第15話 二つの牢
朧が閉じ込められたのは、主殿の座敷牢だった。
広さは六畳ほどで、樫木の格子で仕切られていた。灯りはなく、座敷牢の中は薄暗い。空気も澱んでおり、不快な湿気が纏わりついてくる。
当然の如く大小は奪われた。
座敷牢の奥に置かれた壺から、凄まじい臭気が漂う。壺の中身を確認するまでもない。他の誰かが、ごく最近まで閉じ込められていたのだろう。
朧は大の字に寝転んで、瞑想するように瞼を閉じていた。
劣悪な環境による体力の消耗を防ぎ、暗闇に眼を慣れさせる為だ。
どれほど身体を休ませていたのか。
静かな足音に気づき、朧は眼を開いた。
「ようやく来たか」
待ちかねたとばかりに、むくりと上体を起こす。
おゆらは
「随分と待たせてくれたのう。今
「酉の刻でしょうか」
「夕暮れか。道理で腹が空くわけよ」
半日近くも閉じ込められていたのか。もう少し遅ければ、危うく壺の世話になる処だった。安堵感を覚えながらも、朧は泰然と語る。
「それで真の下手人とやらは捕らえたのか?」
「鋭意捜索中です」
「えらくのんびりしておるのう」
「時間の問題ですから」
おゆらは簡潔に答えて、袖口に左手を差し込む。
座敷牢の中に、ぽいと革製の袋を投げ込んだ。異国風の紋様が描かれた革袋で、床に落ちた衝撃で中身が飛び出す。
細かな
「如何なる了見じゃ?」
「奏様を助けて頂いた御礼です」
「
「左様にして頂ければ、事を荒だてる事もないかと」
「儂がおると邪魔か?」
「奏様は、我々が御守りします。加勢は無用です」
「ふむ」
鼻を鳴らして立ち上がり、おゆらの側に近寄る。
樫木の格子を挟んで、女武芸者と女中頭が対峙した。
「儂は、
女武芸者は、満面に笑みを浮かべて言い切った。
「――」
「世の中に『銭』という
「――」
「仏僧に言わせれば、闘争を惹起する恐ろしい代物じゃ。然れど争いがなければ、技術の発展も有り得ぬ。畢竟、使う者の心懸け次第なのであろう」
傲岸不遜に語りながら、身体を丸めて
「然れど――」
大腿の筋肉を強張らせ、僅かに両足の踵を上げた。頭を垂れながらも、弓の弦を引くような緊張感を漂わせる。
「お主の金は、反吐の臭いがしおる」
朧は相手を侮辱しながら、格子に右肩を叩きつけた。
堅木の格子が砕かれ、前方に木片が飛び散る。
おゆらは体当たりを躱した。
だが、背中に鋭利な物体を突きつけられた。朧の背後を奪われて、木片の先端を背中に押しつけられたのだ。木片の先端は、おゆらの心臓に狙いを定めている。
「儂を閉じ込めたいのであれば、牢屋ではなく岩戸にすべきであったな」
「身の当たりで樫木を打ち砕くとは……貴方、本当に人ですか?」
「お主に言われとうはない。それより大小を返して貰おうか。腰に太刀がないと、どうにも落ち着かん。それから御曹司を連れて出奔致す」
「蛇孕村の外に出ると?」
「都合の悪い事実を伏せ、人喰い共と暮らす事が、御曹司の為になるものか。さあ、時が惜しい。早く案内せよ」
「畏まりました」
おゆらは抵抗する素振りを見せず、素直に両手を挙げた。
その姿は、朧が連行された時と似ている。
何を企んでおるのやら。
朧は警戒心を解かず、木片を強く握り締めた。
奏は庵の一室で、燭台の灯りを頼りに読書をしていた。
何の変哲もない
事が落着するまで、庵の外に出ないでください――と女中に言われてから、半日近くが過ぎている。確認するまでもなく、武装した女中衆が周囲を取り囲んでいるのだろう。
外に出る事は許されない。
巫女殺しの下手人が見つからなければ、朧に冤罪を被せて処刑し、蛇孕村の広場に首を晒す。薙原家の威信を守る為なら、おゆらは一切躊躇しない。
命の恩人が、家族同然の女中頭に殺されるかもしれない。それだけは、絶対に阻止しなければならない。然し具体的な方法が思い浮かばない。すでに真の下手人は、蛇孕村から逃亡した恐れもある。
焦りが募る。
無表情を取り繕うだけで精一杯。
部屋の外から廊下の軋む音が聞こえてきた。
本家屋敷の廊下は
だが、鶯の響きが尋常ではない。
酷く慌てた様子で、奏の部屋に近づいてくる。
奏の脳裏に、巫女殺しの下手人が思い浮かんだ。
武器になりそうな物が、周囲に見当たらない。書物を投げて怯ませるか、文机を楯の代わりに使うか。
奏が黙考する間に、木戸が開いた。
「奏……いる?」
聞き覚えのある声。
奏は緊張の糸を緩めた。
「……常盤?」
銀髪の少女が、薄闇の中に佇んでいた。
「良かった。ちゃんと合流できた」
常盤は弾んだ声で、安堵の表情を浮かべた。
だが、現状を掴めない奏は、不思議そうに質問を重ねる。
「どうして常盤が此処に? おゆらさんは? 他の女中は? 朧さんはどうなったの?」
「そんなに沢山、質問されても答えられない……」
「ああ、そうだね。ごめん」
慌てて常盤を問い質してしまった。
己の短慮を恥じるが、焦燥感は増すばかりだ。
この状況で常盤が現れる事自体、不自然極まりない。監視者達は何をしているのか。予期せぬ事態でも起きたのだろうか。
「一先ず主殿へ向かおう。おゆらさんを止めないと――」
「――ダメッ! 主殿は絶対にダメ!」
常盤の甲高い声に、奏は身を竦ませる。
「……主殿で何か起きたの?」
「侵入者が暴れてるの。それでおゆらさんが、奏を連れて避難しろって……」
「巫女殺しの下手人か……」
奏は顔を顰めた。
警備の女中衆も侵入者の対応に追われているのか。手練揃いの女中衆が苦戦するくらいだから、かなりの人数で襲撃してきたのだろう。
美作の牢人衆が多勢で押し寄せてきたのか。それとも第三者の介入か。常盤の焦燥を窺う限り、黙考に耽る時間はなさそうだ。
「朧さんはどこに?」
「分からない。それより早くしないと――」
常盤が無理矢理、奏の袖を引っ張る。
今から奏が主殿に駆けつけても、おゆらの足手纏いになるだけだ。奏や常盤が襲撃者に囚われたら、眼も当てられない状況になる。
「外部から襲撃を受けた時は、隠し通路から猿頭山を目指すのが決まりだったね」
「うん――」
常盤は喜色満面で頷く。
一刻も早く危険な場所から離れたいのだろう。
「これ……蔵の中にあったの。使って」
常盤が差し出したのは、見事な拵えの刀だ。
鮫革の上に金糸が巻かれた柄。蝶を想起させる地透鍔。黒漆塗りの鞘に、煌びやかな螺鈿の細工が施されていた。拵えの豪華さは、マリアから下賜された名刀と負けず劣らず。鞘から刀を抜いてみるが、清廉な刃文の輝きを見ても、切れ味までは判別できない。加えて人を斬る覚悟もできていないが、何もないよりはマシだろう。最悪、刀身を返して戦うしかない。
「規則通りに行動しよう。襲撃者は女中衆に任せる。いいね?」
「うん! 早く行こう!」
常盤に急かされて、二人は主殿と反対方向に向かった。
酉の刻……午後六時
五十両……約1.875g
座……同業者組合
市……地域経済の拠点
身の当たり……体当たり
節用集……国語事典
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