第27話 医者
さながら流刑小屋のようだ。
如何にも貧相なボロ小屋で、屋根に重石が載せられていた。板の隙間から室内を覗けるあたり、壁の造りも雑である。
荏胡麻油やら薬草やら蛆虫やら……無数の悪臭が入り交じり、室内の空気は酷く澱んでいた。天井を見上げると、蜘蛛の巣が張られている。空き家と見紛うほど劣悪な環境。医者の家とは思えない。
黒い液体の中に、蜥蜴の尻尾と百足の頭が浮かんでいた。
是が解毒剤?
毒薬の間違いではないのか?
蠅を招き寄せる悪臭だけで、人を殺せそうな気がする。
「おい、クソバアア」
「我はヒトデ婆ぞえ」
土間で
不気味な老婆だ。
白い蓬髪に皺だらけの
壺の中身は、
「誠に飲まねばならぬのか?」
「当たり前ぞえ。なんでも毒や薬が効きにくい体質というではないか。
「儂は、医者と坊主が嫌いでの。己の身体の事は、己が一番承知しておる。後遺症はない。お主の妖術で傷も治った。怪しげな薬に頼らんでもよい」
「
「飲まねば帰せぬと?」
「徳川家の武士は、理不尽な下知でも喜んで仰せつかるという。これも下知と心得よ。早く飲むぞえ」
諸国の武士から『犬のように忠実』と揶揄されても尚、社畜根性を貫く徳川武士団と同列に扱われたくないが――
元よりヒトデ婆は、患者の健康状態など気にしていない。特異な被験者に別の薬を飲ませてみたいだけ。朧の身体を利用して、医学的な好奇心を満たしたいだけだ。
ふんと鼻を鳴らし、再び茶碗を凝視する。
眼を閉じて鼻を摘まみ、ぐいと一気に飲み干した。
「ぐおおおお……」
妖艶な美貌を歪めて、肺腑から異臭を吐き出す。
舌が痺れる。
口腔内が燃えるように熱い。
傍らに置いた
口の中で酒を転がし、うげーっと土間に吐き出した。再び瓢の酒を飲み込み、喉の奥を芳醇な香りで満たす。
「ぷはーッ! 死ぬかと思うた!」
「
ヒトデ婆が嘆息した後、壺から棍棒を引き抜いた。
粘性を帯びた黒い液体が、地面に滴り落ちる。
その様子を見た朧が、愉快そうに嗤う。
「
朧の口振りは、嘲笑の色が滲み出ていた。
「
「是は
朧は肩を竦めた。
「我の眼なら、先程から
不気味な嘲笑を漏らし、居間の隅を指差す。
細長い指が示した先は、古びた書籍が山積みにされていた。医学書の類であろうか。ぼろぼろで埃まみれだ。
眼を凝らすと、書物の上に虫がいる。
米粒より小さな蚤だ。
「肥沼家の眷属は蚤ぞえ。符条家が獺を使役するように。悠木家が蛾を使役するように。田中家が蝗を使役するように。肥沼家の使徒は、蚤を使役できるぞえ。聴覚を眷属に移す事も容易いぞえ」
「使い勝手は良さそうじゃの」
「実際に使い勝手は良いぞえ。奏様の着物に一匹、気づかれぬように忍ばせておる。万が一、奏様が深手を負えば一大事。即座に深手を癒やさねばならん。逆に捻挫や打撲などの浅手は、ゆるりと時を掛けて癒やしてきた。奏様に疑われぬように、全治十日の傷を七日で癒やすぞえ」
一瞬、朧は眼を細めた。
肥沼家の眷属が御曹司を監視しておるのか。
符条は蹴鞠玉で右足を骨折したそうだが、一瞬で治せる傷を何ヶ月も放置していたわけだ。奏に気づかれない為とはいえ、涙ぐましい努力である。
「……薙原家は、御曹司にどこまで伝えておる?」
「先祖代々、仕物を生業とする透波の一族。今は土倉と唐物屋で莫大な利益を得た……この程度しか教えておらぬ。使徒や妖術について伏せるようにと、御先代から申しつけられておる」
「先代当主は、お主らが始末したであろう」
「確かに。我らは下克上を成し遂げた。然れど
「魂を捨てた
朧が挑発すると、ヒトデ婆も鷹揚に笑う。
「傀儡も傀儡。百年近くも傀儡をしておるでな。お陰で人生、楽で良い。何も考えずに済む」
老婆の異相が、女武芸者の美貌に迫る。
「考えたとて何になる。お主も蛇孕村の者共を見たであろう。笑顔笑顔、皆笑顔。薙原家は民百姓から年貢を取らぬ。村人は田畑で採れた作物を食べる。飢饉の折は、薙原家が民家に米を分け与える。賦役もない。薙原家が外界より買い集めた下人が、蛇孕村の作事や普請を行う。医者も無料で診断する。村人に妖術は使えぬが、お主は薙原本家の旗本。手傷を負うた折は、我を頼るがよい。如何なる傷も癒やしてやろう」
「その折は、宜しく頼むぞえ」
朧はニヤリと嗤い、皮肉げに口調を真似た。
「ぞえぞえぞえ」
ヒトデ婆は笑いながら、朧の脇を通り過ぎた。
上がり框に上がり、今度は書物の整理を始めた。後ろ姿は全くの無防備。素手で捻り殺す事もできるが……朧は殺意を抑え込む。
眷属の蚤が、一匹だけという事はあるまい。この荒ら屋に何百匹も隠れている筈だ。死角が存在しないばかりか、何か異変が起これば、即座に本家屋敷へ伝えられる。朧も仕官したばかりで、上役殺しを実行するつもりはない。
「獺殿から聞いた話と違うのう」
「符条は我の事を何と言っておった?」
ヒトデ婆は、振り返らずに尋ねた。
「ヒトデ婆という老婆は、世捨て人の如き者と申しておった。他の分家衆から爪弾きにされながらも、使徒が人を産む方法を研究しておったと」
「外れてはおらぬ。然れどそれも本家より与えられた役目ぞえ」
「如何な意に?」
「八十年ほど前となろうか。四代前の御本家様より内々に下知を授けられた。使徒が人を産む方法を調べよと」
「
「いや……四代前の御本家様は、予言の成就を諦めておった」
「異な事を申す。予言の成就が、薙原家の悲願と聞いておったが」
「お主の言う通りぞえ。
「……」
「初代の
朧は、訝しげに眉根を寄せた。
「……話が読めぬ。何故、予言の成就を諦めた者が、お主に人を産む方法など調べさせたのじゃ?」
「『間抜け』を見つける為ぞえ」
「?」
「妖怪が人を産むという事は、子孫に妖術を捨てさせるという事。武家が鎌倉で政を始めた頃、武蔵国は
「……成程。お主が人を産む方法を研究しておれば、間抜けの方から近づいてくる。狭い山奥の集落じゃ。如何に巧く隠したとて、周囲の者共に気づかれよう。後は煮るなり焼くなり、本家の意向次第というわけか」
「左様。然れど芝居ではないぞ。それこそ蛇孕村は狭い。手抜かりがあれば、間抜けに見破られてしまう。ゆえに我は娘に家督を譲り、この荒ら屋で医師を務めながら、人を産む方法を研究してきたぞえ。先祖伝来の医学書を読み漁り、様々な薬を調合しては、間抜けの肉体を用いて試す。秘薬で興奮させた猿に、間抜けを陵辱させた事もある。人贔屓の間抜け共は、それはもう並々ならぬ覚悟で、我の実験に協力してくれた。な~んの成果も出なんだが……御本家様は『調べよ』と命じられた。『解明せよ』と下知されておらぬ。お陰で我も退屈せずに済んだぞえ」
「外道が」
ヒトデ婆は、朧の非難を余裕で聞き流す。
「我は生来、正しい道など歩いた事がないぞえ。加えて当代の
ヒトデ婆は、薙原家の歴史を嘲笑する。
「荒ら屋から眺める景色は、いつ見ても変わりおる。まさか本家に男子が産まれるなど、あの頃は思いもよらなんだ。挙句の果てに蛇の王国を建国し、
自虐的な様子はない。
寧ろ腹の底から、喜悦の笑声を漏らしている。
ヒトデという老婆には、金銭欲も出世欲もない。荒ら屋の外を屋敷の庭と同程度に考えている。精神が屈折しようにも、己の意志すら持ち合わせていない。
骨の髄まで傀儡と言うべきか。本家の指示通りに動き、周囲の価値観が変遷しようと、己の行いを省みる事はない。
それゆえにおゆらと情報を共有できるのだろう。
二年前の謀叛で政権が変わり、再び肥沼家の当主に担ぎ出されても、荒ら屋で貧しい生活を続けている。評定にも一切顔を出さず、代理に十歳の
おゆらが薙原家の主流である限り、ヒトデ婆が裏切る事はないだろう。
「年寄りが動いておるのに、少しは手伝おうと思わぬのか?」
「全く思わぬ。年寄りは動いていた方が、痴呆の予防に良い」
朧は胡座を掻いて応えた。
「それより肥沼家の妖術――『
「……蜥蜴の尻尾の如く再生はできぬ。然れど心ノ臓が動いておれば、切断された腕を接合できる。換言すれば、心ノ臓を動かす事はできぬ。
仮に――と前置きを置いた後、馬手の手刀を左腕に当てた。
「儂の左腕が斬り落とされたとしよう。運良く腕の良い
「それは無理ぞえ。肥沼家の妖術は、負傷した部位を復元するだけ。それも脳と心ノ臓を持つ生き物に限られておる。儂の妖術で接合するなら、再び左腕を斬り落とせ。左腕の先があれば、接合する事もできよう。然れど骨を切り詰めた分、左腕が短くなるぞえ」
「カカカカッ」
朧は哄笑した。
つまり切断された部位が消えてなくなると、二度と元に戻らない。縫合手術で切り詰めた上腕骨は、『
「体内に入り込んだ矢玉を取り出す事もできぬ。奏様が含み針で経穴を射貫かれた際、我の妖術で癒やす事ができなんだ。『
「下人の手足を切断しても、使徒の腹に収まれば、『
「左様ぞえ」
「『
「
「是ぞ
「妖怪が仏法に従うものか。それよりお主に蚤をつけてやろう」
「無用」
中二病といえども、蚤を持ち歩く趣味はない。何より斬り合いの最中に、己の負傷が癒えるなど、興醒めも甚だしい。
尤も妖術の情報は得られた。
それだけでも収穫である。
朧は典型的な中二病だが、魔法や妖術について懐疑的だ。正確に言えば、超常現象と捉えていない。蛇神の神通力と言われて納得するほど、単純な性格もしてない。
諸国を渡り歩いた朧は、何度も魔法使いと自称する中二病と立ち合った。大半が現実と妄想の区別がついていない愚か者か、姑息な小細工を弄する騙り者。何度も落胆させられたが、稀に驚くべき秘術を使う者もいた。
口笛で動物を操る透波や炎の息を吐く修験者だ。
無論、彼らの使う秘術にも、明確な術理が存在する。決して超常現象ではなく、万物の法則に基づく技法だ。
覇天流の秘太刀も何も知らない者が見れば、朧は神通力で間合いを詰めたように見えるだろう。然し虎ノ爪にも術理は存在する。
直立姿勢から駆け出すより、前傾姿勢から駆け出した方が速い。全身の力を用いて、地面と水平に近い状態で跳び出すからだ。膝を抜くまでもない。獲物に跳び掛かる猛虎の如く、腰を高く上げた前傾姿勢が、限界まで腸腰筋を伸縮させる。
前方に飛び出した後も、前傾姿勢を維持しながら走る。上体が前に倒れるよりも速く、両脚を交互に繰り出す。
重力に従いながら、前方に倒れ込む勢い。
素速く地面を踏む事で働く反作用。
二つの力を推進力に変えて、瞬時に間合いを詰めるのだ。
極めて単純な理屈だが、常人には真似できないだろう。
前屈姿勢と前傾姿勢は違う。前方に上体を屈めているのではなく、前方に全身を傾けている。左腕を広げた片手の腕立て伏せと言うべきか。前方に跳び出す瞬間まで、左腕一本で体重を支えなければならない。
加えて踵を上げて跳び出す為、足下が滑りやすい。朧の場合、両足に木履を履いている為、底辺の角しか地面を噛む場所がない。己の美意識を守る為とはいえ、底辺の角で地面を咬むなど至難の業。勿論、片手で跳び出しても、前傾姿勢を崩さない平衡感覚も必要である。
強靱な両腕と両脚。
卓越した平衡感覚。
異常に発達した大腿筋と
重力を跳ね返す腸腰筋。
鬼神の如き肉体の持ち主でなければ、真似する事もできない。
ならば、魔法使いの魔法や使徒の妖術は?
これらも術理を看破しても、朧に再現できないものなのか?
捻くれ者の中二病は、否と捉える。
例えば『
朧は誰からも教わらない。
生まれた時から、知識や技術は強者から盗んできた。
弱者から学ぶものなどある筈もない。強者は容赦なく斬り捨てる。或いは、徹底的に利用したうえで斬り斃す。
それが彼女の矜持だ。
斬り伏せた強者を見下ろした時、渇いた心が充実感で満たされる。
主君と仰ぐ薙原伽耶が亡き今――唯一の例外は、伽耶の息子だけだ。他の者がどうなろうと、朧は気に留めない。
「あの……お取り込み中ですか?」
木戸を開けて、百姓の娘が尋ねてきた。
左手に布を巻いているので、針仕事で怪我でもしたのだろう。表情から察するに、それほど深手ではないようだ。
「新しい患者が来たぞえ。お主は邪魔。帰れ帰れ」
「急かさんでも帰るわ」
粗暴に言い捨て、娘の横を通り過ぎる。
朧は擦れ違いざまに、意味ありげな視線を向けた。
百姓の娘はびくりとした。
これから百姓の娘は、傷口に荏胡麻油で唐黍の毛と韮と蓮の葉と蛆と馬糞と児手を煮詰めた汚物を塗りつけられるのだ。哀れだと思うが、殺菌という概念がない為、特に止める理由が思い浮かばない。
確か
やはり医者の言葉は信用できない。
各々で言う事が違い過ぎる。
下らない事を考えながら、朧は荒ら屋を退出した。
上がり框……玄関の土間と床の段差に儲けられた横木
児手……流産した胎児の死体
作事……建設作業
普請……土木作業
御本家……薙原本家当主
関東御領……鎌倉幕府の直轄領
御家人……武家の棟梁(将軍)の家人の身分
室町の治世……室町時代
鎌倉公方……足利氏の分家。関東の監督官。
関東管領……上杉氏。鎌倉公方の補佐。
金疵医……外科医
末法……仏の教えが信じられていない時代。世も末。
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