第26話 神楽
強い朝日を浴びながら、マリアは舞台の上で神楽を舞う。
しゃんしゃん――
流麗な所作で鈴を鳴らす度に、蛇孕神社の境内に
絹糸の如き長い黒髪が揺らめくと、華奢な首筋が映える。白衣の上に蒼く染め抜かれた千早を纏い、下は紫色の袴。禍々しい鬼面で美貌の上半分を隠し、房のついた銀の鈴を両手に持つ。
ふわりふわりと、雲の上を歩くような足取り。
傍らで笛を吹く奏は、許婚の舞に圧倒されてしまう。
巫女神楽の稽古が始まる前から、奏の心は麻の如く乱れていた。笛の音を外さないように意識するほど、余計に焦りを生んでしまう。
逆に常盤の叩く
明日の狒々祭りで、分家衆に披露する巫女神楽の下稽古だ。一月の転生祭と違い、薙原家の分家衆が集う宴の催し物。酒宴の座興と変わらず、今更意気込むほどのものではないが、今年の巫女神楽は特別な意味を持つ。
巫女神楽が終わった。
「――」
奏は笛を膝の上に置いて、大きな息を吐いた。
前日の下稽古で、これほど疲れた記憶はない。奏が落ち込んでいると、おずおずと常盤が近づいてきた。
普段の
「私の小鼓、おかしくなかった?」
瑠璃色の双眸を不安で潤ませ、恐る恐る尋ねてくる。
「全然問題ないよ。凄く上手で驚いた」
「ホント? 嘘ついてない?」
常盤は身体を震わせ、奏の顔色を窺う。
十日前とは、別人の如き様相だ。
奏は作り笑いを浮かべて首肯する。
「嘘なんかついてないよ。常盤には、
「そう……」
常盤は頬を赤らめて、恥じらいながら俯いた。
六月の上旬、全く予期せぬ形で、二人は衝撃的な事実を知らされた。
二年前に死んだ筈の
薙原家の者共は、妖しげな妖術を使い、人肉を貪り喰らう妖怪。
奏の本当の父親は、三年前に薨去した豊臣秀吉。奏は豊臣家の庶子で、豊臣秀頼の異母兄にあたる。秀吉の隠し子を徳川家に売り渡そうとした先代当主は、マリアが起こした謀叛により謀殺。加えて中老衆も粛清すると、おゆらの妖術で奏や常盤の記憶を改竄。疑念を抱かれないように、二人の精神に楔を打ち込んだ。
奏もマリアの真意は分からない。
許婚に真相を確かめたい処だが、それより常盤が気懸かりだった。
元々彼女は、薙原家に強い不信感を抱いていた。
後ろ盾の先代当主や世話役の
死んだ筈の世話役が現れた時、常盤は奇跡を信じただろう。外界で暮らせると報された時、明るい未来に胸を膨らませた筈だ。
然し期待は、最悪の形で裏切られた。
常盤が目覚めた時、すでに
その結果、常盤の淡い夢は破れた。
事件の直後から拒食に陥り、奏の庵に籠もり続けた。奏が呼び掛けても弱々しく応じるだけで、瑠璃色の双眸から精彩が消えていた。奏以外の者が訪れると、酷く怯えて部屋の隅に隠れてしまう。
奏は献身的に看病を続けた。
不自然に話し掛けたり、黙々と側に居続けられても、相手に重圧を与えるだけだ。奏は隣の部屋で待機し、常盤の呼び掛けに応じるようになった。
常盤も少しずつ食欲を取り戻し、時折微笑みを浮かべるほど回復してきたが……休養に専念する余裕がなくなった。
分家衆の間で、不穏な噂が流れ始めた。
常盤が裏切り者と内通して、本家屋敷に招き入れたというのだ。
本家は当初、分家衆に事の顛末を正しく伝えなかった。
二年前に謀叛で討ち損ねた
薙原家には、どちらも看過できない失態である。全ての事実を公表すれば、分家衆の動揺は避けられない。特に蛇孕村の外で様子見を決め込む篠塚家は、ここぞとばかりに女中頭の失態と猶子の逆心を糾弾する。
最悪の場合、血気盛んな者が功を焦り、常盤を殺そうとするだろう。それこそ奏が最も恐れる事態だ。
人喰いの妖怪が好き勝手に暴れ回るなど、絶対に阻止しなければならない。
奏は必死に知恵を絞り、極力波風を立てない筋書きを考えた。
岩倉の仲間が、突如本家屋敷に突入してきたのだ。
大胆不敵にも大手から押し入り、太刀を抜いて数名の女中衆を殺害したが、本家屋敷に寄宿していた女武芸者が刺客を成敗。これらの功績が認められて、朧は本家に士分として取り立てられた。
刺客が容易く本家屋敷に入り込めたのは、奏が
空城の計とは、
面白い逸話ではあるが、冷静に考えると、破れかぶれの愚策である。武田信玄が浜松城を城攻めすれば、容易く家康の首を取れただろう。
然し
奏一人が泥を被る形で、マリアとおゆらの力を借り、分家衆に虚偽の説明をしたが……全く信用されなかった。
蛇孕神社の巫女が惨殺されて、案山子の如く屍を晒されたばかり。
用心深いおゆらが、奏の戯言に付き合う筈がない。仮にマリアが指示したとしても、警備の女中衆を退かせた刹那、狙い澄ましたように突入できるだろうか。岩倉の仲間が本家屋敷の近くに伏せていたのであれば、おゆらに捕捉されて然るべきである。
即ち刺客を屋敷に招いた者がいるのではないか。
分家衆が疑念を抱くのも当然だ。
初めは余所者の朧に、疑惑の目が向いた。然し本家屋敷に潜入した翌日に、仲間を呼び寄せるだろうか。
一日や二日で屋敷の構造を把握できる筈がない。謀略にしても稚拙過ぎる。それに奏の推挙もあり、朧は仕官を果たした。本家が流浪の武芸者を庇う理由が見当たらない。
六十余名の牢人衆が、仕官目当てに奏の首を求めているのは、女中頭から報告を受けている。敵方の情報を得る為、敵兵を味方に引き込む。戦国乱世の常套手段だ。分家衆からすれば、女中頭らしいと納得できる。
本家の女中衆が、美作の牢人衆に内通したとも考えにくい。彼女らは
蛇孕神社の巫女衆も同様である。
必然、該当者は本家の猶子に限られる。
常盤の背信行為は、真実と内容こそ違えど、分家衆の間で半ば公然と囁かれるようになった。
此度の一件で、心の底から痛感した。
僕は
おゆらに政道の一切を任せ、自分で悩む事すら放棄してきたツケだ。周りの者を騙す方法など、これまで考えた事もなかった。
加えて奏も予想はしていた。
その屍を埋葬したのも、本家の女中衆と蛇孕神社の巫女衆だ。
秘密というものは、二人以上の者が関わると、絶対に隠しきれなくなる。時が経てば、自然と分家衆に事件の真相が伝わるだろう。
本家の面目や奏の名誉は、あくまでも二の次。常盤が非難の矢面に立たされず、分家衆を抑制する時間を稼げば、それで十分と心得ていた。
だが、奏の予想より噂の広まりが速過ぎる。噂好きの年寄りを甘く見ていたというか、田舎の情報網を甘く見ていた。
証拠もないのに、常盤の背信行為が浸透していく。
勿論、
狒々祭りの巫女神楽で小鼓を叩くというのは、分家衆の動揺を抑える好機。常盤は一度も神楽を囃した事がない。不自然極まりないからこそ、この件に深入りするなと、分家衆に釘を刺す事ができる。
おゆらの助言は、腹立たしいほど正しい。
「部屋に籠もり続けても、気分が沈むだけです。多少荒療治のつもりで、人前に出る事も必要かと」
奏は難色を示したが、他に手立てが見当たらないのも事実である。それに奏には、拙い謀で事態を悪化させた負い目がある。
ようやく食欲を取り戻したばかりの少女に、公の場で演奏しろというのも酷な話だ。しかも観衆は、常盤が忌み嫌う分家衆。決して無理強いしないように、断られて当然のつもりで提案すると、常盤は
今回の下稽古で様子を見て、難しそうなら代役を立てるつもりでいたが、意外にも堂々と小鼓を叩く。寧ろ隣に座る奏が安堵を覚えるくらいだ。
前に符条から聞いた話だが、演者は雅楽に身を任せる事で、己の中に渦巻く雑念を取り払うという。音曲には、人の心を癒やす力があるのだろう。勿論、全ての者に当て嵌まるというわけではないだろうが、常盤には奏楽の才能があった。
次からは鹿狩りではなく、歌舞音曲に誘うとしよう。小鼓に限らず、琴でも笛でも構わない。良い気晴らしとなるだろう。
下稽古がうまく進んだというだけで、奏は楽観していない。
実際に分家衆の前で演奏すれば、身が竦む事も有り得る。小鼓の拍子も狂うかもしれない。その時は、奏も笛の音を外すつもりだ。敢えて常盤以上に酷い失敗をすれば、それで丸く収まる。年寄衆に
これなら大丈夫そうだな……
心配事が一つ解消された代わりに、新たな心配事が浮かび上がる。
「奏――
「はい……」
奏は嘆息して立ち上がった。
普段は瞼を閉じているが、マリアの五感は常人を遙かに凌駕する。心臓の鼓動で心理状態や戦闘経験を見抜き、身体の臭いで健康状態を把握。さらに
奏も自覚していた。
常盤の看病を続けていたのは、責任逃れの現実逃避。他人の心配をしていれば、自分の心配をしなくて済む。胸に渦巻く葛藤からも逃れられる。
然し永遠に逃げる事はできない。
心の準備ができなくても、必ず現実が追いついてくる。
未だに薙原家の者共が、人を喰らう妖怪だと確信できない。豊臣秀吉の隠し子だと言われても、現実感が湧いてこない。まるで
奏は他にも多くの問題を抱えている。
彼の首級を狙う美作の牢人衆。
徳川家の繁栄を望む本多正信は、豊臣秀吉の血を引く奏を内々に処分する腹積もりだ。黒田如水は関ヶ原合戦の再現を望み、奏を旗頭に担ごうとしている。
対する薙原家の思惑はどうか?
事実、おゆらは『
自覚の有無に関わらず、マリアも不都合な事実を伏せていた。
人喰いの許婚と神楽に興じられるほど、奏も無頓着ではない。指が震えて、笛の音が乱れるのも無理からぬ事だ。
然し常盤の前では、気丈に振る舞わなければならない。
如何に言い逃れるべきか。適当な言い訳が浮かんでこない。詭弁を弄した処で、マリアの魔法で思考を読まれてしまう。
思案に暮れていると、唐突にマリアが口を開いた。
「神楽を舞いなさい」
「――ファッ!?」
「明日の巫女神楽は、奏が舞いなさい」
動転する奏に冷然と繰り返す。
蛇孕神社の舞台が、不気味な沈黙に包まれた。
幼い頃から、度々従姉の突飛な発言に驚かされてきた。こういう場合の対処法も心得ている。冷静に事情を尋ねればよいのだ。
「ええと、僕にも分かるように説明してください」
「明日の狒々祭りだけれど。これまで祭祀を任せていた符条がいない。私が彼女の代わりに取り仕切るから、奏は神楽を舞いなさい」
「待て――――い!!」
奏は咆えた。
咆えずにいられなかった。
「先生が村を出たのは、三ヶ月も前の事だよ! その間に先生の代わりを選んでなかったの!?」
「選んでいなかったわ。神楽を舞いながら思い出したくらいよ」
マリアは平然と開き直る。
薙原家の政道や蛇孕村の統治は、女中頭が差配すべき事柄。然れど狒々祭りは、蛇孕神社の神事。慣例上、神官の符条が差配してきた。
すでに代役を決めているのかと思いきや……分家衆の誰もマリアに諫言できずに、明日の本番を迎えようとしていたのか。
「先生の他にも、祭祀を取り仕切れそうな人はいるよ。おゆらさんとか他の分家の当主とか」
奏は呆れ顔で言うが、マリアは無表情を崩さない。
「おゆらは分家衆の接待役。他の分家は年寄りばかりで、到底任せられないわ。私以外に適任者が見当たらない」
「そうかもしれないけど……僕は神楽なんて舞えません!」
「幼い頃から見物していた筈よ」
「見物しただけで舞えるようにならないから! ていうか、巫女神楽は女性の舞! 男の僕は舞えません!」
「そうなの?」
「そうなの! 蛇神様に失礼です!」
「私は非礼だと思わないけれど……」
自称蛇神の転生者は黙考した後、
「それなら『
奏に代替案を提示してきた。
「――なんで!?」
奏は頓狂な声を発した。
蒼蛇ノ舞は、薙原家の基礎教養というべき舞踏である。
薙原家に連なる者なら、女童でも舞い踊れる。尤も女性の為の踊りだ。薙原家に男性の為の舞踏など存在しない。
「蒼蛇ノ舞なら舞えるでしょう」
「舞えるけど! なぜかおゆらさんに仕込まれたけど! アレも女の人の舞だから! 僕は男だから舞えないの!」
「外界には、女踊りという風習があるそうよ。男性が女装をして舞い踊るとか。特に不自然な事ではないわ」
「――誰だよ! マリア姉に余計な知識を植えつけたのは!」
怒鳴り散らしてみても、心当たりが一人しか思い浮かばなかった。
今頃、犯人は柔和な笑みを浮かべながら、本家屋敷で狒々祭りの準備に忙殺されているだろう。
「所詮は祭りの余興。蛇神の転生者である私が、演者と演目の変更を認めるわ。これで全ての障害が取り除かれた」
「ふぐあ!」
奏は胸に右手を当てて叫ぶ。
理解不能な言動で、許婚が外堀を埋めていく。奏の許婚は、天才とナントカの境界を自由に行き来する邪鬼眼。理屈や常識は通用しない。
十日前の悪夢が、奏の脳裏に蘇る。
とても状況についていけない。
背後に救いの視線を向けるが、常盤は困惑していた。
――ダメだ!
常盤を巻き込むわけにはいかない!
「ああ! 僕、
「それは次の機会にさせて貰うわ」
「――」
最後の抵抗も一蹴された。
「決まりね」
冷然と呟くと、
巫女衆は奏の周囲を取り囲み、完全に逃げ道を塞いだ。
「奏に似合う女物の着物を用意しなさい」
「畏まりました」
巫女衆は奏の両腕を掴み、強引に舞台の下手へ連れ去る。
「――えッ!? ええええええええッ!! マジで!? ホントにやるの!? 嘘でしょ!? 嘘だと言って――――ッ!!」
奏の声が、舞台の下手から響いた。
およそ半刻後――
女物の着物に着替えた奏が、数名の巫女に手を引かれながら、ふらふらと舞台の上に戻ってきた。
「綺麗……」
常盤が呆然とした表情で、女装した奏に見惚れる。
「笑って……寧ろ笑って……」
奏は虚ろな瞳で答えた。
新雪の如き絹に身を包み、桃色の打掛に金糸銀糸で桜の模様が散らされていた。背中に届く髪は撫で整えられ、金細工の髪飾りで留めている。顔色こそ悪いが、外見は見目麗しい姫君だ。
マリアが近づき、禍々しい鬼面を外す。
黄金に輝く双眸で、暫く許嫁の姿を凝視すると、やがて静かに瞼を閉じた。
「想像を超えるほどの美しさ。網膜に焼きつけたわ」
袖の中に鬼面を入れながら、冷たい声で感想を述べた。
「マリア姉に喜んで貰えるなら本望だよ」
言葉とは裏腹に、奏の笑顔が強張っていた。
許婚に女装を見られるのも辛いが、それでも
奥の間に引き摺り込まれ、数名の女中衆に力ずくで脱がされた。
必死に抵抗しても、「
面越しでも視線は分かる。
端的に表現すれば――
如意棒の品評会だった。
着替えていた時間より、全裸で放置されていた時間の方が長く感じたのは、果たして気の所為だろうか?
武士なら切腹モノの屈辱である。巫女の一人が思わず「
「奏……いえ、尊崇の念を込めて『かなたん』と呼ばせて貰うわ」
マリアが冷たい声で追い討ちを掛ける。
奏も反論しなかった。
道鏡が定着するよりもマシであろう。
「かなたんこそ
冷たい声で賞賛しても、奏は無反応だ。
僕はそんな事言わない……と切り返す気力もなかった。
「…………(‐_‐)」
すでに死に体である。
「どうしたの? 顔文字みたいな顔をしているわ」
「大丈夫……僕は平気です。平気だから。明日は、この舞台で女踊りを披露するよ。こんちくしょう」
会話が成立していない。
普段通りの光景だ。
「かなたん、綺麗……」
未だに常盤は、奏の姿に見惚れていた。
唯一の好材料は、常盤の精神に良い影響を与えている事くらいか。座興でも余興でも酔狂でも構わない。彼女の精神的な苦痛が減るなら、喜んで女踊りに励もう。
「かなたんがそう言うなら、私も追求は避けましょう。気を取り直して蒼蛇ノ舞――というのも堅苦しい。これからは『かなたん音頭』と呼びましょう。その方が、響きが良い」
「もうなんでもいいです。好きにしてください」
奏は投げやりに答えた。
「改めて稽古を再開するわ。総大将はかなたんよ。私の士気を高めなさい」
マリアの士気を向上させる理由が分からないが、これ以上の遣り取りは不毛だ。
奏は溜息を零し、右拳を突き上げた。
「
「
「鋭意鋭意」
「応」
「鋭意鋭意」
「応」
自暴自棄な少年と我が道を行く許婚が、力無く鬨の声を上げた。
大手……正面
元亀三年……西暦一五七三年
半刻……一時間
道鏡……奈良時代の僧侶。日本の歴史に残る巨根の持ち主。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます