第13話 謀略
翌朝。
百姓の娘が
今日から三日間、村の広場で罪人の首が晒される。
昨日、浮浪の牢人が、巫女と担ぎ手の二名を惨殺した。平穏な蛇孕村では、滅多に起きない刃傷沙汰。住民同士が酒の席で喧嘩をしたり、難民が隷蟻山から下りて悪さを働く事はあるが、死人が出る事はなかった。
山間の集落を震撼させる大事件――
然し百姓の娘は、それほど動揺していなかった。
犠牲者を哀れだと思うが、住民と接点がないのだ。
蛇孕神社の巫女衆は、薙原家が外界から連れてきた娘ばかりで、住民にも個人の区別がつかない。乗物の担ぎ手も遠国から集められた下人である。
百姓の娘が生まれる前、蛇孕村で大規模な開墾事業が行われた。
甲斐国や
それより問題は、急激に拡張した田地だ。
蛇孕村の住民だけでは、田地を管理できない。
それゆえ、薙原本家から下人を借り受け、作男という名目で酷使する。作男を使わなければ、農繁期を乗り切れないからだ。
お陰で多くの住民は下人達と顔見知りだが、此度の騒動で死亡した二名は知らない。おそらく本家に召し抱えられたばかりで、農作業の経験を積む前に殺されたのだろう。
犠牲者が知り合いじゃなくてよかった……というのが、百姓の娘の本心である。他の住民も同じ気持ちであろう。
蛇孕村の住民は何も知らない。
豊臣秀吉が土地を耕作者の所有物と定めて、
蛇孕神社の巫女衆や薙原本家の下人が、外界より買い集められた奴隷である事。
おゆらの妖術で自立心や反抗心を奪い取り、下人を生きた人形に変えている事。
全てが想像の埒外である。
百姓の娘は、鉈で竹を伐り出し、竹の束を縄で縛る。
特に決まりはないが、十本も集めれば十分だろう。
竹の把を背負い、転ばないように竹林の中を歩く。
やがて獣道から外れて、峠の一本道を出た。
山道に戻ると、百姓の娘は顔を顰めた。
強烈な悪臭がする。
悪い予感を覚えながらも、他に帰り道がない為、右手で口元を覆いながら、注意深く峠の山道を下る。
次第に悪臭が強まり、鴉の鳴き声が聞こえてきた。
竹林が消えて、前方の視界が広がる。
蛇孕村を一望できる崖の上で、百姓の娘は硬直した。
屍で造られた案山子が、横一列に並んでいるのだ。
案山子の数は四体。
白い面で顔を隠している為、
八角棒が十字に交差し、横棒に両腕が縛りつけられていた。胴体は支柱の如く縦棒に貫かれており、先端に巫女の頭部が載せられている。下半身が見当たらない。上半身の切断面からは、剥き出しの臓腑が垂れ下がる。吐き気を催す悪臭は、排泄物を含んだ腸から放たれていた。
戯れのつもりなのか、案山子の一体に網代笠を被せている。網代笠を被らされた案山子は、裸の上半身に『泥棒猫』と刀疵を刻まれていた。
子宮や肝臓を啄む鴉。
樫木の横棒に止まり、嘴で鼓膜を突き破る鴉。
朱袴を食い破り、太腿に顔を埋める鴉。
一羽の鴉が、食欲を満たす歓喜で喚いた。
百姓の娘は立ち眩みを起こし、ばたりとその場に倒れた。
今朝は珍しく雀に起こされなかった。
普段より早く起きた奏は、庭先で剣術の稽古を始めた。
赤樫の木剣を両手で振り下ろす。
自分の動きに満足するまで、同じ所作で素振りを繰り返す。
一晩過ぎても奏の心に残るのは、己の不甲斐なさである。
岩倉との立ち合いで何もできなかった。
許婚から授けられた名刀を叩き折られ、惨めに怯えて震える始末。奏は武士でも中二病でもないが、一人の男として情けない。
おゆらは泰然と構えろと言うが、確かに心構えの問題である。常に実戦を想定して稽古に臨めば、危急の折でも不覚を取る事はないだろう。
それに今朝は、昔の夢を見た。
奏は滅多に夢を見ないが、夢の中に
元は歩き巫女を差配する身分で、本家の要職に就いていた。
歩き巫女とは、日本各地を
蛇孕村から数十名の歩き巫女を外界に派遣し、諸大名や豪商の動向を探り、薙原家の利益になりそうな情報を収集。暗殺の依頼を引き受ける際、依頼人との取次も行う。
歩き巫女頭である
小さな木箱に
一応、富裕層に属する奏も見た事はあるが、仕組みが難しいので諦めた。
直接、
とにかく
だが――
男物の派手な衣装で着飾り、蛇孕村の住民と擦れ違うと、「ゴ~ル!」と叫び出す。家人に鞠を蹴らせ、自分に飛んできた鞠を素手で掴み、強制的に蹴鞠を終わらせて喜ぶ。
他にも様々な奇行が目立ち、周囲の者は「
先代当主の一人娘が、末期的な邪鬼眼という有様である。役目さえ果たせば、多少の乱行も問題視されない。
然し辣腕を振るう諜報統括官が、猶子の世話役に左遷されたのだから、
一体、如何なる了見か。
各地に散らばる歩き巫女に、『サン・シーロ』を探し出すように、独断で命令を変更。日本に存在しない事が発覚すると、
流石に先代当主も庇いきれなくなり、
傍迷惑な中二病であるが、奏は
奏の知る
文盲の常盤に読み書きを教える時も、穏やかな態度で接していた。身分や性別で他人を差別する事はなく、誠実な人柄は見習う処も多かった。
だが、惜しい人物ほど長生きできないものだ。
慶長三年五月――
薙原本家の屋敷が、紅蓮の炎に包まれた。
火の不始末が原因と言われているが、今でも詳細はよく分からない。瞬く間に主殿が焼け落ち、女中部屋から庭園の木々に飛び火。分家衆や女中衆が、二十名余りも逃げ遅れて焼死した。火事の犠牲者の中には、先代当主や
奏と常盤は、
火災による混乱が一段落すると、おゆらと符条が陣頭指揮を執り、薙原家の再興に着手した。
奏も二人の政治手腕を認めている。
だが、
他愛もない生前の遣り取り。世間話の途中で「奏君は人が良すぎるんだよ。他人に騙されない方法を覚えないとね」と言い放つ。「そんな方法があるんですか?」と尋ねると、「簡単な事さ。嘘を吐かない者は、決して信用してはいけない。特に事実しか言わない者は、奏君を騙そうとしているんだよ」と軽く答えていた。
他人を騙そうとする時、安易な虚言で乗り切ろうとするのは、透波の素人が行う過ちである。人は長生きするほど、他人に打ち明かせない秘密を抱えていく。秘密を隠そうとするほど、安易な虚言に頼るしかなくなる。
それより有効な手段は、紛れもない事実を積み重ねる事だ。
細かな事実でも重大な事実でも構わない。「隣の家は、庭に柿の木を植えた」という些細な話を積み重ねていけば、一つ一つの話が事実である為、勝手に周囲が真実を語る者だと思い込んでくれる。
外界の事情に通じた
奏が見る限り、朧は重大な事実を打ち明けつつも、都合の悪い部分は誤魔化していた。
嘘吐きが一番信頼できるって……今更だけど、薙原家の倫理観はどうかしてるよ。
奏は大きく息を吐いた。
朧という女武芸者が、敵か味方か――
これも迂闊に判断できない。
やはり判断材料が出揃うまで、本家屋敷で待ち続けるしかないのだろう。
何も分からない状況で、奏が悩んでも無意味だ。
今は稽古に集中しないと。
雑念を振り払い、再び素振りを始めた刹那、
「ほれ」
「――ッ!?」
突如、後方から声を掛けられ、反射的に身体が動いた。
振り返ると同時に、木剣で飛来する
咄嗟に防御できたのは、単純に運が良かったからだ。もう一度、薪雑棒を投げつけられたら、今度は叩き落とせないだろう。
加えて顔面に直撃していれば、軽傷では済まなかった。
奏は困惑して、眼前の人物を見据える。
「朧さん」
「カカカカッ、それなりに筋は良いの。飛び道具を叩き落とすなど、武運も備えておる」
猩々緋の小袖を纏う女武芸者は、右手に薪雑棒を持ちながら、妖艶な美貌を緩める。
「然れど真剣であれば死んでおった」
「どういう意味ですか?」
「太刀を太刀で受けてはならぬ。是は真剣勝負の鉄則。武芸者の常識じゃ」
「受けたらダメなんですか?」
驚く奏を尻目に、朧は鷹揚に頷いた。
「太刀は折れず曲がらず――を信条に鍛えられておる。然れど現実には、太刀も折れるし曲がる。刃毀れもしよう。この世に完全な物など存在せぬ」
「でも僕の刀は、有名な刀工が鍛えたもので――」
「あれは飾りじゃ」
「飾りッ!?」
「見栄え重視。刀身の華麗さに重点を置いて鍛えられた代物じゃ。
「マリア姉がよく似合うからって、あの刀を授けてくれたんですけど……」
「それは身形の話ではないか?」
「えっ――」
「御曹司が実戦を行うなど、其の者は考えておらぬと思うぞ」
「――」
奏は言葉に詰まった。
酷い。
雅東流三代目宗家が「良く似合う名刀」と言うから、使い易い刀だと信じていたのだが……いや、マリアの責任ではない。奏が勝手に誤解しただけ。刀の目利きもできないくせに、名刀だ
「抑も鍔迫り合いなど好んでやるものではない。得物の良し悪しや身の重さで勝敗が決まるうえ、己の動きも制限される。伏兵が潜んでおれば、後ろから刺されて終いじゃ。儂とて気が向いた時しかやらん」
中二病らしい答えと言うべきか。
気が向けば、不利な状況でも実行する。
「僕、受け太刀の仕方も教えられたんですけど……」
「それは木剣の稽古で使う技じゃ。真剣と木剣では、速さの質が異なる。真剣は空気を裂いて進むが、木剣は空気を叩いて進む。木剣の速さに慣れると、真剣の速さに対応能わぬ。即座に対応能わねば、無様に斬り捨てられるしかない」
「……」
奏は返す言葉が見つからない。
今までの稽古は何だったんだ……ッ!?
武術の稽古の最中、マリアから教えられた言葉を思い出す。
「今日から武術の鍛錬を始めるわ。とても過酷な修行になると思うけれど、これも奏を立派な男に育てる為。手心を加えるつもりはないわ。私の事は師匠と呼びなさい」
「はい、師匠!」
「武術の世界に『はい』という言葉はない。返事は『ふみゃあ』だけよ」
「ふみゃあ」
「もう一度」
「ふみゃあ」
「語尾を上げなさい」
「ふみゃあ?」
「
「――ふみゃ!?」
「……もう教える事は何もないわ。奏に雅東流兵法の
「ふみゃあ――って、それはダメだよ、師匠!」
なんだろう……この徒労感。
これほど甘い師匠が、マリアの他にいるだろうか。
実戦で役に立たないのも当然である。マリアは戦い方を教えていたわけではなく、子供向けの習い事を教えていたのだろう。
肩を落とす奏に、朧が泰然と嗤い掛けた。
「そう気を落とすでない。
「僕は大将の器ではありません。それに武士を目指しているわけでもありません」
ただ己の身を守れるようになりたい。
周りの者達に心配を懸けたくない。
それすらも中二病にならなければできない事なのだろうか。
「そうだ! 僕に剣術を教えてください!」
「断る。御曹司に剣術の才能はない」
「即答されるほど絶望的なんですか!? 筋が良いと言われたので、多少は見込みがあるのかと……」
「カカカカッ、勘違いさせてしもうたかの。筋が良いと申したのは、身体の使い方の話。剣術の才能とは別よ」
朧は呵々大笑するが、奏は首を傾げた。
どうも要領を得ない。
運動神経や反射神経に問題はないが、剣術の才能だけないから諦めろというのか。
「百聞は一見に如かず。御曹司にも分かるように試してやろう」
朧は厚めの唇を舐めると、
「ほーれ」
右手の薪雑棒を投げてきた。
曲線の軌道を描き、穏やかな速さで飛んでくる。
今度は不意打ちではない。
横に動いて薪雑棒を躱すか。
再び木剣で叩き落とすか。
素手で薪雑棒を受け止めるか。
自分の行動を選ぶ余裕がある。
奏は素手で受け止める事を選んだ。
飛来する薪雑棒を右手で掴み取ろうとした刹那、奏の眼前に白銀の閃光が落ちた。
二つに切断された薪雑棒が、軽い音を立てて地面に落ちた。
奏は眼を見開き、右手を挙げた姿勢で硬直する。
大刀を振り下ろした朧が、持ち手の人差し指を立てて嗤う。
「
全く視えなかった。
薪雑棒を投げると同時に、電光石火の速さで間合いを侵略。身体を右半身にしながら、落とし差しの太刀を抜き放ち、片手打ちで上段から斬り下げた。
結果から推測するなら、そういう事なのだろう。
「今の抜き付けは、
「……」
「見ての通り、儂は大刀を落とし差しにしておる。抜き付けの勝負では不利じゃ。それゆえ、遠間からも斬りつけられるように工夫した。剣士の間合いは、長物を用いても一間から二間が限界。然れど半月ノ太刀は三間先まで届く」
「三間も……!?」
奏が驚くのも無理はない。
三間と言えば、飛び道具の間合いだ。対手からすれば、初太刀の駆け引きを行う前に、遠間からの奇襲で先手を取られてしまう。
「無論、欠点もあるぞ。あくまでも不意を衝く技。対手に拍子を読まれると、後の先を取られる。加えて間合いを見誤れば、対手と正面から衝突するか、逆に切先が届かぬ。抑も抜き方を誤ると、己の乳房を斬りつけてしまう。儂は半月ノ太刀を修得する為、何十人も斬り捨ててきた」
「――ッ!?」
「人の斬り方など、人を斬らねば覚えられぬ。太刀とは、便利な道具じゃ。速さ(スピード)と刃筋(ポイント)と拍子(タイミング)が揃えば、なんでも斬り能う。儂の使う太刀など数打物に過ぎん。然れど具足も人も斬り能う。実戦で人の斬り方を会得したからの」
「実戦……」
「太刀を太刀で受けてはならぬ。真剣勝負の最中に、太刀が折れたら一大事じゃ。其は先度の立ち合いで痛感したであろう。避け能う攻めは避けよ。対手の心の動きを読み、太刀筋と間合いを見切り、身の捌きにて打突を躱す。是が真剣勝負の鉄則じゃ」
「……」
「今一度問おう。儂の太刀が見えたか?」
「……」
朧の問い掛けに応えられない。
朧が本気で殺すつもりなら、奏は唐竹割にされていた。今日だけで奏は、二度も殺された事になる。
真剣勝負の速さに慣れるには、真剣勝負を繰り返すしかない。然し真剣勝負で生き残る為には、空間把握能力と動体視力が必要となる。二つの才能に恵まれていない者は、自然に斬り合いで淘汰されていく。
それが真剣勝負の現実だった。
「武芸者とは、戦場という
「……弱い人を守る為の力ですか?」
「
大仰な所作で大刀を鞘に収めながら、朧は明確に否定した。
「『武』という漢字は、『
朧は凶暴な笑みを浮かべる。
「武を知らぬ素人の斬り合いは
「薙原家に十手の遣い手はいません。朧さんは……」
「ふむ、よく考えたら、儂も十手の使い方など知らぬ」
話が振り出しに戻った。
マリアもそうだが、中二病の相手をしていると、会話の継続に苦労する。突飛な発言が多過ぎて、如何に対応すればよいのか分からなくなる。
「然れど殺生を好まぬのであれば、他にも手立てはあるぞ」
「その方法を教えてください!」
「
「……」
「刃挽き致せば、真剣も鉄の延べ板と変わらぬ。御曹司の膂力では、対手を叩き殺す事も難しかろう。刃毀れの懸念もあるまい。畢竟、時を稼ぐ事は能うのではないか?」
物凄く大雑把な助言だが、現実を考慮すれば道理だ。
奏は人を斬りたいわけではない。武士のように首級を挙げて、武功を立てたいとも思わない。ならば、最初から刃は不要。
意外に発想の転換というか、多少頭の霧も晴れてきた。
「ありがとうございます。自分なりに工夫できそうです」
奏が頭を下げると、朧は愉快そうに嗤う。
「役に立てたかどうかは、その時にならねば分からぬよ。尤も御曹司は若い。短所を嘆くより、長所を磨くべきであろう」
「僕の長所?」
「左様。御曹司にも秀でた処はあろう」
「僕に長所なんかありません。マリア姉……
奏は暫く考え込んだ後、不安そうに顔を上げた。
「僕の長所ってなんですか?」
「それこそ己で考えよ、と言いたい処じゃが……カカカカッ、是は儂の負けじゃな。御曹司の長所は人徳じゃ」
「人徳?」
奏は呆気に取られて、ぽかんと朧を見つめた。
「御曹司は、自然と周囲の者共を惹きつける。是こそ総大将の材徳。儂には欠片も見当たらぬものよ」
急に人柄を評価されて、奏は戸惑いを覚えた。
人柄と言われても……僕に友達なんていたかなあ。
本家屋敷に十年も居候しているが、気を許せる者など殆どいない。常盤にも気を遣いながら接しているくらいだ。
「御曹司よ。
「はあ……」
褒められても、あまり実感が湧いてこない。要約すると、「天然」の一言で片付けられているのではないか。
「御曹司の言動には、打算や欲得がない。然れど勘所で的確な判断を下す。先度の立ち合いも見事な手際であった。幼き縁者を巻き込まぬ為に、巧みな方便で死地より逃したではないか」
「結局、怖くて何もできませんでしたし……って、そこから見てたんですか!?」
奏が目を丸くする。
「儂は、
朧の物言いに仰天した。
彼女の言葉が真実なら、異常な視力の持ち主である。
「畢竟、人ならば、死を恐れるのも当然じゃ。儂のように、死を恐れぬ者ほど危うい。御曹司のような者だからこそ、其の言葉は人の心に響くのであろう。諸人はそれほど強うない。
「……なんだか『天下人を目指せ』みたいな話ですね」
「所詮は牢人の戯言。聞き流してくれて構わぬ。然れど己の進む道は、己で決めればならぬ。決して他人に決められてはならぬぞ」
「……」
決然と言い放つ姿に、後ろ暗さは微塵もない。
本当に、この人が邪な企みを抱いているのか?
どうしても奏には、朧が謀略を好む輩だと思えないのだ。
「朧さんは薙原家に仕官を望みますか?」
奏は、敢えて抜き身の質問をぶつけた。
「其れも好きに致せ。儂は一振りの太刀じゃ。太刀の使い方など、持ち主が好きに決める事。其れが儂の選んだ道じゃ」
眼を細めて嗤う朧は、妖しい色香を纏いながらも、年相応の無邪気さも垣間見える。
人斬りが武芸者の本分ならば、善人とは言い切れない。だが、分別のつかない殺人鬼というわけでもなさそうだ。それに透波が、武芸者を蔑む道理はない。
おゆらの言葉を借りるなら、善悪は時の情勢で決まる。
朧が薙原家の敵になるのか。
それを見極めなければならない。
「ええと、その……命の恩人に言うべき事ではないんですけど……」
「ん?」
「薙原家は、朧さんを警戒しています。何か良からぬ事を企んでいるのではないかと」
「ほう、面白い。続けよ」
獰猛な笑みを浮かべて、強烈な眼光を放つ。
それでも奏は、自分の納得する答えを求めて、拙くとも言葉を重ねる。
「僕は……善人ではありません。薙原家は仕物を生業としてきました。関東の山奥に潜む土豪が乱世を生き残る為、止む無く汚れ仕事に手を染めたのでしょう。でも……どんな理由をつけた処で、人の命を奪うなんて赦されない事です。それを承知していながら、僕は十年もこの屋敷で暮らしてきました。人殺しで金銀を集めて、何の不便もない暮らしを楽しむ。山賊や盗賊より質が悪い。僕も悪党の一味なんです」
「それで? 何が言いたい?」
「もし薙原家に遺恨があるなら……忘れてくれとは言いません。一刻も早く蛇孕村から離れてください。僕は悪党の一味ですが、死人を増やしたいとは思いません。それが命の恩人なら尚更です」
勿論、奏が蛇孕村に居続けた理由は、先代当主の意向だ。
然し強制されていたとはいえ、奏の意志も含まれている。
マリア姉の側から離れたくない。
自分でも幼稚な我が儘だと承知しているが、最愛の許婚と引き離されて、身一つで外界に放り出された時、誰を頼りに生きればよいのか。
今の生活を失うと考えただけで、背筋に冷たい汗が滲む。
自分の心の弱さに嫌気がしてくる。
やはり純粋でも誠実でもない。
単なる世間知らずの臆病者だ。
「逐電せねば、御曹司も敵に回ると?」
奏の葛藤に気づいているのか。
朧は試すように尋ねてきた。
「僕の力なんて微々たるものですけど……仇討ちが道理なら、返り討ちも道理。僕は薙原家を……『
奏の目に迷いはない。
仇討ちは、鎌倉時代の御成敗式目で禁じられている。だが、全ての殺人事件を幕府の
ゆえに乱世の社会通念は、自力救済に基づく。
誰かに権利を侵害された場合、自力で権利を回復するというものだ。仇討ちが正統な権利に変われば、返り討ちも正当な権利に変わる。
「武芸者に仇討ちを講釈致すとは……良い度胸をしておるのう」
朧の声に怒気が混じる。
「あ、いや、別に講釈なんて……」
奏は血相を変えて、あたふたと混乱する。
思わず愚直に喋り過ぎた。
己の面目を守る為なら、武士は平気で刃物を振り回す。相手に侮辱と受け取られたら、
徐に朧が近づき、奏の前に立ち塞がる。
朧の右手は、大刀の柄が添えられていた。
「すみません! 決して朧さんを侮辱するつもりは――痛ッ!」
恐怖で目を瞑る奏に、ぱちんと
「早合点を致すな。儂は薙原家に遺恨など持ち合わせておらぬ」
激痛で
「抑も遺恨や名誉に命を懸けるのは、尋常な
「い……痛い」
額を押さえて立ち上がり、奏が涙目で呻いた。
当人は手加減したつもりだろうが、梨でも砕きそうな威力だった。
「
朧は微笑を浮かべながら、優しく奏の頬を撫でた。
びくりとしながらも、奏は懸命に言葉を紡ぐ。
「朧さんにも目的はあるんですよね?」
緊張で奏の声が裏返る。
若者を誘惑するような仕草に困惑し、奏の心臓が早鐘を打つ。
「昨晩も申した通りじゃ。御曹司を不貞の輩から守り抜く。それが儂の目的に繋がる」
「その……目的を訊いたら、素直に教えてくれますか?」
「教えたらつまらなくなる。然れど――」
意味ありげに嗤い、奏の顎と左肩を掴む。
「
「僕は言葉だけで十分なんですけど……」
「動くでないぞ」
「え? 朧さん? ちょっと待って……」
奏は咄嗟に顔を背けるが、凄まじい力で引き戻された。
もう逃げられない。
身を竦める奏の顔に、妖艶な美貌が近づいてくる。厚めの唇が、奏の顔の一寸手前まで接近した刹那、
「朧様――」
穏やかな声が、両者の耳に届いた。
奏が眼を向けると、庭園の散策路から歩み寄る女中の姿。
「おゆらさん!」
緊急事態を脱した安堵感から、奏の声は弾んでいた。
助かった……
いつも卑猥な言動で周囲を困らせる変態女中が、今だけは地獄の亡者を救う地蔵菩薩の化身に見える。
おゆらさんで良かった。
常盤に見られていたら、面倒な事になる処だったよ……
奏が安堵したのも束の間。
おゆらが右手を挙げると、周囲から無数の人影が現れた。
薙原本家に仕える女中衆が、奏と朧の間に割り込んでくる。
「――えッ!?」
混乱する奏の前に、二人の女中が立ち塞がった。
さらに武装した十数名の女中が、瞬く間に朧を包囲する。槍や薙刀の他にも、鉄砲を携えた女中もいる。
十数本の切先と四挺の筒先に囲まれながらも、朧は泰然とした態度を崩さない。
「是は何事かの?」
「捕らえなさい」
朧の質問に答えず、おゆらは簡潔に命じた。
数人の女中が武具を引き、抜群の身体を縄で縛り上げる。朧は一切抵抗せず、両手を後ろに回されて、完全に身動きを封じられていた。
「朧さんは何もしていない! 今のは……朧さんの戯れなんだ! 僕に危害を加えようとしたわけじゃない!」
「……戯れが理由で縄を打たれるなら、私は打ち首となりましょう。此度は、全くの別件です」
「別件?」
「昨晩、蛇孕神社の巫女衆が、何者かに殺害されました」
「巫女が死んだ……?」
「犠牲者は四名。現場は馬喰峠です。屍は酷く損壊し、案山子の如き無惨な姿で晒されていたとか。おそらく我々を挑発しているのでしょう。誠に由々しき事態です」
「また犠牲者が……」
おゆらの説明に衝撃を受けて、奏は呆然と呟いた。
「成程。その下手人が儂というわけか」
縄を打たれた朧が、爛々と輝く双眸でおゆらを見据えた。
「下手人ではありません。最も疑わしき者です」
「疑わしいって……昨晩、朧さんは屋敷にいたじゃないか!」
「勿論、承知しております。真の下手人は昨晩、蛇孕村に侵入した武芸者。なれど山中に潜んでいるようで、即座に捕縛する事ができません。加えて昨日も巫女と下人が殺されたばかりです。従順な蛇孕村の民も、此度ばかりは動揺を隠しきれない様子。直ちに下手人を罰しなければ、薙原家の威信に関わります。蛇孕村の統治にも影響を齎すでしょう」
「薙原家の為に濡れ衣を着せるつもり!?」
「左様です」
奏の詰問に笑顔で返答し、豊かな胸の前で両手を組む。
常軌を逸している。
主君の予想を遙かに超えて、本家の女中頭が暴走を始めていた。
「それなら昨日の牢人で構わないじゃないか! 女一人で四人も殺したなんて、話に無理がありすぎるよ! 取り敢えず村人には、岩倉の仕業と説明した後で、本当の下手人を捜せば――」
「それはできません」
「――ッ!?」
「巫女衆が殺害されたのが、
「僕達の他に目撃者がいたのか……」
「クククッ、是は難儀よのう。昼前に殺された岩倉が、夕暮れに巫女を殺める事など能わぬ。理に適う話じゃ」
己に不利な事実を突きつけられても、朧は相好を崩すだけだ。
奏は必死に頭を働かせた。
確かに余所者の朧は、巫女殺しの下手人に仕立てやすい。一旦朧を拘束して、事態の幕引きを宣言。住民の不安を取り除いた後、本物の下手人を捜索する。
合理的かもしれないが、非道な遣り方である。
到底、承服できる事ではない。
「マリア姉は――」
「蛇孕神社には、すでに報告済みです」
「くっ――」
「
「マリア姉まで――」
どうする――
奏は本家の直系で、本家女中頭の主君である。だが、緊急時の指揮権は与えられていない。政治に関する権限は、
「安心致せ、御曹司」
捕縛された朧が、余裕の表情で奏に話し掛ける。
「この者共も乱心したわけではあるまい。真の下手人とやらが捕まれば、儂は無罪放免なのであろう?」
「勿論です」
「であれば、問題はあるまい。御曹司の家来なら無体な真似はせぬであろう」
「朧さん――」
奏が近づこうとすると、二人の女中に遮られた。
「儂の事を心配してくれて嬉しく思うぞ。然れど今生の別れというわけでもなし。御曹司の懸念は、杞憂に終わるであろう」
朧は自信を込めて、おゆらの顔を見つめる。
「連れていきなさい」
おゆらの指示に従い、女中衆が朧を連行する。
奏は引き止める事もできず、朧の後ろ姿を見つめていた。
「痛い痛い。無理に縄を引かんでも歩ける。変な所を触るでない」
楽しげな声を漏らしながら、女中衆の輪が離れていく。
奏は無念そうに、おゆらを呼び止めた。
「おゆらさん」
「はい?」
「朧さんに危害を加えたりしないよね?」
「御安心ください。朧様は奏様の命の恩人です。決して危害など加えません」
おゆらは柔和な笑みを浮かべて、黒革の首輪に右手を添えた。
「……」
これも以心伝心というのだろうか。
十年来の付き合いだからこそ、僅かな遣り取りでおゆらの意図を察した。
朧は要注意人物から、利用できそうな余所者に格下げされたのだ。
いつもは卑猥な言動で奏を困らせる変態女中だが、薙原本家に対する忠誠心は本物だ。薙原家の家名を保つ為なら、躊躇なく残酷な方法を用いる。
それこそ必要と判断すれば、朧を座敷牢で拷問に掛けるだろう。
朧の持つ情報を手早く吐かせ、下手人と無関係なら外界に追放する。最悪、下手人の捕縛に手間取る事も考慮し、冤罪を被せて処刑しかねない。
三ヶ月前、おゆらが女中頭に選ばれたばかりの頃、蛇孕村で騒動が起きた。
与吉という難民が薙原家に無断で下山し、百姓の家に押し込んだ。
抵抗する亭主を殴り倒し、酒を盗んで逐電を試みた。
結局、与吉は馬喰峠で巫女衆に捕縛されて、拷問の末に罪を認めた。
この当時、盗みは重罪である。
誰もが罪人の撲殺を想定していた。実際、蛇孕村の検断を司る蛇孕神社も、与吉を撲殺するつもりでいたという。然しおゆらが、蛇孕神社の裁定に口を挟んだ。
おゆらは広場に住民を集めて、与吉を
竹鋸引の刑とは、首から下を土中に埋めて、竹鋸で首を切断する処刑方法だ。切れ味の悪い竹鋸で、少しずつ罪人の首を切り裂いていく。
おゆらは刑の執行を与吉の息子にやらせた。
彼の母親を人質に取り、与吉の息子に選択の余地を与えなかった。
号泣しながら竹鋸を挽く息子と、激痛で悶え苦しむ父親。
蛇孕村の住民は、凄惨な光景を黙々と眺めていた。
父親の首を切り終えると、息子は狂乱して泣き喚いた。
竹鋸で切り離された与吉の首は、巫女衆が首台に載せた。
与吉の最大の罪は、酒を盗んだ事ではなく、薙原家の許しを得ずに下山した事だ。一人でも難民の不法侵入を許せば、百人以上の難民が押し寄せ、蛇孕村で乱暴狼藉を働くだろう。今回は窃盗と傷害で済んだが、次は死人が出るかもしれない。
住民の不安と憎悪を和らげ、難民に対して
三日間、鴉に啄まれた首は、息子に持ち帰らせた。村掟を破ればどうなるか。難民集落の隅々まで知れ渡るだろう。
時に非情な判断を下さなければ、蛇孕村を統治する事はできない。
考えが甘かった。
奏の知らないうちに、おゆらの筋書きは完成していたのだ。
巫女が武芸者に殺されたのも、女中頭の想定の範囲内。最初から難癖をつけて、朧を拘束するつもりでいたか。
常盤の時のように、マリアに直訴できればよいが……用心深いおゆらは、奏の反発も織り込み済みだろう。
「僕は、これから蛇孕神社に向かいます。二人はついてこないでください」
前方を塞ぐ二人の女中に、奏は厳しい声で告げた。
「なりません」
「これは下知です」
「
奏は強く唇を噛み締めた。
事が終わるまで、庵の外に出るなというわけか。
許婚を危険から遠ざける為の措置であろうが、自宅軟禁と何も変わらない。
己の無力さを噛み締めながら、木剣を強く握り締めた。
庭園の木陰に隠れて一部始終を見届けた常盤は、思わず歓喜の声を漏らしそうになり、慌てて口元を押さえた。
事情はよく分からないが、女武芸者が本家女中衆に拘束された。
その所為か、本家女中衆が屋敷内を頻繁に動き回り、通常なら考えられないほど警備態勢が緩んでいる。お陰で厳重に保管されていた蔵の鍵を入手できた。
普段より身体が軽く感じられる。
池に架かる石橋を渡ると、一際立派な造りの蔵が見えた。
常盤は蔵の前に立ち、何度も周囲を確かめる。
誰にも見られていない筈だ。
常盤には、専用の女中がついていない。
奏から何度も勧められたが、その度に理由をつけて断った。心を許せない者が近くにいても、気持ち悪くて落ち着かなくなる。
女中は用事がある時だけ、自分の部屋に呼びつければよいのだ。
お陰で単独行動をしても、誰も常盤を見咎めない。
運も私の味方をしてくれてる。
小振りな胸を弾ませながら、門扉の錠前に鍵を差し込む。
重厚な扉を開けると、薄暗い蔵に踏み込んだ。
それほど蔵の中は埃臭くなかった。人の出入りが激しい証拠だ。早く目的の品物を手に入れて立ち去らないと、誰かに見つかるかもしれない。
この蔵は、薙原家の宝物庫の
常盤の背後から陽光が差し込み、様々な宝物を輝かせる。
名物珍品から、常盤は目的の物を探す。
「舶来品多過ぎ……どこ? どこなの?」
時間の経過と共に、高揚感が焦燥感に転じていく。
探しても探しても見つからない。
話に聞いた通りなら、細長い木箱に収められている筈だ。
目印は、桐の花と葉を図案化した家紋。
なれど前に進むほど、高価な調度品が見つかるばかり。一番奥の棚は、異国の調度品を並べておく棚だ。目的と合致しない物だらけ。
騙されたとは思えない。
まさかおゆらさんが、他の場所に移した?
「――もうッ! どうして見つからないの!」
常盤は声を荒げて、激しく地団駄を踏む。
常盤が下を向くと、立派な漆塗りの刀箱があった。
作男……地主の下で農作業に励む使用人
作人……地主の下で作男を監督する管理職
小作……地主に地代を払い、好きな農作物を育て、所得とする農家
寄生地主制……土地を所有する地主が、作人や小作や土地を耕作させ、収穫した農作物の一部を徴収する制度
弘治三年……西暦一五五七年
サン・シーロ……スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)。イタリア・ミラノにあるフットボール専用スタジアム。サン・シーロ (San Siro)は旧称。
鞠懸……蹴鞠を行う競技場
慶長三年五月……西暦一五九九年六月
焼刃……刃物に粘土を被せ、土を除去して火で熱し、ぬるま湯に入れて硬くした刃
沸……肉眼で確認できる地金の微粒子
匂……肉眼で確認できない地金の微粒子。肉眼で確認できない筈の微粒子が、肉眼で確認できた為、朧は「沸も匂も大きい」と言った。
身の重さ……体重
印可……流儀の奥義を会得した者に与えられる許可状
兵法と兵法……戦略や戦術が
抜き付け……抜刀術の初太刀
一間……約1.8m
二間……約3.6m
三間……約5.4m
数打物……粗製濫造品
太刀行……打突の軌道
八町……約907.2m 太閤検地後
公事……裁判
打返……報復
下手人……殺人犯
酉の刻……午後六時
戌の刻……午後八時
検断……司法
見懲……見せしめ
宋胡録……暹羅のサワンカローク(窯業が盛んで陶磁器の名産地)で造られた壺
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