第18話 立ち合い

 青い人影が、猿頭山の山中を疾走していた。

 上体を揺らす事なく、険しい斜面を飛ぶように駆け上がる。尋常な速さではない。彼女の脚力なら、難なく暴れ馬を追い越すだろう。

 しかも視界を塞いでいながら、軽々と木々の間を擦り抜ける。超越者チートだからこそ可能な移動法と言えよう。

 尤も天下無双の超越者チートでも、己の向かうべき方向を考えていない。

 山があるから登る。

 何も考えずに山頂を目指せば、運命が奏の許に引き寄せてくれる。

 マリアの思考は、単純明快であった。

 巨大な岩石を跳び越え、直角に近い崖を駆け上がる。

 やがて山頂付近に辿り着いた。

 その場に佇立すると、右足で何かを踏んだ。

 右足を上げると、雑草の中に蝗の死体があった。


「田中家の眷属……」


 冷然と呟きながら、前方に美貌を向けた。


帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスではない。黒田家の武芸者か」

「あははははっ! 大正解!」


 緊張感が欠けた笑声と共に、木陰から旅装束の武芸者が現れた。

 牢人の身形ではない。小袖の上に袖無し羽織を着込み、手甲に野袴と脚絆きゃはん。大小の身形から、身分の高い武士であろう。性別は男。年齢は二十九歳。身の丈五尺四寸。武芸者としては、小兵の部類だ。草履が地面を擦る音から、体重は十六貫。前身は雑兵か足軽。生まれつきの武士ではない。訛りを隠し切れておらず、武家言葉も怪しいからだ。出身は近江国。大小は同田貫。刃渡り二尺五寸五分。柄は一尺二寸。反りが浅い代わりに、重ねの厚い業物だ。小刀も同じ刀工が鍛えた物である。大小の他に武具はない。着物の下に鎖帷子も着込んでいない。合戦に参加した経験は二度。立ち合いの経験は三十三度。小競り合いを含めるなら、百を超えているだろう。剣の技倆は、渡辺朧より上だ。戦闘力は、五二七から五七八の間。絶妙な業前を誇りながらも、その時の気分次第で戦闘力が乱高下する手合いだ。

 異常に発達した聴覚と嗅覚が、自動的に対手の情報を収集する。対手の姿形だけではない。年齢や性別や出身地。武術の流儀スタイルや暗器の有無。実戦経験を含めた戦闘力が数値化されて、マリアの脳内に羅列されていく。


「拙者は勅使河原九郎右衛門。天下無双――薙原マリア殿とお見受け致す」


 マリアを見据えながら、九郎は満面に笑みを浮かべる。

 九郎の場合は、厳しい訓練の賜物だろう。星明かりも少ない中、対手の姿を鮮明に捉えていた。


「貴殿とは関ヶ原以来でござるが……覚えておらぬでござろうな。その頃の拙者は、黒田家の物頭でござった」

其処そこ退きなさい」

「然れど拙者は、貴殿を忘れた事はないでござるぞ。あの神業の如き太刀捌き……女子おなごに興奮したのは、生まれて初めてでござる」

「其処を退きなさい」

「天下無双の剣聖と立ち合う機会など、もう二度と訪れまい。田中殿に感謝しなければならないでござる」

「とても悪質な壊れ者。会話が成立しないようね」

「さあ、これで邪魔はござらん! 思う存分、斬り合うでござる!」


 双眸に殺気を滲ませながら、九郎は大刀の柄に右手を添える。

 対するマリアは、両手で持つ野太刀の切先を下ろし、自然体で佇立していた。武具を構える気すらないようで、気魄が欠片も感じられない。

 仮に――

 両者の実力が互角であれば、得物の長さでマリアに分がある。九郎の同田貫も長物に属するが、夜刀やとは刃渡り五尺五寸。抜刀術でたいを維持すると、徐々に九郎が追い詰められていく。

 池に浮かぶ蓮の葉を踏むが如く、慎重な足運びで間合いを詰める。

 緊迫感が限界に達した刹那、パキッと小さな音が響いた。

 九郎が、地面に落ちた小枝を踏み潰したのだ。


「――ぬひ」


 間の抜けた笑声を上げて、前のめりに倒れ込む。

 不意に転倒したのかと思いきや――飛鳥の如く前方に飛んだ。

 抜刀術の奥義の一つ。

 膝落からの抜き付け。

 膝落とは、膝関節に伴う筋肉を脱力する事。

 武芸者の間では、『膝を抜く』とも言う。

 両膝の力を抜く事で、上体を自然に落下させる。脱力した上体の落下を踵で踏み堪え、地面に反作用を生み出す。両足の踵を弾く反作用の力は、継ぎ足で推進力に変える。

 それに腸腰筋を伸張させる。

 腸腰筋とは、脊髄と大腿筋を繋ぐ筋肉だ。

 全力で駆けたり跳んだりする時、大腿筋を高く引き上げる為に使う。上半身と下半身を繋ぐ深層筋ゆえ、腸腰筋の存在を知る者は稀だ。然し腸腰筋という名前を知らなくても、体内の筋肉を自在に使いこなす事が、一流の武芸者。

 脱力で落下した上体を踵で支えた時、遣い手の体内で反射行動が起こる。踵に受けた衝撃が、踵骨腱から大腿筋に伝わり、強制的に腸腰筋を縮めるのだ。収縮した腸腰筋は、ゴムのように伸張。抜刀術の体勢を維持しているにも拘わらず、体内の筋肉が勝手に身体を動かす。腸腰筋の伸張を腰の捻りで上体に伝えて、抜き付けの速度を上げる。

 重力(脱力した上体の落下)を用いて、踏み込みの予備動作を加速。

 踵に働く反作用の力を用いて、抜き付けの速さを加速。

 さらに片手斬りは、両手斬りより切先が遠くへ伸びる。抜刀術の達人であれば、柄元から柄尻に持ち手を滑らせ、打突の間合いを読ませない。

 疾風の如き速さで間合いを詰め、腰間の白刃を抜き放った。

 狙いは首筋――

 稲妻のような剣閃が、暗闇を斬り裂いた。

 おおっ――と九郎は驚嘆する。

 抜き付けが外れた。

 マリアは上体を軽く反らし、超高速の抜き付けを躱してみせた。

 膝落からの抜き付けは、抜刀術の奥義の一つ。人間の動体視力で躱せる筈がないのだが……抜き付けの拍子を読まれたか。


「御見事! 拙者の初太刀を見切るとは――然し抜き付けを躱されたから終わりというわけではござらぬぞ!」


 興奮で唇の端を吊り上げながら、即座に刀身を翻す。

 二之太刀を放つが、マリアは自然体を崩さない。半歩後退するだけで、軽々と片手打ちを避けた。二之太刀から三之太刀に繋いでも、ス――ッと流麗な動作で退き、ゆらりと躱す。大きな乳房を持ちながら、千早の前の紐にさえ掠らせない。

 改めて九郎は、対手の力量に感服した。

 空間把握能力や動体視力だけでは説明できない体捌き。巷説、盲目の剣士と伝えられているが、視力に頼らないからこそ辿り着く境地。

 もはや疑う余地はない。

 正真正銘の天下無双――

 彼女こそ最高の剣士であり、最高の中二病である。

 感動を覚えながらも、大刀を横に振るう。やはり後退して躱された。より迅速に――正確に大刀を振るわなければ、超越者チートには届かない。間髪を入れず、片手の唐竹割。奇怪な鬼面を掠――らない。これでも遅いというのか。ぴんと切先を跳ね上げ、右斜めに斬り上げた。大刀は虚しく空を切る。次は脚を狙う。マリアの脚を止めなければ、九郎の打突が当たらない。然し九郎の狙いを読んでいたのか、マリアは余裕で脚斬りを躱す。

 楽しい。

 これは楽しい。

 なんと恐るべき遣い手か。流石は雅東流三代目宗家。まるで実力の底が見えない。太刀を振る度に、己の潜在能力が引き出されていく。愉悦の笑みを浮かべて、二度目の唐竹割を放つ。容易に躱された。

 胴を狙うと見せかけて、左脚に刺突を放つ。

 マリアが左脚を退いた。

 初めてマリアが重心を崩した。

 瞬時に刺突を変化させ、手槍の如く大刀を突き上げた。

 マリアは上体を反らしつつ、易々と後方に跳躍。

 再び自然体に戻る。

 延々と九郎の打突を躱しながらも、後方に伸びた木の根に気づき、軽く跳び越えて転倒を免れたのだ。


 ――貴殿! 

 どこまで拙者を楽しませるつもりでござるか!


 興奮で鼻息が荒くなる。

 関ヶ原合戦の時、初めてマリアを目撃した。

 一年半前。

 異常な武者修行を続けていた九郎は、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスに勧誘されて、黒田長政に召し抱えられた。尤も九郎は、乗り気ではなかった。斬り斃した屍を用いなければ、ろくに性処理も行えないという異常性癖は、一向に収まる気配を見せない。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの口車に乗せられたものの、城勤めなど長く続かないだろうと、豊前国ぶぜんのくにに行く前から諦めていた。寧ろ黒田家に手練がいれば、斬り殺してやろうと目論んでいた。

 だが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから一人の武士を紹介された時、九郎の邪念は吹き飛んだ。黒田長政に仕える近習きんじゅ――成岡なるおか省五郎しょうごろうと名乗る侍が、兄の八郎と同一人物かと疑うほど似ていたからだ。しかも女性より男性を好み、受け専門というではないか。早速成岡邸でねやを共にした処、九郎は一滴の血も流す事なく、省五郎の体内で絶頂を極めた。これは画期的な進歩である。真っ当な武士に戻れるのだ。この当時、衆道しゅうどうは差別の対象にならない。武士なら衆道を嗜んで、初めて一人前扱いされるくらいだ。

 加藤清正が発した奉公構も、いつの間にか取り下げられていた。九郎の処遇を巡り、加藤家と黒田家で、何らかの取引が成立したのだろう。

 勅使河原邸惨殺事件について尋ねられても、「天草衆の残党が拙者に遺恨を抱き、卑劣な罠を用いて兄を殺害した挙句、一族郎党を根絶やしにしたのでござる。屋敷に帰宅した拙者は、我を忘れて城下を飛び出し、流浪の末に仇を討ち果たしたのでござるが、主君の許しもなく出奔したのは、武士もののふにあるまじき失態。今更、加藤家に帰参するわけにも参らず、廻国修行を続けていたのでござるが、幸運にも成岡殿の知遇を得て、御当家に推挙された次第でござる」と帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから言われた通りに説明する。これで黒田家や加藤家の家臣も納得した。あの温厚な九郎が乱心して親兄弟を殺害したという事実より、余程腑に落ちる話だ。両家の当主も九郎の証言を認めている。全ては誤解。確たる証拠もなければ、証人と成り得る者もいない。諸国で悪行を働いていたのも、九郎の名を騙る狼藉者の仕業。それで事を落着させると、持ち前の人当たりの良さで家中に溶け込み、抜刀術の業前も評判通り。九郎は普通の武士に戻ると、関ヶ原合戦で足軽の先手組さきてぐみを任された。

 然し人生というものは、易々と思い通りにいかないものだ。

 天下分け目の決戦は、開始と同時に消耗戦へ突入した。

 敵陣に斬り込む為、九郎は足軽を率いて斬り込む。西方も土塁とほりと柵をつけ、新型の大砲と大量の鉄砲で迎え撃つ。東方は突撃と後退の繰り返し。多くの将兵が撃ち殺される中、九郎は全身に返り血を浴びながら奮闘した。敵兵を何人斬り殺したのか分からない。とにかく土塁や柵を乗り越え、敵陣の真ん中で縦横無尽に暴れ回り、片手斬りで鎧武者を断裁する。無論、数万の大軍が戦場に入り乱れると、個人の武勇など勝敗に影響を与えない。加えて戦下手という悪評を払拭する為、三成は天下に名高い兵法者を集め、恐るべき家臣団を形成していた。合戦の情勢は、守り手の西方が有利。前線で孤立した九郎は死を覚悟したが――


 蒼い巫女装束の剣士が、脈絡もなく出現した。


 しかも一人で西方の軍勢を殲滅していくではないか。

 合戦の最中にありながら、九郎は呆然と佇んだ。蒼い巫女の強さに魅了されながらも、腹の底から凶暴な殺戮衝動が込み上げてくる。外見も性別も兄とは異なる。だが、蒼い巫女の強さは、明らかに師匠の甚助を超えている。

 銃弾が飛び交う中、九郎は懸命に性欲を抑え込んだ。

 同士討ちは拙い。

 人目が多過ぎる。

 我慢我慢……と殺戮衝動を抑えているうちに、蒼い巫女は霞の如く姿を消した。

 彼女が超越者チートと知らされたのは、関ヶ原合戦の後。東方の総大将――徳川家康が、薙原マリアを武功第一と認めたからだ。

 結局、小早川秀秋の寝返りにより、東方の勝利で幕を下ろしたが、先鋒を務めた黒田勢の損害は計り知れない。九郎も予期せぬ形で、勝利の代償を支払わされた。愛しの省五郎が流れ弾で額を撃ち抜かれ、武運拙く帰らぬ人となった。欲望の捌け口を喪失した挙句、戦後の論功行賞で五百石から千石に加増。領内の普請を預かる奉行衆に選ばれた。同輩から妬まれるほどの出世だが、九郎に普請の経験などない。加増と出世を餌に、事務方の閑職に回されたのだ。合戦と人斬りしか知らぬ者は、平時に於いて無用の人材でしかない。新参者という立場を考えれば、お飾りの役職でも喜ぶべきなのだろう。然し諸々の普請事業は、合戦と別の意味で地獄だった。城や町の普請に励む人夫を監督しなければならないからだ。朝から晩まで半裸の男達に囲まれて、九郎の理性が持つ筈がない。


 もう辛抱できぬ! 

 人夫の胸板を斬り裂き、菊門きくもんに逸物をブチ込みたいでござる!


 性欲を持て余した九郎が理性を失い始めた頃、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから隠密働きを持ち掛けられた。これぞ渡りに船。長政の許しを得ていないので、勅使河原家は取り潰されただろう。数十人の家来や奉公人は、路頭に迷うだろうが……彼らの人生に興味はない。超越者チートと立ち合えるなら、屋敷も家来も知行地も喜んで捨てよう。

 すでに逸物は限界まで怒張しており、今にも褌を突き破りそうだ。


 逸物の位置を直したいでござる!


 股間に男性特有の違和感を覚えながら、マリアの左手に狙いを定める。一連の所作から察するに、対手は左利きであろう。小手打ちを狙い、天下無双の出方を窺う。マリアが左腕を引き抜こうとした寸前、ぴたりと刀身を止めた。


「ぬひ――」


 先程と同じ笑みを浮かべると、首筋に向けて大刀を薙いだ。微かに上体を反らし、寸毫の間合いで躱す。再度重心を崩したわけだが、ここで攻め急ぐと元の木阿弥。さらにマリアの体捌きを制限しなければならない。振り抜いた大刀を引き戻し、右手狙いの指取ゆびどりを放つ。残念ながら空振りに終わるも、これで反らした上体は戻せない。つまり首から下は無防備。また後方へ逃げられると厄介だ。確実に横薙ぎで胴を斬り裂き――


「あっ――」


 大刀を振り抜く途中で、何か硬い物を斬りつけた。

 刀身が巨木の半ばまで埋まり、ぴくりとも動かないのだ。マリアはこれを狙い、九郎の打突を躱し続けていたのか。

 九郎から間合いを詰めて、絶え間ない打突を繰り返していたからこそ、マリアの太刀を封じられたのだ。一度間合いを広げたら、神速の太刀の餌食えじきとなる。


「うわああああ!」


 マリアの体勢が整う前に、九郎は右手で小刀を引き抜き、無我夢中で投げつけた。

 悪足掻きが功を奏したのか、マリアは大きく飛び退いて躱す。九郎相手に手傷を負うつもりはないのだろう。明らかに格下と侮られているが、屈辱を感じる時間すら惜しい。


「ふぬーッ!」


 慌てて幹に右足をかけて、強引に大刀を引き抜いた。

 刀身を見下ろすと、それほど刃毀れもしていない。

 十分に人体を断裁できる。

 九郎は上機嫌で向き直り、左手で勃起した逸物の位置を直した。



 キタ―――― \(゜∀゜)/ ――――ッ!!



 股間に触れた刹那、肉体が溶けるような感覚に襲われた。脳内麻薬の大量分泌。全身の細胞が十三年前を思い出す。兄を斬り殺した時と全く同じ感覚。しかも現在の九郎の実力は、当時とそれと比べ物にならない。通常の状態でも兄と同等――いや、それ以上の自信がある。加えて覚醒を果たした肉体が、どれだけの働きを遣り遂げるのか。九郎にも想像がつかない。勃起した逸物は野袴を突き上げ、隆々とそびえ立つ。

 勅使河原九郎右衛門――今まさに絶好調!


「あははははっ!」


 九郎は笑う。


「この期に及んで、出し惜しみをする必要もあるまい! 雅東流を見せてくだされ! 関ヶ原でまい兵庫ひょうごの首を刎ねた剣を! しま左近さこんを馬諸共に斬り捨てた剣を! 拙者に見せてくだされ!」


 九郎は大刀を鞘に収め、柄に右手を添えた。

 卍抜き――

 無想林崎流秘伝の極意。肥後の地にて修得する事叶わず、二百を超える人を斬り斃しても尚、未だ未完成という抜刀術の到達点。

 この場にて試す。

 超越者チートに卍抜きを打ち込む。

 眼が血走り、ぴくぴくと頬が引き攣る。口の端から涎を垂らした九郎は、対手の初太刀に反応するだけの存在に豹変していた。

 マリアは挑発に乗る事もなく、野太刀をだらりと下げている。

 焦れた方が負ける。

 瞬きほどの時間が、九郎には一刻に感じられた。

 不意に――

 自然体で佇立していたマリアが、「ああ……」と抑揚のない声で告げた。


「ようやく状況を把握できたわ」

「?」

「先程からお前が何をしているのか、理解しかねていたのだけれど……私と戦うつもりでいたのね。自分が死んでいる事にも気づかずに」

「……は?」


 九郎が呆気に取られた刹那、柄を握り締めていた右手が、ぼとりと地面に落ちた。

 おびただしい量の鮮血が噴き上がる。

 九郎は切断された手首を見下ろし、「ふわーっ!?」と頓狂な声を発した。

 いつの間に斬られたのか。

 太刀筋はおろか、野太刀を振るう所作すら認識できなかった。


「速く斬り過ぎたかしら? 卍抜きと同等の速さに抑えたのだけれど」

「ひいいいいッ!!」


 血飛沫を撒き散らしながら、九郎は絶叫を上げた。

 今度は左手が落ちた。


「素質はある。鍛錬も積んでいる。でもそれだけ。因果律を理解していない脇役モブ。お前の剣には、愛が込められていなかった」


 混乱する九郎は、更なる異変に驚愕する。

 禍々しい鬼面を外し、マリアが眼を開いた。

 超越者チートの双眸は、眩いほど金色に輝いていた。


「貴殿、眼が見えるのでござるか!?」

帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞いていないの? この鬼面は、私が発明した遮光器バイザー。視界を遮る物ではない。鬼面越しでも問題なく見えるけれど……私は蛇神の転生者。神の前では、容姿の差はない」

「……」

「私は視覚で生類の区別がつかないから、普段は瞼を閉じているだけ。ましてや餌贄えにえなど肉眼で確認するほどの価値もないわ」


 鬼面の遮光器バイザーを袖口に入れながら、残酷な真実を冷然と語る。

 その間にも、九郎の両膝から血が噴き出す。

 両膝の裏側の腱が切断されて、正座のような姿勢で座り込む。もう二度と立ち上がる事はできない。


「だから奏を視認した時、心ノ臓が止まるほどの衝撃を受けたわ。母親と巫女の区別もつかない私が、初めて他人を視認できた。幽玄オサレの智すら到達し得ない奇跡。ようやく運命の相手と巡り会えた――」


 マリアは冷然と語りながら、九郎の右隣に回り込む。


「奏は優しい子よ。昨日も常盤という惰弱を哀れんで、私に助言を請うてきたわ。別に殺しても構わないのだけれど。奏は惰弱の命を重く感じているから。私も奏の前では、迂闊な殺生を禁じているの。どれが彼の大切なモノか、私には区別しがたい」


 俯く九郎の腹部に、横一文字に赤い線が奔る。

 どばっと赤い線が破裂して、地面に臓物をぶちまけた。


「――がはっ!!」


 腸を拾い上げようとするも、両手が切断されている。すでに痛みも麻痺してきた。すぐには死なないが、助かる見込みもない。

 己の腸を見下ろしながら、ぼんやりと考えていた。


 いつの間に斬られたのでござろう……


 野太刀に血曇りはない。

 如何に卓越した武芸者でも、マリアの行動は看破できないだろう。

 彼女は、空気中に漂う微弱な稲妻を肌で感じる。

 空気中に漂う微弱な稲妻とは、雷が地面に落ちた時、地表に拡散した電気の事だ。

 人に感知できないほどの微弱な電気の流れ。感電する事もなければ、肉眼で視認する事もできない。

 だが、微弱な稲妻は消滅したわけではない。空気中で拡散を繰り返し、一定の電位差に到達した時、磁石の如く空へと吸い寄せられる。

 積乱雲から地表に放電した稲妻が、地表から天空へと舞い戻るのだ。

 電気の循環は世界各地で行われており、この現象を大気電場グローバル・サーキットという。

 マリアは大気電場グローバル・サーキットという自然現象を理解しており、空気中に漂う電気の流れを感知し、周囲の事象を解析する。彼女からすれば、人は電気で動く水と肉の塊に過ぎない。

 対象が脳内で発した電気信号は、マリアの脳や脊髄に光速(五百分の一秒以内)で伝達される。打突の速度や拍子や刃筋に限らず、間合いや太刀筋の変化すらも、刀を振るう対手より正確に把握し、対手が動くより速く――敵の脳内で発生した電気信号が神経を通過する前に、自動的に回避行動が取れるのだ。

 それは脊髄反射でも変わらない。

 脳内で発生した電気信号が神経を巡り、肉体が反応するまで五分の二秒。電気信号が脊髄で発生したとしても、肉体が反応するまで五分の一秒。

 それが人類の反応速度の限界だ。

 達人同士の斬り合いは、十分の一秒を競い合う世界。

 一瞬先の行動を予測できれば、圧倒的に有利な状況で斬り合える。その気になれば、対手の行動だけでなく、思考や感情も読み取れる。マリアに駆け引きを挑んでも、手の内を全て読まれるというわけだ。

 加えてマリアの打突は、誰にも認識できない。

 人が道端に這う蟻の存在に気づかないように、彼女は対手が知覚できない速度や拍子で野太刀を振るう。正対していたとしても、易々と意識の間隙かんげきを衝くのだ。

 これぞ超越者チートが誇る魔法。

 第一の聖呪――『怠惰タイダナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』である。

 さらにマリアの斬り方が絶妙すぎて、対手は斬られた事すら認識できない。実際、九郎は手足や腹を斬られても、何も気づかずに立ち合いを続けていた。

 相手に痛みを与える事もない。

 刀身を血で汚す事もない。

 天賦の才を持つ者が、己に課した制約を貫く事で到達する奇跡。薙原家の无巫女アンラみこが天下無双と称えられ、超越者チートと恐れられる所以ゆえんだ。

 意識が混濁する中、九郎はぼうと考える。


 如何に斬られたのか分からないが……マリア殿は、拙者と斬り合いをしているつもりすらなかった。刀を振り回す屍を観察していただけ……


 心の中は空虚だ。

 恐怖も絶望も感じない。

 誰かに殺されるという事は、こういう事なのだろう。訳も分からずに、呆然と死の海に没していく。兄も同様の想いを抱いて、事切れたに違いない。


「あー……面白かったでござる」


 九郎は掠れた声で呟いた。


常世とこよ現世うつしよも変わらない。原因と結果は、常に因果で結ばれる。二つ以上の世界を繋ぐ因果の軌跡。これを因果律と呼び倣わす」

「……」

「私と奏が結ばれる事は、因果律で定められた事象。何人なんぴとたりとも覆す事はできない。でも現世うつしよには、因果律を解さない惰弱が多過ぎる。私の母がそうだった。己の欲望を満たす為に、私から奏を取り上げようとした。だから謀叛を起こしたの。去年もそう。外界の惰弱共は、僅かな禄に目が眩んで殺し合う。誰が日ノ本を治めた処で、結果は変わらないというのに……無知蒙昧な惰弱は、脇役モブにすら成り得ない」


 支離滅裂な言葉を紡ぎながら、泰然と九郎を見下ろす。


「愚かな母を粛清し、関ヶ原合戦も終わり、ようやく静謐が訪れるかと思えば、蛇孕神社の神官が裏切り、黒田家の武芸者に絡まれ……惰弱共が蚯蚓みみずの如く這い出てくる。それでも構わない。全てを斬り伏せればよいだけの事。いずれ二人の前に立ち塞がる試練を克服し、真実の愛を証明する」

「……」


 マリアが独白を続ける間も、まだ九郎の心臓は動いていた。

 端整な顔立ちに死相が浮かんでいる。

 間もなく出血多量で息絶えるだろうが、今は餌贄えにえの心臓の音すら煩わしい。

 徐に両手で夜刀やとを振り上げる。

 意識をなくした九郎は、無防備な首を晒していた。


「奏を奪う者は斬首――」


 冷然と呟くと、一切の邪念を削ぎ落とした刀身が、人類の動体視力を遙かに超える速さで振り下ろされた。




 五尺四寸……約1.62m


 十六貫……約60㎏


 二尺五寸五分……約76.5㎝


 一尺二寸……約36㎝


 壊れ者……人格破綻者


 五尺五寸……約1.65m


 待……自分から動かず、先の先か後の先を狙う姿勢


 継ぎ足……後ろ足を前足の近くまで引き付け、その勢いで前方に跳び出す足捌き


 近習……主君の傍らに使える者


 衆道……男色


 舞兵庫……前野まえの忠康ただやす


 嶋左近……嶋清興しまきよおき


 一刻……二時間

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