? ナントカ家のナントカさんが、何となく近くにいるな~という感じでしょうか? うまく言語化しづらいですね」
「獺殿は、誰も近づけぬと申しておったぞ」
ああ……と毒蛾は、合点がいったように言葉を続ける。
「符条様は思慮深い御方。然れど変な処で抜けております。おそらく朧様以外の者は、符条様の眷属に近づけない――という願い事を叶えたのではないかと。然して蛾は、何者でもありません。朧様を除く人も妖怪も眷属も近づけない――というふうに、願い事の内容を変えるべきでしたね」
「獺殿らしいと申すか……お主の妖術の方が、使い勝手が良さそうじゃの」
「まさか。符条様の妖術と取り換えてほしいくらいです。それで朧様は、符条様と妖術の話をしていたのですか?」
朧はニヤリと嗤い、蛾に視線を向けて話す。
「丁度お主の話をしておった。本家の女中頭ほど、世に稀な
「ぷった?」
「儂が西国にいた頃、伴天連から聞いた話でのう。お主が如く気立ての良い娘を、海を隔てたPortuguesaという国では、尊敬の念を込めてputaと呼ぶそうじゃ」
「えらい発音が良いですね。褒められていないという事は、よく分かりました」
蛾は声音を弾ませ、朧の周囲を飛び回る。
実に鬱陶しい。
「それで儂に何の用じゃ? これから台所の酒を拝借し、涼しげな木陰で昼寝をする――という大事な使命があるのじゃ。邪魔立ては許さぬぞ」
「まあまあ、朧様も興味を引かれる話だと思いますよ。一つ騙されたつもりで、本家の御屋敷にお戻りください」
「ほう……それは楽しみじゃのう」
朧は蛾から視線を外し、再び獰猛な笑みを浮かべた。
ようやく朧に押しつけられそうな荒事が発生したか。
武芸者の血が騒ぐ。
早く強者と斬り合いたい。
「寄り道しないでくださいね」
「儂は方向音痴の蛇女ではない。午の刻までに戻る。加えて獺殿から伝言を預かっておるぞ」
「はて、なんでしょう?」
「今すぐ死ね――以上じゃ」
朧は端的に伝言を伝えた。
シュペーラー極小期……西暦一四二〇年頃から一五七〇年頃を指す。地球の気候が平均より寒冷な時期だった。太陽活動の低下と因果関係があるかどうかは不明。
鐚銭……価値の低い銅貨
知行権……領土支配権
徒士……馬上の武士に従う士卒。侍ともいう。
御器被……ゴキブリ
具足……兜・胴・袖の事
足軽小頭……足軽の小隊を率いる身分。大名家の序列は、小者(足軽)、徒士(足軽小頭)、馬に乗れる武者(足軽小頭)、
兌換……通貨の交換
扶持……給与の米
銅銭……銅貨
銭……貨幣
兌換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障された法定紙幣。奥州と関東を除く日本各地に流通する紙幣。三好長慶が非営利団体――『日本政府』を設立。足利将軍家を京都より追放したにも拘わらず、『日本政府』の負債という形で兌換紙幣を発行。兌換紙幣を神社仏閣の再建費用や人夫の手当としてばらまいた。続けて兌換紙幣を徴税の対象物に組み込み、通貨として領内に流通させる。三好長慶が確立した『三好経世論』に基づく領地経営は、織田信長や豊臣秀吉に引き継がれた。
不換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障されていない法定紙幣。現在の日本で喩えると、日本銀行券(日本銀行借入券)の事。蛇孕村の場合は、蛇孕神社が発行する神符という護符。
精銭……価値の高い銅貨
鄙……地方
私鋳銭……国内で製造した偽造銭
地方の権力者……戦国大名や地方の土倉
総需要不足乖離……デフレギャップ。本来の供給能力(実質GDP)が総需要(名目GDP)を上回る時、本来の供給能力と総需要の差を指す。総需要が本来の供給能力を上回らない限り、総需要不足から供給能力不足に変わらない。
総需要不足……デフレーション。国家・地域的に物価が下がる事。本来の供給能力(潜在GDP)が総需要(名目GDP)を上回る事。国家的に需要不足の状態。国民経済に悪影響を齎す状態。人間の需要(欲望)は無限に等しい為、余程の事がない限り、国家はインフレーションを維持する。然し世界恐慌や疫病の蔓延など、一時的なデフレーションに陥る事もある。政府が緊縮財政(政府支出の削減と増税)を推し進め、規制緩和や構造改革(市場の参加者を増やして値下げ競争を激化)すれば、意図的にデフレーションを起こす事も可能である。
供給能力不足……インフレーション。デマンドプル・インフレとも言う。国家・地域的に物価が上がる事。本来の供給能力(潜在GDP)が総需要(名目GDP)を下回る事。国家的に供給能力不足の状態。国民経済に良い影響を齎す状態。人間の欲望(需要)は終わりがない為、政府がデフレギャップを埋め続ける限り(財政拡大を続ける限り)、国家はインフレーションを維持する。
生産費用増大型供給能力不足……コスト・プッシュ・インフレーション。悪性インフレとも言う。インフレではあるが、国民経済に悪い影響を齎す状態。製品を作る際の費用が増加して、生産費用の増大を賄う為、物価は上昇するものの、国民の所得が増えていないので、庶民は物価の上昇に苦しめられる。
天下諸色……臨時徴税。織田信長は、金銀も徴税の対象物に組み込んだ。
割符……為替手形。発祥は鎌倉時代に遡る。遠隔地から年貢を運ぶ手間を省く為に発達した制度。戦国時代には廃れていた。
借書……借用証書。室町前期に信用取引が発達し、土倉が扱う金融商品に変わる。応仁の乱以降、全国的に信用取引は廃れるが、戦国時代の後期から復活した。
天正十九年……西暦一五九一年
一国御前帳……石高帳
銀銭……銀貨
出挙……古来より続く米の貸借制度。権力者が民に種籾を貸し付け、民は稲穂に利息を付けて返す。政府は存在しないが、権力者の支出と徴税である。
神符……神社が氏子に配布する紙の札
頭取衆……畿内の経済を支配する豪商連合。堺の会合衆が解体し、諸国の豪商を取り込んで再編された。
雑物庫……穀物貯蔵庫
寄進……神社や寺院に金銭や物品を寄付する事
天正七年……西暦一五七七年
puta……プッタ。ポルトガル語で「娼婦」、「あばずれ」という意味。
午の刻……正午
渡辺朧の年収……米四十石。現代の価値で一八〇万円。家賃、食費、衣装代は薙原家持ち。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます