第19話 真相
マリアに己の眷属を踏み潰された時、
やはり勅使河原君は役に立った。
流浪の旅を続けながら、腕の立つ武芸者を襲撃し、その屍を陵辱する快楽殺人鬼の悪評は、薙原家の歩き巫女頭を務めていた頃から、
実際に、彼は
今回の使命に於ける九郎の役割は、薙原家の注意を惹く為の囮。もしくは、おゆらの思考を誘導する為の道具である。
九郎が蛇孕村に侵入した時点で、おゆらの対応は後手を踏んでいた。
渡辺朧と符条巴と勅使河原九郎右衛門と美作の牢人衆。
昨晩の時点で、おゆらが仮想敵と定めていたのは、前述の者達に限られていた。眷属を介して九郎と雑談に興じていたが、巫女衆は妖術を感知できない。勿論、おゆらは
おゆらは己の裁量で問題を解決するつもりだった。マリアが動き出すと、誰にも止められないからだ。
用心深いおゆらの思考を予測したうえで、
夜も明けきらぬうちに、本家屋敷の近くまで忍び寄り、野外で自慰行為に励む常盤と接触。奏を本家屋敷の外に連れ出す段取りを整え、警備の女中衆を一人ずつ始末する。
今朝方、九郎と眷属の会話をおゆらに盗み聞きされたが、これも問題視するほどではない。すでに仕込みは完了している。
おゆらも
言葉巧みに常盤を味方に引き入れ、奏を本家屋敷の外に連れ出したとしても、逃亡先は猿頭山の曲輪しかない。手練の女中衆を集めて、馬喰峠を封鎖してしまえば、蛇孕村と外界を結ぶ道はなくなる。敵は猿頭山に閉じ込められてしまうというわけだ。
見え見えの囮(勅使河原九郎右衛門)など、いつでも叩き潰せる。叛逆者(符条巴)と逃亡者(
然し如何なる陰謀を企てようと、所詮は人智に過ぎない。
薙原家の者達は、マリアの思考を複雑に捉えがちだが、
興味のない事は遣らない。
それが中二病の基本理念である。
さらに『
加えて方向音痴という自覚のない
方向音痴という人種は、己の進む道に疑問を抱かないから迷うのである。如何に天下無双の剣聖だろうと、その道理から外れる事はできない。案の定、マリアは山頂付近で待ち構えていた九郎と立ち合う。
不確定要素と言うほどでもないが、朧と名乗る女武芸者が蛇孕村に現れたお陰で、おゆらの思惑に綻びが生じ始めた。
猿頭山に隠れる九郎と、本家屋敷に潜り込んだ朧。
おゆらには、二つの選択肢が残された。
二人の首を同時に狙う事は、戦略的に有り得ない。馬喰峠の封鎖と本家屋敷の警備と奏の監視。その他にも符条や
最初に殺さなければならないのは、本家屋敷に入り込んできた朧だ。奏の過去を知る余所者を一刻も早く始末したい。合理的なおゆらなら迷わず、余所者の殺害を最優先に進めるだろう。
対手の思惑が読めるなら、無理に抗う必要もない。おゆらの書いた筋書き通りに動きながら、少しずつ不確定要素を排除しつつ、最後に筋書きを引き裂いてやればよいのだ。
『泥棒猫』という言葉に、深い意味はない。言外の意図すら存在しない落書き。おそらくおゆらは、中二病特有の戯れと考えただろう。
確かにおゆらの推察通りである。
ただの悪ふざけだ。
それ以上でも以下でもない。
それでもマリアは見過ごせなかった。人間案山子を回収する巫女衆の思考を読んだのだろう。『泥棒猫』の存在を確認する為、
これで舞台は整った。
後は頃合を見計らい、符条家に妖術で本家屋敷の現状を伝えて、奏が誘拐された事を報せれば、マリアは確実に暴走する。
許婚が
然し残念ながら遅い。
舞台を整えた時点で、
人生の先達からすると、おゆらは合理的に物事を考え過ぎる。一切の妥協もなく、事態の解決を試みる。決して悪い事ではないのだが、定石であるがゆえに読みやすい。
対する
何はともあれ、思惑通りに事は運んだ。
渡辺朧はどうでもよいが、九郎とマリアは立ち合いの最中だろう。果たして立ち合いと呼べるものになるかどうか……結果はどうあれ、天下無双の剣聖と立ち合えたのだから、九郎も地獄で満足しているだろう。
それより彼が稼いだ時間を有効に使わなければならない。
呆然と佇む奏に、
「日ノ本には、無数の神々が存在する。神々は
「……」
「勿論、神が現出する事なんて殆どない。然し稀に、ボクたちの前に姿を現す事がある。二つの世界の掟を破り、現世に災いを齎す邪悪な神様だ。ボクたちは、そのような邪神を『
「蛇孕神社の蛇神……」
「御名答。理解が早くて助かる。奏様は、本当に頭が良いねえ」
奏様が小声で呟くと、
「村長の許婚が蛇神を洞窟まで案内したというのは、薙原家が蛇孕村を支配する為に改竄した伝承。本当は
「……」
「尤も効率の良い遣り方とは言えない。無差別に
「人身売買に手を染めていたんですか?」
「それほど驚く事かい? 外界では、
奏は顔を顰めて、嫌悪感を露わにする。
「どうだい? 理解できそうかな?」
「理解できても……貴女の話を信用できない」
時間の経過と共に、奏も平静を取り戻していた。
相手に呑まれてはいけない。
まだ
奏が警戒心を強めると、
「ふふふ……当然の反応だね。寧ろ用心深さを身につけたようで、奏様の成長に感動を覚えるよ。それでは、奏様に信用して貰えるように、ボクが人喰いの妖怪という証を見せよう」
「……その瞳は?」
「
冷たい。
背筋が凍りつくような視線。
底知れない恐怖を覚えながらも、視線を逸らす事ができない。マリアだけの異常体質と教えられてきたが……本当に全てが嘘なのか。
『加えて瞳が金色に輝く時、ボクたちは妖術を発動できる』
先程と同じ現象だ。
両手で耳を塞いでも、脳内に他人の声が響いている。
『耳を塞いでも届くんだ。奏様の脳に直接ね』
「僕の脳に……ッ!?」
『慣れないと気持ち悪いだろうから、この先は自分の声で話すよ。両手を耳から離してくれないかな』
奏が恐る恐る両手を離す。
「これがボクの使う妖術――『
「――ッ!?」
「勿論、情報を伝えるだけだ。音を伝えるわけじゃない。だからボクの声は、受け取る側しか聞こえない。欠点を挙げるなら、情報を送信できても受信できない事かな。田中家の使徒は、『
「……」
奏は唖然とする。
連絡手段が、狼煙か太鼓という時代。関東の山奥から日本各地に指示を出せるのであれば、これほど便利な力はない。鷹と亀を競争させるようなものだ。情報伝達速度で、他の武将や商人を圧倒できる。生業の仕物は元より、銭貸しや唐物屋などの商売、果ては合戦に至るまで、活用の範囲も多岐に渡る。
改めて『薙原衆』が諸国で暗躍し、諸侯から畏怖される理由が分かった。
「妖術については納得できたかな? 人喰いについては……これも見た方が早い」
「――
気魄の声を発して、屍に龍腕を振り下ろす。
「な――ッ!?」
奏は眼を剥いた。
鉤爪を首に突き立て、喉の肉を抉り取る。
奏は恐怖で凍りついた。
ごくりと喉の肉を呑み込むと、
「薙原家の使徒は、定期的に人を食べないと死んでしまうんだ。これも妖術と共に先祖から受け継いだ呪いだよ」
「……人身売買は?」
「ボクが蛇孕村に住んでいた頃は、毎年千人くらいは買い集めていたかな」
「そんなに――」
奏が驚いて息を飲む。
「
「……」
「勿論、薙原家や住民に逆らわないように、おゆらさんの妖術で操られている。これも奏様に隠されていた事実だ」
事の
「そろそろ納得できたかな?」
「二年前に他界した
「まだ
常盤に非難されても、奏は衝撃的な事実を受け止められない。紅蓮の炎に包まれた本家屋敷や女中衆の焼死体が、今でも脳裏に焼きついているのだ。
己の記憶を否定する事は、己の存在を否定する事。
奏自身、安易な現実逃避と理解しているが、身内が人喰いの妖怪と信じるより、懸命に受け入れやすい事実を探していた。
「――そうだ! 僕は妖術なんて使えない! 人を食べた事もない! 本家筋の者が、普通の人なんておかしいよ!」
ようやく突破口を見つけて、奏は一気に
だが、
「それが問題なんだよ。人喰いの妖怪しか生まれない筈なのに、
「
「初代の
馬手から低い声が響いて、奏は驚いて顔を上げた。
小さな祠の陰から、こそりと獺が現れた。
「――先生ッ!? 先生ですか!?」
「久しぶりだな。三ヶ月ぶりになるか」
見覚えのない獺から、確かに傅役の声が聞こえてくる。
常盤も言葉を失い、奏の後ろに隠れた。
「符条さんが最初に到着したか。他の人達は、もう少し時間が掛かるだろうね」
帑亞翅碼璃万崇が、鷹揚に奏を見遣る。
「まだ説明していなかったね。これも使徒が使う異能の一つ。薙原家では、使徒が使役する獣や虫を眷属と呼ぶ。己の眷属に視聴覚を移し、他人と会話をする事も可能だ。勿論、眷属に妖術を使わせる事もできるよ。陰陽師が使役する式神だと思えば、奏様も納得しやすいかな?」
「……」
陰陽師の式神と言われても、陰陽道に疎い奏が、理解できる筈がない。半ば放心状態の奏に、
「符条さんの眷属は、見立て通りの獺だ。田中家の眷属は蝗だけど、あまり使い勝手が良くないんだ。情報の伝達なら『
「……?」
「蝗は稲を食い散らかす害虫。百姓の天敵みたいなものだけど、同時に貴重な食料でもあるんだ。実際、日ノ本の各地には、蝗を食べる習慣がある。御役目の途中で誰かに見つかると、簡単に捕らえられて食べられてしまう。蝗の群れを飛ばす事もできるけど、
「……」
「本当に田中家の眷属は使いにくい。符条さんと取り換えてほしいくらいだ」
「馬鹿を言うな。獺は高値で取引されているんだぞ。人目につかないように、池から這い出るのも大変なんだ」
「……」
奏は妖怪同士の会話についていけない。
「……話を本題に戻そう」
「そうだな。どこまで話した?」
「薙原家について基本的な説明を終えた処さ。これから奏様の出生について説明するつもりだよ」
「私も同席させて貰うぞ」
「どうぞ御自由に。ボクが嘘をついていないという証人になる」
「薙原家は、お前に嘘偽りを教えてきた。私もお前に真実を伝えなかった。だが、
「蛇神様の教へに従ふ者共よ。
永劫の栄えを望まば、我が言の葉に従へ。
蛇神様受け入るる器を造れ。薙原家の嫡流に神の血を混ぜよ。十二柱の神の血混ぜ合はせしほど、
蛇神様と釣り合ふをひとを造れ。蛇神様の血を引く
蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国する
蛇神様に命を捧げよ。鼠神の子求め
八百年目の転生祭の夜、
奏は呆然と予言の言葉を諳んじていた。
「懐かしいねえ。儀式を行う度に、符条さんが諳んじてくれたからなあ。お陰で予言の文言が、頭から離れなくなる。然しボクたちは、あまり
「……」
「当代の
「……」
「さらに十年前、伽耶様が奏様を連れて蛇孕村に戻られた。蛇の血を引く鼠の子が生まれたと、年寄衆は無邪気に喜んでいたよ。
奏は驚きながらも、反駁の言葉を呑み込む。
相手の説明を途切れさせない事が、情報収集に効果的だと理解しているからだ。
「老い先短い年寄衆は、楽しそうだったけどね。年頃の娘達は、現状に困惑していた。寧ろ現状に恐怖していた……と言うべきかな? 予言通りに進むなら、ボクたちは奏様を求めて争わなければならなくなる。三十六名の生贄を捧げて、一人の勝者を選ばなければならない。争いの勝者は、蛇神の教えに忠実な使徒。倫理や道徳に縛られない外道。
「魔女……」
奏は鸚鵡返しに呟いた。
「当然、本家は下克上なんて認めない。あの苛烈な御先代様が、謀叛人を生かしておく筈がないからね。本当に魔女が生まれたとしても、土中に埋めて鋸引きだよ」
「……」
「それに多くの
「……」
「結局、御先代は
「先生や年寄衆の不満を抑えて、僕の処遇を先送りにする為。同時に年寄衆が、僕を懐柔しないように見張る為。伯母上は、反抗的な年寄衆が僕を取り込んで、本家に牙を剥く事を恐れたのか……」
「流石は奏様。慧眼だ」
帑亞翅碼璃万崇に世辞を言われても、まるで現実感が湧いてこない。
赤の他人の話を聞かされているようだ。
「でも御先代の思い通りにならなかった。ボクたちも読み間違えていたんだ。奏様を庵に閉じ込めている間に、少しずつ状況は変わったんだ。それも悪い方に――」
「……」
恐怖を抑え込むように、奏は唾を飲み込んだ。
話を聞く前から悪い予感しかしない。
「先ず御先代と年寄衆の対立が、修復不可能なほど激化した。御先代は、薙原家に莫大な利益を齎した。山間の集落で開墾して成功。増産した作物を元手に、高利貸しを初めて大成功。剰え唐物屋に手を伸ばし、一代で薙原家の家蔵を大名級に増やした。然し急激な経済成長と引き替えに、貧富の格差が生じた。己の言葉に従う者ばかりを重用し、薙原家の権益を本家に集中させた。それは薙原家が守り続けてきた理念――対等・平等・公平を否定する事。薙原家の理念に固執する年寄衆や利益の分配から外された者達は、御先代の独裁体制に不満を持ち始めたんだ」
「……」
「その結果、薙原家は二つに分裂した。一つは御先代を筆頭とする
「なんで僕と同年代の娘達が、年寄衆に賛同するんですか? 予言の通りに事が運べば、三十六名の犠牲者を出すまで争わなければならない。自分達の安全を考えるなら、中老衆に助けを求めるべきでは……?」
「奏様の言う通り。それこそが、中老衆の最大の誤算だった。彼女達は、自分達の将来を悲観していたんだ」
「どういう事ですか?」
「ボクは中老衆だからねえ。若い娘達の気持ちは分からないよ。中途半端な憶測を語りたくないから、この先は符条さんに聞いてくれ」
急に説明を丸投げされた獺は、困惑気味に説明を引き継ぐ。
「……私も若い娘達の心情など知らん。然し我々が思う以上に、薙原家の未来に絶望していたようだ。外界から
何か思う処があるようで、獺は遠くを見つめる。
「
「ボクも自分が中二病になるなんて思いもしなかったよ。未だに神聖な儀式と信じて、無闇に人間を喰い散らかしているのは、年寄衆くらいのものじゃないかなあ」
「若い世代からすれば、祖母の世代は化物。母親の世代は俗物。頼れる者が誰もいない。相当に思い詰めていたのだろう」
「それと
「『敬虔なる使徒は真のさま取り戻し、永劫の栄えを
獺の一言で、奏は相手の意図を察した。
「先生……」
「
「……」
「不毛な争いを次の世代に引き継がせたくない。だから奏を求めて争い、自分達の中から魔女を選び出す。娘達の覚悟は認める。それでも希望的な観測が生み出した幻想だ。
「符条さんの言う通り。何の根拠もない話だ。然し若い娘達は、
「中老衆は、目障りな年寄衆に謀叛の嫌疑を掛けて粛清する。年寄衆は、中老衆を事故に見せかけて暗殺する。若い娘達は、奏様を求めて殺し合う。表向きは静謐を維持していたけど、奏様や村人にバレないように、裏側で内訌を続けていたんだ。ボクの知る限り、八年足らずで二十名の同胞が命を落とした。結局、ボクたちは
「……」
奏は何も応えない。
語るべき言葉が見つからない。薙原家が人外の宿命を背負わされてきたなど、これまで考えもしなかった。
「愚かな事だと承知していながらも、ボクたちは身内同士で殺し合うしかなかった。然し不思議だと思わないか? どうして伽耶様は、奏様を連れて戻られたんだい? 伽耶様も聡明な御方だ。本家の血を引く男子を連れて戻れば、薙原家がどうなるか……それくらい理解していた筈だよ」
「……」
「もう一つ不思議な事がある。どうして御先代は、奏様を本家の御屋敷に留めていたのかな? 勿論、
「……?」
「全ての謎は、その刀が解き明かしてくれる」
「はあ……」
奏は訝しみながらも打刀を拾う。
「刀の目利きはできるかい?」
「いえ……できません」
「う~ん。刀身を見ても区別がつかないか。目釘抜きを用意するべきだった。その刀は、伽耶様が奏様を連れて戻られた時、蛇孕村の外から持ち込んできたんだ」
「母の形見?」
「同時に御父上の形見でもある。奏様を守護する御守刀。外界では
「――義元左門字!? あの!?」
思わず声を裏返らせた。
刀剣に疎い奏でも聞き覚えがある。
信長は『禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀・織田尾張守信長』と銘を切り、本能寺の変で横死するまで所持していた。天正十年、羽柴秀吉が明智光秀を討伐した後、本能寺の焼け跡から発見。天下人に上り詰めた秀吉の手を経て、豊臣家嫡子の
将来、天下を狙う武将が持つと伝えられる宝剣。
どうしてそれが此処にッ!?
奏は刀を鞘から抜く。
刃渡り二尺二寸一分。信長が刀身を
「先生……」
「私が保障する。紛れもない本物だ」
救いの視線を向けると、獺が神妙に断言した。
「そんな馬鹿な……」
「奏……この書状を見て」
今まで沈黙を貫いてきた常盤が、興奮気味に袖の中から書状を差し出す。
辛うじて地面に落ちた松明の灯りで、書状を読む事ができた。
長々と文章を装飾しているが、結論は極めて明快である。
『義元左門字を授け、我が子の証とす』
文末には、豊臣家の花押も添えられていた。
「この書状は、御屋敷の蔵で見つけたの。太閤桐が刻まれた刀箱の中に、その刀と一緒に入ってた。これでも嘘だと思う?」
常盤は得意げに言う。
奏は書状を見下ろし、がくがくと身体を震わせていた。
薙原家が妖術を使う人喰いで――
僕が秀吉公の御子息?
現実を受け入れられない。
頭の中は真っ白だ。
放心状態の奏は、書状を握り潰していた。
「今から十六年前の事だ。御先代は北条氏から関白暗殺の依頼を受けた」
「なっ――正気ですか!?」
「あまり正気とは思えないねえ。当時の豊臣家は、三十数ヶ国を有する巨大勢力。関東の山奥に潜む透波が、七三〇万石の大大名に敵う筈がない……と御先代は考えてくれなかった。別に失敗しても構わないんだ。『
「……」
「何より双子の妹が疎ましい。
「母は承諾したんですか?」
「間違いなく承諾したよ」
奏様の問い掛けに、
「勿論、年寄衆や符条さんは猛反対。それでも伽耶様は、御先代の下知を尊重したんだ。伽耶様も薙原家の政道を憂慮していたからねえ。一先ず自分が従えば、家中の混乱も収まると考えたんだろう。蛇孕神社に
「一人で城攻めなんて……伯母上に玉砕を強要されたのか」
「そこまでは、ボクにも断言できないよ。伽耶様も雅東流二代目宗家を継承した剣豪だ。城詰めの兵を百名余りも斬り斃し、秀吉公の喉元に切先を突きつけたという。でも所詮は多勢に無勢。あと一歩の処で捕縛されてしまった」
「……」
「天下人の命を狙う大罪人。本来なら問答無用で死罪だ。でも秀吉公が、伽耶様を気に入ったみたいでねえ。伽耶様は大坂城の地下室に幽閉された」
「……」
「間もなく伽耶様は御懐妊。豊臣家からすれば、かなり面倒な事になった。後継者の
「備前宰相の実母……」
奏は掠れた声で呟いた。
亡き宇喜多直家の正室で、豊臣秀吉の寵愛を受けた愛妾の一人。宇喜多秀家が秀吉の猶子に選ばれたのも、円融院の影響が大きいという。
「豊臣家が後継者不足に陥った時の保険と思われていたみたいだね。勿論、関白の隠し子を大坂城で育てるわけにもいかないから、円融院は古馴染みの覇天に伽耶様を預けた。覇天も困惑したと思うよ。関白候補とその実母だ。関白の子息だなんて、とても家臣に説明できない。だから表向きは側女という体裁を取り繕い、伽耶様と奏様を美作で保護したのさ。義元左文字は、奏様の出自を証明する為の物だね」
「……」
奏は沈思黙考する。
昨晩、朧から聞いた話と、真実が一つの線で結びついた。
覇天は伽耶様を貴人の如く扱い、渡辺城の財政が傾くほど進物を捧げていた。己の出世に利用しようとしていたのか、円融院に忠義を尽くしていたのか。理由は分からないが、粗略に扱えない。なんとか伽耶に取り入ろうと、猪武者なりに努力していたのだろう。
伽耶様が美作国を出奔したのも、何も知らない家臣団の暴発より、奏が豊臣家の後継者争いに巻き込まれる事を恐れたのだ。天正十七年、秀吉と
「伽耶としても蛇孕村に戻るのは、苦渋の決断だった。先代は……伽耶の姉は、姉妹の情けで動くような人物ではない。豊臣家の長男という旨みでもなければ、奏を匿おうとはしなかっただろう」
「そんな事ない! 御先代様は素晴らしい人だった!」
獺が指摘すると、常盤は甲高い声で非難した。
「お前からすれば、素晴らしい人物なのだろう。然し我々からすれば、外界の欲望に取り憑かれた暴君だ。己の権勢を誇示する為なら、同朋の粛清も平然と行う。難民の娘を本家の猶子に迎え入れたのも、珍しい外見に興味を惹かれたからだ。
「――ッ!」
常盤は興奮して反論の言葉も出ない。
「一応、ボクの前の主君なので擁護するよ。銭儲けに関して言えば、非凡な才能の持ち主だった。薙原家の誰よりも、銭から銭を産み出す方法を理解していた。有り体に言えば、投機に長けていた。でも権力や金銭に対する執着心が強すぎた。奏様を徳川家に売ろうとしたくらいだからね」
「――僕を徳川家に!?」
「二年前、先代はお前の存在を
動揺する奏を尻目に、獺は説明を補足した。
「あの時の混乱は、お前が現れた時と比較にならないほどだった。
「マリア姉が伯母上に謀叛を……」
「……少々喋り過ぎた。後は任せる」
獺は器用に溜息を漏らした。
「ふふふ。二年前の犠牲者は御先代に中老衆……それに本家の御屋敷で奉公していた人質の娘達。二十二名も亡くなられたそうだね。御冥福をお祈りするよ」
「でも僕は葬儀に参列して――」
「おゆらさんの妖術で記憶を改竄されたのさ。都合良く本家の御屋敷で火災が起きて、御先代を含めた敵対派閥が全滅。さらに一部焼失した庭園を復元する為、何年も前から珍樹奇石を買い集め、半年足らずで御屋敷は元通り。流石に不自然だよねえ。全ては仕組まれていたのさ。でも奏様も常盤様も違和感を覚えなかった。おゆらさんの妖術は、記憶の改竄と精神操作。二年前の騒動に疑念を抱かないように、二人の精神に楔を打ち込んでいたんだ。余計な事は報せず。気づかれる事もなく、おゆらさんの望む通りの生活を続けて貰う為に――」
「どうしてそんな事を?」
「おゆらさんの考える事は、ボクにも分からないよ。ただ奏様も承知の通り、おゆらさんは蛇神崇拝に傾倒しているからなあ。
「……
「謀叛が起こる前に、蛇孕村から逃げたよ。すでに隠居していたけど、ボクも中老衆の端くれ。まだ遣り残した事がたくさんあるのに、蛇神の生贄にされるなんて御免だ。ボクも火災に巻き込まれて死んだ事にされたみたいだけど、外界で元気に暮らしていたよ」
右腕の龍腕を振りながら、
生きていて良かった……と素直に喜んでいいのだろうか。度重なる衝撃の連続で、奏の精神は麻痺していた。もはや恐怖も悲憤も動揺も感じない。
「この先は、ボクより符条さんの方が詳しいと思うよ」
「ん……特に語るまでもないぞ。お決まりの権力争いだ。先代という重石が外れた途端、年寄衆が本家の利権を求めて対立。最後にマリアの信任を得たおゆらが、熾烈な権力争いに勝ち抜いた。結局、犠牲者も三十六名では済まなかった。四十名以上の同朋を生贄に捧げて、おゆらが魔女に選ばれたのさ」
「おゆらさんが……」
「まさしく下克上だな。後に残されたのは、現人神の如くマリアを崇拝する狂信者共と、おゆらの意のままに動く年寄衆。私も権力争いに敗れて、蛇孕村から追放された。ああ……物見遊山に出掛けると告げたのは、偽りの記憶ではないぞ。ようやく職務から解放されて、第二の人生を謳歌している処だ」
獺が投げやりな口調で言う。
「ボクも自由を手に入れたんだけど、奏様と常盤様が気懸かりでねえ。未だに記憶を改竄されて、薙原家の好きなように利用されているのかと思うと、可哀想で仕方がない。そこで二人を迎えに来たというわけさ」
「一体、どこに行くというのですか?
「今のボクは、黒田如水様にお仕えしている」
「――黒田如水!?」
予期せぬ大物の名に仰天した。
豊臣秀吉の側近で、天下随一の軍師。
秀吉の天下統一事業に貢献し、豊臣政権の参謀役として辣腕を振るった。然し才気溢れるばかりに、秀吉からも警戒されていた。ある時、秀吉が戯れに「儂の死後、天下を狙う者は誰か?」と家臣に問い掛け、徳川家康や前田利家の名前が挙がると、「
武州の山奥に住む少年からすれば、遙か遠い人物である。それが今の
「田中家の当主を務めていた頃、御先代に博多の
当時の博多は、日本屈指の海外貿易の拠点だ。
対外貿易の集積地であるがゆえに、近隣の諸大名から執拗に狙われ、博多の町は何度も焼き払われた。九州征伐を終えた秀吉は、如水に命じて博多の再興に着手。諸国に逃れていた商人を呼び戻し、大小の船が行き交う近世都市に造り替えた。豊臣政権が海外貿易を重視していた証左である。
謀略に秀でた如水が、薙原家に内通者を求めても不思議ではない。
薙原家からすれば、博多の商人を調略するつもりが、逆に
裏切りや騙し討ちが横行し、己の利益を守る為なら、身内といえど切り捨てる。荒廃した現世の在り方に、奏は憤りを覚えた。
「金銭で薙原家を売り渡したんですか?」
「人聞きの悪い事を言わないでくれよ。ボクは自由を求めたんだ。中二病を拗らせたボクには、薙原家は窮屈過ぎる。然し人喰いの妖怪が、一人で生きていけるわけがない。過去に蛇孕村を飛び出した使徒もいたけど、その多くが悲惨な末路を辿った。人里離れて山奥に隠れ潜み、人間の軍隊に怯えながら生きていく。その点、ボクはツイていた。大殿様のお陰で、不便な思いをしなくて済む。
「……中二臭い理由ですね」
「中二病だからね。当たり前だよ」
奏が眉を顰めると、中二病の妖怪が笑顔で受け流す。
悔しい事に、中二病に皮肉は通じない。
「そういうわけで、福岡の大殿様は、奏様の身を案じている。庶子とはいえ、今は亡き主君の御子息。太閤が崩御されても、君臣の誼が消えたわけじゃない。大殿様は、奏様や常盤様が福岡城下で暮らせるように取り計らうとの事。薙原家や徳川家……淀の御方様も手出しできない。人喰いの妖怪と縁を切り、二人で幸せに暮らしてほしいんだ」
「僕と常盤が福岡に……」
「もう二人で暮らす屋敷も用意してくれてるの! 一生暮らしに困らないように、如水様が扶持も授けてくれるって! 早く村を出て、薙原家と縁を切ろう!」
常盤は瞳を輝かせ、奏の袖を掴んで急かす。
これほど常盤が喜ぶ姿を初めて見た。
希望に満ち溢れた表情に、奏の心が揺れ動く。
「福岡は良い所だよ。土地の人は穏やかだし、新鮮な海の幸が楽しめる。符条さんも反対しないだろ?」
「そうだな。私の目的は親友の忘れ形見が、自由で安全に暮らす事だ。それが伽耶への手向けとなろう。だが、勘違いするなよ。私は黒田如水と手を組んだわけではない。朧を招いたのも、お前の身を守る為だ。お前の安全を保障する事は、天下を取るより至難だからな。
「僕の将来……」
小さな呟きが、胸の中で反響する。
本家の当主の入り婿になる。
それ以外の選択肢があるなど、今まで考えた事もなかった。
奏の将来は、薙原家が決める事。マリアやおゆらの意向に従う事が絶対。彼女達に迷惑を掛けないように、これからも生きていくつもりだった。
だが、忽然と違う道が示された。
小さな村を飛び出し、大きな世界に旅立つという道。蛇孕村の生活を忘れて、外界で穏やかに暮らす。危険な妖怪と縁を切る。豊臣家や徳川家に狙われる心配もない。誰かに利用される事もなく、己の意志で生きていく。
それは当たり前の幸福であろう。少なくとも
皆が奏の答えを待つ。
ここで決断を下さなければならない。
選択をしなければ、この先へは進めない。
「……
「なんだい?」
「昨晩、
「……?」
「生者が夢枕に立つというのも変ですけど、
「それもおゆらさんの仕込みだよ。ボクが関与する可能性を考慮して、奏様が裏切らないように都合の良い夢を見せたんだ」
「そうですね。僕もおゆらさんの差し金だと思います。でも僕に話してくれた事は、本当の話なんですよね?」
「……そうだね」
奏は苦々しい顔で言葉を紡ぐ。
「
「ボクにどうしろと?」
「嘘をつかない者は、信用に値しない者。事実しか語らない者は、相手を利用しようとしている。本当に
途端に重苦しい沈黙が、周囲を包み込む。
「……ふふふ。これはボクの負けかな」
暫く黙考していたが、
「相手を追い詰める為に一番有効な手段は、ひたすら事実を突きつけていく事だと、僕に教えてくれたのは
「そんなの誰でも構わない! 奏の将来と何の関係があるの!?
「違うよ。そういう問題じゃないんだ……」
常盤が興奮するほどに、奏の心は冷めていく。
同時に深い悲しみを覚えた。
常盤は、そこまで薙原家を恨んでいたのか……
己を売り払おうとした年寄衆を恨み、新天地で新たな暮らしを始めたいと考えるほど、常盤は追い詰められていたのだ。
どうして常盤の悲しみを理解してやれなかった。
逃げられるものなら逃げ出したい。蛇孕村から飛び出し、外界で静かに暮らしたい。常盤がそのように考えるのも当然だ。
僕は常盤の何を見てきたんだ……
彼女の心を救うなど、思い上がりも甚だしい。常盤を助けるどころか、人の気持ちも理解できない愚か者だった。
「……僕はマリア姉みたいな天才じゃない。おゆらさんみたいな秀才でもない。だから誰が噂を流して、美作の牢人衆を焚きつけたのか……正直、今でも分からない。朧さんなのか。
「なにそれ? 全然分かんない。奏が何を言ってるのか、全然分からないよ」
常盤の端正な美貌が、奇妙な具合に引き攣る。
「その先は、私が説明しよう」
見かねた獺は、奏の言葉を引き継ぐ。
「奏は真実でも偽りでも構わないから答えろと問うたが、
「――どうして!? なんでそうなるの!?」
「奏の居場所を伝えたのは、
「……誰? 偉い人なの?」
一転、怖々とした表情で、常盤は顔を見上げた。
「内府様の懐刀。徳川家のおゆらさんみたいな人だよ」
奏の瞳には、悲しみの色が宿る。
若い頃は徳川家康の鷹匠として仕えており、
「徳川家からすれば、もはや秀吉公の子息など不要。内府の直轄領に潜んでいるだけでも迷惑千万。早々に始末したい処だが、関ヶ原合戦を終えたばかりで、あまり大胆な行動は取れない。薙原家と正面から衝突するのも面倒だ。ならば、信頼できる他家に任せてしまえばいい。丁度良い時期に、黒田甲斐守が渡辺覇天を召し抱えたからな。佐渡守は甲斐守に仔細を打ち明け、内々に助力を求めた。甲斐守は関ヶ原合戦の後、筑前名島五十二万三千石を与えられたばかりだ。奏を調略の道具に使うより、内府に恩を売る道を選んだのだろう。覇天に命じて、牢人衆を刺客に仕立て上げる。仮に討ち損ねた処で、渡辺家の御家騒動。徳川家も黒田家も一切関係ない。失敗しても新たな策を講じればよいだけ――という思惑でいたが、これが如水の耳に入った」
「な……何の話をしてるの?」
常盤は明らかに狼狽していた。
難しい話は分からないが、雰囲気で潮目の変わりを察したのだ。
「嫡男に家督を譲ろうと、如水は天下の静謐を望まない。
「天下の事なんかどうでもいい! そんなの奏と関係ない!」
「常盤……落ち着いて聞いてくれ。僕は
「それなら化物と一緒に暮らすの!? 好き勝手に記憶を書き換えられて、妖怪と一緒に暮らす事が奏の幸せなの!? 今も薙原家は下人を買い集めて、無差別に喰い散らかしてるんだよ! 奏はそれで幸せなの!?」
「それは全く別の問題だ。記憶の改竄が気に入らない。偽りの生活に耐えられない。人身売買も人喰いも認められない。でもそれを理由に天下を巻き込む大乱を起こすなんて、論理が飛躍してるよ。何万何十万……もしかしたら、それ以上の犠牲者を出すかもしれないんだ。僕らの安全と無辜の民の命を天秤に掛ける事はできないよ。薙原家の事は――僕がなんとかするしかない」
「ナントカ? 随分と具体性を欠いた決意表明だね。君も
「御伽噺を信じるほど、僕も子供ではありません」
「……」
「マリア姉と離れたくない。裕福な暮らしを捨てたくない。伯母上が恐ろしい。薙原家の裏家業を知りながら、自分の立場を守る為に、見て見ぬフリをしてきたんです。僕みたいな悪党に、人並みの幸福を求める資格はありません」
奏は穏やかな瞳で、常盤を見つめる。
「勿論、常盤は違うよ。薙原家に縛られる必要はない。先生が保護してくれるなら、外界で暮らしてもいいんだ」
「イヤじゃ! ウラは奏と福岡に行く! 蛇孕村なんか二人で出ていくでごいす! 奏が行かねえなら、ウラァ舌噛んで死んでやるズラ!」
金切り声を上げて、涙ながらに頭を振るう。
常盤が最も嫌う甲斐訛りが出ている。
今の常盤に言葉は通じない。
一度決断すると、奏の行動は早かった。
「常盤、ごめん」
謝罪の言葉を口にしながら、常盤の左肩に手を乗せる。
「……え?」
呆気に取られる常盤の顎先に、奏は手刀を打ち込んだ。
脳震盪を起こして、前方に倒れ込む常盤を右手で支える。
気絶した事を確認すると、奏は安堵の息を吐いた。
「自害を防ぐ為だろうけど、女の子に手刀を打ち込んではいけないねえ」
「……常盤を人質にされるかもしれないと思いました。いくら中二病でも、この期に及んで私情を挟んだりしないでしょう」
奏の答えに納得したのか、
「やっぱり奏様の判断は的確だよ。大殿様のような軍師が側にいれば、天下を狙えるかもしれない」
「天下分け目の合戦に勝利した後は、大坂大納言様と跡目争いですか? 合戦の旗頭に相応しいのかもしれませんけど、僕に味方する物好きな大名なんていませんよ」
「それも奏様の働きぶりを踏まえて、諸侯が自由に判断する。乱世というのは、そういうものさ」
「……」
「無駄だと思うけど、もう一度だけ勧誘しよう。ボクと一緒に福岡へ来ないか? 軍隊の指揮を執る必要はない。表舞台に立つのも数回で結構。失敗した時は、
「
「……今更信じて貰えないと思うけど。ボクも符条さんと同じで、奏様や常盤様の将来を案じているんだ」
「二人とも律儀だから……心根に疑念を抱いているわけではありません。ただその優しさを他の人々にも分けてください」
「「……」」
哺乳類と妖怪が、気まずそうに口を噤んだ。
「お前が余計な事を言うから、私まで窘められたぞ」
「いや~、申し訳ない。ボクは昔から一言多いんだ」
哺乳類に頭を下げる妖怪。
「……
「ふふふ。良い質問だ。ボクの目的は――ボクっ娘を天下に広める事だ!」
奏は首を傾げた。
「ええと……ボクっ娘ってなんですか?」
今まで天下国家について論じていた筈が、急に許婚のような事を言い出したので、思わず呆気に取られてしまう。
「俗事に疎い奏様は知らないだろう。ボクっ娘とは、一人称に『ボク』を用いる女性の事だ。専ら
「はあ……」
「ボクが田中家の当主を務めていた頃、歩き巫女に命じて調べさせた事がある。全国で千人の女性に『ボクという一人称を使用した事があるか?』と尋ねた処、なんと一六九人が『使用した事がある』と答えた。つまり十人に一人は、ボクっ娘として生まれてきたんだ。然し世間は、ボクっ娘を認めようとしない。子供の頃はともかく、十代の娘が一人称に『ボク』を使うと、『
「そんなくだらない事の為に?」
「くだらない?」
「ボクにとっては、命を懸けるほどの事だ! 社会的認知度が低いというだけで、同じ中二病からも『三十三歳でボクっ娘はキツい』と馬鹿にされる! 全国のボクっ娘を救う為にも、奏様に日ノ本を征服して貰うしかない!」
「いやいやいや。もっと平和的な方法がありますよ。地道に啓蒙活動を続けていけば、いずれ報われると――」
「世間の常識を変えてきたのは、常に歴史を動かした天下人だ! ボクっ娘を普及させる為なら、ボクはなんでもやる! たとえ天下が麻の如く乱れ、数多の犠牲を出そうと、ボクは何とも思わない! 寧ろボクっ娘を広めた殉教者として、後世に名を残すだろう! それは、とても素晴らしい事さ!」
「……どうかしてる」
虚構の世界で生きる彼女は、奏にも手の施しようがない。
「ボクたちからすれば、最高の褒め言葉だ。中二病とは大望を抱きながら、刹那的な快楽に酔い痴れ、
「……」
「もはや是非もない。ボクは強引にでも使命を全うする。符条さんはどうする?」
「何かな?」
「奏を拐かすにしても、如何なる手段で外に連れ出すつもりだ? おゆらの性格を考えると、猿頭山の曲輪より馬喰峠に手勢を集めているだろう。お前一人で突破できるとは思えないが?」
「実はこの近くに、外界に通じる隧道がある」
「初耳だな」
「火急の折、本家の当主が村の外に脱出する為の隠し通路さ。本家の当主と情報を司る田中家の当主しか知らない洞窟。ボクは隠し通路の存在を誰にも教えていないから、
「奏を此処まで連れてきた理由はそれか……」
疑問を解消した獺は、得心したとばかりに頷く。
「几帳面な性格でな。些細な事柄でも納得しないと落ち着かなくなる。然しこれで今夜も熟睡できそうだ。奏が攫われるのを見届けてから、私も退散するとしよう」
「助太刀してくれないんですか?」
「自分で選んだ道だろう。自分でなんとかしろ」
「そ……そうですね。精一杯努力します」
獺に指摘された通り、常盤を木の根に横たえると、真剣な表情で
宗左文字を諸手で正眼に構えたが、峰打ち狙いで刀身を返していた。
「ふふふ。奏様は純粋だねえ。お陰でやりやすい」
「ぱく」
何かを口に含んだという事は、おそらく暗器の類だ。
「――ッ!?」
奏が退こうとした刹那、激痛が左手を襲った。
なんとか顔を上げて、右手を見下ろす。
「……これは?」
いつの間にか、親指の付け根に細い針が突き立てられていた。傷も浅く血も出ていないが、四肢が麻痺して動かない。
「含み針だ。
涼しげな微笑を浮かべて、無造作に近づいてくる。
中二臭い立ち姿で顔を隠したのは、口の中に針を含む為か。無駄だらけと思わせながらも、透波の動作は洗練されている。
武術の素人が対抗できる相手ではない。
「……やっぱり僕は、中二病になれそうもありません」
全身を蝕む激痛に耐えながら、奏は苦しそうに呟く。
「普通はそうさ。世の中は思い通りにいかない事ばかりだ。向き不向きもあるからね。正直、奏様は荒事に向かないと思うよ」
「だから荒事の得意な中二病に助太刀を請います」
激痛で顔を歪ませているが、奏の瞳に迷いはない。
「
「それはどうでしょう? 正真正銘、本物の中二病ですから――」
奏が明言しようとした途中で、
「――絶好の見せ場を逃したりせぬよ」
猩々緋の小袖を纏う女武芸者が、颯爽と茂みの中から跳び出した。
一里……約3.9㎞
年寄衆……薙原家の分家衆で、五十歳を超えた者達。薙原家の保守派。
中老衆……薙原家の分家衆で、二十歳から四十九歳の者達。薙原家の革新派。
目釘抜き……柄から目釘を外す為に使う道具
天文の頃……西暦一五三二年から一五五五年
天正十年……西暦一五八二年
二尺二寸一分……約69㎝
茎……刀身の下部。柄に収まる部分。
羽柴於次丸……織田信長の四男。豊臣秀吉の養子。
天正十七年……西暦一五八九年
淀殿……豊臣秀吉の側室。織田信長の姪。
天正十九年……西暦一五九一年
豊臣秀次……豊臣秀吉の甥
内府……内大臣。徳川家康。
官兵衛……黒田如水
頭取……豪商
扶持……給料
黒田甲斐守……黒田長政
清洲侍従……福島正則
加藤主計頭……加藤清正
毛利中納言……毛利輝元
太閤蔵入地……豊臣家の直轄領
国分け……領地配分
会津中納言……上杉景勝
伊達少将……伊達政宗
真田安房守……
柳川左近侍従……後の
結城少将……
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