第19話 真相

 マリアに己の眷属を踏み潰された時、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは使命の達成を確信した。


 やはり勅使河原君は役に立った。


 流浪の旅を続けながら、腕の立つ武芸者を襲撃し、その屍を陵辱する快楽殺人鬼の悪評は、薙原家の歩き巫女頭を務めていた頃から、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの耳に届いていた。蛇孕村から逃亡した際には、使い勝手の良い手駒になるだろうと、黒田家を通じて仲間に引き入れたのだ。

 実際に、彼は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの役に立った。

 今回の使命に於ける九郎の役割は、薙原家の注意を惹く為の囮。もしくは、おゆらの思考を誘導する為の道具である。

 九郎が蛇孕村に侵入した時点で、おゆらの対応は後手を踏んでいた。

 渡辺朧と符条巴と勅使河原九郎右衛門と美作の牢人衆。

 昨晩の時点で、おゆらが仮想敵と定めていたのは、前述の者達に限られていた。眷属を介して九郎と雑談に興じていたが、巫女衆は妖術を感知できない。勿論、おゆらは帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの関与を想定していただろう。然し无巫女アンラみこに憶測を語らなかった。

 おゆらは己の裁量で問題を解決するつもりだった。マリアが動き出すと、誰にも止められないからだ。

 用心深いおゆらの思考を予測したうえで、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは仕込みを始めた。

 夜も明けきらぬうちに、本家屋敷の近くまで忍び寄り、野外で自慰行為に励む常盤と接触。奏を本家屋敷の外に連れ出す段取りを整え、警備の女中衆を一人ずつ始末する。

 今朝方、九郎と眷属の会話をおゆらに盗み聞きされたが、これも問題視するほどではない。すでに仕込みは完了している。

 おゆらも帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの思惑に気づいた筈だ。然しおゆらは、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの行動を座視した。その方が、先の展開が読みやすくなるからだ。

 言葉巧みに常盤を味方に引き入れ、奏を本家屋敷の外に連れ出したとしても、逃亡先は猿頭山の曲輪しかない。手練の女中衆を集めて、馬喰峠を封鎖してしまえば、蛇孕村と外界を結ぶ道はなくなる。敵は猿頭山に閉じ込められてしまうというわけだ。

 見え見えの囮(勅使河原九郎右衛門)など、いつでも叩き潰せる。叛逆者(符条巴)と逃亡者(田中たなか帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス)。薙原家に翻意を抱く二人を同時に炙り出し、捕縛して後顧の憂いを断つ。想定外の出来事さえ起きなければ、狡猾な女中頭の思惑通りに進んでいただろう。

 然し如何なる陰謀を企てようと、所詮は人智に過ぎない。に入りさい穿うがち、重厚綿密な策略を巡らせた処で、不確定要素は必ず残る。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが経験と洞察力でおゆらの思考を見抜いたように、无巫女アンラみこも女中頭の思惑を読んでいた筈だ。超越者チートが誇る魔法――『怠惰タイダナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』の前では、虚言も黙秘も無意味である。おゆらの思考を読んだうえで、マリアは女中頭の策略を黙認した。無論、おゆらを信頼しているからではない。薙原家の政争に興味がないからだ。

 薙原家の者達は、マリアの思考を複雑に捉えがちだが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスも同じ中二病の端くれ。完全とは言い切れないまでも、彼女の価値観は理解できる。

 興味のない事は遣らない。

 それが中二病の基本理念である。

 さらに『怠惰タイダナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』で半径一里の事象を把握できたとしても、絶望的に方向音痴なマリアは、正確な地理情報を得ようと、猿頭山に足を踏み入れるだけで遭難する。

 加えて方向音痴という自覚のない超越者チートは、根拠もなく山頂を目指すだろう。

 方向音痴という人種は、己の進む道に疑問を抱かないから迷うのである。如何に天下無双の剣聖だろうと、その道理から外れる事はできない。案の定、マリアは山頂付近で待ち構えていた九郎と立ち合う。

 不確定要素と言うほどでもないが、朧と名乗る女武芸者が蛇孕村に現れたお陰で、おゆらの思惑に綻びが生じ始めた。

 猿頭山に隠れる九郎と、本家屋敷に潜り込んだ朧。

 おゆらには、二つの選択肢が残された。

 二人の首を同時に狙う事は、戦略的に有り得ない。馬喰峠の封鎖と本家屋敷の警備と奏の監視。その他にも符条や帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが出現した時の予備兵力等々。これ以上、兵を分散させるなど考えられない。少数で一人を取り囲み、返り討ちにされた挙句、符条や帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを取り逃す事が、おゆらの想定する最悪の結末。

 最初に殺さなければならないのは、本家屋敷に入り込んできた朧だ。奏の過去を知る余所者を一刻も早く始末したい。合理的なおゆらなら迷わず、余所者の殺害を最優先に進めるだろう。

 対手の思惑が読めるなら、無理に抗う必要もない。おゆらの書いた筋書き通りに動きながら、少しずつ不確定要素を排除しつつ、最後に筋書きを引き裂いてやればよいのだ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの目論見通り、人間案山子に刻まれた『泥棒猫』という言葉に、天下無双の超越者チートは釣られた。

 『泥棒猫』という言葉に、深い意味はない。言外の意図すら存在しない落書き。おそらくおゆらは、中二病特有の戯れと考えただろう。

 確かにおゆらの推察通りである。

 ただの悪ふざけだ。

 それ以上でも以下でもない。

 それでもマリアは見過ごせなかった。人間案山子を回収する巫女衆の思考を読んだのだろう。『泥棒猫』の存在を確認する為、无巫女アンラみこは蛇孕神社を飛び出し、自分から本家屋敷に赴いた。

 これで舞台は整った。

 後は頃合を見計らい、符条家に妖術で本家屋敷の現状を伝えて、奏が誘拐された事を報せれば、マリアは確実に暴走する。

 許婚がかどわかされるなど、天下無双の剣聖は認めない。その所為で、おゆらの行動は大幅に制限されてしまう。朧を始末する為に用意した女中衆は、マリアの捜索にてなければならないからだ。それに今頃、監視役だけでは安心できないからと、自分の手で主君の身柄を確保すべく、おゆらは別働隊を編制している筈だ。

 然し残念ながら遅い。

 舞台を整えた時点で、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの勝利は確定している。如何に相手が狡猾であろうと、十代の小娘に知恵比べで負けるほど、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスも甘くない。

 人生の先達からすると、おゆらは合理的に物事を考え過ぎる。一切の妥協もなく、事態の解決を試みる。決して悪い事ではないのだが、定石であるがゆえに読みやすい。

 対する帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの行動は、弥縫策びほうさくの積み重ねに過ぎない。特にマリアを暴走させるというのは、策略というより博打に近い。だが、当人にも読み切れないのだから、おゆらも対処のしようがない。己の策略に『無駄な遊び』を入れるくらいの余裕がなければ、更なる成長を遂げるのであろうが――

 何はともあれ、思惑通りに事は運んだ。

 渡辺朧はどうでもよいが、九郎とマリアは立ち合いの最中だろう。果たして立ち合いと呼べるものになるかどうか……結果はどうあれ、天下無双の剣聖と立ち合えたのだから、九郎も地獄で満足しているだろう。

 それより彼が稼いだ時間を有効に使わなければならない。

 呆然と佇む奏に、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが語り掛ける。


「日ノ本には、無数の神々が存在する。神々は常世とこよという別世界に住んでいるが、幽玄オサレかいという架け橋を通じて、我々の世界――現世うつしょに様々な影響を齎す。寧ろ現世の事象は、常世の神々が関与している……と言うべきかな」

「……」

「勿論、神が現出する事なんて殆どない。然し稀に、ボクたちの前に姿を現す事がある。二つの世界の掟を破り、現世に災いを齎す邪悪な神様だ。ボクたちは、そのような邪神を『禍津神マガツガミ』と呼んでいる」

「蛇孕神社の蛇神……」

「御名答。理解が早くて助かる。奏様は、本当に頭が良いねえ」


 奏様が小声で呟くと、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが大袈裟に褒め称える。


「村長の許婚が蛇神を洞窟まで案内したというのは、薙原家が蛇孕村を支配する為に改竄した伝承。本当は疫病えやみに侵された村人達が、村長に異能を求めた。勿論、蛇神は村長に対価を求める。何も失わずに力を授けてくれるほど、神様も甘くないからね。村長は妹を生贄に捧げ、現世の摂理を書き換える能力ちから――妖術を授けられた。然し彼の所為で、彼の子孫は呪われてしまった。薙原家の者共は、人を喰らう妖怪に成り果てた。しかも女しか生まれないというオマケつき。ボクたちの先祖は、人を餌贄えにえと呼んでかどわかすようになった」

「……」

「尤も効率の良い遣り方とは言えない。無差別に餌贄えにえを拐かしているだけだからね。すぐに餌贄えにえが不足してしまう。だから百年前に、御先祖様が仕物しもの専門の透波を始めた。餌贄えにえに雇われて餌贄えにえを殺害し、餌贄えにえと金銭を手に入れる。さらに蓄えた銭で餌贄えにえを買い集めるという寸法さ」

「人身売買に手を染めていたんですか?」

「それほど驚く事かい? 外界では、人商人ひとあきびとが人を売り買いしているじゃないか。薙原家は、彼らの真似をしているだけだよ。わざわざ死人を集めるより、生者を買い集めた方が簡単だからね」


 奏は顔を顰めて、嫌悪感を露わにする。


「どうだい? 理解できそうかな?」

「理解できても……貴女の話を信用できない」


 時間の経過と共に、奏も平静を取り戻していた。

 相手に呑まれてはいけない。

 まだ帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが、本物と確定したわけではない。それに人喰いやら人身売買やら根拠のない話で薙原家を貶め、奏の心を折るつもりではないか。

 奏が警戒心を強めると、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが大袈裟に頷いた。


「ふふふ……当然の反応だね。寧ろ用心深さを身につけたようで、奏様の成長に感動を覚えるよ。それでは、奏様に信用して貰えるように、ボクが人喰いの妖怪という証を見せよう」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが唇の端を吊り上げると、不自然に眼を見開いた。


「……その瞳は?」

无巫女アンラみこ様と同じさ。金色に輝く瞳こそ、薙原家の血を引く人喰いの証。无巫女アンラみこ様だけが特別というわけじゃない」


 冷たい。

 背筋が凍りつくような視線。

 底知れない恐怖を覚えながらも、視線を逸らす事ができない。マリアだけの異常体質と教えられてきたが……本当に全てが嘘なのか。


『加えて瞳が金色に輝く時、ボクたちは妖術を発動できる』


 先程と同じ現象だ。

 両手で耳を塞いでも、脳内に他人の声が響いている。


『耳を塞いでも届くんだ。奏様の脳に直接ね』

「僕の脳に……ッ!?」

『慣れないと気持ち悪いだろうから、この先は自分の声で話すよ。両手を耳から離してくれないかな』


 奏が恐る恐る両手を離す。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは瞳の色を戻し、自分の声で語り始めた。


「これがボクの使う妖術――『念話通信ねんわつうしん』だ。田中家の人喰い……ボクたちは妖術使いを『使徒』と呼んでいるが、田中家の使徒は、他人の脳に情報を伝達できる。一度でも相手を視認すれば、物理的な距離は関係ない。何百里離れていようと、一瞬で相手に情報を送信できる」

「――ッ!?」

「勿論、情報を伝えるだけだ。音を伝えるわけじゃない。だからボクの声は、受け取る側しか聞こえない。欠点を挙げるなら、情報を送信できても受信できない事かな。田中家の使徒は、『念話通信ねんわつうしん』で情報を受け取る事ができないんだ。『薙原衆』や歩き巫女を動かすだけなら、情報を送信するだけで十分なんだけど。分家衆の中で、田中家が情報収集を担当してきた所以だね」

「……」


 奏は唖然とする。

 連絡手段が、狼煙か太鼓という時代。関東の山奥から日本各地に指示を出せるのであれば、これほど便利な力はない。鷹と亀を競争させるようなものだ。情報伝達速度で、他の武将や商人を圧倒できる。生業の仕物は元より、銭貸しや唐物屋などの商売、果ては合戦に至るまで、活用の範囲も多岐に渡る。

 改めて『薙原衆』が諸国で暗躍し、諸侯から畏怖される理由が分かった。


「妖術については納得できたかな? 人喰いについては……これも見た方が早い」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは女中の屍を蹴飛ばし、ごろんと仰向けに寝かせた。


「――ふんッ!!」


 気魄の声を発して、屍に龍腕を振り下ろす。


「な――ッ!?」


 奏は眼を剥いた。

 鉤爪を首に突き立て、喉の肉を抉り取る。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、血の滴る肉片を口元へ運んだ。屍肉を咀嚼そしゃくする姿は、地獄の餓鬼のようだ。

 奏は恐怖で凍りついた。

 ごくりと喉の肉を呑み込むと、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは爽やかな笑みを浮かべた。


「薙原家の使徒は、定期的に人を食べないと死んでしまうんだ。これも妖術と共に先祖から受け継いだ呪いだよ」

「……人身売買は?」

「ボクが蛇孕村に住んでいた頃は、毎年千人くらいは買い集めていたかな」

「そんなに――」


 奏が驚いて息を飲む。


餌贄えにえの備蓄や作男の補充を考えると、必要な下人の数も多くなる。加えて使徒が増えれば増えるほど、餌贄えにえの調達費用も増えていく。薙原家の悩みの種さ」

「……」

「勿論、薙原家や住民に逆らわないように、おゆらさんの妖術で操られている。これも奏様に隠されていた事実だ」


 事のついでのように、薙原家の異常性を打ち明ける。


「そろそろ納得できたかな?」

「二年前に他界した帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんが、現世に迷い出てきたのかも……」

「まだ帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの言う事が信じられないの!?」


 常盤に非難されても、奏は衝撃的な事実を受け止められない。紅蓮の炎に包まれた本家屋敷や女中衆の焼死体が、今でも脳裏に焼きついているのだ。

 己の記憶を否定する事は、己の存在を否定する事。

 奏自身、安易な現実逃避と理解しているが、身内が人喰いの妖怪と信じるより、懸命に受け入れやすい事実を探していた。


「――そうだ! 僕は妖術なんて使えない! 人を食べた事もない! 本家筋の者が、普通の人なんておかしいよ!」


 ようやく突破口を見つけて、奏は一気にまくし立てた。

 だが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの表情は変わらない。相手の質問も予想していたようで、憐憫の眼差しを向けてくる。


「それが問題なんだよ。人喰いの妖怪しか生まれない筈なのに、ただの人間が生まれてしまった。それも本家の直系で男子。アンラの予言に記された師府シフの王。薙原家の行く末を決める者が現れたんだ」

アンラの予言?」

「初代の无巫女アンラみこが、八百年前に残した予言だよ」


 馬手から低い声が響いて、奏は驚いて顔を上げた。

 小さな祠の陰から、こそりと獺が現れた。


「――先生ッ!? 先生ですか!?」

「久しぶりだな。三ヶ月ぶりになるか」


 見覚えのない獺から、確かに傅役の声が聞こえてくる。

 常盤も言葉を失い、奏の後ろに隠れた。


「符条さんが最初に到着したか。他の人達は、もう少し時間が掛かるだろうね」


 帑亞翅碼璃万崇が、鷹揚に奏を見遣る。


「まだ説明していなかったね。これも使徒が使う異能の一つ。薙原家では、使徒が使役する獣や虫を眷属と呼ぶ。己の眷属に視聴覚を移し、他人と会話をする事も可能だ。勿論、眷属に妖術を使わせる事もできるよ。陰陽師が使役する式神だと思えば、奏様も納得しやすいかな?」

「……」


 陰陽師の式神と言われても、陰陽道に疎い奏が、理解できる筈がない。半ば放心状態の奏に、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは説明を続ける。


「符条さんの眷属は、見立て通りの獺だ。田中家の眷属は蝗だけど、あまり使い勝手が良くないんだ。情報の伝達なら『念話通信ねんわつうしん』で事足りる。諜報活動に使おうにも、意外に蝗は目立つからねえ」

「……?」

「蝗は稲を食い散らかす害虫。百姓の天敵みたいなものだけど、同時に貴重な食料でもあるんだ。実際、日ノ本の各地には、蝗を食べる習慣がある。御役目の途中で誰かに見つかると、簡単に捕らえられて食べられてしまう。蝗の群れを飛ばす事もできるけど、飛蝗ひようは目立つからなあ。あまり現実的とは言えないね」

「……」

「本当に田中家の眷属は使いにくい。符条さんと取り換えてほしいくらいだ」

「馬鹿を言うな。獺は高値で取引されているんだぞ。人目につかないように、池から這い出るのも大変なんだ」

「……」


 奏は妖怪同士の会話についていけない。


「……話を本題に戻そう」

「そうだな。どこまで話した?」

「薙原家について基本的な説明を終えた処さ。これから奏様の出生について説明するつもりだよ」

「私も同席させて貰うぞ」

「どうぞ御自由に。ボクが嘘をついていないという証人になる」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの確認を取ると、獺が神妙に語り出した。


「薙原家は、お前に嘘偽りを教えてきた。私もお前に真実を伝えなかった。だが、アンラの予言に関する事は、正確に伝えてきたつもりだ。一月の転生祭然り。六月の狒々祭り然り。神事の締め括りに、先祖伝来の予言を諳んじる。お前も聞いた事があるだろう」

「蛇神様の教へに従ふ者共よ。

 永劫の栄えを望まば、我が言の葉に従へ。

 蛇神様受け入るる器を造れ。薙原家の嫡流に神の血を混ぜよ。十二柱の神の血混ぜ合はせしほど、現世うつしよアンラの女神生誕す。

 蛇神様と釣り合ふをひとを造れ。蛇神様の血を引く鼠神ねずみがみの子。蛇の王国に君臨する者。師府シフの王と成るべき者なり。

 蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国するため、無限の殺生をいとはぬ者なり。

 蛇神様に命を捧げよ。鼠神の子求め相争あいあらそひ、使徒の骨を祠に埋めよ。三十六人の生贄を捧げしほど、鼠神の子に権威を与ふ。

 八百年目の転生祭の夜、アンラの女神と師府シフの王は契りを結ぶ。外界の生類しょうるいは死に絶え、蛇の王国建国さる。敬虔なる使徒は真のさま取り戻し、永劫の栄えをむかへむ」


 奏は呆然と予言の言葉を諳んじていた。


「懐かしいねえ。儀式を行う度に、符条さんが諳んじてくれたからなあ。お陰で予言の文言が、頭から離れなくなる。然しボクたちは、あまりアンラの予言を信じていなかった。勿論、初代の无巫女アンラみこが残した予言だ。ボクたちも無視していたわけじゃないよ。でも薙原家に未来を予知する妖術なんて存在しない。それに『十二柱の神の血混ぜ合はせし~』と言われてもねえ。禍津神マガツガミを現出させる方法が見当たらない。薙原家も試行錯誤を繰り返してきたけど、何の成果も得られなかったそうだよ。だからアンラの予言を信じていたのも、頭の固い年寄衆しかいなかったんだ。でも十七年前に大変な事が起きた」

「……」

「当代の无巫女アンラみこ様が生まれたのさ。先祖伝来の妖術に頼らず、森羅万象を支配する聖女。まさしく予言に記されたアンラの女神だ。お陰でアンラの予言に信憑性が出てきてしまった」

「……」

「さらに十年前、伽耶様が奏様を連れて蛇孕村に戻られた。蛇の血を引く鼠の子が生まれたと、年寄衆は無邪気に喜んでいたよ。无巫女アンラみこ様と奏様が結ばれた暁には、薙原家に永遠の繁栄が齎されると、根拠もなく信じ込んでいる様子だった。それこそ年頃の娘達を奏様と結ばせて、全ての分家に本家の血を入れてしまえとか。極端な事を言い出す馬鹿もいたくらいさ」


 奏は驚きながらも、反駁の言葉を呑み込む。

 相手の説明を途切れさせない事が、情報収集に効果的だと理解しているからだ。


「老い先短い年寄衆は、楽しそうだったけどね。年頃の娘達は、現状に困惑していた。寧ろ現状に恐怖していた……と言うべきかな? 予言通りに進むなら、ボクたちは奏様を求めて争わなければならなくなる。三十六名の生贄を捧げて、一人の勝者を選ばなければならない。争いの勝者は、蛇神の教えに忠実な使徒。倫理や道徳に縛られない外道。師府シフの王を玉座に据える為に、無限の犠牲を厭わない怪物。薙原家の秩序を破壊し、下克上を達成する魔女だ」

「魔女……」


 奏は鸚鵡返しに呟いた。


「当然、本家は下克上なんて認めない。あの苛烈な御先代様が、謀叛人を生かしておく筈がないからね。本当に魔女が生まれたとしても、土中に埋めて鋸引きだよ」

「……」

「それに多くの同胞はらからも預言の成就なんて望んでいなかった。当時の薙原家は、貧困に喘いでいたわけじゃない。寧ろ経済的な成長期を迎えていたんだ。それを内輪揉めで断ち切るなんて馬鹿らしいじゃないか」

「……」

「結局、御先代は无巫女アンラみこの許婚という肩書きを与えて、奏様を本家の御屋敷に留め置いたんだ。理由は説明しなくても分かるよね?」

「先生や年寄衆の不満を抑えて、僕の処遇を先送りにする為。同時に年寄衆が、僕を懐柔しないように見張る為。伯母上は、反抗的な年寄衆が僕を取り込んで、本家に牙を剥く事を恐れたのか……」

「流石は奏様。慧眼だ」


 帑亞翅碼璃万崇に世辞を言われても、まるで現実感が湧いてこない。

 赤の他人の話を聞かされているようだ。


「でも御先代の思い通りにならなかった。ボクたちも読み間違えていたんだ。奏様を庵に閉じ込めている間に、少しずつ状況は変わったんだ。それも悪い方に――」

「……」


 恐怖を抑え込むように、奏は唾を飲み込んだ。

 話を聞く前から悪い予感しかしない。


「先ず御先代と年寄衆の対立が、修復不可能なほど激化した。御先代は、薙原家に莫大な利益を齎した。山間の集落で開墾して成功。増産した作物を元手に、高利貸しを初めて大成功。剰え唐物屋に手を伸ばし、一代で薙原家の家蔵を大名級に増やした。然し急激な経済成長と引き替えに、貧富の格差が生じた。己の言葉に従う者ばかりを重用し、薙原家の権益を本家に集中させた。それは薙原家が守り続けてきた理念――対等・平等・公平を否定する事。薙原家の理念に固執する年寄衆や利益の分配から外された者達は、御先代の独裁体制に不満を持ち始めたんだ」

「……」

「その結果、薙原家は二つに分裂した。一つは御先代を筆頭とする中老衆ちゅうろうしゅう。旧来の伝統や戒律より現世利益を追求する者達。主にボクや符条さんの世代。もう一つは、ボクたちの遣り方に反発する年寄衆。旧来の伝統や戒律に執着し、アンラの予言の成就を願う者達。主にボクたちの母親の世代。それに若い娘の世代――奏様と同年代の娘達も、年寄衆に共感していたんだ」

「なんで僕と同年代の娘達が、年寄衆に賛同するんですか? 予言の通りに事が運べば、三十六名の犠牲者を出すまで争わなければならない。自分達の安全を考えるなら、中老衆に助けを求めるべきでは……?」

「奏様の言う通り。それこそが、中老衆の最大の誤算だった。彼女達は、自分達の将来を悲観していたんだ」

「どういう事ですか?」

「ボクは中老衆だからねえ。若い娘達の気持ちは分からないよ。中途半端な憶測を語りたくないから、この先は符条さんに聞いてくれ」


 急に説明を丸投げされた獺は、困惑気味に説明を引き継ぐ。


「……私も若い娘達の心情など知らん。然し我々が思う以上に、薙原家の未来に絶望していたようだ。外界から餌贄えにえを調達しなければ、使徒は生き残る事ができない。だが、薙原家が下人を買い続ける限り、外界の者達から恨まれる。これでは、永遠に妖怪と人間の争いが終わらない。関東を支配する北条氏が滅んでからは、仕物の依頼も激減した。然し薙原家は、問題なく栄えている。若い世代からすれば、人喰いを続ける理由が見当たらないのだろう」


 何か思う処があるようで、獺は遠くを見つめる。


ついでに私や帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの世代は、外界の知識に染められているからな。外界の書物で倫理や道徳を学び、外界の娯楽で夢や希望を教えられた。私も若い頃は、自分が兵法へいほう数寄者オタクになるなんて思いもしなかった……」

「ボクも自分が中二病になるなんて思いもしなかったよ。未だに神聖な儀式と信じて、無闇に人間を喰い散らかしているのは、年寄衆くらいのものじゃないかなあ」

「若い世代からすれば、祖母の世代は化物。母親の世代は俗物。頼れる者が誰もいない。相当に思い詰めていたのだろう」

「それとアンラの予言に何の関係が……?」

「『敬虔なる使徒は真のさま取り戻し、永劫の栄えをむかへむ』」


 獺の一言で、奏は相手の意図を察した。


「先生……」

アンラの予言の一節だ。蛇神の使徒が真の姿を取り戻す……普通に考えれば、人間に戻るという事だろう。無論、自分達は人間に戻れない。だが、蛇の王国が建国できれば、自分達の子供は人間に生まれる。人喰いの呪縛から解き放たれて、穏やかな人生を歩む事ができる。私や帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスに子はいないが……彼女達の気持ちも分かる」

「……」

「不毛な争いを次の世代に引き継がせたくない。だから奏を求めて争い、自分達の中から魔女を選び出す。娘達の覚悟は認める。それでも希望的な観測が生み出した幻想だ。アンラの予言が成就すれば、全ての問題が解決するなど夢物語に過ぎん」

「符条さんの言う通り。何の根拠もない話だ。然し若い娘達は、アンラの予言に縋り、命懸けの殺し合いを始めてしまった。いやはや、若い娘達がそこまでするなんてねえ。ボクたちには想像もできなかったよ」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、獺に預けた話を引き戻す。


「中老衆は、目障りな年寄衆に謀叛の嫌疑を掛けて粛清する。年寄衆は、中老衆を事故に見せかけて暗殺する。若い娘達は、奏様を求めて殺し合う。表向きは静謐を維持していたけど、奏様や村人にバレないように、裏側で内訌を続けていたんだ。ボクの知る限り、八年足らずで二十名の同胞が命を落とした。結局、ボクたちはアンラの予言に記された通り、蛇神に生贄を捧げていたのさ」

「……」


 奏は何も応えない。

 語るべき言葉が見つからない。薙原家が人外の宿命を背負わされてきたなど、これまで考えもしなかった。


「愚かな事だと承知していながらも、ボクたちは身内同士で殺し合うしかなかった。然し不思議だと思わないか? どうして伽耶様は、奏様を連れて戻られたんだい? 伽耶様も聡明な御方だ。本家の血を引く男子を連れて戻れば、薙原家がどうなるか……それくらい理解していた筈だよ」

「……」

「もう一つ不思議な事がある。どうして御先代は、奏様を本家の御屋敷に留めていたのかな? 勿論、无巫女アンラみこ様を手懐ける為に、奏様を手許に置いておく必要があった。でも年寄衆の眼の届く所に、奏様を置いておく理由がない。ボクは何度も御先代に進言したんだ。奏様を蛇孕村の外に出して、年寄衆の眼の届かない所に隠すべきだって。でもボクの進言は聞き入れて貰えなかった。御先代は、絶好の機会が訪れるまで、奏様を蛇孕村の外に出したくなかったんだ」

「……?」

「全ての謎は、その刀が解き明かしてくれる」

「はあ……」


 奏は訝しみながらも打刀を拾う。


「刀の目利きはできるかい?」

「いえ……できません」

「う~ん。刀身を見ても区別がつかないか。目釘抜きを用意するべきだった。その刀は、伽耶様が奏様を連れて戻られた時、蛇孕村の外から持ち込んできたんだ」

「母の形見?」

「同時に御父上の形見でもある。奏様を守護する御守刀。外界では宗左文字そうさもんじ。義元左門字とも呼ばれているね」

「――義元左門字!? あの!?」


 思わず声を裏返らせた。

 刀剣に疎い奏でも聞き覚えがある。

 天文てんぶんの頃、畿内を支配する三好氏から武田信玄の父親――武田たけだ信虎のぶとらに贈られた名刀。武田家が今川家と和睦した際、娘の定恵院を嫁がせる時に手渡し、夫の今川義元は戦場に持ち歩いた。然し桶狭間合戦で敗れると、織田信長に奪われてしまう。

 信長は『禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀・織田尾張守信長』と銘を切り、本能寺の変で横死するまで所持していた。天正十年、羽柴秀吉が明智光秀を討伐した後、本能寺の焼け跡から発見。天下人に上り詰めた秀吉の手を経て、豊臣家嫡子の秀頼ひでよりに譲られたという。

 将来、天下を狙う武将が持つと伝えられる宝剣。


 どうしてそれが此処にッ!?


 奏は刀を鞘から抜く。

 刃渡り二尺二寸一分。信長が刀身をり上げたので、意外に身幅が広い。直刃すぐはの刃文や地金の輝きに目を奪われるが、奏には真贋の区別がつかない。なかごに銘が切られている筈だが、目釘抜きを用意していないので、この場で目釘を外す事ができない。天下に一振りしかない名刀だ。乱暴に柄から刀身を引き抜くのも躊躇われる。


「先生……」

「私が保障する。紛れもない本物だ」


 救いの視線を向けると、獺が神妙に断言した。


「そんな馬鹿な……」

「奏……この書状を見て」


 今まで沈黙を貫いてきた常盤が、興奮気味に袖の中から書状を差し出す。

 辛うじて地面に落ちた松明の灯りで、書状を読む事ができた。

 長々と文章を装飾しているが、結論は極めて明快である。


『義元左門字を授け、我が子の証とす』


 文末には、豊臣家の花押も添えられていた。


「この書状は、御屋敷の蔵で見つけたの。太閤桐が刻まれた刀箱の中に、その刀と一緒に入ってた。これでも嘘だと思う?」


 常盤は得意げに言う。

 奏は書状を見下ろし、がくがくと身体を震わせていた。


 薙原家が妖術を使う人喰いで――

 僕が秀吉公の御子息?


 現実を受け入れられない。

 頭の中は真っ白だ。

 放心状態の奏は、書状を握り潰していた。


「今から十六年前の事だ。御先代は北条氏から関白暗殺の依頼を受けた」

「なっ――正気ですか!?」

「あまり正気とは思えないねえ。当時の豊臣家は、三十数ヶ国を有する巨大勢力。関東の山奥に潜む透波が、七三〇万石の大大名に敵う筈がない……と御先代は考えてくれなかった。別に失敗しても構わないんだ。『風魔衆ふうましゅう』さえ恐れる難行に挑めば、仕物の依頼が増えるだろ?」

「……」

「何より双子の妹が疎ましい。无巫女アンラみこから還俗した伽耶様は、年寄衆から信望を集めていた。伽耶様にその気がなくても、御先代からすれば、敵対する派閥に担ぎ出された神輿。己の権力基盤を固める為に、伽耶様を排除しなければならなかった。だから伽耶様を刺客に選んだのさ」

「母は承諾したんですか?」

「間違いなく承諾したよ」


 奏様の問い掛けに、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは首肯する。


「勿論、年寄衆や符条さんは猛反対。それでも伽耶様は、御先代の下知を尊重したんだ。伽耶様も薙原家の政道を憂慮していたからねえ。一先ず自分が従えば、家中の混乱も収まると考えたんだろう。蛇孕神社に夜刀やとを残して、伽耶様は大坂城に攻め込んだ」

「一人で城攻めなんて……伯母上に玉砕を強要されたのか」

「そこまでは、ボクにも断言できないよ。伽耶様も雅東流二代目宗家を継承した剣豪だ。城詰めの兵を百名余りも斬り斃し、秀吉公の喉元に切先を突きつけたという。でも所詮は多勢に無勢。あと一歩の処で捕縛されてしまった」

「……」

「天下人の命を狙う大罪人。本来なら問答無用で死罪だ。でも秀吉公が、伽耶様を気に入ったみたいでねえ。伽耶様は大坂城の地下室に幽閉された」

「……」

「間もなく伽耶様は御懐妊。豊臣家からすれば、かなり面倒な事になった。後継者の羽柴はしば於次丸おつぎまるが病没した時期と重なり、跡目相続の序列が混乱していたんだ。まさか刺客に生ませた庶子に、豊臣家を継がせるわけにもいかないだろ? 困り果てた関白は、身重の伽耶様を円融院えんゆういんに預けたのさ」

「備前宰相の実母……」


 奏は掠れた声で呟いた。

 亡き宇喜多直家の正室で、豊臣秀吉の寵愛を受けた愛妾の一人。宇喜多秀家が秀吉の猶子に選ばれたのも、円融院の影響が大きいという。


「豊臣家が後継者不足に陥った時の保険と思われていたみたいだね。勿論、関白の隠し子を大坂城で育てるわけにもいかないから、円融院は古馴染みの覇天に伽耶様を預けた。覇天も困惑したと思うよ。関白候補とその実母だ。関白の子息だなんて、とても家臣に説明できない。だから表向きは側女という体裁を取り繕い、伽耶様と奏様を美作で保護したのさ。義元左文字は、奏様の出自を証明する為の物だね」

「……」


 奏は沈思黙考する。

 昨晩、朧から聞いた話と、真実が一つの線で結びついた。

 覇天は伽耶様を貴人の如く扱い、渡辺城の財政が傾くほど進物を捧げていた。己の出世に利用しようとしていたのか、円融院に忠義を尽くしていたのか。理由は分からないが、粗略に扱えない。なんとか伽耶に取り入ろうと、猪武者なりに努力していたのだろう。

 伽耶様が美作国を出奔したのも、何も知らない家臣団の暴発より、奏が豊臣家の後継者争いに巻き込まれる事を恐れたのだ。天正十七年、秀吉と淀殿よどどのの間に、豊臣家の次男――鶴松が生まれた。この時、庶子の長男は、後継者候補から外されたのだろう。然し天正十九年、鶴松は僅か三歳で病死。豊臣秀次とよとみのひでつぐが後継者候補の筆頭に躍り出たが、血も繋がらない甥を天下人に据えるくらいなら、やはり我が子を天下人に――と秀吉が考えてもおかしくない。事実、三男の秀頼が生まれた三年後、秀次は高野山に追放されて切腹。京都の三条河原で首を晒された。それだけではない。正室や側室、五人の子供や侍女に至るまで処刑。連座で追い腹を切らされた武将も数知れず。処分される前に出奔したのは、伽耶の英断であろう。


「伽耶としても蛇孕村に戻るのは、苦渋の決断だった。先代は……伽耶の姉は、姉妹の情けで動くような人物ではない。豊臣家の長男という旨みでもなければ、奏を匿おうとはしなかっただろう」

「そんな事ない! 御先代様は素晴らしい人だった!」


 獺が指摘すると、常盤は甲高い声で非難した。


「お前からすれば、素晴らしい人物なのだろう。然し我々からすれば、外界の欲望に取り憑かれた暴君だ。己の権勢を誇示する為なら、同朋の粛清も平然と行う。難民の娘を本家の猶子に迎え入れたのも、珍しい外見に興味を惹かれたからだ。南蛮なんばん数寄者オタクの酔狂に過ぎん」

「――ッ!」


 常盤は興奮して反論の言葉も出ない。


「一応、ボクの前の主君なので擁護するよ。銭儲けに関して言えば、非凡な才能の持ち主だった。薙原家の誰よりも、銭から銭を産み出す方法を理解していた。有り体に言えば、投機に長けていた。でも権力や金銭に対する執着心が強すぎた。奏様を徳川家に売ろうとしたくらいだからね」

「――僕を徳川家に!?」

「二年前、先代はお前の存在を内府だいふに明かし、外交の道具に使おうとしたんだ。前田利家が没したばかりで、中央は文治派と武断派の対立が抑えきれない状況だった。先代は売り時と考えたんだろうな」


 動揺する奏を尻目に、獺は説明を補足した。


「あの時の混乱は、お前が現れた時と比較にならないほどだった。无巫女アンラみこを刺客の如く扱う。己の周囲を中老衆で固め、邪魔な年寄衆を粛清する。挙句の果てに、師府シフの王を政の道具に使う始末。本家の専横に耐えかねた年寄衆は、マリアに忠誠を誓う起請文を差し出した。要するに謀叛を起こしたのさ」

「マリア姉が伯母上に謀叛を……」

「……少々喋り過ぎた。後は任せる」


 獺は器用に溜息を漏らした。


「ふふふ。二年前の犠牲者は御先代に中老衆……それに本家の御屋敷で奉公していた人質の娘達。二十二名も亡くなられたそうだね。御冥福をお祈りするよ」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、慇懃無礼な態度で弔辞を述べる。


「でも僕は葬儀に参列して――」

「おゆらさんの妖術で記憶を改竄されたのさ。都合良く本家の御屋敷で火災が起きて、御先代を含めた敵対派閥が全滅。さらに一部焼失した庭園を復元する為、何年も前から珍樹奇石を買い集め、半年足らずで御屋敷は元通り。流石に不自然だよねえ。全ては仕組まれていたのさ。でも奏様も常盤様も違和感を覚えなかった。おゆらさんの妖術は、記憶の改竄と精神操作。二年前の騒動に疑念を抱かないように、二人の精神に楔を打ち込んでいたんだ。余計な事は報せず。気づかれる事もなく、おゆらさんの望む通りの生活を続けて貰う為に――」

「どうしてそんな事を?」

「おゆらさんの考える事は、ボクにも分からないよ。ただ奏様も承知の通り、おゆらさんは蛇神崇拝に傾倒しているからなあ。アンラの予言を成就させる為に、奏様を利用したいんじゃない?」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、呑気な口調で言う。


「……帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんは?」

「謀叛が起こる前に、蛇孕村から逃げたよ。すでに隠居していたけど、ボクも中老衆の端くれ。まだ遣り残した事がたくさんあるのに、蛇神の生贄にされるなんて御免だ。ボクも火災に巻き込まれて死んだ事にされたみたいだけど、外界で元気に暮らしていたよ」


 右腕の龍腕を振りながら、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが陽気に笑う。

 生きていて良かった……と素直に喜んでいいのだろうか。度重なる衝撃の連続で、奏の精神は麻痺していた。もはや恐怖も悲憤も動揺も感じない。


「この先は、ボクより符条さんの方が詳しいと思うよ」

「ん……特に語るまでもないぞ。お決まりの権力争いだ。先代という重石が外れた途端、年寄衆が本家の利権を求めて対立。最後にマリアの信任を得たおゆらが、熾烈な権力争いに勝ち抜いた。結局、犠牲者も三十六名では済まなかった。四十名以上の同朋を生贄に捧げて、おゆらが魔女に選ばれたのさ」

「おゆらさんが……」

「まさしく下克上だな。後に残されたのは、現人神の如くマリアを崇拝する狂信者共と、おゆらの意のままに動く年寄衆。私も権力争いに敗れて、蛇孕村から追放された。ああ……物見遊山に出掛けると告げたのは、偽りの記憶ではないぞ。ようやく職務から解放されて、第二の人生を謳歌している処だ」


 獺が投げやりな口調で言う。


「ボクも自由を手に入れたんだけど、奏様と常盤様が気懸かりでねえ。未だに記憶を改竄されて、薙原家の好きなように利用されているのかと思うと、可哀想で仕方がない。そこで二人を迎えに来たというわけさ」

「一体、どこに行くというのですか? 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの話が本当なら、薙原家は僕を手放さないでしょう。徳川家も関ヶ原合戦で勝利し、豊臣家の庶子なんて用済み。豊臣家も大坂おおさか大納言だいなごん様の事を考えれば、僕の存在を危険視する。家督相続の火種になるだけですから。日ノ本の全てを敵に回して、どこへ逃げろと言うのですか?」

「今のボクは、黒田如水様にお仕えしている」

「――黒田如水!?」


 予期せぬ大物の名に仰天した。

 豊臣秀吉の側近で、天下随一の軍師。

 秀吉の天下統一事業に貢献し、豊臣政権の参謀役として辣腕を振るった。然し才気溢れるばかりに、秀吉からも警戒されていた。ある時、秀吉が戯れに「儂の死後、天下を狙う者は誰か?」と家臣に問い掛け、徳川家康や前田利家の名前が挙がると、「官兵衛かんべえの他になし」と一蹴した。当時の如水は、十七万石の大名に過ぎない。家臣が訝しんで理由を問うと、「深謀遠慮、天下に並ぶ者なし。官兵衛に百万石でも与えてみよ。即座に天下を奪われてしまうわ」と答えた。その話を聞いた如水は、嫡男の長政に跡目を譲り、秀吉に対して叛意がない事を示したという。

 武州の山奥に住む少年からすれば、遙か遠い人物である。それが今の帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの主君だというのか。


「田中家の当主を務めていた頃、御先代に博多の頭取とうどりを調略するように命じられたんだけど……逆に向こうから接触してきてね。万が一の事態に備えて、黒田の大殿様と誼を結んでいたのさ」


 当時の博多は、日本屈指の海外貿易の拠点だ。

 対外貿易の集積地であるがゆえに、近隣の諸大名から執拗に狙われ、博多の町は何度も焼き払われた。九州征伐を終えた秀吉は、如水に命じて博多の再興に着手。諸国に逃れていた商人を呼び戻し、大小の船が行き交う近世都市に造り替えた。豊臣政権が海外貿易を重視していた証左である。

 謀略に秀でた如水が、薙原家に内通者を求めても不思議ではない。

 薙原家からすれば、博多の商人を調略するつもりが、逆に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを取り込まれていたのだ。しかも事実を知る前に、先代当主は娘に粛清されている。

 裏切りや騙し討ちが横行し、己の利益を守る為なら、身内といえど切り捨てる。荒廃した現世の在り方に、奏は憤りを覚えた。


「金銭で薙原家を売り渡したんですか?」

「人聞きの悪い事を言わないでくれよ。ボクは自由を求めたんだ。中二病を拗らせたボクには、薙原家は窮屈過ぎる。然し人喰いの妖怪が、一人で生きていけるわけがない。過去に蛇孕村を飛び出した使徒もいたけど、その多くが悲惨な末路を辿った。人里離れて山奥に隠れ潜み、人間の軍隊に怯えながら生きていく。その点、ボクはツイていた。大殿様のお陰で、不便な思いをしなくて済む。餌贄えにえも調達しやすい」

「……中二臭い理由ですね」

「中二病だからね。当たり前だよ」


 奏が眉を顰めると、中二病の妖怪が笑顔で受け流す。

 悔しい事に、中二病に皮肉は通じない。


「そういうわけで、福岡の大殿様は、奏様の身を案じている。庶子とはいえ、今は亡き主君の御子息。太閤が崩御されても、君臣の誼が消えたわけじゃない。大殿様は、奏様や常盤様が福岡城下で暮らせるように取り計らうとの事。薙原家や徳川家……淀の御方様も手出しできない。人喰いの妖怪と縁を切り、二人で幸せに暮らしてほしいんだ」

「僕と常盤が福岡に……」

「もう二人で暮らす屋敷も用意してくれてるの! 一生暮らしに困らないように、如水様が扶持も授けてくれるって! 早く村を出て、薙原家と縁を切ろう!」


 常盤は瞳を輝かせ、奏の袖を掴んで急かす。

 これほど常盤が喜ぶ姿を初めて見た。

 希望に満ち溢れた表情に、奏の心が揺れ動く。


「福岡は良い所だよ。土地の人は穏やかだし、新鮮な海の幸が楽しめる。符条さんも反対しないだろ?」

「そうだな。私の目的は親友の忘れ形見が、自由で安全に暮らす事だ。それが伽耶への手向けとなろう。だが、勘違いするなよ。私は黒田如水と手を組んだわけではない。朧を招いたのも、お前の身を守る為だ。お前の安全を保障する事は、天下を取るより至難だからな。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスと共に福岡へ行くなら、敢えて止める理由もない。お前の将来だ。お前が自分で決めろ」

「僕の将来……」


 小さな呟きが、胸の中で反響する。

 本家の当主の入り婿になる。

 それ以外の選択肢があるなど、今まで考えた事もなかった。

 奏の将来は、薙原家が決める事。マリアやおゆらの意向に従う事が絶対。彼女達に迷惑を掛けないように、これからも生きていくつもりだった。

 だが、忽然と違う道が示された。

 小さな村を飛び出し、大きな世界に旅立つという道。蛇孕村の生活を忘れて、外界で穏やかに暮らす。危険な妖怪と縁を切る。豊臣家や徳川家に狙われる心配もない。誰かに利用される事もなく、己の意志で生きていく。

 それは当たり前の幸福であろう。少なくとも帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスについていけば、透波の扶養家族という呪縛から解き放たれる。

 皆が奏の答えを待つ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが楽しげな表情で見つめ、獺が黒曜石の如き瞳で見上げ、常盤は瑠璃色の双眸を期待で輝かせていた。

 ここで決断を下さなければならない。

 選択をしなければ、この先へは進めない。


「……帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさん」

「なんだい?」

「昨晩、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんが夢に出てきたんです」

「……?」

「生者が夢枕に立つというのも変ですけど、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんに窘められる夢を見ました。『他人に騙されない方法を身につけた方がいい。事実しか話さない者は信用できない』という内容でした」

「それもおゆらさんの仕込みだよ。ボクが関与する可能性を考慮して、奏様が裏切らないように都合の良い夢を見せたんだ」

「そうですね。僕もおゆらさんの差し金だと思います。でも僕に話してくれた事は、本当の話なんですよね?」

「……そうだね」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが、初めて言葉を探した。

 奏は苦々しい顔で言葉を紡ぐ。


帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんに悪意があると思えない。僕達の為に尽力してくれた結果が、今のこの状況なんだと思います。だから僕の不安を払拭してください」

「ボクにどうしろと?」

「嘘をつかない者は、信用に値しない者。事実しか語らない者は、相手を利用しようとしている。本当に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの話が正しいなら、嘘吐きは信用できるんですか? 世間知らずの僕には、その辺りの違いがよく分かりません。だから不安を払拭してください。真実でも偽りでも構わないので、きちんとこの場で答えてください。僕の居場所を広めたのは、どこの誰ですか?」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、即座に答えられない。

 途端に重苦しい沈黙が、周囲を包み込む。


「……ふふふ。これはボクの負けかな」


 暫く黙考していたが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは苦笑いを浮かべた。


「相手を追い詰める為に一番有効な手段は、ひたすら事実を突きつけていく事だと、僕に教えてくれたのは帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんです」

「そんなの誰でも構わない! 奏の将来と何の関係があるの!? 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが情報を流していたとしても、私達の為にしてくれた事でしょ!」

「違うよ。そういう問題じゃないんだ……」


 常盤が興奮するほどに、奏の心は冷めていく。

 同時に深い悲しみを覚えた。


 常盤は、そこまで薙原家を恨んでいたのか……


 己を売り払おうとした年寄衆を恨み、新天地で新たな暮らしを始めたいと考えるほど、常盤は追い詰められていたのだ。

 どうして常盤の悲しみを理解してやれなかった。

 逃げられるものなら逃げ出したい。蛇孕村から飛び出し、外界で静かに暮らしたい。常盤がそのように考えるのも当然だ。


 僕は常盤の何を見てきたんだ……


 彼女の心を救うなど、思い上がりも甚だしい。常盤を助けるどころか、人の気持ちも理解できない愚か者だった。


「……僕はマリア姉みたいな天才じゃない。おゆらさんみたいな秀才でもない。だから誰が噂を流して、美作の牢人衆を焚きつけたのか……正直、今でも分からない。朧さんなのか。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんなのか。何年も前に、渡辺覇天が僕の居所を突き止めていたのかもしれない。でも問題はそこじゃない。誰が噂を流したか――ではなく、なんで帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんが答えられないか――なんだよ」

「なにそれ? 全然分かんない。奏が何を言ってるのか、全然分からないよ」


 常盤の端正な美貌が、奇妙な具合に引き攣る。


「その先は、私が説明しよう」


 見かねた獺は、奏の言葉を引き継ぐ。


「奏は真実でも偽りでも構わないから答えろと問うたが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは何も応えられなかった。つまり真偽を問わず、この場では答えられない質問という事だ。蛇孕村を出て福岡に到着した後でなければ、情報の出所を明かせない。答えを知れば、奏は確実に意志を翻す」

「――どうして!? なんでそうなるの!?」

「奏の居場所を伝えたのは、本多ほんだ佐渡守さどのかみだ」

「……誰? 偉い人なの?」


 一転、怖々とした表情で、常盤は顔を見上げた。


「内府様の懐刀。徳川家のおゆらさんみたいな人だよ」


 奏の瞳には、悲しみの色が宿る。

 本多ほんだ佐渡守さどのかみ正信まさのぶ――

 若い頃は徳川家康の鷹匠として仕えており、三河一向一揆みかわいっこういっきで一揆勢に加担し、鎮圧後は諸国を放浪。大久保おおくぼ忠世ただよの取り成しで徳川家に帰参すると、太閤薨去後の伏見城で謀略の限りを尽くし、豊臣家中に恐怖を撒き散らした。その巧妙な手口は恐るべきもので、彼の流した嘘や出鱈目の書状で、何人の大名が失脚させられた事か。同じ徳川家の朋輩からも蛇蝎の如く嫌われており、平然と奸臣呼ばわりされている。豊臣家の石田三成のように、血の気の多い家臣団を統率するには、面憎い知恵者も必要なのだろう。


「徳川家からすれば、もはや秀吉公の子息など不要。内府の直轄領に潜んでいるだけでも迷惑千万。早々に始末したい処だが、関ヶ原合戦を終えたばかりで、あまり大胆な行動は取れない。薙原家と正面から衝突するのも面倒だ。ならば、信頼できる他家に任せてしまえばいい。丁度良い時期に、黒田甲斐守が渡辺覇天を召し抱えたからな。佐渡守は甲斐守に仔細を打ち明け、内々に助力を求めた。甲斐守は関ヶ原合戦の後、筑前名島五十二万三千石を与えられたばかりだ。奏を調略の道具に使うより、内府に恩を売る道を選んだのだろう。覇天に命じて、牢人衆を刺客に仕立て上げる。仮に討ち損ねた処で、渡辺家の御家騒動。徳川家も黒田家も一切関係ない。失敗しても新たな策を講じればよいだけ――という思惑でいたが、これが如水の耳に入った」

「な……何の話をしてるの?」


 常盤は明らかに狼狽していた。

 難しい話は分からないが、雰囲気で潮目の変わりを察したのだ。


「嫡男に家督を譲ろうと、如水は天下の静謐を望まない。足利尊氏あしかがたかうじの如く九州で兵を集めて、西方と東方に続く第三勢力を作り上げた野心家。関ヶ原の混乱が収束する前に、次の謀略を進めるだろう。今の徳川家に、九州まで遠征する余力はない。和睦交渉が長引く島津家を抱き込み、九州に反徳川の一大勢力を形成する。清洲侍従きよすじじゅう……いや、安芸あきに入封したから、安芸侍従と呼べばよいのか。それに加藤かとう主計頭かずえのかみを含めた武断派諸将。加えて西方の総大将――毛利中納言を自陣に引き入れる。大局も読めない馬鹿共だが……内府が太閤たいこう蔵入地くらいりちまで国分けしたからな。豊臣恩顧の諸大名は仰天。所領を三分の一に減らされた毛利家も怒り心頭。豊臣家の長子という旗頭に喜んで飛びつくだろう。一方、東国では、会津中納言と伊達いだて少将しょうしょうが結託。徳川領を東西から挟み込む。備前宰相は薩摩で健在。上田合戦で二度も徳川勢を撃退した真田さなだ安房守あわのかみ九度山くどやまで蟄居。柳川左近侍従やながわさこんじじゅう長宗我部土佐守ちょうそかべとさのかみは、京に滞在しているとか。これだけ駒が揃えば、有利な立場で合戦を始められる。大義名分も単純明快。豊臣家の長男に相応しい所領を与えろと、無理難題を突きつけるだけでいい。結城少将ゆうきしょうしょうに六十七万石も分け与えたからな。内府が拒絶すれば、豊臣家に対する逆心のとがで事を運ぶ。関ヶ原合戦の再来……再び戦国の世に舞い戻るだろう。兵法へいほう数寄者オタクの血が騒ぐ。実に興味深い展開ではあるが……果たして日ノ本が保つかな? 二度の唐入りに関ヶ原。十年足らずの間に、大きな合戦が三度も続いた。すぐに終結すればよいが、応仁の大乱の如く長引けば、日ノ本は南蛮諸国に喰い荒らされよう。如水も南蛮諸国の脅威に気づいている筈だが……内部の膠着を打ち破る為なら、外圧すら利用するだろう。本当に恐ろしい博打打ちだ」

「天下の事なんかどうでもいい! そんなの奏と関係ない!」

「常盤……落ち着いて聞いてくれ。僕は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんについていけない。自分の意志と関係なく、合戦の道具にされてしまう。僕の所為で、大勢の人が死ぬ事になる」

「それなら化物と一緒に暮らすの!? 好き勝手に記憶を書き換えられて、妖怪と一緒に暮らす事が奏の幸せなの!? 今も薙原家は下人を買い集めて、無差別に喰い散らかしてるんだよ! 奏はそれで幸せなの!?」

「それは全く別の問題だ。記憶の改竄が気に入らない。偽りの生活に耐えられない。人身売買も人喰いも認められない。でもそれを理由に天下を巻き込む大乱を起こすなんて、論理が飛躍してるよ。何万何十万……もしかしたら、それ以上の犠牲者を出すかもしれないんだ。僕らの安全と無辜の民の命を天秤に掛ける事はできないよ。薙原家の事は――僕がなんとかするしかない」

「ナントカ? 随分と具体性を欠いた決意表明だね。君もアンラの予言を真に受けて、无巫女アンラみこ様と結ばれれば、全てが解決すると言いたいのかい?」

「御伽噺を信じるほど、僕も子供ではありません」

「……」

「マリア姉と離れたくない。裕福な暮らしを捨てたくない。伯母上が恐ろしい。薙原家の裏家業を知りながら、自分の立場を守る為に、見て見ぬフリをしてきたんです。僕みたいな悪党に、人並みの幸福を求める資格はありません」


 奏は穏やかな瞳で、常盤を見つめる。


「勿論、常盤は違うよ。薙原家に縛られる必要はない。先生が保護してくれるなら、外界で暮らしてもいいんだ」

「イヤじゃ! ウラは奏と福岡に行く! 蛇孕村なんか二人で出ていくでごいす! 奏が行かねえなら、ウラァ舌噛んで死んでやるズラ!」


 金切り声を上げて、涙ながらに頭を振るう。

 常盤が最も嫌う甲斐訛りが出ている。

 今の常盤に言葉は通じない。

 一度決断すると、奏の行動は早かった。


「常盤、ごめん」


 謝罪の言葉を口にしながら、常盤の左肩に手を乗せる。


「……え?」


 呆気に取られる常盤の顎先に、奏は手刀を打ち込んだ。

 脳震盪を起こして、前方に倒れ込む常盤を右手で支える。

 気絶した事を確認すると、奏は安堵の息を吐いた。


「自害を防ぐ為だろうけど、女の子に手刀を打ち込んではいけないねえ」

「……常盤を人質にされるかもしれないと思いました。いくら中二病でも、この期に及んで私情を挟んだりしないでしょう」


 奏の答えに納得したのか、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは涼しげに笑った。


「やっぱり奏様の判断は的確だよ。大殿様のような軍師が側にいれば、天下を狙えるかもしれない」

「天下分け目の合戦に勝利した後は、大坂大納言様と跡目争いですか? 合戦の旗頭に相応しいのかもしれませんけど、僕に味方する物好きな大名なんていませんよ」

「それも奏様の働きぶりを踏まえて、諸侯が自由に判断する。乱世というのは、そういうものさ」

「……」

「無駄だと思うけど、もう一度だけ勧誘しよう。僕と一緒に福岡へ来ないか? 軍隊の指揮を執る必要はない。表舞台に立つのも数回で結構。失敗した時は、暹羅しゃむでも天竺でも好きな所に逃げられるよ」

帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの心遣いに感謝します。それでも僕は、合戦の道具になるつもりはありません」

「……今更信じて貰えないと思うけど。ボクも符条さんと同じで、奏様や常盤様の将来を案じているんだ」

「二人とも律儀だから……心根に疑念を抱いているわけではありません。ただその優しさを他の人々にも分けてください」

「「……」」


 哺乳類と妖怪が、気まずそうに口を噤んだ。


「お前が余計な事を言うから、私まで窘められたぞ」

「いや~、申し訳ない。ボクは昔から一言多いんだ」


 哺乳類に頭を下げる妖怪。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを見ていると、奏の心に緩みが生じてしまう。


「……帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんは、どうして僕を天下人にしたいんですか? 出世や金銭に目が眩んだとは思えませんけど」

「ふふふ。良い質問だ。ボクの目的は――ボクっ娘を天下に広める事だ!」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは眼を輝かせ、威風堂々と宣言した。

 奏は首を傾げた。


「ええと……ボクっ娘ってなんですか?」


 今まで天下国家について論じていた筈が、急に許婚のような事を言い出したので、思わず呆気に取られてしまう。


「俗事に疎い奏様は知らないだろう。ボクっ娘とは、一人称に『ボク』を用いる女性の事だ。専ら漫画マンガ板芝居アニメの世界に登場するが、現実の世界にも存在する」

「はあ……」

「ボクが田中家の当主を務めていた頃、歩き巫女に命じて調べさせた事がある。全国で千人の女性に『ボクという一人称を使用した事があるか?』と尋ねた処、なんと一六九人が『使用した事がある』と答えた。つまり十人に一人は、ボクっ娘として生まれてきたんだ。然し世間は、ボクっ娘を認めようとしない。子供の頃はともかく、十代の娘が一人称に『ボク』を使うと、『数寄者オタク文化にかぶれた痛い子』とか『自意識過剰な痛い子』という扱いを受ける。その為、一人称に『ボク』を使う女性は激減する一方。ゆえにボクは誓った……八万人収容可能な鞠懸まりがかりを建造する前に、ボクっ娘を普及させると――それがボクに与えられた使命なんだ!」

「そんなくだらない事の為に?」

「くだらない?」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの双眸が、憎悪と敵意に染まる。薙原家の秘密や奏の過去を飄々と話していた女が、眉間に皺を寄せて苛立つ。


「ボクにとっては、命を懸けるほどの事だ! 社会的認知度が低いというだけで、同じ中二病からも『三十三歳でボクっ娘はキツい』と馬鹿にされる! 全国のボクっ娘を救う為にも、奏様に日ノ本を征服して貰うしかない!」

「いやいやいや。もっと平和的な方法がありますよ。地道に啓蒙活動を続けていけば、いずれ報われると――」

「世間の常識を変えてきたのは、常に歴史を動かした天下人だ! ボクっ娘を普及させる為なら、ボクはなんでもやる! たとえ天下が麻の如く乱れ、数多の犠牲を出そうと、ボクは何とも思わない! 寧ろボクっ娘を広めた殉教者として、後世に名を残すだろう! それは、とても素晴らしい事さ!」

「……どうかしてる」


 虚構の世界で生きる彼女は、奏にも手の施しようがない。


「ボクたちからすれば、最高の褒め言葉だ。中二病とは大望を抱きながら、刹那的な快楽に酔い痴れ、幽玄オサレを貫く求道者なり」

「……」

「もはや是非もない。ボクは強引にでも使命を全うする。符条さんはどうする?」

「何かな?」

「奏を拐かすにしても、如何なる手段で外に連れ出すつもりだ? おゆらの性格を考えると、猿頭山の曲輪より馬喰峠に手勢を集めているだろう。お前一人で突破できるとは思えないが?」

「実はこの近くに、外界に通じる隧道がある」

「初耳だな」

「火急の折、本家の当主が村の外に脱出する為の隠し通路さ。本家の当主と情報を司る田中家の当主しか知らない洞窟。ボクは隠し通路の存在を誰にも教えていないから、无巫女アンラみこ様もおゆらさんも知らない筈だよ」

「奏を此処まで連れてきた理由はそれか……」


 疑問を解消した獺は、得心したとばかりに頷く。


「几帳面な性格でな。些細な事柄でも納得しないと落ち着かなくなる。然しこれで今夜も熟睡できそうだ。奏が攫われるのを見届けてから、私も退散するとしよう」

「助太刀してくれないんですか?」

「自分で選んだ道だろう。自分でなんとかしろ」

「そ……そうですね。精一杯努力します」


 獺に指摘された通り、常盤を木の根に横たえると、真剣な表情で帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスに向き直る。

 宗左文字を諸手で正眼に構えたが、峰打ち狙いで刀身を返していた。


「ふふふ。奏様は純粋だねえ。お陰でやりやすい」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは弓手の龍腕で顔を隠し、三本の爪の隙間から奏の顔を覗き込む。


「ぱく」


 何かを口に含んだという事は、おそらく暗器の類だ。


「――ッ!?」


 奏が退こうとした刹那、激痛が左手を襲った。

 噸痛とんつうに耐えきれず、構えていた刀を落とす。急に心臓の鼓動が早くなる。首から下が痺れて、殆ど身体を動かす事ができない。

 なんとか顔を上げて、右手を見下ろす。


「……これは?」


 いつの間にか、親指の付け根に細い針が突き立てられていた。傷も浅く血も出ていないが、四肢が麻痺して動かない。


「含み針だ。経穴けいけつを射貫いたから、首から下は動かないよ」


 涼しげな微笑を浮かべて、無造作に近づいてくる。

 中二臭い立ち姿で顔を隠したのは、口の中に針を含む為か。無駄だらけと思わせながらも、透波の動作は洗練されている。

 武術の素人が対抗できる相手ではない。


「……やっぱり僕は、中二病になれそうもありません」


 全身を蝕む激痛に耐えながら、奏は苦しそうに呟く。


「普通はそうさ。世の中は思い通りにいかない事ばかりだ。向き不向きもあるからね。正直、奏様は荒事に向かないと思うよ」

「だから荒事の得意な中二病に助太刀を請います」


 激痛で顔を歪ませているが、奏の瞳に迷いはない。


无巫女アンラみこ様なら助けに来てくれないよ。先程眷属で確認したけど、猿頭山の頂上付近で遭難している。たとえ魔法を使おうと、本人に方向音痴という自覚がない。これでは奏様を見つける事も難しいだろう。つまりボクの勝ちだ」

「それはどうでしょう? 正真正銘、本物の中二病ですから――」


 奏が明言しようとした途中で、


「――絶好の見せ場を逃したりせぬよ」


 猩々緋の小袖を纏う女武芸者が、颯爽と茂みの中から跳び出した。




 一里……約3.9㎞


 年寄衆……薙原家の分家衆で、五十歳を超えた者達。薙原家の保守派。


 中老衆……薙原家の分家衆で、二十歳から四十九歳の者達。薙原家の革新派。


 目釘抜き……柄から目釘を外す為に使う道具


 天文の頃……西暦一五三二年から一五五五年


 天正十年……西暦一五八二年


 二尺二寸一分……約69㎝


 茎……刀身の下部。柄に収まる部分。


 羽柴於次丸……織田信長の四男。豊臣秀吉の養子。


 天正十七年……西暦一五八九年


 淀殿……豊臣秀吉の側室。織田信長の姪。


 天正十九年……西暦一五九一年


 豊臣秀次……豊臣秀吉の甥


 内府……内大臣。徳川家康。


 官兵衛……黒田如水


 頭取……豪商


 扶持……給料


 黒田甲斐守……黒田長政


 清洲侍従……福島正則


 加藤主計頭……加藤清正


 毛利中納言……毛利輝元


 太閤蔵入地……豊臣家の直轄領


 国分け……領地配分


 会津中納言……上杉景勝


 伊達少将……伊達政宗


 真田安房守……真田さなだ昌幸まさゆき


 柳川左近侍従……後の立花宗茂たちばなむねしげ


 結城少将……結城ゆうき秀康ひでやす。徳川家康の次男。豊臣秀吉の元養子。

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