第13話 謀略

 翌朝。

 百姓の娘がかごを背負い、馬喰峠を歩いている。

 今日から三日間、村の広場で罪人の首が晒される。首台くびだい竹矢来たけやらいの設営は、蛇孕村の住民や薙原家の下人の仕事だ。首台は前回と同じ物を使うが、それを取り囲む竹矢来は一から作り直す。今日中に完成させなければならないので、大勢の住民が馬喰峠に入り、竹を伐り出している。

 昨日、浮浪の牢人が、巫女と担ぎ手の二名を惨殺した。平穏な蛇孕村では、滅多に起きない刃傷沙汰。住民同士が酒の席で喧嘩をしたり、難民が隷蟻山から下りて悪さを働く事はあるが、死人が出る事はなかった。

 山間の集落を震撼させる大事件――

 然し百姓の娘は、それほど動揺していなかった。

 犠牲者を哀れだと思うが、住民と接点がないのだ。

 蛇孕神社の巫女衆は、薙原家が外界から連れてきた娘ばかりで、住民にも個人の区別がつかない。乗物の担ぎ手も遠国から集められた下人である。

 百姓の娘が生まれる前、蛇孕村で大規模な開墾事業が行われた。

 甲斐国や信濃国しなののにくから流れてきた難民を使い、僅か数年で田地を十倍近くに拡張。作物の余剰分を元手に、薙原家は高利貸しを始めた。開墾に従事した難民は、何らかの理由で先代当主の勘気を蒙り、隷蟻山に閉じ込められたという。それ以上の詳しい事情は、蛇孕村の住民にも聞かされていない。元より難民の処遇など与り知らぬ事である。

 それより問題は、急激に拡張した田地だ。

 蛇孕村の住民だけでは、田地を管理できない。

 それゆえ、薙原本家から下人を借り受け、作男という名目で酷使する。作男を使わなければ、農繁期を乗り切れないからだ。

 お陰で多くの住民は下人達と顔見知りだが、此度の騒動で死亡した二名は知らない。おそらく本家に召し抱えられたばかりで、農作業の経験を積む前に殺されたのだろう。

 犠牲者が知り合いじゃなくてよかった……というのが、百姓の娘の本心である。他の住民も同じ気持ちであろう。

 蛇孕村の住民は何も知らない。

 豊臣秀吉が土地を耕作者の所有物と定めて、作人さくにん小作こさくを用いた寄生地主制を否定した事。

 蛇孕神社の巫女衆や薙原本家の下人が、外界より買い集められた奴隷である事。

 无巫女アンラみこに服従させるべく、巫女衆に洗脳教育を施している事。

 おゆらの妖術で自立心や反抗心を奪い取り、下人を生きた人形に変えている事。

 全てが想像の埒外である。

 百姓の娘は、鉈で竹を伐り出し、竹の束を縄で縛る。

 特に決まりはないが、十本も集めれば十分だろう。

 竹の把を背負い、転ばないように竹林の中を歩く。

 やがて獣道から外れて、峠の一本道を出た。

 山道に戻ると、百姓の娘は顔を顰めた。

 強烈な悪臭がする。

 悪い予感を覚えながらも、他に帰り道がない為、右手で口元を覆いながら、注意深く峠の山道を下る。

 次第に悪臭が強まり、鴉の鳴き声が聞こえてきた。

 竹林が消えて、前方の視界が広がる。

 蛇孕村を一望できる崖の上で、百姓の娘は硬直した。

 屍で造られた案山子が、横一列に並んでいるのだ。

 案山子の数は四体。

 白い面で顔を隠している為、无巫女アンラみこに仕える巫女衆であろう。

 八角棒が十字に交差し、横棒に両腕が縛りつけられていた。胴体は支柱の如く縦棒に貫かれており、先端に巫女の頭部が載せられている。下半身が見当たらない。上半身の切断面からは、剥き出しの臓腑が垂れ下がる。吐き気を催す悪臭は、排泄物を含んだ腸から放たれていた。

 戯れのつもりなのか、案山子の一体に網代笠を被せている。網代笠を被らされた案山子は、裸の上半身に『泥棒猫』と刀疵を刻まれていた。

 子宮や肝臓を啄む鴉。

 樫木の横棒に止まり、嘴で鼓膜を突き破る鴉。

 朱袴を食い破り、太腿に顔を埋める鴉。

 一羽の鴉が、食欲を満たす歓喜で喚いた。

 百姓の娘は立ち眩みを起こし、ばたりとその場に倒れた。




 今朝は珍しく雀に起こされなかった。

 普段より早く起きた奏は、庭先で剣術の稽古を始めた。

 赤樫の木剣を両手で振り下ろす。

 自分の動きに満足するまで、同じ所作で素振りを繰り返す。

 一晩過ぎても奏の心に残るのは、己の不甲斐なさである。

 岩倉との立ち合いで何もできなかった。

 許婚から授けられた名刀を叩き折られ、惨めに怯えて震える始末。奏は武士でも中二病でもないが、一人の男として情けない。

 おゆらは泰然と構えろと言うが、確かに心構えの問題である。常に実戦を想定して稽古に臨めば、危急の折でも不覚を取る事はないだろう。

 それに今朝は、昔の夢を見た。

 奏は滅多に夢を見ないが、夢の中に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが出てきたのだ。彼女が夢枕に立つなど、初めての経験である。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、常盤の世話役を務めていた分家筋の者だ。

 元は歩き巫女を差配する身分で、本家の要職に就いていた。

 歩き巫女とは、日本各地を経巡へめぐりながら、旅先で加持祈祷を行う女達だ。自由に諸国を渡り歩き、誰からも怪しまれない歩き巫女は、諜報活動に最適である。

 蛇孕村から数十名の歩き巫女を外界に派遣し、諸大名や豪商の動向を探り、薙原家の利益になりそうな情報を収集。暗殺の依頼を引き受ける際、依頼人との取次も行う。

 歩き巫女頭である帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、薙原家の諜報統括官と言うべき存在だ。薙原家の裏側に精通し、先代当主に忠誠を誓う切れ者。分家衆からも一目置かれていた才媛が、役立たずの中二病に堕落したのは、遊戯箱ゲームの魅力に取り憑かれたからである。

 遊戯箱ゲームは、弘治こうじ三年に京で売り出された発明品だ。

 小さな木箱に機械からくり細工が搭載されており、箱本体ハード操作板コントローラーが革製の管で繋がれている。操作板コントローラー革突起ボタンを指で押すと、箱本体ハードから台詞と説明が書かれた画面が飛び出し、それを眺めて遊ぶという不思議な玩具である。

 箱本体ハードに差し込む遊戯板ソフトを変えれば、箱本体ハードから飛び出す画面も変わる。つまり一つの遊戯板ソフトに飽きたら、別の遊戯板ソフトを買わなければならない。漫画マンガ板芝居アニメと違い、顧客が富裕層に限られている。麦飯や稗飯を食べる庶民には、一生縁のない贅沢品だ。

 一応、富裕層に属する奏も見た事はあるが、仕組みが難しいので諦めた。

 操作板コントローラー革突起ボタンを指で押すと、管の中に収められた無数の糸が動き、箱本体ハードに搭載された機械からくり細工を稼働させ、遊戯箱ゲームの画面を自由に引き出す……らしい。

 直接、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから「綾取りみたいなものだよ」と説明を受けたが、奏からすれば不気味な物体である。革突起ボタンを押し間違えると壊れてしまいそうで、奏は一度も触らなかった。

 とにかく帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、年甲斐もなく遊戯箱ゲームに熱中し、本来の役目を放棄して引き篭もりと成り果てた。もう社会復帰できないのではないかと懸念されたが、先代当主から出仕を命じられ、強引に自室から引き摺り出された。

 だが――

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの性格は一変していた。

 男物の派手な衣装で着飾り、蛇孕村の住民と擦れ違うと、「ゴ~ル!」と叫び出す。家人に鞠を蹴らせ、自分に飛んできた鞠を素手で掴み、強制的に蹴鞠を終わらせて喜ぶ。

 他にも様々な奇行が目立ち、周囲の者は「帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが中二病を拗らせた!」と驚愕したが、それ自体は悪い事ではない。

 先代当主の一人娘が、末期的な邪鬼眼という有様である。役目さえ果たせば、多少の乱行も問題視されない。

 然し辣腕を振るう諜報統括官が、猶子の世話役に左遷されたのだから、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの行動は目に余るものだった。

 一体、如何なる了見か。

 各地に散らばる歩き巫女に、『サン・シーロ』を探し出すように、独断で命令を変更。日本に存在しない事が発覚すると、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス遊戯箱ゲームと現実の違いに耐えきれなくなり、暴走に拍車が掛かった。本家屋敷の蔵に蓄えられた金銭を横領し、八万人収容可能な鞠懸まりがかりの建造を画策。さらに歩き巫女が使う符牒を『アーリークロス』やら『バイタルエリア』やら『カテナチオ』やら、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスにしか理解できない固有名詞と置き換えて、薙原家の情報網を機能不全に陥れた。

 流石に先代当主も庇いきれなくなり、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを隠居させて、猶子の世話役に据え置いた。先代当主のお気に入りでなければ、病死扱いで処分されていただろう。

 傍迷惑な中二病であるが、奏は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを尊敬していた。奏が中二病に憧れを抱くのも、マリアや帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの影響が大きい。

 奏の知る帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、折り目正しい人物だった。

 文盲の常盤に読み書きを教える時も、穏やかな態度で接していた。身分や性別で他人を差別する事はなく、誠実な人柄は見習う処も多かった。

 だが、惜しい人物ほど長生きできないものだ。

 慶長三年五月――

 薙原本家の屋敷が、紅蓮の炎に包まれた。

 火の不始末が原因と言われているが、今でも詳細はよく分からない。瞬く間に主殿が焼け落ち、女中部屋から庭園の木々に飛び火。分家衆や女中衆が、二十名余りも逃げ遅れて焼死した。火事の犠牲者の中には、先代当主や帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスも含まれている。

 奏と常盤は、たまさか蛇孕神社に預けられており、運良く難を逃れる事ができた。

 火災による混乱が一段落すると、おゆらと符条が陣頭指揮を執り、薙原家の再興に着手した。无巫女アンラみこに本家当主を兼任させると、大胆な組織改善を実行。外界から百名余りの女中衆を雇い入れ、半年足らずで屋敷を建て直した。

 奏も二人の政治手腕を認めている。

 だが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが生きていれば、此度の騒動も犠牲者を出さずに済んだのではないかと考えてしまう。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、夢の中で興味深い話をしていた。

 他愛もない生前の遣り取り。世間話の途中で「奏君は人が良すぎるんだよ。他人に騙されない方法を覚えないとね」と言い放つ。「そんな方法があるんですか?」と尋ねると、「簡単な事さ。嘘を吐かない者は、決して信用してはいけない。特に事実しか言わない者は、奏君を騙そうとしているんだよ」と軽く答えていた。

 他人を騙そうとする時、安易な虚言で乗り切ろうとするのは、透波の素人が行う過ちである。人は長生きするほど、他人に打ち明かせない秘密を抱えていく。秘密を隠そうとするほど、安易な虚言に頼るしかなくなる。

 それより有効な手段は、紛れもない事実を積み重ねる事だ。

 細かな事実でも重大な事実でも構わない。「隣の家は、庭に柿の木を植えた」という些細な話を積み重ねていけば、一つ一つの話が事実である為、勝手に周囲が真実を語る者だと思い込んでくれる。

 外界の事情に通じた帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスらしい助言である。

 奏が見る限り、朧は重大な事実を打ち明けつつも、都合の悪い部分は誤魔化していた。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの助言を信じるなら、朧は信用に値する者となる。


 嘘吐きが一番信頼できるって……今更だけど、薙原家の倫理観はどうかしてるよ。


 奏は大きく息を吐いた。

 朧という女武芸者が、敵か味方か――

 これも迂闊に判断できない。

 やはり判断材料が出揃うまで、本家屋敷で待ち続けるしかないのだろう。

 何も分からない状況で、奏が悩んでも無意味だ。


 今は稽古に集中しないと。


 雑念を振り払い、再び素振りを始めた刹那、


「ほれ」

「――ッ!?」


 突如、後方から声を掛けられ、反射的に身体が動いた。

 振り返ると同時に、木剣で飛来する薪雑棒まきざつぼうを叩き落とす。

 咄嗟に防御できたのは、単純に運が良かったからだ。もう一度、薪雑棒を投げつけられたら、今度は叩き落とせないだろう。

 加えて顔面に直撃していれば、軽傷では済まなかった。

 奏は困惑して、眼前の人物を見据える。


「朧さん」

「カカカカッ、それなりに筋は良いの。飛び道具を叩き落とすなど、武運も備えておる」


 猩々緋の小袖を纏う女武芸者は、右手に薪雑棒を持ちながら、妖艶な美貌を緩める。


「然れど真剣であれば死んでおった」

「どういう意味ですか?」

「太刀を太刀で受けてはならぬ。是は真剣勝負の鉄則。武芸者の常識じゃ」

「受けたらダメなんですか?」


 驚く奏を尻目に、朧は鷹揚に頷いた。


「太刀は折れず曲がらず――を信条に鍛えられておる。然れど現実には、太刀も折れるし曲がる。刃毀れもしよう。この世に完全な物など存在せぬ」

「でも僕の刀は、有名な刀工が鍛えたもので――」

「あれは飾りじゃ」

「飾りッ!?」

「見栄え重視。刀身の華麗さに重点を置いて鍛えられた代物じゃ。焼刃やきばが広いうえに、彫刻まで施されておった。にえにおいも大きい。造形美という点では見事なれど、実用に耐えられぬ。まともに受ければ、刀身も折れよう」

「マリア姉がよく似合うからって、あの刀を授けてくれたんですけど……」

「それは身形の話ではないか?」

「えっ――」

「御曹司が実戦を行うなど、其の者は考えておらぬと思うぞ」

「――」


 奏は言葉に詰まった。

 酷い。

 雅東流三代目宗家が「良く似合う名刀」と言うから、使い易い刀だと信じていたのだが……いや、マリアの責任ではない。奏が勝手に誤解しただけ。刀の目利きもできないくせに、名刀だ鈍刀なまくらだと騒ぐ方が滑稽である。


「抑も鍔迫り合いなど好んでやるものではない。得物の良し悪しや身の重さで勝敗が決まるうえ、己の動きも制限される。伏兵が潜んでおれば、後ろから刺されて終いじゃ。儂とて気が向いた時しかやらん」


 中二病らしい答えと言うべきか。

 気が向けば、不利な状況でも実行する。


「僕、受け太刀の仕方も教えられたんですけど……」

「それは木剣の稽古で使う技じゃ。真剣と木剣では、速さの質が異なる。真剣は空気を裂いて進むが、木剣は空気を叩いて進む。木剣の速さに慣れると、真剣の速さに対応能わぬ。即座に対応能わねば、無様に斬り捨てられるしかない」

「……」


 奏は返す言葉が見つからない。


 今までの稽古は何だったんだ……ッ!?


 武術の稽古の最中、マリアから教えられた言葉を思い出す。


「今日から武術の鍛錬を始めるわ。とても過酷な修行になると思うけれど、これも奏を立派な男に育てる為。手心を加えるつもりはないわ。私の事は師匠と呼びなさい」

「はい、師匠!」

「武術の世界に『はい』という言葉はない。返事は『ふみゃあ』だけよ」

「ふみゃあ」

「もう一度」

「ふみゃあ」

「語尾を上げなさい」

「ふみゃあ?」

えて驚くように」

「――ふみゃ!?」

「……もう教える事は何もないわ。奏に雅東流兵法の印可いんかを授けます」

「ふみゃあ――って、それはダメだよ、師匠!」


 なんだろう……この徒労感。


 これほど甘い師匠が、マリアの他にいるだろうか。

 実戦で役に立たないのも当然である。マリアは戦い方を教えていたわけではなく、子供向けの習い事を教えていたのだろう。

 肩を落とす奏に、朧が泰然と嗤い掛けた。


「そう気を落とすでない。兵法ひょうほうなど一兵卒が身につけるべきもの。大将は床机に座り、冷静に下知を下せばよいのじゃ」

「僕は大将の器ではありません。それに武士を目指しているわけでもありません」


 ただ己の身を守れるようになりたい。

 周りの者達に心配を懸けたくない。

 それすらも中二病にならなければできない事なのだろうか。


「そうだ! 僕に剣術を教えてください!」

「断る。御曹司に剣術の才能はない」

「即答されるほど絶望的なんですか!? 筋が良いと言われたので、多少は見込みがあるのかと……」

「カカカカッ、勘違いさせてしもうたかの。筋が良いと申したのは、身体の使い方の話。剣術の才能とは別よ」


 朧は呵々大笑するが、奏は首を傾げた。

 どうも要領を得ない。

 運動神経や反射神経に問題はないが、剣術の才能だけないから諦めろというのか。


「百聞は一見に如かず。御曹司にも分かるように試してやろう」


 朧は厚めの唇を舐めると、


「ほーれ」


 右手の薪雑棒を投げてきた。

 曲線の軌道を描き、穏やかな速さで飛んでくる。

 今度は不意打ちではない。

 横に動いて薪雑棒を躱すか。

 再び木剣で叩き落とすか。

 素手で薪雑棒を受け止めるか。

 自分の行動を選ぶ余裕がある。

 奏は素手で受け止める事を選んだ。

 飛来する薪雑棒を右手で掴み取ろうとした刹那、奏の眼前に白銀の閃光が落ちた。

 二つに切断された薪雑棒が、軽い音を立てて地面に落ちた。

 奏は眼を見開き、右手を挙げた姿勢で硬直する。

 大刀を振り下ろした朧が、持ち手の人差し指を立てて嗤う。


えたか?」


 全く視えなかった。

 薪雑棒を投げると同時に、電光石火の速さで間合いを侵略。身体を右半身にしながら、落とし差しの太刀を抜き放ち、片手打ちで上段から斬り下げた。

 結果から推測するなら、そういう事なのだろう。


「今の抜き付けは、半月はんげつ太刀たちというての。覇天流に伝わる技ではない。只管ひたすら実戦を積み重ね、己で編み出した技よ」

「……」

「見ての通り、儂は大刀を落とし差しにしておる。抜き付けの勝負では不利じゃ。それゆえ、遠間からも斬りつけられるように工夫した。剣士の間合いは、長物を用いても一間から二間が限界。然れど半月ノ太刀は三間先まで届く」

「三間も……!?」


 奏が驚くのも無理はない。

 三間と言えば、飛び道具の間合いだ。対手からすれば、初太刀の駆け引きを行う前に、遠間からの奇襲で先手を取られてしまう。


「無論、欠点もあるぞ。あくまでも不意を衝く技。対手に拍子を読まれると、後の先を取られる。加えて間合いを見誤れば、対手と正面から衝突するか、逆に切先が届かぬ。抑も抜き方を誤ると、己の乳房を斬りつけてしまう。儂は半月ノ太刀を修得する為、何十人も斬り捨ててきた」

「――ッ!?」

「人の斬り方など、人を斬らねば覚えられぬ。太刀とは、便利な道具じゃ。速さ(スピード)と刃筋(ポイント)と拍子(タイミング)が揃えば、なんでも斬り能う。儂の使う太刀など数打物に過ぎん。然れど具足も人も斬り能う。実戦で人の斬り方を会得したからの」

「実戦……」

「太刀を太刀で受けてはならぬ。真剣勝負の最中に、太刀が折れたら一大事じゃ。其は先度の立ち合いで痛感したであろう。避け能う攻めは避けよ。対手の心の動きを読み、太刀筋と間合いを見切り、身の捌きにて打突を躱す。是が真剣勝負の鉄則じゃ」

「……」

「今一度問おう。儂の太刀が見えたか?」

「……」


 朧の問い掛けに応えられない。

 太刀行たちゆきどころか、身体の捌きすら視認できなかった。

 朧が本気で殺すつもりなら、奏は唐竹割にされていた。今日だけで奏は、二度も殺された事になる。

 真剣勝負の速さに慣れるには、真剣勝負を繰り返すしかない。然し真剣勝負で生き残る為には、空間把握能力と動体視力が必要となる。二つの才能に恵まれていない者は、自然に斬り合いで淘汰されていく。

 それが真剣勝負の現実だった。


「武芸者とは、戦場という血腥ちなまぐさき舞台にて、『武』なる芸を披露する役者の如き者。御曹司は『武』の意味を存じておるか?」

「……弱い人を守る為の力ですか?」

あらず」


 大仰な所作で大刀を鞘に収めながら、朧は明確に否定した。


「『武』という漢字は、『』と『』という漢字を組み合わせたものじゃ。『戈』は武具の総称。即ち『武』とは、争いを止める術を指す。古来より争いを止める術など一つしかない。全ての敵を葬り去る……是だけじゃ」


 朧は凶暴な笑みを浮かべる。


「武を知らぬ素人の斬り合いはむごいぞ。ろくに人の斬り方を知らぬから、片方が出血多量で倒れるまで、延々と刀を叩きつけあう。御曹司は筋が良い分、太刀に拘る必要もあるまい。己の身を守りたいなら、十手を勧める」

「薙原家に十手の遣い手はいません。朧さんは……」

「ふむ、よく考えたら、儂も十手の使い方など知らぬ」


 話が振り出しに戻った。

 マリアもそうだが、中二病の相手をしていると、会話の継続に苦労する。突飛な発言が多過ぎて、如何に対応すればよいのか分からなくなる。


「然れど殺生を好まぬのであれば、他にも手立てはあるぞ」

「その方法を教えてください!」

刃挽はびきせよ」

「……」

「刃挽き致せば、真剣も鉄の延べ板と変わらぬ。御曹司の膂力では、対手を叩き殺す事も難しかろう。刃毀れの懸念もあるまい。畢竟、時を稼ぐ事は能うのではないか?」


 物凄く大雑把な助言だが、現実を考慮すれば道理だ。

 奏は人を斬りたいわけではない。武士のように首級を挙げて、武功を立てたいとも思わない。ならば、最初から刃は不要。

 意外に発想の転換というか、多少頭の霧も晴れてきた。


「ありがとうございます。自分なりに工夫できそうです」


 奏が頭を下げると、朧は愉快そうに嗤う。


「役に立てたかどうかは、その時にならねば分からぬよ。尤も御曹司は若い。短所を嘆くより、長所を磨くべきであろう」

「僕の長所?」

「左様。御曹司にも秀でた処はあろう」

「僕に長所なんかありません。マリア姉……无巫女アンラみこ様みたいな天稟もないし、おゆらさんみたいに頭も良くないし。先生みたいに博識でもないし……」


 奏は暫く考え込んだ後、不安そうに顔を上げた。


「僕の長所ってなんですか?」

「それこそ己で考えよ、と言いたい処じゃが……カカカカッ、是は儂の負けじゃな。御曹司の長所は人徳じゃ」

「人徳?」


 奏は呆気に取られて、ぽかんと朧を見つめた。


「御曹司は、自然と周囲の者共を惹きつける。是こそ総大将の材徳。儂には欠片も見当たらぬものよ」


 急に人柄を評価されて、奏は戸惑いを覚えた。


 人柄と言われても……僕に友達なんていたかなあ。


 本家屋敷に十年も居候しているが、気を許せる者など殆どいない。常盤にも気を遣いながら接しているくらいだ。


「御曹司よ。大凡おおよその者は、新参者に己の長所など訊かぬ。戯れに尋ねても、答えなど期待致さぬ。然れど、其れが卑屈に聞こえぬのだから、御曹司の人徳なのであろう。今の御時世、人が良いというのも美徳ぞ」

「はあ……」


 褒められても、あまり実感が湧いてこない。要約すると、「天然」の一言で片付けられているのではないか。


「御曹司の言動には、打算や欲得がない。然れど勘所で的確な判断を下す。先度の立ち合いも見事な手際であった。幼き縁者を巻き込まぬ為に、巧みな方便で死地より逃したではないか」

「結局、怖くて何もできませんでしたし……って、そこから見てたんですか!?」


 奏が目を丸くする。


「儂は、諸人もろびとよりも眼が良い。八町離れた者の顔も見分け能う。読唇術どくしんじゅつで大体、会話の内容もかいし能うたぞ」


 朧の物言いに仰天した。

 彼女の言葉が真実なら、異常な視力の持ち主である。


「畢竟、人ならば、死を恐れるのも当然じゃ。儂のように、死を恐れぬ者ほど危うい。御曹司のような者だからこそ、其の言葉は人の心に響くのであろう。諸人はそれほど強うない。疫病えやみの蔓延に怯え、野伏や山賊の脅威に晒され、毎年の如く飢饉で苦しむ。暗闇の中に差し込む光は、どれほど眩い事か。加えて的確な決断を致せば、多くの者の励みとなろう。御曹司にひざまずく者も増える」

「……なんだか『天下人を目指せ』みたいな話ですね」

「所詮は牢人の戯言。聞き流してくれて構わぬ。然れど己の進む道は、己で決めればならぬ。決して他人に決められてはならぬぞ」

「……」


 決然と言い放つ姿に、後ろ暗さは微塵もない。


 本当に、この人が邪な企みを抱いているのか?


 どうしても奏には、朧が謀略を好む輩だと思えないのだ。


「朧さんは薙原家に仕官を望みますか?」


 奏は、敢えて抜き身の質問をぶつけた。


「其れも好きに致せ。儂は一振りの太刀じゃ。太刀の使い方など、持ち主が好きに決める事。其れが儂の選んだ道じゃ」


 眼を細めて嗤う朧は、妖しい色香を纏いながらも、年相応の無邪気さも垣間見える。

 人斬りが武芸者の本分ならば、善人とは言い切れない。だが、分別のつかない殺人鬼というわけでもなさそうだ。それに透波が、武芸者を蔑む道理はない。

 おゆらの言葉を借りるなら、善悪は時の情勢で決まる。

 朧が薙原家の敵になるのか。

 それを見極めなければならない。


「ええと、その……命の恩人に言うべき事ではないんですけど……」

「ん?」

「薙原家は、朧さんを警戒しています。何か良からぬ事を企んでいるのではないかと」

「ほう、面白い。続けよ」


 獰猛な笑みを浮かべて、強烈な眼光を放つ。

 それでも奏は、自分の納得する答えを求めて、拙くとも言葉を重ねる。


「僕は……善人ではありません。薙原家は仕物を生業としてきました。関東の山奥に潜む土豪が乱世を生き残る為、止む無く汚れ仕事に手を染めたのでしょう。でも……どんな理由をつけた処で、人の命を奪うなんて赦されない事です。それを承知していながら、僕は十年もこの屋敷で暮らしてきました。人殺しで金銀を集めて、何の不便もない暮らしを楽しむ。山賊や盗賊より質が悪い。僕も悪党の一味なんです」

「それで? 何が言いたい?」

「もし薙原家に遺恨があるなら……忘れてくれとは言いません。一刻も早く蛇孕村から離れてください。僕は悪党の一味ですが、死人を増やしたいとは思いません。それが命の恩人なら尚更です」


 勿論、奏が蛇孕村に居続けた理由は、先代当主の意向だ。

 然し強制されていたとはいえ、奏の意志も含まれている。


 マリア姉の側から離れたくない。


 自分でも幼稚な我が儘だと承知しているが、最愛の許婚と引き離されて、身一つで外界に放り出された時、誰を頼りに生きればよいのか。

 今の生活を失うと考えただけで、背筋に冷たい汗が滲む。

 自分の心の弱さに嫌気がしてくる。

 やはり純粋でも誠実でもない。

 単なる世間知らずの臆病者だ。


「逐電せねば、御曹司も敵に回ると?」


 奏の葛藤に気づいているのか。

 朧は試すように尋ねてきた。


「僕の力なんて微々たるものですけど……仇討ちが道理なら、返り討ちも道理。僕は薙原家を……『共同体みんな』を守る為に行動します」


 奏の目に迷いはない。

 仇討ちは、鎌倉時代の御成敗式目で禁じられている。だが、全ての殺人事件を幕府の公事くじや村落の寄合で裁く事はできない。幕府が定めた法律も役に立たないなら、当事者同士で決着をつけるしかなくなる。

 ゆえに乱世の社会通念は、自力救済に基づく。

 誰かに権利を侵害された場合、自力で権利を回復するというものだ。仇討ちが正統な権利に変われば、返り討ちも正当な権利に変わる。仇人あだびと討人うちびとを返り討ちにしても、他人から責められる筋合いはない。


「武芸者に仇討ちを講釈致すとは……良い度胸をしておるのう」


 朧の声に怒気が混じる。


「あ、いや、別に講釈なんて……」


 奏は血相を変えて、あたふたと混乱する。

 思わず愚直に喋り過ぎた。

 己の面目を守る為なら、武士は平気で刃物を振り回す。相手に侮辱と受け取られたら、打返うちかえしで斬り殺されてしまう。

 徐に朧が近づき、奏の前に立ち塞がる。

 朧の右手は、大刀の柄が添えられていた。


「すみません! 決して朧さんを侮辱するつもりは――痛ッ!」


 恐怖で目を瞑る奏に、ぱちんと指弾でこぴんを当てた。


「早合点を致すな。儂は薙原家に遺恨など持ち合わせておらぬ」


 激痛でうずくまる奏を見下ろし、朧は愉快そうに嗤う。


「抑も遺恨や名誉に命を懸けるのは、尋常な武士もののふの倣い。儂は中二病じゃ。他の武士と一緒に致すな」

「い……痛い」


 額を押さえて立ち上がり、奏が涙目で呻いた。

 当人は手加減したつもりだろうが、梨でも砕きそうな威力だった。


荘子そうじ曰く――くだを以て天を窺い、きりを以て地を指すなり。狭い見識で物事を捉えるべきではない。俯瞰して物事を捉えねばならぬ」


 朧は微笑を浮かべながら、優しく奏の頬を撫でた。

 びくりとしながらも、奏は懸命に言葉を紡ぐ。


「朧さんにも目的はあるんですよね?」


 緊張で奏の声が裏返る。

 若者を誘惑するような仕草に困惑し、奏の心臓が早鐘を打つ。


「昨晩も申した通りじゃ。御曹司を不貞の輩から守り抜く。それが儂の目的に繋がる」

「その……目的を訊いたら、素直に教えてくれますか?」

「教えたらつまらなくなる。然れど――」


 意味ありげに嗤い、奏の顎と左肩を掴む。


男女なんにょが想いを伝える術は、言葉を交わすだけではあるまい。他にも色々とあろう?」

「僕は言葉だけで十分なんですけど……」

「動くでないぞ」

「え? 朧さん? ちょっと待って……」


 奏は咄嗟に顔を背けるが、凄まじい力で引き戻された。

 もう逃げられない。

 身を竦める奏の顔に、妖艶な美貌が近づいてくる。厚めの唇が、奏の顔の一寸手前まで接近した刹那、


「朧様――」


 穏やかな声が、両者の耳に届いた。

 奏が眼を向けると、庭園の散策路から歩み寄る女中の姿。


「おゆらさん!」


 緊急事態を脱した安堵感から、奏の声は弾んでいた。


 助かった……


 いつも卑猥な言動で周囲を困らせる変態女中が、今だけは地獄の亡者を救う地蔵菩薩の化身に見える。


 おゆらさんで良かった。

 常盤に見られていたら、面倒な事になる処だったよ……


 奏が安堵したのも束の間。

 おゆらが右手を挙げると、周囲から無数の人影が現れた。

 薙原本家に仕える女中衆が、奏と朧の間に割り込んでくる。


「――えッ!?」


 混乱する奏の前に、二人の女中が立ち塞がった。

 さらに武装した十数名の女中が、瞬く間に朧を包囲する。槍や薙刀の他にも、鉄砲を携えた女中もいる。

 十数本の切先と四挺の筒先に囲まれながらも、朧は泰然とした態度を崩さない。


「是は何事かの?」

「捕らえなさい」


 朧の質問に答えず、おゆらは簡潔に命じた。

 数人の女中が武具を引き、抜群の身体を縄で縛り上げる。朧は一切抵抗せず、両手を後ろに回されて、完全に身動きを封じられていた。


「朧さんは何もしていない! 今のは……朧さんの戯れなんだ! 僕に危害を加えようとしたわけじゃない!」

「……戯れが理由で縄を打たれるなら、私は打ち首となりましょう。此度は、全くの別件です」

「別件?」

「昨晩、蛇孕神社の巫女衆が、何者かに殺害されました」

「巫女が死んだ……?」

「犠牲者は四名。現場は馬喰峠です。屍は酷く損壊し、案山子の如き無惨な姿で晒されていたとか。おそらく我々を挑発しているのでしょう。誠に由々しき事態です」

「また犠牲者が……」


 おゆらの説明に衝撃を受けて、奏は呆然と呟いた。


「成程。その下手人が儂というわけか」


 縄を打たれた朧が、爛々と輝く双眸でおゆらを見据えた。


「下手人ではありません。最も疑わしき者です」

「疑わしいって……昨晩、朧さんは屋敷にいたじゃないか!」

「勿論、承知しております。真の下手人は昨晩、蛇孕村に侵入した武芸者。なれど山中に潜んでいるようで、即座に捕縛する事ができません。加えて昨日も巫女と下人が殺されたばかりです。従順な蛇孕村の民も、此度ばかりは動揺を隠しきれない様子。直ちに下手人を罰しなければ、薙原家の威信に関わります。蛇孕村の統治にも影響を齎すでしょう」

「薙原家の為に濡れ衣を着せるつもり!?」

「左様です」


 奏の詰問に笑顔で返答し、豊かな胸の前で両手を組む。

 常軌を逸している。

 主君の予想を遙かに超えて、本家の女中頭が暴走を始めていた。


「それなら昨日の牢人で構わないじゃないか! 女一人で四人も殺したなんて、話に無理がありすぎるよ! 取り敢えず村人には、岩倉の仕業と説明した後で、本当の下手人を捜せば――」

「それはできません」

「――ッ!?」

「巫女衆が殺害されたのが、とりの刻からいぬの刻にかけて。なれど蛇孕村の住民が、昼前に朧様と牢人の立ち合いを見ております」

「僕達の他に目撃者がいたのか……」

「クククッ、是は難儀よのう。昼前に殺された岩倉が、夕暮れに巫女を殺める事など能わぬ。理に適う話じゃ」


 己に不利な事実を突きつけられても、朧は相好を崩すだけだ。

 奏は必死に頭を働かせた。

 確かに余所者の朧は、巫女殺しの下手人に仕立てやすい。一旦朧を拘束して、事態の幕引きを宣言。住民の不安を取り除いた後、本物の下手人を捜索する。

 合理的かもしれないが、非道な遣り方である。

 到底、承服できる事ではない。


「マリア姉は――」

「蛇孕神社には、すでに報告済みです」

「くっ――」

无巫女アンラみこ様より御下知を授けられております。騒ぎが収まるまで、奏様は外出を控えるように。朧様は、当家の一室にて御寛おつくろぎ頂くように」

「マリア姉まで――」


 どうする――


 奏は本家の直系で、本家女中頭の主君である。だが、緊急時の指揮権は与えられていない。政治に関する権限は、无巫女アンラみこから本家女中頭に一任されている。奏一人が反対した処で、誰も聞く耳を持たないだろう。


「安心致せ、御曹司」


 捕縛された朧が、余裕の表情で奏に話し掛ける。


「この者共も乱心したわけではあるまい。真の下手人とやらが捕まれば、儂は無罪放免なのであろう?」

「勿論です」

「であれば、問題はあるまい。御曹司の家来なら無体な真似はせぬであろう」

「朧さん――」


 奏が近づこうとすると、二人の女中に遮られた。


「儂の事を心配してくれて嬉しく思うぞ。然れど今生の別れというわけでもなし。御曹司の懸念は、杞憂に終わるであろう」


 朧は自信を込めて、おゆらの顔を見つめる。


「連れていきなさい」


 おゆらの指示に従い、女中衆が朧を連行する。

 奏は引き止める事もできず、朧の後ろ姿を見つめていた。


「痛い痛い。無理に縄を引かんでも歩ける。変な所を触るでない」


 楽しげな声を漏らしながら、女中衆の輪が離れていく。

 奏は無念そうに、おゆらを呼び止めた。


「おゆらさん」

「はい?」

「朧さんに危害を加えたりしないよね?」

「御安心ください。朧様は奏様の命の恩人です。決して危害など加えません」


 おゆらは柔和な笑みを浮かべて、黒革の首輪に右手を添えた。


「……」


 これも以心伝心というのだろうか。

 十年来の付き合いだからこそ、僅かな遣り取りでおゆらの意図を察した。

 朧は要注意人物から、利用できそうな余所者に格下げされたのだ。

 いつもは卑猥な言動で奏を困らせる変態女中だが、薙原本家に対する忠誠心は本物だ。薙原家の家名を保つ為なら、躊躇なく残酷な方法を用いる。

 それこそ必要と判断すれば、朧を座敷牢で拷問に掛けるだろう。

 朧の持つ情報を手早く吐かせ、下手人と無関係なら外界に追放する。最悪、下手人の捕縛に手間取る事も考慮し、冤罪を被せて処刑しかねない。

 三ヶ月前、おゆらが女中頭に選ばれたばかりの頃、蛇孕村で騒動が起きた。

 与吉という難民が薙原家に無断で下山し、百姓の家に押し込んだ。

 抵抗する亭主を殴り倒し、酒を盗んで逐電を試みた。

 結局、与吉は馬喰峠で巫女衆に捕縛されて、拷問の末に罪を認めた。

 この当時、盗みは重罪である。

 蕨粉わらびこを盗んだだけでも、村掟で撲殺と定められているくらいだ。

 誰もが罪人の撲殺を想定していた。実際、蛇孕村の検断を司る蛇孕神社も、与吉を撲殺するつもりでいたという。然しおゆらが、蛇孕神社の裁定に口を挟んだ。

 おゆらは広場に住民を集めて、与吉を竹鋸引たけのこびきの刑に処した。

 竹鋸引の刑とは、首から下を土中に埋めて、竹鋸で首を切断する処刑方法だ。切れ味の悪い竹鋸で、少しずつ罪人の首を切り裂いていく。

 おゆらは刑の執行を与吉の息子にやらせた。

 彼の母親を人質に取り、与吉の息子に選択の余地を与えなかった。

 号泣しながら竹鋸を挽く息子と、激痛で悶え苦しむ父親。

 蛇孕村の住民は、凄惨な光景を黙々と眺めていた。

 父親の首を切り終えると、息子は狂乱して泣き喚いた。

 竹鋸で切り離された与吉の首は、巫女衆が首台に載せた。

 与吉の最大の罪は、酒を盗んだ事ではなく、薙原家の許しを得ずに下山した事だ。一人でも難民の不法侵入を許せば、百人以上の難民が押し寄せ、蛇孕村で乱暴狼藉を働くだろう。今回は窃盗と傷害で済んだが、次は死人が出るかもしれない。

 住民の不安と憎悪を和らげ、難民に対して見懲みこらしを行う。それがおゆらの狙いであった。

 三日間、鴉に啄まれた首は、息子に持ち帰らせた。村掟を破ればどうなるか。難民集落の隅々まで知れ渡るだろう。

 時に非情な判断を下さなければ、蛇孕村を統治する事はできない。ましてや透波の一族を束ねるなど不可能である。

 考えが甘かった。

 奏の知らないうちに、おゆらの筋書きは完成していたのだ。

 巫女が武芸者に殺されたのも、女中頭の想定の範囲内。最初から難癖をつけて、朧を拘束するつもりでいたか。

 常盤の時のように、マリアに直訴できればよいが……用心深いおゆらは、奏の反発も織り込み済みだろう。


「僕は、これから蛇孕神社に向かいます。二人はついてこないでください」


 前方を塞ぐ二人の女中に、奏は厳しい声で告げた。


「なりません」

「これは下知です」

无巫女アンラみこ様の御下知が優先されます。奏様の安全が第一。庵にお戻りください」


 奏は強く唇を噛み締めた。

 事が終わるまで、庵の外に出るなというわけか。

 許婚を危険から遠ざける為の措置であろうが、自宅軟禁と何も変わらない。

 己の無力さを噛み締めながら、木剣を強く握り締めた。




 庭園の木陰に隠れて一部始終を見届けた常盤は、思わず歓喜の声を漏らしそうになり、慌てて口元を押さえた。

 事情はよく分からないが、女武芸者が本家女中衆に拘束された。

 その所為か、本家女中衆が屋敷内を頻繁に動き回り、通常なら考えられないほど警備態勢が緩んでいる。お陰で厳重に保管されていた蔵の鍵を入手できた。

 かつてない高揚感を覚えながら、手筈通り庭園の裏側に向けて走り出す。

 普段より身体が軽く感じられる。

 池に架かる石橋を渡ると、一際立派な造りの蔵が見えた。

 常盤は蔵の前に立ち、何度も周囲を確かめる。

 誰にも見られていない筈だ。

 常盤には、専用の女中がついていない。

 奏から何度も勧められたが、その度に理由をつけて断った。心を許せない者が近くにいても、気持ち悪くて落ち着かなくなる。

 女中は用事がある時だけ、自分の部屋に呼びつければよいのだ。

 お陰で単独行動をしても、誰も常盤を見咎めない。


 運も私の味方をしてくれてる。


 小振りな胸を弾ませながら、門扉の錠前に鍵を差し込む。

 重厚な扉を開けると、薄暗い蔵に踏み込んだ。

 それほど蔵の中は埃臭くなかった。人の出入りが激しい証拠だ。早く目的の品物を手に入れて立ち去らないと、誰かに見つかるかもしれない。

 この蔵は、薙原家の宝物庫の一戸前いっとまえ

 常盤の背後から陽光が差し込み、様々な宝物を輝かせる。

 宋胡録スンコロク呂宋壺ルソンつぼ螺鈿らでんの衝立に螺鈿の飾り棚。硝子の杯や瓶。純金や青銅の置物。機械からくり仕掛けの時計や地球儀。雅東流初代宗家が持ち込んだ異琵琶ギターラ。虎や海豹あざらしの毛皮。眼の玉が飛び出るほど高価な舶来品が、無造作に放置されていた。

 名物珍品から、常盤は目的の物を探す。


「舶来品多過ぎ……どこ? どこなの?」


 時間の経過と共に、高揚感が焦燥感に転じていく。

 探しても探しても見つからない。

 話に聞いた通りなら、細長い木箱に収められている筈だ。

 目印は、桐の花と葉を図案化した家紋。

 なれど前に進むほど、高価な調度品が見つかるばかり。一番奥の棚は、異国の調度品を並べておく棚だ。目的と合致しない物だらけ。

 騙されたとは思えない。


 まさかおゆらさんが、他の場所に移した?


「――もうッ! どうして見つからないの!」


 常盤は声を荒げて、激しく地団駄を踏む。

 たまさか爪先に硬い物が当たった。

 常盤が下を向くと、立派な漆塗りの刀箱があった。




 作男……地主の下で農作業に励む使用人


 作人……地主の下で作男を監督する管理職


 小作……地主に地代を払い、好きな農作物を育て、所得とする農家


 寄生地主制……土地を所有する地主が、作人や小作や土地を耕作させ、収穫した農作物の一部を徴収する制度


 弘治三年……西暦一五五七年


 サン・シーロ……スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)。イタリア・ミラノにあるフットボール専用スタジアム。サン・シーロ (San Siro)は旧称。


 鞠懸……蹴鞠を行う競技場


 慶長三年五月……西暦一五九九年六月


 焼刃……刃物に粘土を被せ、土を除去して火で熱し、ぬるま湯に入れて硬くした刃


 沸……肉眼で確認できる地金の微粒子


 匂……肉眼で確認できない地金の微粒子。肉眼で確認できない筈の微粒子が、肉眼で確認できた為、朧は「沸も匂も大きい」と言った。


 身の重さ……体重


 印可……流儀の奥義を会得した者に与えられる許可状


 兵法と兵法……戦略や戦術が兵法へいほう。個人の武術が兵法ひょうほう


 抜き付け……抜刀術の初太刀


 一間……約1.8m


 二間……約3.6m


 三間……約5.4m


 数打物……粗製濫造品


 太刀行……打突の軌道


 八町……約907.2m 太閤検地後


 公事……裁判


 打返……報復


 下手人……殺人犯


 酉の刻……午後六時


 戌の刻……午後八時


 検断……司法


 見懲……見せしめ


 宋胡録……暹羅のサワンカローク(窯業が盛んで陶磁器の名産地)で造られた壺

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