第16話 主殿の戦い
完全に日が落ちている。
朧は暗闇の廊下を歩いていた。腰には大小。左手に手燭。右手に木片を持ち、鋭利な先端をおゆらの背中に突きつけている。
おゆらは両手を挙げながら、朧の前を歩かされていた。
主殿の広間に辿り着いた時、急に朧は歩みを止めた。
「もうよいであろう」
「はて? 何の事でしょう?」
「芝居は十分に堪能した。それよりお主が用意した
「何の話をしているのか……私には見当もつきません」
「
朧が鼻を鳴らすと、おゆらは小刻みに肩を揺らした。
「……申し訳ありません。もう少し趣向を凝らすべきでした。中二病の武芸者ゆえ、思慮の浅い猪武者だとばかり」
「……」
「思いの外、知恵が回る様子。先程も興味深い話を聞かせて頂きました。確かお金が嫌いではないとか」
「それが?」
「私はお金という物が、あまり好きではないのです。私の欲しい物は、お金で手に入らない物ばかり。高価な舶来品を買い集めて喜ぶ南蛮人形が、羨ましく思えるくらいです。それに――」
穏やかな口調で、おゆらは言葉を付け足す。
「お金より大切な物があると申せば、奏様も喜んでくださいます。なんと使い勝手の良い御言葉……」
突然、薄紅色の物体が、朧の眼前を横切る。
ひらひらと。
ゆらゆらと。
薄紅色の鱗粉を撒き散らしながら、夜の闇から彷徨い出てくるもの。
蛾だ。
「――ッ!?」
女武芸者は、即座に中庭へ跳んだ。
白砂の庭に着地し、おゆらに視線を向ける。
どこから現れたのか。
薄紅色の蛾の群れが、おゆらの周りを取り囲む。
おゆらの双眸が金色に輝いていた。
「
「カカカッ、毒蛾の群れを自在に使役し、他人の精神を操る妖術か。やはり便利そうに見えるがのう」
「私の妖術を誰から聞いたのか、今更問いませんが……みなさんが申すほど便利ではありませんよ」
おゆらが軽く答えると、蛾の大群が一斉に朧を取り囲む。
「ふむ……確かにそうかもしれんな。お陰で対策も立てやすい」
朧は立ち上がり、右袖に左手を差し込む。
右袖から出てきたのは、朧が持ち歩いていた
木片の先端を油で塗らし、手燭の炎で
先端が燃え始めると、ぽいと馬手に投げ捨てた。
「あらあら」
朧を取り囲んでいた蛾の大群が、今度は木片の炎を目指す。
ぱちぱちぱち。
焼ける。
焼け落ちる。
蛾の群れが炎に飛び込み、塵と化して消えていく。
「所詮は虫けらか。本能には逆らえぬ」
「私の妖術の弱点まで教えるなんて……符条様も口が軽い事」
燃え盛る毒蛾の群れを眺めて、おゆらは瞳の色を戻した。これ以上、妖術を発動させても無益と判断したのだろう。
薙原家の人喰いは、獣や虫を眷属に変えて使役できる。だが、完全に眷属を支配する事はできない。原始的な本能を優先し、術者の命令に背く場合もある。
特におゆらの妖術――『
「他にも色々と用意しておりますが……後悔しますよ? 私は『
朧が大刀の鯉口を切ろうとした刹那、身の毛も
同時に破壊音が起こり、朧の背後で庭石の一部が欠けた。
――何が起きたッ!?
朧が振り返ると、おゆらが右手に短筒を持ち、此方に巣口を向けていた。
引き金が存在しない鋼鉄製の短筒。それも掌の中に隠し、強く握り締める事で、鉛の弾丸を発射する鉄砲だ。
朧も初見の代物である。
「その玩具、どこで手に入れた?」
「
マリアは大抵、分家衆から献上された進物を奏に下賜してしまう。特に珍しい物を渡すと喜ぶので、日本各地の特産品や南蛮渡来の菓子を与えていた。
だが、分家衆も名物珍品ばかり献上できるわけではない。
奏に贈る物が見当たらない時、マリアは新しい技術の開発に没頭し、画期的な発明品を造り出す。それも物騒な代物ばかりだ。
奏は危険な発明品の管理をおゆらに一任していた。十年も同じ屋敷で暮らしているが、おゆらが手練の透波だと気づいていないのだ。
女中頭は庭先に飛び降り、軽く小首を傾げた。
「ん~……隠しやすいうえに、手裏剣より容易い。暗器に相応しい道具と期待していたのですが」
「……」
「衝撃が強くて、発射時に手の内で暴れますね。命中精度もイマイチ。余程近づかなければ、使い物になりませんか。心ノ臓を撃ち抜く筈が、一尺三寸もズレてしまいました。奏様の如意棒と同じ暴れん坊です」
卑猥な発言を挟みながら、握り鉄砲を左袖に戻す。
弾丸の装填に、相応の時間が掛かるのだろう。連射が可能であれば、すぐに二発目を発射している筈だ。一先ずは、握り鉄砲の仕掛けと命中精度の低さに助けられた。
「是で終い……というわけではあるまいな?」
「勿論です。やはり普段から使い慣れた道具でないと、肝心な時にうまくいきません」
じゃらり――と右腕の袖口から鎖を垂らす。
右手で鎖を握り締め、分銅鎖を縦回転させる。
「今度は分銅鎖か」
朧も分銅鎖と対峙した経験はある。
対手の武具を絡め取り、動きを封じる為の武具。寧ろ護身用の道具に近い。間合いは二尺程度。長くても四尺という処か。
彼我の間合いは、四間近くも離れている。『
然しおゆらは、朧に近づく気配を見せない。
分銅鎖に仕掛けでもあるのか?
それでも構わない。
寧ろ対手の出方が読めない方が、朧の戦闘意欲も高まる。
敢えて
「――ッ!?」
この間合いから攻め
完全に意表を衝かれた。後方に跳躍して躱すと、鉄製の分銅が長い袖を掠める。大刀を奪うつもりでいたか。
限界まで伸びた鎖が、凄まじい速さで引き戻される。己の意志でもあるかの如く、右腕の袖口に巻き戻されていくのだ。巻き戻された鎖を右手で握り、二尺程度の長さに調整すると、分銅が唸りを上げて回転する。
忽然と鎖の音が止まった。
おゆらの頭上に分銅鎖を『発射』したのだ。真上に向けて飛ばした分銅鎖が、上空から放物線を描いて襲い掛かり、右半身で躱す朧の美貌を掠めた。
ぞくりと朧の身体が総毛立つ。
分銅鎖の一撃は、頭蓋骨を容易に破壊できる。頭部に一撃でも食らえば、間違いなく即死だ。
驚愕する朧を尻目に、おゆらは素速く鎖を巻き戻し、対手に間合いを詰めさせない。
「これも奏様からお預かりしました。分銅鎖発射装置と分銅鎖巻き戻し装置です」
おゆらが左腕を上げると、はらりと袖が落ちる。
左腕には、長い鎖が巻きつけられていた。おゆらは左腕に
「
「えらく親切に解説してくれるのう。儂を嘗めておるのか?」
「とても嘗めております」
おゆらが笑顔で言うと、朧の頬が引き攣る。
事実、四間先まで届く分銅鎖など、恐怖の産物と言うしかない。
右腕の分銅鎖発射装置から分銅が射出した直後、左腕の分銅鎖巻き戻し装置が回転して鎖を伸ばす。鎖が限界まで伸びきると、分銅鎖巻き戻し装置が逆回転。自動的に鎖を巻き戻し、対手に近づく隙を与えない。
仮に接近できたとしても、次の攻撃で頭蓋骨を打ち砕かれる。頭部に穴を空けられて、脳漿を撒き散らす事となろう。
四間先まで届く分銅鎖は、飛び道具と同様。状況を打開する手立てが見つからない。刀を抜く間すら与えてくれないのだ。
「申し遅れました。私は薙原本家の女中頭で、悠木ゆらと申します。短いお付き合いとなりますが、お見知り置きを――」
「人喰い共は、間合いを取らぬと挨拶も能わぬか」
「あら? まさか近づけないのですか?」
「――」
おゆらの挑発に、朧が美貌を歪める。
「半月ノ太刀でしたか。あの技を使えば、私に近づく事もできるかもしれませんよ」
「……大盤振る舞いしてしもうたからのう」
今朝方、奏に技を披露した際、おゆらも盗み見していたのだろう。
「長物の落とし差しで、抜き付けの唐竹割。まあ、なんと中二臭い技でしょう。私にも堪能させてください」
露骨な誘いである。
半月ノ太刀の間合いは、最大でも三間。おゆらが四間の間合いを維持し続ける限り、半月ノ太刀でも届かない。
「ふむ――」
朧は大刀の柄を握り締めながら、考え込むような仕草をする。
おゆらが大刀の間合いを把握するように、朧も分銅鎖発射装置と分銅鎖巻き戻し装置の特徴に気づいた。分銅鎖が発射する際、発射した方向を定める為、左腕を前方に突き出さなければならない。分銅鎖を巻き戻す時も同様だ。左腕の分銅鎖巻き戻し装置が稼働する間、分銅鎖を巻き戻しやすくする為、攻撃の姿勢を維持しなければならない。
一連の動作が単純で読みやすく、分銅鎖を発射した刹那に間合いを詰めれば、朧も攻勢に転じられる。どのみち大刀を抜かないと、尋常な勝負にならない。
「どうするかの!」
何食わぬ顔で、朧は大刀を抜いた。
おゆらの分銅鎖も飛んできたが、朧の頭上を越えて、背後の石灯籠を打ち砕いた。
半月ノ太刀は、直進するだけが取り柄の技ではない。その場で刀を抜きながら、
大刀を抜いた朧は、一気に間合いを潰す。
おゆらが分銅鎖を巻き戻した時には、すでに太刀の間合いである。おゆらの体勢が整う前に、がら空きの胴に横薙ぎを放つ。
戞然と激しい音が響いた。
斬れていない。
朧の横薙ぎは着物を裂いただけで、おゆらの肌を傷つけられなかった。
「――鎖帷子か!?」
「うふふっ。当然の備えかと」
余裕で答えるおゆらに、朧は驚きを隠せない。
小袖の下に鎖帷子を着込む事はよくあるが、重さが一貫を超えているのだ。分銅鎖発射装置や分銅鎖巻き戻し装置も含めれば、総重量は三貫を超える。これだけの重装備を隠しながら、立ち居振る舞いに違和感を与えない。鶯の響きも抑えられるという事は、透波が使う身体操作術の一つなのだろう。
然れど命の遣り取りの最中に、予想外の事態など言い訳にもならない。初めから鎖帷子の存在を想定していれば、当世具足と同様に切断できた筈だ。
朧は素速く思考を切り替え、後方へ下がるおゆらに片手の刺突を放つ。鎖を編み込んで仕立てた帷子なら、鎖の輪を狙えば脆い。
両者の間で、再び金属音が鳴り響く。
朧が眼を見開き、おゆらが柔和な笑みを浮かべる。
渾身の片手突きが、いとも容易く受け止められた。
おゆらは両手で分銅鎖を縦に張り、大刀の切先を鎖の中に収めたのだ。対手の狙いだけでなく、速度(スピード)・拍子(タイミング)・刃筋(ポイント)を完璧に予測しなければ、絶対に為し得ない神業。それを平然と実行したのである。
「想定しておりましたよ。心ノ臓に向けて刺突を放つと」
「がるる!」
屈辱に身を震わせながら、朧は低い声で唸った。
「作州牢人――渡辺朧。齢十八。性別は女。実名不明。身の丈五尺五寸一分、身の重さ十四貫六六七匁。
「……」
「性格も情報通りです。典型的な中二病の気質……命の遣り取りに、無駄な美意識を持ち込む。確実な方法を捨て去り、好んで危険な方法を選ぶ。武具の本質を見切り、間合いを詰めておきながら、無防備な顔を狙わない。敢えて鎖帷子の隙間を狙う。虚氣にもほどがありましょう」
「よく儂の事を調べあげたのう」
「貴女の出現も想定の範囲内。奏様の過去を知る女。いつでも始末できるように、情報だけは集めていました」
朗々と語るおゆらに対し、朧は興奮を抑えきれずにいた。
刺突を受け止められるという恥辱の果てに、凶暴な殺戮衝動が込み上げてきた。
単純に行動を予測しただけでは、朧の刺突は止められない。巨漢を投げ飛ばすほどの膂力で放たれた一撃である。相手の力量を見極め、誤差一分以下で鎖の長さを調整しなければ、刺突を受け止めるなど不可能。一分でも長く持てば、衝撃を吸収しきれずに鎖ごと心臓を貫かれる。逆に一分でも短く持てば、鎖が衝撃に負けて砕かれてしまう。
幾人の
久しぶりの強敵。
それも極上の獲物だ。
妖艶な美貌が、獰猛な喜悦で歪む。
「虚氣から女狐に質問がある」
「なんでしょう?」
刀と鎖を間に挟み、二人は笑い合う。
「何故、御曹司に固執する」
朧の双眸が爛々と輝いた。
「今更、薙原家が世俗の権力を求めているとも思えぬ。天下の行く末がどうなろうと、お主らは興味もなかろう。然れど御曹司の記憶を改竄してまで、蛇孕村に留め置く理由が分からぬ。お主らは御曹司に何を求めておるのじゃ?」
「十年前に行われた記憶の改竄は、御先代に命じられた母の所業。私も仔細を承知しているわけではありませんが……冥土の土産という事にしておきましょう」
柔和な笑顔を張りつけて、おゆらは言葉を紡ぐ。
「奏様の本当の父親など、些末な事柄に過ぎません。奏様の存在自体が、我々の希望なのです。女系一族の薙原家で生まれた
「ヒャハハハハハハハハハッ!!」
朧が甲高い声で哄笑した。
余程愉快なようで、左手で美貌を覆い隠しながらも、笑声を漏らし続ける。鎖に嵌め込まれた刀身が、ガクガクと小刻みに震えていた。
「ようやく合点がいったわ! お主らは人を産みたいのか! 御曹司が人喰い共と交われば、人が産まれると考えておるのか!」
「人喰いも色々と大変なのです」
「それでお主は御曹司を操り、毎夜の如く淫らな行為に耽り、その都度記憶を書き換えてきたと――」
「本当に人が産まれるのか……
己の犯した悪行を世間話の如く言い放つ。
「御曹司の童貞は美味かったか?」
「それはもう。太き事馬の如く。硬き事岩山の如く。律動する事獣の如く。射精する事火山の如し。近頃では、夜伽の度に私が翻弄される有様。十年も育ててきた甲斐がありました。奏様を汚してよいのは、この世の中で私だけです」
敵対する女性の前で、夜の営みを暴露するほどの独占欲。常軌を逸した本家に対する忠誠心と主君に対する執着心。おゆらの言葉は通じない。
朧は無理矢理、大刀を斜めに振り下ろした。
おゆらが握りを緩めて、切先が下方へ移動した分、鎖の長さを調整する。
妖艶な美貌が、ぐいと柔和な笑顔に迫る。
厚めの唇に舌を這わせ、朧は殺気を滲ませながら嗤う。
「お主……蓮の
「極楽浄土に逝けるような生き方はしておりません」
互いに笑顔で挑発し合いながらも、朧は伸びて緩んだ鎖を右足で踏みつけ、鎖の輪から切先を解放。すかさず大刀を引き抜いた。
分銅鎖は踏まれて使えない。さらに後退して躱そうにも、背後は主殿の
大刀を振り抜くには、彼我の距離が接近し過ぎているが、中二病の成すべき事は変わらない。分析されても解析されても、難易度の高い技に挑戦する。
対手から刀身を隠すように、朧は大刀を担いだ。
「それも想定の範囲内です」
「な――ッ!?」
容易く胴体を切断する横薙ぎが、無様に空を切る。
おゆらは、軽業師の如く宙を舞った。
朧の頭上で二度も回転した後、朧の背後に着地した。
助走なしの
胸を中心に回転する事で、驚異的な高さと滞空時間を得る。軽業の技術ではあるが、足首の力だけで跳べる筈がない。
双方の背中が重なり合い、朧の首に鎖が巻きついていた。鎖と喉の間に左手を挟み込むが、片手では防ぎきれない。
「お主……クスリでも使うておるのか?」
「まさか。符条様から聞いていないのですか? 人喰いの身体能力は、大凡の者を上回ると……よいしょ」
「がは――ッ!」
左手が鎖から外れて、おゆらに身体を背負われる。朧の頭に血が上り、額に血管が浮き出ていた。
「なんと卑しい叫び声。もう少しこう……
霊長類ヒト科最低の卑猥物が、女武芸者を窘める。
「本当に
「……ッ!」
お主こそ中二臭いわ……と言い返してやりたいが、絞殺寸前で声が出ない。鉄の鎖が首を絞め、じたばたと呼吸困難で苦悩する。
意識が途切れる寸前、朧は小刀を抜き、地面に突き立てた。
小刀の柄頭を足場にして跳躍。くるりと後方へ回転し、おゆらの眼前に立つ。
「きゃ――」
無防備な状態で接近を許すも、おゆらは
「がらああああッ!!」
強引に大刀を振り抜くが、速さも切れ味も感じない。簡単に躱されて、再びおゆらに距離を離された。
朧は激しく咳き込み、追撃を仕掛ける事もできなかった。
今の一太刀で限界――
空気が足りない。新しい酸素を取り込めず、血液中の二酸化炭素濃度が急上昇。何度も血を吐きながら、喉を襲う激痛に呻く。中二病の武芸者でなければ、恥も外見もなく庭の上を転げ回りたいくらいだ。
呼吸器官が正常に回復するまで、暫く時が掛かるだろう。それまで激しい戦闘はできない。死に体になりながらも、力の入らない左手で小刀を鞘に収めて、おゆらに好戦的な視線を向ける。
おゆらは、別の意味で追撃を加える必要がなかった。
十分に間合いを広げたうえ、今の朧に戦う力は残されていない。
もう一度、半月ノ太刀を放つだけの余裕もあるかどうか。この距離を保ちながら、分銅鎖で体力を削り続ければ、確実に仕留められる。
「死ぬ前に言い残す事はありますか?」
「御曹司を……侮辱するでない……」
朧は掠れた声を張り上げる。
「御曹司は……己の生き方を……好きに選ぶのじゃ。御曹司の進む道に……立ち塞がる者があれば……それを取り除くのが……儂の役目よ」
「異な事を仰いますね。薙原家は、奏様の障害と成り得ません。奏様は、初めから蛇孕村の外に出るつもりはないのです」
「左様であろうな。妖術に頼らずも……お主らの仕込みに……不備はなかろう。何より村の外に出たとて……身の危険が増えるだけ。都合の良い未来などありはせぬ。然れど外に出れば、己の頭で考える事が能う。己の心で悩む事も能う。お主らは、御曹司を利用するだけじゃ。いずれ愛想を尽かされよう」
「……」
おゆらは笑顔で黙考する。
気に入らない。
一発逆転の秘策などある筈もないのに、己の勝利を信じて疑わない。これが中二病の厄介な処だ。窮鼠猫を噛む。追い詰められた獣の行動は、おゆらでも予測できない。
実際、おゆらの予想以上に、朧は体力を回復しつつある。
随意的な胸郭運動を取り戻し、徐々に呼吸を整え始めていた。
今すぐは無理でも、小半刻も休息を取れば、激しい戦闘を再開できそうだ。
「やはり中二病の思考は、私には理解できそうもありません。奥の手があるとも思えませんが、念には念を入れておきましょう」
ぱちんと左手の指を鳴らすと、左右の木陰から女中衆が跳び出してきた。二人の背後や屋敷の中からも、次々と武装した女中が出現する。
槍を構えた女中が。
薙刀を携えた女中が。
八角棒を掲げた女中が。
手裏剣を持つ女中が。
両手に
鎖鎌の分銅を振り回す女中が。
弓矢を向ける女中が。
数十名の手練が、幾重にも朧を取り囲む。
「是が最後の
「私も名残惜しく思います。然れど
「――」
「皆の者、掛か――」
おゆらが女中衆に指図した刹那、
「随分と手間を掛けているようね」
主殿の広間から抑揚を欠いた声。
おゆらが振り返ると、蒼い巫女が主殿の
「
「もう一度だけ、自分の眼で確かめるつもりで来たのだけれど……残念ながらハズレね。期待していた新手の泥棒猫はなし。私とした事が分岐点を間違えたわ」
白衣の上に蒼く染めた千早を纏い、下は紫色の袴。美貌の上半分を鬼面で隠しており、両手には
「ようやく蛇女のお出ましか」
右手で喉を押さえながら、朧は宿敵を睨みつける。
太刀を振るう握力は取り戻した。然し人を斬れるかどうかは、実際に確かめてみなければ分からない。
「関ヶ原合戦より九ヶ月……お主の事ばかり考えていたぞ。如何に斬り捨ててやろう。如何に腸を引き摺り出してやろう。如何に
「お前の妄想に興味はない。それより呼吸困難から脱したようだけれど、戦闘力が五百から二十五に低下している。平均的な足軽と同程度。後は斬首するだけ」
「クククッ、斬り合いの結果など、相手が死ぬまで分からぬよ」
朧は上体を丸めて、太腿に力を込める。
奇しくも、関ヶ原の時と同じ状況だ。
死に体でありながらも、朧の殺戮衝動は昂ぶるばかり。死中にて勝機を見出してこそ中二病。一瞬の閃きが試されるというものだ。
圧倒的に不利な状況で、朧の武威は増していく。手練の女中衆や
朧とマリアの武威が正面からぶつかり、両者の間で空気が軋む。
軋んだ空気が壊れる瞬間、
「――それまでッ!!」
予想外の怒声が、二人の動きを止めた。
皆が視線を向けると、獺が庭の池から顔を出す。
ぬたりと池から這い上がり、朧とマリアを睨みつける。
「何をしているのだ。お前達は……」
獺は呆れた様子で言った。
「符条巴」
マリアが冷然と言った。
「符条家の眷属は獺でしたね。叛逆者と逃亡者が、同時に本家の御屋敷に忍び込んでくるとは……」
大袈裟に肩を竦めて、おゆらは笑みを取り戻す。
「それで――畏れ多くも
「私を叛逆者に仕立て上げたのは、どこの女中頭だ?」
「あらあら。まさか意趣返しのつもりで、朧様を蛇孕村に送り込んできたのですか?」
「その娘とは、偶然目的が一致しただけだ。奏を外界に連れ出す。伽耶の忘れ形見を貴様らの玩具にしておけない」
「符条様と伽耶様は、旧知の間柄と聞いております。女同士の友情を否定するつもりもありません。然し我々の悲願を阻む者は、如何なる者であろうと排除します」
武装した女中衆が、濡れた獺に向き直る。
符条の眷属を捕縛すれば、本人の居場所を突き止められる。朧の始末は、その後でも構わない。
「獺殿、邪魔を致すな」
「馬鹿者。お前が遊んでいる間に、奏を連れていかれたぞ」
「――ッ!?」
場の空気が乱れる。
刹那の拍子ではあるが、囲みに綻びが生じた。
機を逃さず、朧は身体を反転させた。
庭の茂みの中に跳び込み、庭木をへし折りながら、樹木の陰に消えていく。女中衆は追い掛けようとしたが――
「追う必要はありません」
おゆらは部下達を制した。
「この場から逃れるだけの力を残していた事に驚きましたが……猿頭山の曲輪には、すでに手練を配置しております。外界と出入りする馬喰峠も封鎖しました。もはや三十路童貞の如意棒も同然。実弾を装填した処で、無駄撃ちにしかなりません」
「卑猥な言動には乗らないぞ。それより大事な奏が攫われたのだ。お前は慌てなくていいのか?」
「慌てる理由がありません」
「此度の騒動は、お前の苦手な奴が関与している」
「勿論、それも想定の範囲内。本家の御屋敷に侵入できる者など限られています。奏様の精神に楔を打ち込み、余分なほど兵も揃えました。手抜かりはありません」
右手で鎖を唸らせながら、おゆらは間合いを詰めた。
「叛逆者と逃亡者の捕縛こそが、此度の策略の要諦。年貢の納め時です」
「どうもお前は、知恵が回り過ぎる」
「……先程から無駄話が多いですね。時間稼ぎのつもりですか?」
「いや、純粋に褒めているのさ。お前は優秀だよ。外道揃いの薙原家でも、お前ほど狡猾な女はいないだろう。だが、物事を合理的に判断し過ぎる。この世の全ての者が、損得勘定だけ考えて生きているわけではないのだ」
「――ッ!?」
言外の意図を察し、おゆらは階に眼を向ける。
マリアがいない。
後ろで佇立していた筈の
「なっ――」
「獲物を攫われて慌てたのは、虎だけであるまい。蛇も同様であろう」
「……
女中頭の命を受けて、一斉に女中衆が散開した。
配下の者共が消えると、おゆらは顎に手を当てて俯く。
ちっ――
誰にも聞こえないように、苛立たしげに舌打ちをした後、再び柔和な笑みを張りつけ、清楚な美貌を上げた。
「本当にイカ臭い女ですね。手心を加えずに始末しておくべきでした」
「後悔先に立たず。自業自得だ」
「切り返しが面白くありません。やはり奏様でなくては……」
栗色の髪を踊らせ、背を向けて主殿に戻る。
どうも悪い予感がしてならない。
符条の眷属が正面から現れたという事は、絶対的な自信の表れである。猿頭山に外部へ脱出する方法など存在しない筈だが――
おゆらの想定を超える事態に発展しているのか。
今すぐ別働隊を編制し、私の手で保護しなくては――
失態の屈辱を心の底に封じ込め、おゆらは冷静に思考を切り替えた。
南蛮人形……薙原家の者達が常盤につけた蔑称
玉薬……火薬
一尺三寸……約39㎝
二尺……約60㎝
四尺……約1.2m
四間……約7.2m
三間……約5.4m
一貫……約3.75㎏
三貫……約11.25㎏
実名不明……武家の女性は、家族以外に実名を明かさない
五尺五寸……約1.65m
十四貫六六七匁……約55㎏
女体三位寸法……スリーサイズ
二尺九寸五分……約88.5㎝
一尺九寸三分……約57.9㎝
二尺九寸四分……約88.2㎝
一尺八寸四分……約55.2㎝
一尺八寸三分……約54.9㎝
二尺七寸一分……約81.3㎝
踵骨腱……アキレス腱
捔力……相撲の源流
相権……日本古来のボクシング
涼雲星友……宇喜多直家の戒名
悋気……嫉妬
印可状……奥義を会得した者に授けられる免許状
秘伝書……流儀の技術が記された書物
明石掃部……
一分……約3㎜
御先代……先代の本家当主。マリアの母親。
光智院……
土岐左近……
小半刻……三十分
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