第16話 主殿の戦い

 完全に日が落ちている。

 朧は暗闇の廊下を歩いていた。腰には大小。左手に手燭。右手に木片を持ち、鋭利な先端をおゆらの背中に突きつけている。

 おゆらは両手を挙げながら、朧の前を歩かされていた。

 主殿の広間に辿り着いた時、急に朧は歩みを止めた。


「もうよいであろう」

「はて? 何の事でしょう?」

「芝居は十分に堪能した。それよりお主が用意した遊興うたげを見せて貰おうか」

「何の話をしているのか……私には見当もつきません」

とぼけるのは止めよ。この屋敷には、百名余りの女中がおる。然れど牢を破ろうが、大小を取り戻そうが、誰一人現れぬ。不自然過ぎて気味が悪いわ」


 朧が鼻を鳴らすと、おゆらは小刻みに肩を揺らした。


「……申し訳ありません。もう少し趣向を凝らすべきでした。中二病の武芸者ゆえ、思慮の浅い猪武者だとばかり」

「……」

「思いの外、知恵が回る様子。先程も興味深い話を聞かせて頂きました。確かお金が嫌いではないとか」

「それが?」

「私はお金という物が、あまり好きではないのです。私の欲しい物は、お金で手に入らない物ばかり。高価な舶来品を買い集めて喜ぶ南蛮人形が、羨ましく思えるくらいです。それに――」


 穏やかな口調で、おゆらは言葉を付け足す。


「お金より大切な物があると申せば、奏様も喜んでくださいます。なんと使い勝手の良い御言葉……」


 突然、薄紅色の物体が、朧の眼前を横切る。

 ひらひらと。

 ゆらゆらと。

 薄紅色の鱗粉を撒き散らしながら、夜の闇から彷徨い出てくるもの。

 蛾だ。


「――ッ!?」


 女武芸者は、即座に中庭へ跳んだ。

 白砂の庭に着地し、おゆらに視線を向ける。

 どこから現れたのか。

 薄紅色の蛾の群れが、おゆらの周りを取り囲む。

 おゆらの双眸が金色に輝いていた。

 禍津神マガツガミと契約を交わした者が、超常の力を発揮した証。薙原家の人喰い共が妖術を発動させた時、双眸が金色に変わる。


遊興うたげと呼べるほどではありませんが。どうぞ御堪能ください」

「カカカッ、毒蛾の群れを自在に使役し、他人の精神を操る妖術か。やはり便利そうに見えるがのう」

「私の妖術を誰から聞いたのか、今更問いませんが……みなさんが申すほど便利ではありませんよ」


 おゆらが軽く答えると、蛾の大群が一斉に朧を取り囲む。


「ふむ……確かにそうかもしれんな。お陰で対策も立てやすい」


 朧は立ち上がり、右袖に左手を差し込む。

 右袖から出てきたのは、朧が持ち歩いていたひさごである。然し中身は、京師の清酒ではない。菜種油なたねゆと中身を取り換えていた。

 木片の先端を油で塗らし、手燭の炎であぶる。

 先端が燃え始めると、ぽいと馬手に投げ捨てた。


「あらあら」


 朧を取り囲んでいた蛾の大群が、今度は木片の炎を目指す。

 ぱちぱちぱち。

 焼ける。

 焼け落ちる。

 蛾の群れが炎に飛び込み、塵と化して消えていく。


「所詮は虫けらか。本能には逆らえぬ」

「私の妖術の弱点まで教えるなんて……符条様も口が軽い事」


 燃え盛る毒蛾の群れを眺めて、おゆらは瞳の色を戻した。これ以上、妖術を発動させても無益と判断したのだろう。

 薙原家の人喰いは、獣や虫を眷属に変えて使役できる。だが、完全に眷属を支配する事はできない。原始的な本能を優先し、術者の命令に背く場合もある。

 特におゆらの妖術――『毒蛾繚乱どくがりょうらん』は、眷属の毒蛾を使役しないと、妖術の効果を発揮できない。事前に弱点さえ把握していれば、無力化する事も可能だ。


「他にも色々と用意しておりますが……後悔しますよ? 私は『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使わないと、残酷な殺し方しかできませんので」


 朧が大刀の鯉口を切ろうとした刹那、身の毛も弥立よだつほどの殺気を感じて、咄嗟に上体を反らした。

 同時に破壊音が起こり、朧の背後で庭石の一部が欠けた。


 ――何が起きたッ!?


 朧が振り返ると、おゆらが右手に短筒を持ち、此方に巣口を向けていた。

 引き金が存在しない鋼鉄製の短筒。それも掌の中に隠し、強く握り締める事で、鉛の弾丸を発射する鉄砲だ。

 朧も初見の代物である。


「その玩具、どこで手に入れた?」

无巫女アンラみこ様が発明した武具で、『握り鉄砲』と申します。なんでも玉薬たまぐすりの代わりに水銀みずかねを使うとか。随分前に奏様よりお預かりしました」


 マリアは大抵、分家衆から献上された進物を奏に下賜してしまう。特に珍しい物を渡すと喜ぶので、日本各地の特産品や南蛮渡来の菓子を与えていた。

 だが、分家衆も名物珍品ばかり献上できるわけではない。

 奏に贈る物が見当たらない時、マリアは新しい技術の開発に没頭し、画期的な発明品を造り出す。それも物騒な代物ばかりだ。

 奏は危険な発明品の管理をおゆらに一任していた。十年も同じ屋敷で暮らしているが、おゆらが手練の透波だと気づいていないのだ。

 女中頭は庭先に飛び降り、軽く小首を傾げた。


「ん~……隠しやすいうえに、手裏剣より容易い。暗器に相応しい道具と期待していたのですが」

「……」

「衝撃が強くて、発射時に手の内で暴れますね。命中精度もイマイチ。余程近づかなければ、使い物になりませんか。心ノ臓を撃ち抜く筈が、一尺三寸もズレてしまいました。奏様の如意棒と同じ暴れん坊です」


 卑猥な発言を挟みながら、握り鉄砲を左袖に戻す。

 弾丸の装填に、相応の時間が掛かるのだろう。連射が可能であれば、すぐに二発目を発射している筈だ。一先ずは、握り鉄砲の仕掛けと命中精度の低さに助けられた。


「是で終い……というわけではあるまいな?」

「勿論です。やはり普段から使い慣れた道具でないと、肝心な時にうまくいきません」


 じゃらり――と右腕の袖口から鎖を垂らす。

 右手で鎖を握り締め、分銅鎖を縦回転させる。


「今度は分銅鎖か」


 朧も分銅鎖と対峙した経験はある。

 対手の武具を絡め取り、動きを封じる為の武具。寧ろ護身用の道具に近い。間合いは二尺程度。長くても四尺という処か。

 彼我の間合いは、四間近くも離れている。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』や握り鉄砲が使えない以上、互いに間合いを詰めるしかない。

 然しおゆらは、朧に近づく気配を見せない。


 分銅鎖に仕掛けでもあるのか?


 それでも構わない。

 寧ろ対手の出方が読めない方が、朧の戦闘意欲も高まる。


 敢えて此方こちらから間合いを詰める――


 幽玄オサレに大刀を抜こうとした刹那、今度は分銅鎖が飛んできた。


「――ッ!?」


 この間合いから攻めあたうか!?


 完全に意表を衝かれた。後方に跳躍して躱すと、鉄製の分銅が長い袖を掠める。大刀を奪うつもりでいたか。

 限界まで伸びた鎖が、凄まじい速さで引き戻される。己の意志でもあるかの如く、右腕の袖口に巻き戻されていくのだ。巻き戻された鎖を右手で握り、二尺程度の長さに調整すると、分銅が唸りを上げて回転する。

 忽然と鎖の音が止まった。

 おゆらの頭上に分銅鎖を『発射』したのだ。真上に向けて飛ばした分銅鎖が、上空から放物線を描いて襲い掛かり、右半身で躱す朧の美貌を掠めた。

 ぞくりと朧の身体が総毛立つ。

 分銅鎖の一撃は、頭蓋骨を容易に破壊できる。頭部に一撃でも食らえば、間違いなく即死だ。

 驚愕する朧を尻目に、おゆらは素速く鎖を巻き戻し、対手に間合いを詰めさせない。


「これも奏様からお預かりしました。分銅鎖発射装置と分銅鎖巻き戻し装置です」


 おゆらが左腕を上げると、はらりと袖が落ちる。

 左腕には、長い鎖が巻きつけられていた。おゆらは左腕に機械からくり仕掛けの腕輪を嵌めており、自動的に腕輪が回転して鎖を巻き戻すのだ。


无巫女アンラみこ様の受け売りですが――左腕に嵌めた腕輪が分銅鎖巻き戻し装置。瓦斯圧ガスあつを利用した巻揚機ウインチで、限界まで伸びた鎖を巻き戻します。分銅鎖巻き戻し装置から背中の管を通り、鎖を右腕の分銅鎖発射装置まで繋げているのです。分銅鎖発射装置も瓦斯圧ガスあつで分銅を発射しております。要するに、私が分銅鎖を投げているわけではありません」

「えらく親切に解説してくれるのう。儂を嘗めておるのか?」

「とても嘗めております」


 おゆらが笑顔で言うと、朧の頬が引き攣る。

 事実、四間先まで届く分銅鎖など、恐怖の産物と言うしかない。

 右腕の分銅鎖発射装置から分銅が射出した直後、左腕の分銅鎖巻き戻し装置が回転して鎖を伸ばす。鎖が限界まで伸びきると、分銅鎖巻き戻し装置が逆回転。自動的に鎖を巻き戻し、対手に近づく隙を与えない。

 仮に接近できたとしても、次の攻撃で頭蓋骨を打ち砕かれる。頭部に穴を空けられて、脳漿を撒き散らす事となろう。

 四間先まで届く分銅鎖は、飛び道具と同様。状況を打開する手立てが見つからない。刀を抜く間すら与えてくれないのだ。


「申し遅れました。私は薙原本家の女中頭で、悠木ゆらと申します。短いお付き合いとなりますが、お見知り置きを――」

「人喰い共は、間合いを取らぬと挨拶も能わぬか」

「あら? まさか近づけないのですか?」

「――」


 おゆらの挑発に、朧が美貌を歪める。


「半月ノ太刀でしたか。あの技を使えば、私に近づく事もできるかもしれませんよ」

「……大盤振る舞いしてしもうたからのう」


 今朝方、奏に技を披露した際、おゆらも盗み見していたのだろう。


「長物の落とし差しで、抜き付けの唐竹割。まあ、なんと中二臭い技でしょう。私にも堪能させてください」


 露骨な誘いである。

 半月ノ太刀の間合いは、最大でも三間。おゆらが四間の間合いを維持し続ける限り、半月ノ太刀でも届かない。


「ふむ――」


 朧は大刀の柄を握り締めながら、考え込むような仕草をする。

 おゆらが大刀の間合いを把握するように、朧も分銅鎖発射装置と分銅鎖巻き戻し装置の特徴に気づいた。分銅鎖が発射する際、発射した方向を定める為、左腕を前方に突き出さなければならない。分銅鎖を巻き戻す時も同様だ。左腕の分銅鎖巻き戻し装置が稼働する間、分銅鎖を巻き戻しやすくする為、攻撃の姿勢を維持しなければならない。

 一連の動作が単純で読みやすく、分銅鎖を発射した刹那に間合いを詰めれば、朧も攻勢に転じられる。どのみち大刀を抜かないと、尋常な勝負にならない。


「どうするかの!」


 何食わぬ顔で、朧は大刀を抜いた。

 おゆらの分銅鎖も飛んできたが、朧の頭上を越えて、背後の石灯籠を打ち砕いた。

 半月ノ太刀は、直進するだけが取り柄の技ではない。その場で刀を抜きながら、膝落しつらくで上体を落とす技だ。

 大刀を抜いた朧は、一気に間合いを潰す。

 おゆらが分銅鎖を巻き戻した時には、すでに太刀の間合いである。おゆらの体勢が整う前に、がら空きの胴に横薙ぎを放つ。

 戞然と激しい音が響いた。

 斬れていない。

 朧の横薙ぎは着物を裂いただけで、おゆらの肌を傷つけられなかった。


「――鎖帷子か!?」

「うふふっ。当然の備えかと」


 余裕で答えるおゆらに、朧は驚きを隠せない。

 小袖の下に鎖帷子を着込む事はよくあるが、重さが一貫を超えているのだ。分銅鎖発射装置や分銅鎖巻き戻し装置も含めれば、総重量は三貫を超える。これだけの重装備を隠しながら、立ち居振る舞いに違和感を与えない。鶯の響きも抑えられるという事は、透波が使う身体操作術の一つなのだろう。

 然れど命の遣り取りの最中に、予想外の事態など言い訳にもならない。初めから鎖帷子の存在を想定していれば、当世具足と同様に切断できた筈だ。

 朧は素速く思考を切り替え、後方へ下がるおゆらに片手の刺突を放つ。鎖を編み込んで仕立てた帷子なら、鎖の輪を狙えば脆い。

 両者の間で、再び金属音が鳴り響く。

 朧が眼を見開き、おゆらが柔和な笑みを浮かべる。

 渾身の片手突きが、いとも容易く受け止められた。

 おゆらは両手で分銅鎖を縦に張り、大刀の切先を鎖の中に収めたのだ。対手の狙いだけでなく、速度(スピード)・拍子(タイミング)・刃筋(ポイント)を完璧に予測しなければ、絶対に為し得ない神業。それを平然と実行したのである。


「想定しておりましたよ。心ノ臓に向けて刺突を放つと」

「がるる!」


 屈辱に身を震わせながら、朧は低い声で唸った。


「作州牢人――渡辺朧。齢十八。性別は女。実名不明。身の丈五尺五寸一分、身の重さ十四貫六六七匁。女体三位寸法にょたいさんいすんぽうは上から二尺九寸五分、一尺九寸三分、二尺九寸四分。右腕二尺八寸五分。左腕二尺八寸四分。股下二尺七寸一分。踵骨腱しょうようけん一尺一寸五分。虎の如く強靱な脚を持ち、両腕を自在に使う。父親は異国の奴隷上がり。荒井あらい流剣術と捔力スマヰ相権たかえしを修めた後、涼雲星友りょううんせいゆうに仕えて、端城の主に成り上がった。母親は正室の侍女。正室の悋気りんきを恐れて、赤子と共に尼寺へ駆け込む。数年後、伽耶様の温情で奏様の乳母に選ばれ、母子共に忠誠を誓う。然れど伽耶様は、奏様を連れて出奔。母親も八年前に病死。城下を訪れる武芸者と立ち合い、覇天流の技を実戦で会得。父親から印可状と秘伝書を授かり、伽耶様と奏様を捜す旅に出る。太閤薨去後、動乱の京で武名を高め、備前宰相の筆頭家老――明石あかし掃部かもんの陣に加わり、関ヶ原で抜群の手柄を立てるも、諸大名の誘いを全て断る。半年後、符条様の眷属と遭遇。奏様の所在を知り、蛇孕村に辿り着いた――」

「……」

「性格も情報通りです。典型的な中二病の気質……命の遣り取りに、無駄な美意識を持ち込む。確実な方法を捨て去り、好んで危険な方法を選ぶ。武具の本質を見切り、間合いを詰めておきながら、無防備な顔を狙わない。敢えて鎖帷子の隙間を狙う。虚氣にもほどがありましょう」

「よく儂の事を調べあげたのう」

「貴女の出現も想定の範囲内。奏様の過去を知る女。いつでも始末できるように、情報だけは集めていました」


 朗々と語るおゆらに対し、朧は興奮を抑えきれずにいた。

 刺突を受け止められるという恥辱の果てに、凶暴な殺戮衝動が込み上げてきた。

 単純に行動を予測しただけでは、朧の刺突は止められない。巨漢を投げ飛ばすほどの膂力で放たれた一撃である。相手の力量を見極め、誤差一分以下で鎖の長さを調整しなければ、刺突を受け止めるなど不可能。一分でも長く持てば、衝撃を吸収しきれずに鎖ごと心臓を貫かれる。逆に一分でも短く持てば、鎖が衝撃に負けて砕かれてしまう。

 幾人の強者つわものを討ち果たせば、これほどの業前に達するのか。想像しただけで、武者震いがしてくる。

 久しぶりの強敵。

 それも極上の獲物だ。

 妖艶な美貌が、獰猛な喜悦で歪む。


「虚氣から女狐に質問がある」

「なんでしょう?」


 刀と鎖を間に挟み、二人は笑い合う。


「何故、御曹司に固執する」


 朧の双眸が爛々と輝いた。


「今更、薙原家が世俗の権力を求めているとも思えぬ。天下の行く末がどうなろうと、お主らは興味もなかろう。然れど御曹司の記憶を改竄してまで、蛇孕村に留め置く理由が分からぬ。お主らは御曹司に何を求めておるのじゃ?」

「十年前に行われた記憶の改竄は、御先代に命じられた母の所業。私も仔細を承知しているわけではありませんが……冥土の土産という事にしておきましょう」


 柔和な笑顔を張りつけて、おゆらは言葉を紡ぐ。


「奏様の本当の父親など、些末な事柄に過ぎません。奏様の存在自体が、我々の希望なのです。女系一族の薙原家で生まれた男子おのこ。本家の血筋でありながら、餌贄えにえを求める事はない。妖術も使えない。眷属も使役できない。極めて純度の高い人間……即ち師府シフの王。薙原家に永遠の繁栄を齎す御方なのです」

「ヒャハハハハハハハハハッ!!」


 朧が甲高い声で哄笑した。

 余程愉快なようで、左手で美貌を覆い隠しながらも、笑声を漏らし続ける。鎖に嵌め込まれた刀身が、ガクガクと小刻みに震えていた。


「ようやく合点がいったわ! お主らは人を産みたいのか! 御曹司が人喰い共と交われば、人が産まれると考えておるのか!」

「人喰いも色々と大変なのです」

「それでお主は御曹司を操り、毎夜の如く淫らな行為に耽り、その都度記憶を書き換えてきたと――」

「本当に人が産まれるのか……无巫女アンラみこ様と祝言を挙げる前に確かめておかなければなりません。ならば、私が適任です」


 己の犯した悪行を世間話の如く言い放つ。


「御曹司の童貞は美味かったか?」

「それはもう。太き事馬の如く。硬き事岩山の如く。律動する事獣の如く。射精する事火山の如し。近頃では、夜伽の度に私が翻弄される有様。十年も育ててきた甲斐がありました。奏様を汚してよいのは、この世の中で私だけです」


 敵対する女性の前で、夜の営みを暴露するほどの独占欲。常軌を逸した本家に対する忠誠心と主君に対する執着心。おゆらの言葉は通じない。

 朧は無理矢理、大刀を斜めに振り下ろした。

 おゆらが握りを緩めて、切先が下方へ移動した分、鎖の長さを調整する。

 妖艶な美貌が、ぐいと柔和な笑顔に迫る。

 厚めの唇に舌を這わせ、朧は殺気を滲ませながら嗤う。


「お主……蓮のうてなに座れると思うなよ」

「極楽浄土に逝けるような生き方はしておりません」


 互いに笑顔で挑発し合いながらも、朧は伸びて緩んだ鎖を右足で踏みつけ、鎖の輪から切先を解放。すかさず大刀を引き抜いた。

 分銅鎖は踏まれて使えない。さらに後退して躱そうにも、背後は主殿のえん。加えて横薙ぎは、左右に動いて避けられるものではない。

 大刀を振り抜くには、彼我の距離が接近し過ぎているが、中二病の成すべき事は変わらない。分析されても解析されても、難易度の高い技に挑戦する。

 対手から刀身を隠すように、朧は大刀を担いだ。


「それも想定の範囲内です」

「な――ッ!?」


 容易く胴体を切断する横薙ぎが、無様に空を切る。

 おゆらは、軽業師の如く宙を舞った。

 朧の頭上で二度も回転した後、朧の背後に着地した。

 助走なしの前方伸長宙返ぜんぽうしんちょうちゅうがえ二回捻り。

 胸を中心に回転する事で、驚異的な高さと滞空時間を得る。軽業の技術ではあるが、足首の力だけで跳べる筈がない。

 双方の背中が重なり合い、朧の首に鎖が巻きついていた。鎖と喉の間に左手を挟み込むが、片手では防ぎきれない。


「お主……クスリでも使うておるのか?」

「まさか。符条様から聞いていないのですか? 人喰いの身体能力は、大凡の者を上回ると……よいしょ」

「がは――ッ!」


 左手が鎖から外れて、おゆらに身体を背負われる。朧の頭に血が上り、額に血管が浮き出ていた。


「なんと卑しい叫び声。もう少しこう……女子おなごらしい悲鳴を上げられないのですか? 立居行跡に品性を感じられません」


 霊長類ヒト科最低の卑猥物が、女武芸者を窘める。


「本当に无巫女アンラみこ様を除く中二病は、身の程知らずの愚か者ばかり。『天下布武だがや!』と喚く織田信長。酒で我を忘れて、光智院こうちいんの牛車に『院というか、犬というか。犬ならば射ておけ』と矢を射掛け、六条河原ろくじょうがわらで斬首された土岐とき左近さこん。さらに品川狼介しながわおおかみのすけですよ? 山中鹿介に対抗して改名した挙句、一騎打ちで返り討ちにされるのですよ? 単なる馬鹿の集まりではありませんか。己の分を弁えてください。凡俗に隠れた才能なんかありません。現実逃避の先に希望なんかありません。誰も彼もが无巫女アンラみこ様のようになれるなら、人喰いも人も苦労しません。やはり貴女のような存在は、奏様に悪い影響を与えるだけです。確実に始末した後、裏山に埋めてしまいましょう」

「……ッ!」


 お主こそ中二臭いわ……と言い返してやりたいが、絞殺寸前で声が出ない。鉄の鎖が首を絞め、じたばたと呼吸困難で苦悩する。

 意識が途切れる寸前、朧は小刀を抜き、地面に突き立てた。

 小刀の柄頭を足場にして跳躍。くるりと後方へ回転し、おゆらの眼前に立つ。


「きゃ――」


 無防備な状態で接近を許すも、おゆらは女子おなごらしい悲鳴を実演するほどの余裕がある。


「がらああああッ!!」


 強引に大刀を振り抜くが、速さも切れ味も感じない。簡単に躱されて、再びおゆらに距離を離された。

 朧は激しく咳き込み、追撃を仕掛ける事もできなかった。

 今の一太刀で限界――

 空気が足りない。新しい酸素を取り込めず、血液中の二酸化炭素濃度が急上昇。何度も血を吐きながら、喉を襲う激痛に呻く。中二病の武芸者でなければ、恥も外見もなく庭の上を転げ回りたいくらいだ。

 呼吸器官が正常に回復するまで、暫く時が掛かるだろう。それまで激しい戦闘はできない。死に体になりながらも、力の入らない左手で小刀を鞘に収めて、おゆらに好戦的な視線を向ける。

 おゆらは、別の意味で追撃を加える必要がなかった。

 十分に間合いを広げたうえ、今の朧に戦う力は残されていない。

 もう一度、半月ノ太刀を放つだけの余裕もあるかどうか。この距離を保ちながら、分銅鎖で体力を削り続ければ、確実に仕留められる。


「死ぬ前に言い残す事はありますか?」

「御曹司を……侮辱するでない……」


 朧は掠れた声を張り上げる。


「御曹司は……己の生き方を……好きに選ぶのじゃ。御曹司の進む道に……立ち塞がる者があれば……それを取り除くのが……儂の役目よ」

「異な事を仰いますね。薙原家は、奏様の障害と成り得ません。奏様は、初めから蛇孕村の外に出るつもりはないのです」

「左様であろうな。妖術に頼らずも……お主らの仕込みに……不備はなかろう。何より村の外に出たとて……身の危険が増えるだけ。都合の良い未来などありはせぬ。然れど外に出れば、己の頭で考える事が能う。己の心で悩む事も能う。お主らは、御曹司を利用するだけじゃ。いずれ愛想を尽かされよう」

「……」


 おゆらは笑顔で黙考する。

 気に入らない。

 一発逆転の秘策などある筈もないのに、己の勝利を信じて疑わない。これが中二病の厄介な処だ。窮鼠猫を噛む。追い詰められた獣の行動は、おゆらでも予測できない。

 実際、おゆらの予想以上に、朧は体力を回復しつつある。

 随意的な胸郭運動を取り戻し、徐々に呼吸を整え始めていた。

 今すぐは無理でも、小半刻も休息を取れば、激しい戦闘を再開できそうだ。


「やはり中二病の思考は、私には理解できそうもありません。奥の手があるとも思えませんが、念には念を入れておきましょう」


 ぱちんと左手の指を鳴らすと、左右の木陰から女中衆が跳び出してきた。二人の背後や屋敷の中からも、次々と武装した女中が出現する。

 槍を構えた女中が。

 薙刀を携えた女中が。

 八角棒を掲げた女中が。

 手裏剣を持つ女中が。

 両手に手甲鉤てっこうかぎを嵌めた女中が。

 長巻ながまきを握り締めた女中が。

 鎖鎌の分銅を振り回す女中が。

 弓矢を向ける女中が。

 数十名の手練が、幾重にも朧を取り囲む。


「是が最後の遊興うたげか?」

「私も名残惜しく思います。然れど永久とわに続く宴などありません。我々にできる事は、お客様の酔いを覚ます事だけです」

「――」

「皆の者、掛か――」


 おゆらが女中衆に指図した刹那、


「随分と手間を掛けているようね」


 主殿の広間から抑揚を欠いた声。

 おゆらが振り返ると、蒼い巫女が主殿のきざはしに佇立していた。


无巫女アンラみこ様!?」

「もう一度だけ、自分の眼で確かめるつもりで来たのだけれど……残念ながらハズレね。期待していた新手の泥棒猫はなし。私とした事が分岐点を間違えたわ」


 白衣の上に蒼く染めた千早を纏い、下は紫色の袴。美貌の上半分を鬼面で隠しており、両手には夜刀やと。何千人も斬り殺していながら、一度も血で濡れた事がないという妖刀である。


「ようやく蛇女のお出ましか」


 右手で喉を押さえながら、朧は宿敵を睨みつける。

 太刀を振るう握力は取り戻した。然し人を斬れるかどうかは、実際に確かめてみなければ分からない。


「関ヶ原合戦より九ヶ月……お主の事ばかり考えていたぞ。如何に斬り捨ててやろう。如何に腸を引き摺り出してやろう。如何につらの皮を剥いでやろう。夢想にふけては、夜も眠れぬほどであった」

「お前の妄想に興味はない。それより呼吸困難から脱したようだけれど、戦闘力が五百から二十五に低下している。平均的な足軽と同程度。後は斬首するだけ」

「クククッ、斬り合いの結果など、相手が死ぬまで分からぬよ」


 朧は上体を丸めて、太腿に力を込める。

 奇しくも、関ヶ原の時と同じ状況だ。

 死に体でありながらも、朧の殺戮衝動は昂ぶるばかり。死中にて勝機を見出してこそ中二病。一瞬の閃きが試されるというものだ。

 圧倒的に不利な状況で、朧の武威は増していく。手練の女中衆や超越者チートにこそ及ばないが、対手の威圧感に呑まれる事もない。

 朧とマリアの武威が正面からぶつかり、両者の間で空気が軋む。

 軋んだ空気が壊れる瞬間、


「――それまでッ!!」


 予想外の怒声が、二人の動きを止めた。

 皆が視線を向けると、獺が庭の池から顔を出す。

 ぬたりと池から這い上がり、朧とマリアを睨みつける。


「何をしているのだ。お前達は……」


 獺は呆れた様子で言った。


「符条巴」


 マリアが冷然と言った。


「符条家の眷属は獺でしたね。叛逆者と逃亡者が、同時に本家の御屋敷に忍び込んでくるとは……」


 大袈裟に肩を竦めて、おゆらは笑みを取り戻す。


「それで――畏れ多くも无巫女アンラみこ様を裏切り、蛇孕村を追放された叛逆者が、当家に何の御用で?」

「私を叛逆者に仕立て上げたのは、どこの女中頭だ?」

「あらあら。まさか意趣返しのつもりで、朧様を蛇孕村に送り込んできたのですか?」

「その娘とは、偶然目的が一致しただけだ。奏を外界に連れ出す。伽耶の忘れ形見を貴様らの玩具にしておけない」

「符条様と伽耶様は、旧知の間柄と聞いております。女同士の友情を否定するつもりもありません。然し我々の悲願を阻む者は、如何なる者であろうと排除します」


 武装した女中衆が、濡れた獺に向き直る。

 符条の眷属を捕縛すれば、本人の居場所を突き止められる。朧の始末は、その後でも構わない。


「獺殿、邪魔を致すな」

「馬鹿者。お前が遊んでいる間に、奏を連れていかれたぞ」

「――ッ!?」


 場の空気が乱れる。

 刹那の拍子ではあるが、囲みに綻びが生じた。

 機を逃さず、朧は身体を反転させた。

 庭の茂みの中に跳び込み、庭木をへし折りながら、樹木の陰に消えていく。女中衆は追い掛けようとしたが――


「追う必要はありません」


 おゆらは部下達を制した。


「この場から逃れるだけの力を残していた事に驚きましたが……猿頭山の曲輪には、すでに手練を配置しております。外界と出入りする馬喰峠も封鎖しました。もはや三十路童貞の如意棒も同然。実弾を装填した処で、無駄撃ちにしかなりません」

「卑猥な言動には乗らないぞ。それより大事な奏が攫われたのだ。お前は慌てなくていいのか?」

「慌てる理由がありません」

「此度の騒動は、お前の苦手な奴が関与している」

「勿論、それも想定の範囲内。本家の御屋敷に侵入できる者など限られています。奏様の精神に楔を打ち込み、余分なほど兵も揃えました。手抜かりはありません」


 右手で鎖を唸らせながら、おゆらは間合いを詰めた。


「叛逆者と逃亡者の捕縛こそが、此度の策略の要諦。年貢の納め時です」

「どうもお前は、知恵が回り過ぎる」

「……先程から無駄話が多いですね。時間稼ぎのつもりですか?」

「いや、純粋に褒めているのさ。お前は優秀だよ。外道揃いの薙原家でも、お前ほど狡猾な女はいないだろう。だが、物事を合理的に判断し過ぎる。この世の全ての者が、損得勘定だけ考えて生きているわけではないのだ」

「――ッ!?」


 言外の意図を察し、おゆらは階に眼を向ける。

 マリアがいない。

 後ろで佇立していた筈の无巫女アンラみこが、忽然と姿を消していた。


「なっ――」

「獲物を攫われて慌てたのは、虎だけであるまい。蛇も同様であろう」

「……无巫女アンラみこ様の捜索を優先します。発見した者は、必ず私に報告する事。今の无巫女アンラみこ様は、敵と味方を区別せずに斬り伏せます」


 女中頭の命を受けて、一斉に女中衆が散開した。

 配下の者共が消えると、おゆらは顎に手を当てて俯く。


 ちっ――


 誰にも聞こえないように、苛立たしげに舌打ちをした後、再び柔和な笑みを張りつけ、清楚な美貌を上げた。


「本当にイカ臭い女ですね。手心を加えずに始末しておくべきでした」

「後悔先に立たず。自業自得だ」

「切り返しが面白くありません。やはり奏様でなくては……」


 栗色の髪を踊らせ、背を向けて主殿に戻る。

 どうも悪い予感がしてならない。

 符条の眷属が正面から現れたという事は、絶対的な自信の表れである。猿頭山に外部へ脱出する方法など存在しない筈だが――

 おゆらの想定を超える事態に発展しているのか。


 今すぐ別働隊を編制し、私の手で保護しなくては――


 失態の屈辱を心の底に封じ込め、おゆらは冷静に思考を切り替えた。




 南蛮人形……薙原家の者達が常盤につけた蔑称


 玉薬……火薬


 一尺三寸……約39㎝


 二尺……約60㎝


 四尺……約1.2m


 四間……約7.2m


 三間……約5.4m


 一貫……約3.75㎏


 三貫……約11.25㎏


 実名不明……武家の女性は、家族以外に実名を明かさない


 五尺五寸……約1.65m


 十四貫六六七匁……約55㎏


 女体三位寸法……スリーサイズ


 二尺九寸五分……約88.5㎝


 一尺九寸三分……約57.9㎝


 二尺九寸四分……約88.2㎝


 一尺八寸四分……約55.2㎝


 一尺八寸三分……約54.9㎝


 二尺七寸一分……約81.3㎝


 踵骨腱……アキレス腱


 捔力……相撲の源流


 相権……日本古来のボクシング


 涼雲星友……宇喜多直家の戒名


 悋気……嫉妬


 印可状……奥義を会得した者に授けられる免許状


 秘伝書……流儀の技術が記された書物


 明石掃部……明石あかし全登たけのり


 一分……約3㎜


 御先代……先代の本家当主。マリアの母親。


 光智院……光厳天皇こうごんてんのう


 土岐左近……土岐とき頼遠よりとお


 小半刻……三十分

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