第18話 立ち合い
青い人影が、猿頭山の山中を疾走していた。
上体を揺らす事なく、険しい斜面を飛ぶように駆け上がる。尋常な速さではない。彼女の脚力なら、難なく暴れ馬を追い越すだろう。
しかも視界を塞いでいながら、軽々と木々の間を擦り抜ける。
尤も天下無双の
山があるから登る。
何も考えずに山頂を目指せば、運命が奏の許に引き寄せてくれる。
マリアの思考は、単純明快であった。
巨大な岩石を跳び越え、直角に近い崖を駆け上がる。
やがて山頂付近に辿り着いた。
その場に佇立すると、右足で何かを踏んだ。
右足を上げると、雑草の中に蝗の死体があった。
「田中家の眷属……」
冷然と呟きながら、前方に美貌を向けた。
「
「あははははっ! 大正解!」
緊張感が欠けた笑声と共に、木陰から旅装束の武芸者が現れた。
牢人の身形ではない。小袖の上に袖無し羽織を着込み、手甲に野袴と
異常に発達した聴覚と嗅覚が、自動的に対手の情報を収集する。対手の姿形だけではない。年齢や性別や出身地。武術の
「拙者は勅使河原九郎右衛門。天下無双――薙原マリア殿とお見受け致す」
マリアを見据えながら、九郎は満面に笑みを浮かべる。
九郎の場合は、厳しい訓練の賜物だろう。星明かりも少ない中、対手の姿を鮮明に捉えていた。
「貴殿とは関ヶ原以来でござるが……覚えておらぬでござろうな。その頃の拙者は、黒田家の物頭でござった」
「
「然れど拙者は、貴殿を忘れた事はないでござるぞ。あの神業の如き太刀捌き……
「其処を退きなさい」
「天下無双の剣聖と立ち合う機会など、もう二度と訪れまい。田中殿に感謝しなければならないでござる」
「とても悪質な壊れ者。会話が成立しないようね」
「さあ、これで邪魔はござらん! 思う存分、斬り合うでござる!」
双眸に殺気を滲ませながら、九郎は大刀の柄に右手を添える。
対するマリアは、両手で持つ野太刀の切先を下ろし、自然体で佇立していた。武具を構える気すらないようで、気魄が欠片も感じられない。
仮に――
両者の実力が互角であれば、得物の長さでマリアに分がある。九郎の同田貫も長物に属するが、
池に浮かぶ蓮の葉を踏むが如く、慎重な足運びで間合いを詰める。
緊迫感が限界に達した刹那、パキッと小さな音が響いた。
九郎が、地面に落ちた小枝を踏み潰したのだ。
「――ぬひ」
間の抜けた笑声を上げて、前のめりに倒れ込む。
不意に転倒したのかと思いきや――飛鳥の如く前方に飛んだ。
抜刀術の奥義の一つ。
膝落からの抜き付け。
膝落とは、膝関節に伴う筋肉を脱力する事。
武芸者の間では、『膝を抜く』とも言う。
両膝の力を抜く事で、上体を自然に落下させる。脱力した上体の落下を踵で踏み堪え、地面に反作用を生み出す。両足の踵を弾く反作用の力は、継ぎ足で推進力に変える。
それに腸腰筋を伸張させる。
腸腰筋とは、脊髄と大腿筋を繋ぐ筋肉だ。
全力で駆けたり跳んだりする時、大腿筋を高く引き上げる為に使う。上半身と下半身を繋ぐ深層筋ゆえ、腸腰筋の存在を知る者は稀だ。然し腸腰筋という名前を知らなくても、体内の筋肉を自在に使いこなす事が、一流の武芸者。
脱力で落下した上体を踵で支えた時、遣い手の体内で反射行動が起こる。踵に受けた衝撃が、踵骨腱から大腿筋に伝わり、強制的に腸腰筋を縮めるのだ。収縮した腸腰筋は、ゴムのように伸張。抜刀術の体勢を維持しているにも拘わらず、体内の筋肉が勝手に身体を動かす。腸腰筋の伸張を腰の捻りで上体に伝えて、抜き付けの速度を上げる。
重力(脱力した上体の落下)を用いて、踏み込みの予備動作を加速。
踵に働く反作用の力を用いて、抜き付けの速さを加速。
さらに片手斬りは、両手斬りより切先が遠くへ伸びる。抜刀術の達人であれば、柄元から柄尻に持ち手を滑らせ、打突の間合いを読ませない。
疾風の如き速さで間合いを詰め、腰間の白刃を抜き放った。
狙いは首筋――
稲妻のような剣閃が、暗闇を斬り裂いた。
おおっ――と九郎は驚嘆する。
抜き付けが外れた。
マリアは上体を軽く反らし、超高速の抜き付けを躱してみせた。
膝落からの抜き付けは、抜刀術の奥義の一つ。人間の動体視力で躱せる筈がないのだが……抜き付けの拍子を読まれたか。
「御見事! 拙者の初太刀を見切るとは――然し抜き付けを躱されたから終わりというわけではござらぬぞ!」
興奮で唇の端を吊り上げながら、即座に刀身を翻す。
二之太刀を放つが、マリアは自然体を崩さない。半歩後退するだけで、軽々と片手打ちを避けた。二之太刀から三之太刀に繋いでも、ス――ッと流麗な動作で退き、ゆらりと躱す。大きな乳房を持ちながら、千早の前の紐にさえ掠らせない。
改めて九郎は、対手の力量に感服した。
空間把握能力や動体視力だけでは説明できない体捌き。巷説、盲目の剣士と伝えられているが、視力に頼らないからこそ辿り着く境地。
もはや疑う余地はない。
正真正銘の天下無双――
彼女こそ最高の剣士であり、最高の中二病である。
感動を覚えながらも、大刀を横に振るう。やはり後退して躱された。より迅速に――正確に大刀を振るわなければ、
楽しい。
これは楽しい。
なんと恐るべき遣い手か。流石は雅東流三代目宗家。まるで実力の底が見えない。太刀を振る度に、己の潜在能力が引き出されていく。愉悦の笑みを浮かべて、二度目の唐竹割を放つ。容易に躱された。
胴を狙うと見せかけて、左脚に刺突を放つ。
マリアが左脚を退いた。
初めてマリアが重心を崩した。
瞬時に刺突を変化させ、手槍の如く大刀を突き上げた。
マリアは上体を反らしつつ、易々と後方に跳躍。
再び自然体に戻る。
延々と九郎の打突を躱しながらも、後方に伸びた木の根に気づき、軽く跳び越えて転倒を免れたのだ。
――貴殿!
どこまで拙者を楽しませるつもりでござるか!
興奮で鼻息が荒くなる。
関ヶ原合戦の時、初めてマリアを目撃した。
一年半前。
異常な武者修行を続けていた九郎は、
だが、
加藤清正が発した奉公構も、いつの間にか取り下げられていた。九郎の処遇を巡り、加藤家と黒田家で、何らかの取引が成立したのだろう。
勅使河原邸惨殺事件について尋ねられても、「天草衆の残党が拙者に遺恨を抱き、卑劣な罠を用いて兄を殺害した挙句、一族郎党を根絶やしにしたのでござる。屋敷に帰宅した拙者は、我を忘れて城下を飛び出し、流浪の末に仇を討ち果たしたのでござるが、主君の許しもなく出奔したのは、
然し人生というものは、易々と思い通りにいかないものだ。
天下分け目の決戦は、開始と同時に消耗戦へ突入した。
敵陣に斬り込む為、九郎は足軽を率いて斬り込む。西方も土塁と
蒼い巫女装束の剣士が、脈絡もなく出現した。
しかも一人で西方の軍勢を殲滅していくではないか。
合戦の最中にありながら、九郎は呆然と佇んだ。蒼い巫女の強さに魅了されながらも、腹の底から凶暴な殺戮衝動が込み上げてくる。外見も性別も兄とは異なる。だが、蒼い巫女の強さは、明らかに師匠の甚助を超えている。
銃弾が飛び交う中、九郎は懸命に性欲を抑え込んだ。
同士討ちは拙い。
人目が多過ぎる。
我慢我慢……と殺戮衝動を抑えているうちに、蒼い巫女は霞の如く姿を消した。
彼女が
結局、小早川秀秋の寝返りにより、東方の勝利で幕を下ろしたが、先鋒を務めた黒田勢の損害は計り知れない。九郎も予期せぬ形で、勝利の代償を支払わされた。愛しの省五郎が流れ弾で額を撃ち抜かれ、武運拙く帰らぬ人となった。欲望の捌け口を喪失した挙句、戦後の論功行賞で五百石から千石に加増。領内の普請を預かる奉行衆に選ばれた。同輩から妬まれるほどの出世だが、九郎に普請の経験などない。加増と出世を餌に、事務方の閑職に回されたのだ。合戦と人斬りしか知らぬ者は、平時に於いて無用の人材でしかない。新参者という立場を考えれば、お飾りの役職でも喜ぶべきなのだろう。然し諸々の普請事業は、合戦と別の意味で地獄だった。城や町の普請に励む人夫を監督しなければならないからだ。朝から晩まで半裸の男達に囲まれて、九郎の理性が持つ筈がない。
もう辛抱できぬ!
人夫の胸板を斬り裂き、
性欲を持て余した九郎が理性を失い始めた頃、
すでに逸物は限界まで怒張しており、今にも褌を突き破りそうだ。
逸物の位置を直したいでござる!
股間に男性特有の違和感を覚えながら、マリアの左手に狙いを定める。一連の所作から察するに、対手は左利きであろう。小手打ちを狙い、天下無双の出方を窺う。マリアが左腕を引き抜こうとした寸前、ぴたりと刀身を止めた。
「ぬひ――」
先程と同じ笑みを浮かべると、首筋に向けて大刀を薙いだ。微かに上体を反らし、寸毫の間合いで躱す。再度重心を崩したわけだが、ここで攻め急ぐと元の木阿弥。さらにマリアの体捌きを制限しなければならない。振り抜いた大刀を引き戻し、右手狙いの
「あっ――」
大刀を振り抜く途中で、何か硬い物を斬りつけた。
刀身が巨木の半ばまで埋まり、ぴくりとも動かないのだ。マリアはこれを狙い、九郎の打突を躱し続けていたのか。
九郎から間合いを詰めて、絶え間ない打突を繰り返していたからこそ、マリアの太刀を封じられたのだ。一度間合いを広げたら、神速の太刀の
「うわああああ!」
マリアの体勢が整う前に、九郎は右手で小刀を引き抜き、無我夢中で投げつけた。
悪足掻きが功を奏したのか、マリアは大きく飛び退いて躱す。九郎相手に手傷を負うつもりはないのだろう。明らかに格下と侮られているが、屈辱を感じる時間すら惜しい。
「ふぬーッ!」
慌てて幹に右足をかけて、強引に大刀を引き抜いた。
刀身を見下ろすと、それほど刃毀れもしていない。
十分に人体を断裁できる。
九郎は上機嫌で向き直り、左手で勃起した逸物の位置を直した。
キタ―――― \(゜∀゜)/ ――――ッ!!
股間に触れた刹那、肉体が溶けるような感覚に襲われた。脳内麻薬の大量分泌。全身の細胞が十三年前を思い出す。兄を斬り殺した時と全く同じ感覚。しかも現在の九郎の実力は、当時とそれと比べ物にならない。通常の状態でも兄と同等――いや、それ以上の自信がある。加えて覚醒を果たした肉体が、どれだけの働きを遣り遂げるのか。九郎にも想像がつかない。勃起した逸物は野袴を突き上げ、隆々と
勅使河原九郎右衛門――今まさに絶好調!
「あははははっ!」
九郎は笑う。
「この期に及んで、出し惜しみをする必要もあるまい! 雅東流を見せてくだされ! 関ヶ原で
九郎は大刀を鞘に収め、柄に右手を添えた。
卍抜き――
無想林崎流秘伝の極意。肥後の地にて修得する事叶わず、二百を超える人を斬り斃しても尚、未だ未完成という抜刀術の到達点。
この場にて試す。
眼が血走り、ぴくぴくと頬が引き攣る。口の端から涎を垂らした九郎は、対手の初太刀に反応するだけの存在に豹変していた。
マリアは挑発に乗る事もなく、野太刀をだらりと下げている。
焦れた方が負ける。
瞬きほどの時間が、九郎には一刻に感じられた。
不意に――
自然体で佇立していたマリアが、「ああ……」と抑揚のない声で告げた。
「ようやく状況を把握できたわ」
「?」
「先程からお前が何をしているのか、理解しかねていたのだけれど……私と戦うつもりでいたのね。自分が死んでいる事にも気づかずに」
「……は?」
九郎が呆気に取られた刹那、柄を握り締めていた右手が、ぼとりと地面に落ちた。
九郎は切断された手首を見下ろし、「ふわーっ!?」と頓狂な声を発した。
いつの間に斬られたのか。
太刀筋はおろか、野太刀を振るう所作すら認識できなかった。
「速く斬り過ぎたかしら? 卍抜きと同等の速さに抑えたのだけれど」
「ひいいいいッ!!」
血飛沫を撒き散らしながら、九郎は絶叫を上げた。
今度は左手が落ちた。
「素質はある。鍛錬も積んでいる。でもそれだけ。因果律を理解していない
混乱する九郎は、更なる異変に驚愕する。
禍々しい鬼面を外し、マリアが眼を開いた。
「貴殿、眼が見えるのでござるか!?」
「
「……」
「私は視覚で生類の区別がつかないから、普段は瞼を閉じているだけ。
鬼面の
その間にも、九郎の両膝から血が噴き出す。
両膝の裏側の腱が切断されて、正座のような姿勢で座り込む。もう二度と立ち上がる事はできない。
「だから奏を視認した時、心ノ臓が止まるほどの衝撃を受けたわ。母親と巫女の区別もつかない私が、初めて他人を視認できた。
マリアは冷然と語りながら、九郎の右隣に回り込む。
「奏は優しい子よ。昨日も常盤という惰弱を哀れんで、私に助言を請うてきたわ。別に殺しても構わないのだけれど。奏は惰弱の命を重く感じているから。私も奏の前では、迂闊な殺生を禁じているの。どれが彼の大切なモノか、私には区別しがたい」
俯く九郎の腹部に、横一文字に赤い線が奔る。
どばっと赤い線が破裂して、地面に臓物をぶちまけた。
「――がはっ!!」
腸を拾い上げようとするも、両手が切断されている。すでに痛みも麻痺してきた。すぐには死なないが、助かる見込みもない。
己の腸を見下ろしながら、ぼんやりと考えていた。
いつの間に斬られたのでござろう……
野太刀に血曇りはない。
如何に卓越した武芸者でも、マリアの行動は看破できないだろう。
彼女は、空気中に漂う微弱な稲妻を肌で感じる。
空気中に漂う微弱な稲妻とは、雷が地面に落ちた時、地表に拡散した電気の事だ。
人に感知できないほどの微弱な電気の流れ。感電する事もなければ、肉眼で視認する事もできない。
だが、微弱な稲妻は消滅したわけではない。空気中で拡散を繰り返し、一定の電位差に到達した時、磁石の如く空へと吸い寄せられる。
積乱雲から地表に放電した稲妻が、地表から天空へと舞い戻るのだ。
電気の循環は世界各地で行われており、この現象を
マリアは
対象が脳内で発した電気信号は、マリアの脳や脊髄に光速(五百分の一秒以内)で伝達される。打突の速度や拍子や刃筋に限らず、間合いや太刀筋の変化すらも、刀を振るう対手より正確に把握し、対手が動くより速く――敵の脳内で発生した電気信号が神経を通過する前に、自動的に回避行動が取れるのだ。
それは脊髄反射でも変わらない。
脳内で発生した電気信号が神経を巡り、肉体が反応するまで五分の二秒。電気信号が脊髄で発生したとしても、肉体が反応するまで五分の一秒。
それが人類の反応速度の限界だ。
達人同士の斬り合いは、十分の一秒を競い合う世界。
一瞬先の行動を予測できれば、圧倒的に有利な状況で斬り合える。その気になれば、対手の行動だけでなく、思考や感情も読み取れる。マリアに駆け引きを挑んでも、手の内を全て読まれるというわけだ。
加えてマリアの打突は、誰にも認識できない。
人が道端に這う蟻の存在に気づかないように、彼女は対手が知覚できない速度や拍子で野太刀を振るう。正対していたとしても、易々と意識の
これぞ
第一の聖呪――『
さらにマリアの斬り方が絶妙すぎて、対手は斬られた事すら認識できない。実際、九郎は手足や腹を斬られても、何も気づかずに立ち合いを続けていた。
相手に痛みを与える事もない。
刀身を血で汚す事もない。
天賦の才を持つ者が、己に課した制約を貫く事で到達する奇跡。薙原家の
意識が混濁する中、九郎はぼうと考える。
如何に斬られたのか分からないが……マリア殿は、拙者と斬り合いをしているつもりすらなかった。刀を振り回す屍を観察していただけ……
心の中は空虚だ。
恐怖も絶望も感じない。
誰かに殺されるという事は、こういう事なのだろう。訳も分からずに、呆然と死の海に没していく。兄も同様の想いを抱いて、事切れたに違いない。
「あー……面白かったでござる」
九郎は掠れた声で呟いた。
「
「……」
「私と奏が結ばれる事は、因果律で定められた事象。
支離滅裂な言葉を紡ぎながら、泰然と九郎を見下ろす。
「愚かな母を粛清し、関ヶ原合戦も終わり、ようやく静謐が訪れるかと思えば、蛇孕神社の神官が裏切り、黒田家の武芸者に絡まれ……惰弱共が
「……」
マリアが独白を続ける間も、まだ九郎の心臓は動いていた。
端整な顔立ちに死相が浮かんでいる。
間もなく出血多量で息絶えるだろうが、今は
徐に両手で
意識をなくした九郎は、無防備な首を晒していた。
「奏を奪う者は斬首――」
冷然と呟くと、一切の邪念を削ぎ落とした刀身が、人類の動体視力を遙かに超える速さで振り下ろされた。
五尺四寸……約1.62m
十六貫……約60㎏
二尺五寸五分……約76.5㎝
一尺二寸……約36㎝
壊れ者……人格破綻者
五尺五寸……約1.65m
待……自分から動かず、先の先か後の先を狙う姿勢
継ぎ足……後ろ足を前足の近くまで引き付け、その勢いで前方に跳び出す足捌き
近習……主君の傍らに使える者
衆道……男色
舞兵庫……
嶋左近……
一刻……二時間
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