第14話 壊れ者
猿頭山の山頂付近――
無数の杉の木が、地面から天高く伸びていた。時折、鳥が羽ばたく音や葉擦れの音が聞こえてくるが、辺りは静寂で満たされていた。
網代笠を外した武芸者は、巨木に背中を預ける姿勢で、太刀の柄に右手を添える。
端正な容貌が、へらへらと喜悦で歪む。
斬――と煌めく白刃。
間を置かずに、斜めに斬り上げた大刀を振り下ろす。
大事な斬り合いの前に、身体を温めておかなければならない。体捌きや太刀筋の微調整を行いながら、幾度も太刀を振るう。
素速く正確に――
前方の大気を断ち割る。
刀身を振り抜くと、にんまりと笑った。
『調子は良さそうだね』
己の意志と関係なく、頭の中で女の声が響いてくるが、武芸者も慣れているようで、全く動揺した様子を見せない。
「勿論! 拙者、もうビ~ンビンでござる!」
『大声は控えてくれないかな。一応、ボクたちは隠れているんだよ』
「それも承知の上でござる! 然し拙者は、隠形術が苦手でござるからなあ。音を立てようと立てまいと、相手からすれば同じでござろう」
『勅使河原君は、苦手な物が多いね』
「田中殿が器用なのでござる。拙者と雑談しながら、薙原家の屋敷に忍び込み、屋敷内の監視まで行うとは……聖徳太子みたいでござる」
『言い得て妙だね。ボクの場合は、聖徳太子の逆だけど』
「つまり
『蘇我氏?』
頭の中に響く声が、呆れたような声を上げた。
「聖徳太子の宿敵と申せば、蘇我氏でござろう」
『蘇我氏と聖徳太子は、誼を結んでいたなあ』
「なんと?」
『聖徳太子の宿敵は、
「成程。聖徳太子と蘇我氏は盟友でござったか」
無知無学を気にも留めず、武芸者は太刀を振り続ける。
馬喰峠から猿頭山の山頂まで移動したのは、巫女衆から逃げながら本家屋敷に近づく為だ。薙原奏の身柄を確保した後、蛇孕村から立ち去る。武芸者の役割は、
元より田中の謀略に興味もない。
然し運が良ければ、
天下無双の剣聖と斬り合う。
そう考えただけで、武者震いが止まらない。
「銀髪の娘は、無事に役目を果たしたでござろうか」
『先程、蔵に忍び込んだ筈だけど……意外だね。勅使河原君が女性に興味を示すとは』
「否、興味はござらぬ。寧ろ興味がないからこそ、暇潰しの雑談に丁度良い。田中殿の申した通り、あの娘は信用できる」
『ほう……是非、根拠を窺いたいねえ』
「頭の悪い拙者でも分かる。瑠璃色の双眸が底無し沼の如く
勅使河原は語りながら、大刀を真横に薙いだ。
徹夜を感じさせない体捌きである。
「年若いゆえに、人生を諦めきれない。猜疑心は期待の裏返し。
『まさか勅使河原君に、女心を講釈される日が来るとは……』
「頭が良さそうに見えたでござるか?」
『見えた見えた。続きが聞きたい』
「あー……残念ながら、続きはないでござる。拙者の如く強い武芸者と斬り合えば、人生最高ッ――みたいな壊れ者でもなさそうでござるからなあ。普通への道程は険しいのでござろう」
尤も武芸者から言わせれば、普通の人間というのも大変そうだ。思い返せば、兄も普通の武士だった。
然し父親の出世を契機に、彼の人生は激変する。
近江国の足軽が、騎乗の武士に取り立てられたのだ。それも何か特別な武功を立てたわけではない。主君の
加藤清正は、豊臣秀吉子飼いの武将だ。
天正十一年三月――
賤ヶ岳合戦で敵将を討ち取り、豊臣家から三千石を与えられた。その後も天下統一事業を推し進める為、秀吉の下知で諸国を転戦。天正十六年には、
秀吉の小姓から大名に上り詰めたのだ。
僅か五年の歳月で、三千石から十九万五千石に加増。家臣も数十名では足りないので、肥後国の前太守――
最下級の歩兵に位置する足軽が、瞬く間に足軽小頭を超えて騎乗の身分へ。四百石取りの中級武士になった。
幸運以外では、とても説明がつかない。
当然、九郎の父親も相応の苦労をした。
周りは佐々成政や
その間、九郎の父親は言葉遣いを直し、名も変えて武士らしくあろうと心懸けた。弓馬の稽古に励みながら、一から学問を習う。
最も気をつけたのが、武家の礼法だ。
諸国の大名家は冠婚葬祭を始め、諸々の儀式に細かな規定を定めている。数千人規模に膨張した家臣団を束ねる為、敢えて清正は規則を重んじ、式典で三回非礼を行えば、切腹という厳格な法を定めた。
加えて子供の教育にも情熱を注いだ。
将来を見据えて、足軽の頃から二人の息子を鍛えていたのである。
長男の
一方、次男の九郎は、身体も小さくて華奢。何より学問が大嫌い。講義の途中で寺を抜け出し、近所の童と遊び
そんな九郎が唯一、人並み以上に努力したのが、抜刀術の稽古だった。
剣術や槍術や弓術など、当時の武術は細かく分かれておらず、道場に通う稽古も普及していなかった。父親も戦場に出掛けてしまう為、身近に指導者がいない武士の子は、隠居した老武士を訪ねた。家中でも指折りと呼ばれた者に教えを請い、様々な武具の扱い方や
師匠に
当時、羽柴家で剣の達人と謳われていたのは、高名な邪鬼眼剣豪――
通称は
父を同輩の
彼の武名は天下に轟き、数多の大名家から高禄で仕官を求められたが、誰にも仕える事なく、武者修行の旅を続けていた。
九郎も仔細は知らない。
偶然、羽柴方で陣借りでもしていたのだろう。
九郎が物心つく前から、甚助は羽柴家で客将の如く扱われていた。
当時の九郎は四十代。
隠居するような歳ではない。
だが、思う処があるようで、立身出世より後進の指導に
抜刀術を指導するうえで、甚助は身分の上下に拘らなかった。武士や奉公人に限らず、貧農や僧侶の入門さえ許した。しかも束脩は無用という。
羽柴家は言うに及ばず、国内外から入門希望者が殺到した。天下に名高い林崎甚助から抜刀術を学べるのだ。強さに憧れを持つ者なら、教えを請いたいと思うのも当然。特に中二病の若者が、甚助の許に集った。
一般人には理解し難いが、
加えて現世には、『中二病と中二病は引き合う』という格言もあるくらいだ。
林崎明神に参拝した折、神様から抜刀術の極意を授けられたという逸話の持ち主。邪鬼眼剣豪の典型例のような人物である。甚助の存在は、誘蛾灯の如く他の中二病を引き寄せた事だろう。
甚助に引き寄らせられた若者達も、期待に胸を膨らませていた。
現実の修行は、思いの外地味だった。
最初に取り組む稽古は、持久走と相撲だ。
先ず抜刀術の体勢を教わる。
背筋を伸ばして、軽く腰を落とす。両腕をだらりと下げて、両膝の力を緩める。敵と対峙した時、自然に対応する為の体勢だ。
次に抜刀術の体勢を崩さず、ぐるぐると神社の境内を駆け回る。やや内股気味に左右の脚を繰り出し、足指で地面を咬むように進む。陸上選手がスパイクシューズを履いて走るのと、原理は変わらない。地面を捕らえる力を高め、足裏で働く反作用を逃がさない。
走る時に上半身は使わない。
上体を揺らさずに動く事は、全ての芸事の基本だ。
昼の休憩を挟んで、今度は相撲の立ち合いを行う。
三刻に及ぶ持久走で体力を消耗し、多くの弟子が相撲の前に嘔吐して脱落。地獄の持久走に耐え抜いた弟子も、ふらふらで立ち合いどころではない。だが、甚助は無気力試合を認めず、本気の立ち合いを命じた。
柔軟且つ強靱な肉体を造るうえで、相撲ほど良い稽古はないだろう。全身の筋肉を余す所なく鍛え上げ、自然と身体も柔らかくなる。
身体が硬いという事は、武芸者の欠点にしかならない。命の遣り取りの最中に、肉離れを起こして斬り殺される者など、武芸者とは呼べないからだ。
加えて相撲の立ち合いは、肉体の重心と
中二病とは思えない合理的な鍛錬法だ。
問題があるとすれば、諸人には全く理解できない事くらいか。
朝から昼まで走り続け、日が暮れるまで相撲を取る。木剣の素振りすら遣らせて貰えない。弟子同士の
これでは、鍛錬の成果も手応えも感じない。上達の実感が湧かないので、弟子達も不満を漏らすばかり。
これは剣術の稽古にあらず。
力士を鍛える稽古なり。
大凡の者から、斯様に断じられても仕方がない。
結局、多くの弟子が林崎門下を去り、甚助の名声に惹かれた中二病も、抜刀術の稽古に来なくなった。
九郎の父親も「馬鹿らしい」と吐き捨て、八郎を別の老武士に弟子入りさせた。然し九郎は兄と関係なく、甚助の下で稽古を続けた。
純粋に武芸の稽古が楽しかった。
勿論、全てが楽しいというわけではない。入門した当初は、持久走だけで身体が動かなくなった。相撲で何度も投げ飛ばされ、惨めに草陰で反吐を吐いた。
だが、幼弱な身体も徐々に逞しくなり、五体も無理が利くようになった。反骨心や向上心がない為、甚助の指導を疑う事もない。
何より頭を使わなくていい。
難しい事を考える必要がない――という安心感が肉体の苦痛を凌駕し、九郎を武芸の稽古に熱中させた。
父も兄の教育に没頭し、一見無意味な九郎の稽古を黙認した。
この頃には、八郎を跡取りと決めていたのだ。
面倒事がなくなり、九郎は心の底から安堵した。足軽の家など継ぎたくもない。将来の事は、文武に秀でた兄が決めてくれる。馬鹿な弟は、優秀な兄の言葉に唯々諾々と従えばよいのだ。
家督争いから解放された九郎は、益々武術の道に惹かれていく。
素振りが許されたのは、林崎門下に入門して四年目。九郎が十二歳の時だ。それも木剣ではなく、刃挽きもしていない真剣である。
如何なる流派であろうと、剣術の打突は九種類しかない。
唐竹(
九種類の打突に併せて、一日千本抜くように命じられた。つまり一日で九千回も刀を抜かなければならない。さらに利き腕が使えない状況を想定し、右腰に刀を帯びて左手で抜く稽古も取り入れられた。両方併せると、一日で一万八千回も刀を抜くのだ。
しかも三刻以内に一万八千本を終わらせなければ、次の稽古に進めなくなる。即ち抜き一本の平均時間は、一秒から二秒の間に収めなければならない。
逆風や右切上や右薙は、抜刀(抜き付け)から納刀の二動作で終わる。
だが、それ以外の六種の打突は、抜刀から斬撃及び刺突を終えて納刀――という三つの動作が必要となる。
最終的に、逆風や右切上(左切上)や右薙(左薙)は、二分の一秒以内。それ以外の打突は、一秒以内に終わらせなければならない。持ち手を変えても同様である。
凄まじい修行法だが、これも抜刀術の基本的な鍛錬だ。
速さに意識を向け過ぎると、逆に抜き付けが遅くなる。然りとて所作に拘り過ぎると、納刀が遅くなる。矛盾を解決する方法は、己の肉体から導き出すしかない。
この頃になると、弟子の間で差が出てくる。誰が見ても分かるように、才能の優劣が顕著になるからだ。
驚くべき事に、弟子の中でも一番早く抜き一万八千本を達成したのは、最年少の九郎であった。単純に身体が小さくて素速いというのもあるが、短期間で
同時に据物斬りも学んだ。
断裁の対象は、成人男性の屍である。
斬首された野伏の屍を試し斬りに使うのだ。すでに衣類も剥ぎ取られており、首の切断面を直に拝める。
初めて屍を見たが、九郎は驚きも恐怖も感じなかった。
強いて感想を言うなら、「こんなものか」というくらいだ。他の弟子が屍を興味深く観察したり、顔面蒼白で嘔吐する様子を他人事のように眺めていた。
とにかく師の命令通り、野伏の屍を斬るしかない。
刃渡り二尺二寸五分の太刀を使い、磔の屍を思う存分に斬りつけた。
抜き付けで一太刀。刀身を返して二之太刀。逆方向から三之太刀。速度や刃筋を変えては、胴や肩に何度も刃を叩きつける。
大抵の者は、皮膚を斬る事しかできない。体格の良い年長者は、骨に到達しないまでも肉は斬れる。
当然の事だが、屍は数日で腐り始める。甚助が新しい屍を用意できない時は、青竹を相手に据物斬りを行う。
屍も青竹も簡単に斬り裂く事はできない――と弟子達に理解させたうえで、ようやく技術の指導に入る。
日本に武術の道場が建てられたのは、寛永年間の頃。戦国時代の武芸者は、野外で武芸の稽古に励んでいた。寺社の境内に砂を撒き、四方に
他流の遣い手に、無想林崎流の技術は見せられない。甚助は高弟を連れて山中に入り、人目につかない場所で技術の指導を始めた。
一対一や多対一。
背後から襲われた時や刀を奪われた時など、様々な実戦の現場を想定し、体捌きや捕手を伝授する。
当然、その間も据物斬りの稽古を続けていたが――
据物斬りに於いても、九郎は才能の片鱗を見せた。十三歳に成長した九郎が、年長の弟子を差し置いて、屍の断裁に成功したのだ。野伏の屍を支柱諸共、一太刀で両断した。
後から気づいた事だが、人を斬るのに膂力はいらない。
非力な九郎でも、死後硬直した屍を切断できる。生きた人を斬り裂くよりも、遙かに難しい。腕力は二の次。速度と拍子と刃筋こそ肝要である。
甚助も弟子の才能を称賛した。
「九郎には天稟がある。屍を用いた一つ胴は、大凡の者なら五年。才のある者でも、三年は掛かる。それを一年足らずで成し遂げるとは――」
他人から褒められた経験がないので、九郎は素直に喜んだ。
然れど……と甚助は続ける。
「お前の剣は奇妙だ。およそ意志と呼べるものを感じぬ。まさかこの若さで『無』という事はあるまい。私から父君に進言しよう。注意深く育てねばならん」
それから父親と甚助の間で、どのような話し合いが行われたのか。
結果を言えば、芳しい成果を得られなかったようだ。
九郎は一部の者にだけ評価されるようになり、他に才能を認められた高弟と共に、山の中で新しい修行を課せられた。
真剣を用いた実戦稽古である。
相弟子が敵と味方に分かれて、合戦さながらに斬り合うのだ。
勿論、同門の試し合い。寸止めを心得としているが、流血沙汰は日常茶飯事。実戦稽古を行う度に、全身が刀傷だらけになる。
この稽古で負傷者こそ続出したが、不思議と死人は出なかった。
間合いを読めない者は対象外。甚助は修行の過程で弟子達の才能を見抜き、動体視力と空間把握能力に秀でた者だけを選出していた。
さらに甚助と立ち合う事も許された。
しかも「一度に大勢で斬りかかれ」と言うのだ。
これも師の命令である。弟子達は殺すつもりで斬り込んだが、切先が掠りもしない。
甚助が刃挽刀を使用していなければ、皆殺しにされていただろう。
九郎も挑戦してみたが、手も足も出なかった。
抜き付けの間合いを見切り、紙一重で切先を躱すつもりが、忽然と刀身が伸びて脇腹を打たれた。
甚助は大刀を抜く直前、右手を柄元から柄尻近くまで滑らせていたのだ。その分、一尺も間合いが伸びたのである。
高弟よりも太刀を速く振るう業前。
僅か半刻で抜き一万八千本を終えるのだから、人類の限界を超えている。上杉謙信のように、魔法使いに成り果てたのだろう。
一人残らず叩きのめすと、甚助は厳かに告げた。
「勝敗は鞘の内で決するものなり」
言葉の意味は分からないが、とにかく
九郎が十五歳の時、甚助は『
齢十五にして免許を与えられたわけだが、師匠の甚助には到底及ばない。何より抜刀術の極意――卍抜きを会得していない。九郎は慢心する事なく、黙々と抜刀術の稽古に明け暮れた。
九郎の父親が士分に取り立てられたのは、丁度その頃である。
主君の国替えに伴い、勅使河原一家は近江国から
翌年、十六歳の九郎は、武士の子息として元服を遂げた。
烏帽子親は甚助である。
痩せた身体に筋肉が付き始め、身の丈も武士の平均に近づいてきた。人当たりも悪くないので、家中から「勅使河原家の次男坊は馬鹿だが、人柄は良さそうだ」と評され、毒とも薬とも思われていなかった。
九郎の評価が一変したのは、天正十七年の秋の事。
肥後国の南半分を統治していた
入封したばかりの行長が検地を終えた後、居城となる
清正は五千の軍勢を率いて援護に駆けつけたが、
秀吉の小姓から槍一本で大名に出世した清正と、前身が堺の商人で交渉を得意とする行長。水軍の運用に自信があるようだが、武名を高めたわけでもない。まだ二十代で血気盛んな清正は、何事にも慎重な行長を蔑んでいた。
さらに清正は、信心深い仏教徒。『
対して行長は切支丹。前年に伴天連追放令が施行されたばかりで、切支丹に対する風当たりは強まる一方。黒田如水の如く棄教した大名も多い。清正も切支丹に不信感を抱いている。宗教も価値観も異なる二人。寧ろ共通点を探す方が難しい。
抑も行長は援軍を要請したが、清正自身の出陣を求めていない。これも清正が「領国支配の儀は、行長と相談すべし」と秀吉から命じられ、主君から行長より統治能力は劣ると決めつけられているのだろうかと、
清正が到着する前に、行長は麟泉の立て籠もる志岐城を完全に包囲していた。
謀叛人を生かしておけば、後世に禍根を残す。
追い詰められた志岐城からは、豪傑で知られた武将――
志岐城陥落で趨勢は決し、残された天草衆は徹底抗戦を諦めて降伏。天正天草一揆は、僅か二ヶ月で鎮圧したのである。
だが、終結の直前に事件が起きた。
勝利を確信した清正は、ようやく帰陣を決定した。だが、進軍の時と異なり、退き陣は酷く緩慢で、わざわざ部隊を複数に分けて帰国させる。
行長が理由を問い詰めると、
「我々は志岐城攻めで奮闘した。兵が疲弊しているので、ゆるりと帰らせて頂く」
と言い放つ。
自軍の活躍を殊更に称えて、行長の戦いぶりを痛烈に批判したのだ。加えて清正の部隊が少数でも現地に残れば、他の天草衆は不信感を募らせ、城の明け渡し交渉が遅れるだろうと見越していた。
落城が一日でも遅くなれば、領地を治める行長の失態。
度を超えた嫌がらせと言えるが、確かに最も活躍したのは清正である。加勢を請うた行長も強く反論できない。
清正は前線部隊や負傷兵を優先的に帰還させ、後続部隊や温存部隊は天草衆の城に貼りつけた。これも行長への当てつけである。
勅使河原親子も五百の兵に混ざり、天草種基が籠もる
今回の合戦では、小荷駄頭を任された。小荷駄奉行とも言う。前線の兵に武具や兵糧を届けるのが役目。とても武功を立てられそうもない。父親と八郎は落胆したが、同時に安堵もしていた。
九郎は元服したばかり。これが初陣である。戦場の空気を体験できれば、それで十分だろう。いずれ武功を立てる機会も訪れる筈だ。
当の本人は家族の心配など知らず、「初陣で一度も太刀を抜かぬというのもつまらないでござるなあ」と不満を漏らしていた。
馬鹿は気楽で羨ましい。
すでに四国征伐や九州征伐で戦場を体験していた兄は、出来の悪い弟に辟易しつつも、穏やかな眼差しを向けていた。
この時までは――
異変が起きたのは、
先頭を走る鎧武者は、「我こそは木山弾正なり!」と叫びながら、薙刀を振り回している。しかも偶然であろうが、勅使河原親子の部隊に直進してくるのだ。
勅使河原親子は困惑した。
木山弾正は志岐攻めで討死している。木山弾正である筈がない。惣面で素顔を隠しているが、間違いなく女の声。武術の心得もないようで、薙刀の振り方も滅茶苦茶だ。覚悟は認めるが、梅の木の枝に兜が掛かり、無様に転倒する始末。
八郎は思案に暮れた。
生け捕りにするのも不憫だ。雑兵の慰み者にされて、惨たらしく殺されるか、人商人に売り飛ばされる。主君の清正からも「天草衆が攻めてきた折は、一族郎党根絶やしにすべし」と命じられていたので、八郎は介錯のつもりで斬り捨てた。
戦の後で知らされた事だが、その女武者が弾正の妻のお市だった。城主の種基は和睦交渉を進めていたが、お市は亡き夫の無念を晴らす為、加藤勢に一太刀だけでも浴びせたいと懇願し、無謀な玉砕を実行したのだ。
他の鎧武者も木山一族の女ばかりで、切支丹ゆえに自害できない。家族が待つ
行長も交渉の途中で彼女達の行動を察知し、敢えて黙認したのかもしれない。実際、小西勢は一切動揺していなかった。加藤勢に知らされていないのは、志岐城攻めを鑑みれば無理からぬ事。八郎は戦場の無情さに心を痛めながらも、味方と共に鎧武者の一団を仕留めていく。
決死部隊を全滅させると、勅使河原親子は周囲を見回した。
九郎の姿が見たらない。
解放された大手門を見ると、抜け目のない雑兵達が、突入命令を待たずに
勅使河原親子は仰天した。
血煙が立ち込める虎口内で、あの九郎が雑兵共の先頭に立ち、獅子奮迅の働きをしているではないか。
九郎に深い考えなどない。
ただ天草衆を殲滅しろという命令だけは覚えていたので、大手門が開いた瞬間、迷わず一人で城内に突入したのだ。本渡城から飛び出してきた者共が、女ばかりの弱兵である事は、初陣の九郎でも一目で理解できた。「強くて偉そうな武士の首級を挙げた方が、父上も兄上も喜んでくれるでござろう」という程度の短慮。
本来、虎口は最も危険な場所で、攻め手の死亡率が極めて高い。敵や味方が出入りする正面入り口だ。守り手も万全の防御態勢で待ち構える。だが、本渡城の虎口は、鎧武者の一団を送り出す為、小勢しか残されていなかった。
まさか城兵も攻め込んでくるとは考えておらず、その混乱は加藤勢以上。それに気づいて、経験豊富な足軽が九郎の後に続いた。
初陣の若武者は、血塗れの大刀を振りながら、心の中で驚愕の声を発した。
――
この者共は、誠に武士でござるかッ!?
林崎門下の剣士達と比べれば、赤子の相手をしているようなものだ。屍や流血は見慣れており、人の命を絶つ事に躊躇いもない。
所詮は実戦稽古の延長。刀を振り抜く方が、寸止めよりも遙かに容易く、馬の世話より鎧武者を切り裂く方が簡単だった。
瞬く間に虎口を鎮圧。
勢いそのままに、急斜面の縦堀を駆け上がる。
「――待て九郎!
怒号が飛び交う中、兄の声は弟の耳に届かない。
本渡城の本丸は山の頂にあり、周辺に三つの
咄嗟の思いつきで、自分が殺した敵兵の屍を背負い、俯きながら進む事で、辛くも弾丸や弓矢が降り注ぐ空堀を突破。普通は
機転が利くというより、戦場の誰よりも冷静だった。
師に天稟と称された理由は、彼の精神面にある。生死を懸けた状況でも、生来の性分で平静を保ち続ける。父親の鉄拳制裁を受けても動じないように、悲哀や恐怖という感情が欠落していたのだ。
柵を乗り越えて曲輪に突入した後も、血刀は勢いを増すばかり。二十秒に一発撃てるかどうかの火縄銃では、接近戦で威力を発揮できない。
九郎の前では、槍による攻撃も無意味。抜き付けの速さに慣れた九郎には、槍の打ち込みが遅く感じられる。間合いさえ気をつけていれば、具足姿でも後退して避けられた。これも持久走で鍛えられた賜物である。
戦場で軽視されがちな刀も、城攻めでは無類の強さを発揮した。曲輪に乗り込めば大刀を振るい、室内に侵入すると小刀を使う。
師の技を真似て、大刀の柄尻で槍の
九郎と他数十名の雑兵で二之曲輪を占領。偉そうな武士の首を拾い上げ、本丸を目指そうかという刹那、
「本渡城城主――
と味方の歓声が響いた。
どうやら九郎の後ろに隠れていた雑兵の一人が本丸まで辿り着き、運良く城主の首を挙げたようだ。九郎の武勇に便乗したわけだが、これはこれで
勝敗は決した。
ただの城攻めであれば、勝ち鬨を挙げて終わりだ。然しこれは、尋常の合戦ではない。謀叛人の殲滅が目的。天草衆の残党や伴天連を殺し尽くさなければならない。
志岐城と同様に、天草一族を血祭りにしようと、加藤勢は戦闘の継続を望んだが、小西家の侍大将――
九郎も意気消沈して退き陣。
碌に軍令も理解できない九郎は、「知らぬうちに失態を犯し、父上や兄上に迷惑を掛けたのでござろうか」と懸念を抱いたが、
単純に勝ち戦だから――というだけではない。
薬問屋の倅(小西行長)に一泡吹かせ、補給部隊のみで城を陥としてみせたのだ。加藤家からすれば、これほど痛快な武功があるだろうか。
しかも一番鑓は、昔から馬鹿と侮られていた若武者である。斬り捨てた兵の数は、初陣でありながら二十名余り。その中には、四つも兜首が含まれている。九郎の立てた武功は内外に知れ渡り、同世代の朋輩から隈本城下に住む町衆。恩師の甚助や相弟子からも褒められた。
急に怒られたり褒められたり。
九郎も状況が掴めない。
さらに奇妙な事に、家族や親族の反応は冷たかった。武功を立てたにも拘わらず、父親は「慢心するな」と九郎を諭し、兄は完全に弟を無視した。
困惑させられる事ばかりだが、別に悪い事をしたわけではなさそうだ。皆が褒めてくれるのだから、結果的に良い事をしたのだろう。
戦後の論功行賞でも、勅使河原九郎右衛門の名は上意に列した。先の志岐城攻めで一番鑓を果たした
「勇猛果敢。龍の如き若武者なり」
と称賛の言葉を賜り、さらに「龍に数打物は不要」と
天草一揆鎮圧の功績により、勅使河原家は八百石に加増。大きな屋敷に移り住み、奉公人の数も増えた。
合戦から一ヶ月も経つと、重臣達が競うように九郎を屋敷へ招いた。
主君から龍と称えられた若者に興味を抱き、九郎一人を丁重に持て成す。皆一様に、彼の武勲について尋ねた。
「
「
「
「
質問の内容が、天草一揆と全く関係がない。それどころか、身に覚えのない事ばかり尋ねてくる。
噂というのは恐ろしい。
現代よりも情報インフラが未発達な時代。次々と京で発表される
然し所詮は、
勿論、地方の庶民と比べれば、加藤家の重臣達は情報通である。だが、最新の
尤も幼い頃より剣一筋の九郎は、
期待を裏切るようで申し訳ないが、九郎は本渡城攻めを正確に伝えた。重臣達はやや落胆しつつも、「抜刀術の達人でありながら、誠実で控え目な人柄。
毎夜の如く九郎は重臣達から歓待され、無碍に断るわけにもいかないので、面倒に思いながらも足を運ぶ。
その夜も宿老の屋敷に招かれて、酒肴の饗応を受けた。
やはり質問攻めに四苦八苦したが、内容は
夜更けの城下町は、殆ど人気がない。
呑気に鼻歌を歌いながら、川沿いの道を歩いていると、
「――待ちかねたぞ、九郎!」
柳の陰から怒声を浴びせられた。
木陰から大柄な侍が現れて、九郎の前の立ち塞がった。
兄の八郎左衛門であった。
眼が血走り、顔面から首筋まで赤らんでいる。
相当に酒を飲んでいるようで、ふらふらと足下も覚束ない。正気であるかどうかも疑わしい。唇の端から涎を垂らし、真剣を抜き放っていた。
「
質問ではなく、厳しい詰問である。
「何故、俺の制止を振り切り、空堀を登り詰めた? 何故、曲輪を蹂躙した? 何故、俺に剣の腕を見せなかった!」
これほど我を忘れて泥酔し、激昂した兄を見た事がない。
九郎が困惑していると、八郎がゲラゲラと哄笑した。
「やはり答えられぬか。お前の存念など承知しておる。あれだけの業前を持ちながら、心の中で俺を見下し、虚氣のフリをしていたのだ!」
「あ……兄上?」
「楽しいか? 俺を嵌めて楽しいか? 同輩からお市の方を木山弾正と思い込み、怖じ気づいた臆病者と侮られ、上役からは御家の面汚しと罵られ……お前の思惑通り、俺の面目は丸潰れよ!」
何の話をしているのか、九郎には見当もつかない。
噂というのは、本当に恐ろしい。
九郎の武勇伝は広まるほどに誇張されたが、逆に八郎の思慮深い行動は悪評と成り果てた。今や隈本城下は、龍の如き若武者と姑息な兄の噂で持ちきり。勇敢な弟は虎口に突入して血路を開き、臆病な兄は木山弾正の偽者に怯えていたというのだ。
無論、八郎は臆しておらず、九郎も抜群の手柄を立てたが、彼一人の功績で城を陥としたわけではない。元々本渡城は完全に包囲され、攻めるまでもなく落城寸前だった。
それが誤解に誤解を積み重ね、事実と程遠い物語が捏造され、隈本城下から国中に広められたのだ。
しかも周囲の善意で、その噂を九郎には伝えなかった。
「お前の所為で、
「――ッ!?」
兄の縁談など寝耳に水だ。
馬鹿な弟が抜刀術の稽古に励んでいた頃、父と兄は勅使河原家の為に奔走し、上士の娘を嫁に迎える準備を整えていたのだ。来月にも祝言という矢先に、南肥後で国衆の謀叛が勃発。謀叛の鎮圧後に改めて――という事で話がまとまり、初陣の九郎には後で教えればよかろうと、勅使河原家の人々は考えていた。愚鈍な次男坊は、何事も後回しというわけである。
それが全て水の泡。
愚鈍な弟が英雄の如く祭り上げられ、肝心の兄は汚物の如き扱い。もはや父にも収拾がつかず、相手側から一方的に破談。それに対して、九郎には家中から縁談が舞い込んできた。さらに九郎を小姓に迎えて、いずれは家老の娘を嫁にやろうと、加藤清正本人から内々に下知された。
主君の意向である。
勅使河原家に拒否権はない。
剣の達人でありながら、まだ十六歳と若年。きちんと教養を身につければ、家老職すら目指せるだろう。将来は城持ちになれるかもしれない。九郎のお陰で、勅使河原家の家格も上がる。
だが、八郎の夢は途絶えた。
一度潰された面目は取り戻せない。もはや加藤家で武士を続ける事すら許されない状況に追い込まれていた。
「それほど勅使河原家の家督がほしいか! 兄を辱めてまで立身栄達を望むか! この腐れ外道め! 世間が認めても、俺は認めん!」
乱心した八郎が、大刀を担いで近づいてきた。
「勅使河原家の
深酒に溺れて体捌きを乱しながらも、大刀を横薙ぎに振るう。
狙いは九郎の首。
無意識のうちに、九郎の身体も反応していた。
抜き付けで兄の胴体を一刀両断。
一瞬で八郎を死に至らしめた。
この時、勅使河原九郎右衛門は――
得体の知れない高揚感で満たされていた。
幼い頃に屍を見ても、何も感じなかった。
本渡城攻めで敵兵を殺害しても、やはり感慨は湧いてこない。人斬りなど、虫を潰すが如きと考えていたが――
……あれ?
忽然と欲望の蛇が、股間から鎌首を
先ず己の抜き付けの速さに興奮した。
無意識ゆえの脱力が齎したのか、生まれて初めて抱いた危機感が潜在能力を引き出したのか……理由はどうあれ、尋常ならざる速さだ。もう一度やれと言われても、絶対にできないと断言できる。八郎の胴体は、切断されても腰の上に乗り続け、横薙ぎの体勢を維持していた。出血も少量であり、僅かに小袖を赤く濡らす。
次に驚いたのが、八郎の剣捌きだ。
強引に振り抜かれた大刀は、九郎の首の手前で停止していた。酒で動きを乱していながら、これほどの速さ。兄が泥酔していなければ、勝敗は逆転していただろう。
尋常の立ち合いなら、確実に九郎は死んでいた。最高最速の剣を用いても、龍と呼ばれた若武者は討ち取られていた。
やはり兄上は強かった――
本人や周囲が考える以上に、八郎は武術の才能に恵まれていた。その才能を愚かな九郎が、止むに止まれず摘んでしまった。
自らの手で憧憬を遮断したのだ。
やや間を置いてから、八郎の屍が横に倒れる。上半身は斜面を転がり、どぼんと河に落ちて流された。眼前に残されたのは、兄の下半身だけ。
気づいた時には――
一心不乱に、八郎の屍を陵辱していた。
切断された兄の下半身を弄び、屍の中で絶頂を極めた時の恍惚感たるや、今でも忘れられない。屋敷に戻ると、一族郎党を惨殺。一晩で両親や奉公人を殺害し、夜明け前には隈本城下から逐電した。
肥後国を出奔した九郎は、武芸者との斬り合いに没頭した。
彼の性的欲求は殺人衝動と密接に結びつき、腕の立つ武芸者を斬り殺し、その屍を用いなければ、満足に性処理も行えない。
諸国を渡り歩きながら、高名な武芸者を見つけると、夜討ちを仕掛けて斬り斃す。然し大抵の武芸者は、九郎を興奮させるほど強くもない。それでも堪えがたい欲望を発散する為、殺戮の日々が十年以上も続いた。
加藤清正も諸侯に
奉公構とは、大名家を出奔した武士に対し、前の主君が諸侯に広めた書状である。秀吉が存命の頃に定められた制度で、奉公構を出された武士は、前の主君が口出しできないほどの大大名でなければ、仕官の道を閉ざされる。
今更ながらと言うべきか、九郎は己の本性に気づかされた。
拙者に侍奉公は無理でござる。いつか拙者より強い者に斬り殺されるか、役人に捕縛されるまで、人を斬り続けるのでござろう。
諦観を覚えながらも、強そうな武士を捜し出しては、相手の意志に関係なく襲撃し、己の欲望を満たす。
流血と欲望に彩られた青春。
だが、人の一生というのは、実に不可解なものだ。
社会性が欠如した剣鬼が、透波の勧誘を受けて黒田家に仕官。今では千石取りの上級武士である。気づければ、亡き父よりも出世していた。
現在の九郎なら想像できる。
理解はできないが、推察する事はできる。兄は普通の人物だった。頭脳や肉体は優れていても、人格的には普通――寧ろ清廉と言える。
然し兄の人生が、幸福とは思えない。
黒田家に仕官した時、田中から教えられた。
疫病の如く隈本城下に蔓延した兄の醜聞は、清正の側近が意図的に流したものらしい。
天草一揆鎮圧の際、清正が独断専行に傾いた事を、秀吉は快く思わなかったようで、叱責こそされなかったが、労いの書状すら届かなかった。
寧ろ秀吉は、行長の判断を評価した。謀叛を起こした首謀者だけ処刑し、他の一揆勢を赦免。それどころか、小西家の家臣団に加えた事を称賛した。
すでに唐入りを念頭に置いていた秀吉からすれば、前線基地となる九州の治安は、一刻も早く回復させたい。それと同時に、武装蜂起の連鎖を懸念しており、九州の国衆を懐柔する為、所領安堵の朱印状まで作成したのだ。
行長の行動は秀吉の意志を汲んだものだが、清正の行動は全くの逆効果。事前に唐入りは知らされていたが、そこまで予想していなかった。
これでは清正の面目が立たない。
何より新しく召し抱えた家臣団や領民に、為政者としての資質を疑われてしまう。それゆえ、若い清正の代わりに、一部の側近が筋書きを書いた。
天草一揆は、肥後国の独立を画策。それを事前に察知した清正が、汚名を被る覚悟で一揆勢を徹底的に殲滅した。
さらに信憑性を高める為、九郎の暴走を殊更に称賛。本渡城攻めに遅れた八郎を臆病者に仕立て上げ、根も葉もない噂を広めたのである。
加藤家の生贄にされて、非業の最期を遂げた兄。普通であるがゆえに、大きな波に逆らう事ができず、押し返されて水没した。
普通の生き方が幸福とは思えないが、然りとて異常な生き方が幸福かと問われると、九郎も自信が持てない。
誠実な兄が正しいのか、殺人鬼の弟が正しいのか。
斬り登る事が武芸者の生業なれば、天下無双に挑む事で答えを得よう。
にんまりと笑いながら、大刀を斜めに斬り上げた。
「……おや?」
九郎は怪訝そうに言うと、唐突に身を翻した。
突然、巨木に飛び蹴りを打ち込み、蹴足の反動で宙を舞う。
空中で大刀を振り下ろすと、軽やかに着地した。
九郎が振り返ると、上空から奇妙な物が落ちてきた。
切断された薄紅色の蛾だ。
「視線を感じたゆえ、咄嗟に斬り捨てたのでござるが……ただの虫でござる」
『それは眷属だね』
「眷属?」
『薙原家の人喰いは、獣や虫を眷属に変えて使役する。眷属を通して見聞きし、眷属を介して妖術も使える』
「それは厄介でござるなあ。先程の会話も盗み聞きされたでござる」
『心配無用。薙原家の女中頭は、ボクの思惑なんてお見通しさ。寧ろその方が、後々の展開が読みやすい』
「互いに手の内を読んだうえでの騙し合い……拙者にはお手上げでござる」
『勅使河原君に
「この辺りで控えていれば、天下無双と立ち合えると?」
『おそらくね』
「何故、大将が本陣を飛び出し、単騎で山の中まで斬り込んでくるのか……その辺りの事情は知らない方がよいでござるか?」
『当然』
「田中殿のいけずぅ」
九郎が、童のように頬を膨らませた。
『あははははっ! ボクは諸々の支度を整えてくる。二人とも生き残れたら、また与太話でもしよう』
「合点承知でござる」
九郎は相好を崩しながら、刀身を何度も閃かせた。眼前に落ちてきた蛾の死体が、一瞬で細切れとなる。
勅使河原九郎右衛門の剣に一点の曇りなし――
壊れ者……人格破綻者
天正十一年三月……西暦一五八三年四月
天正十六年……西暦一五八八年
捕手……素手の格闘術。後の柔術。
束脩……弟子入りする時に持参をする金銭
大腿筋……太腿の筋肉
腸腰筋……上半身と下半身を繋ぐ筋肉
三刻……六時間
深層筋……肉体の内側の筋肉
大腰筋……脊髄の筋肉
組太刀……
逆腕……利き腕と違う方の腕
二尺二寸五分……約67.5㎝
寛永年間……西暦一六二四~一六四四年
鹿垣……竹や木で組んだ垣
半刻……一時間
一尺……約30㎝
天正十七年……西暦一五八八年
国衆……在地領主。大名に税を納めるのが地侍。大名に税を納めないのが国衆。
朱印……朱印状。朱印が押された公的文書(印判状)。
寄騎……加勢として
帷幕……作戦本部
切支丹……キリスト教徒
四間……約7.2m
一町……六十間。約108m
竹把……竹を束ねた防具。鉄砲を防ぐ楯。
太刀打……槍の穂先から
鏑巻……敵の返り血で槍の柄が滑らないようにする為、穂先の近くに巻いた
隈本城……後の熊本城
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