第12話 秘め事
薙原家の人喰い共が
「……んんンっ、ああ……アアああ……」
常盤は熱い吐息を漏らす。
「欲しいよ……奏が欲しくて堪らないの……」
愛おしい少年の臭いが、少女の肺の中に染み込む。
円錐形に膨らんだ
「――――ッ!!」
不意に頭の中が弾けた。
押し寄せる快楽の波に翻弄されて、小さな身体が震える。両脚に力が入らなくなり、松の木に背中を預けた。
いつからだろう。
好きな異性の着物を盗んで、夜更けに一人で屋敷の外に飛び出し、耽美な妄想に耽るようになったのは――
心地良い余韻に浸りながら、常盤は本家屋敷を見下ろす。
先代当主が改修を命じた屋敷は、鄙の土豪に相応しくないほどの豪邸だ。平城の如き要塞に寺社仏閣の如き庭園。それも常盤からすれば、普段通りの光景だが……今は違う。朧という異分子を受け入れた場所だ。
常盤は朧を信用していない。
間一髪の処で奏を救うなど、あまりにも出来過ぎている。亡き主君の遺命というのも、おそらく
懸念と
常盤には、武芸者に対抗する術がない。
武具と呼べる物は、先代当主から譲り受けた燧石銃だけだ。
唐入りを控えた豊臣秀吉が、豊臣家直轄の鉄砲鍛冶衆――
先代当主が残してくれた大事な遺品だが……短筒一挺で追い出せるほど、朧という武芸者も甘くないだろう。それに常盤は、武術の心得がない。単純な暴力に訴えても、此方が返り討ちにされてしまう。
助力を求める事も難しい。
特におゆらはダメだ。
普段の卑猥な言動は、奏を油断させる為の偽装。常盤の気持ちに気づき、奏に近づかないように牽制しているのだ。
なんて狡猾な女だろうか。
物的な証拠はないが、女の勘が告げている。
あの女は敵だ。
おゆらだけではない。
奏を除く薙原家の者は、全て常盤の敵だ。
常盤の両親は、
天正十年三月――織田信長の甲州征伐より逃れた難民が、隣国の武州に押し寄せてきた。多くの難民は、落飾した
その当時、薙原家は新田開発を進める為、開墾の専門家や
難民も一生懸命働いた。
過酷な労働が何年も続いた。
難民の努力が実を結び、新田開発も成功の目処がついた。
だが、薙原家は約束を守らなかった。
開墾した土地を分け与えるどころか、難民を隷蟻山に閉じ込めたのだ。
当然、難民も薙原家の横暴に反発した。
謀叛を起こそうとする者もいたが、例外なく鉄砲で射殺された。挙句の果てに、薙原家は難民に樹木の伐採を禁じ、家屋を建てる事すら許さなかった。
山の中に閉じ込められた難民は、隷蟻山の西側の崖から飛び降りて死ぬか、蛇孕村に入り込んで撃ち殺されるか、山の中で暮らすかの三択を強いられた。
隷蟻山の暮らしは、生き地獄に他ならなかった。
樹木の伐採を禁じられているので、難民は田畑を耕す事もできない。石槍で猪や鹿を狩り、地面に落ちた木の実を集め、洞窟の中で眠るという
身体の弱い常盤が生き残れたのは、奇跡と言う他ない。
人の命に価値はない――と絶望していた常盤は、己の死さえ受け入れていたが、転機は脈略もなく訪れる。
偶然、難民集落を視察していた先代当主の目に留まり、薙原本家の
勿論、常盤も承知していた。
先代当主の行いは、貴人特有の酔狂である。南蛮人の血を引く常盤の容姿が珍しいというだけで、人形を愛でるのと変わらない。
それでも常盤は満足だった。
薙原家に養われていれば、飢えに苦しむ事はない。木の実を探して歩かなくても、豪勢な食事を楽しめる。本家当主にお願いすれば、綺麗な着物や調度品を好きなだけ買い与えてくれる。悪童から理不尽な仕打ちを受けなくて済む。
一時、常盤は有頂天になった。
然し二年前、先代当主と世話役が他界すると、常盤を取り巻く環境が一変した。
身内と信じていた者達が、一斉に掌を返した。
先代当主という後ろ盾を失えば、薙原家と血縁関係を持たない余所者。無駄に金銭を浪費する厄介者に過ぎない。
分家の年寄衆は、当人の前で「憂さ晴らしに
常盤の言い分に耳を貸す者はない。
人商人に売り飛ばされる寸前、常盤の後見人に名乗り出てくれたのが、世話役の勧めで親睦を深めていた奏である。マリアに直談判し、常盤の居場所を確保してくれたのだ。
奏自身、女尊男卑の薙原家で微妙な立場に置かれており、本家の血筋を保つ為の道具として扱われてきた。自発的な行動を行うと、分家衆から危険視されかねない。だが、追い詰められた少女を救う為、奏は分家衆の暴走を食い止めてくれたのだ。
所詮は、暗殺を生業とする透波の一族。
一時でも薙原家を信用した自分が愚かだった。
読み書きや礼儀作法を教えてくれた世話役。
誰よりも常盤の身を案じてくれた奏。
この二人は、例外中の例外。
それ以外の者は、全て常盤の敵だ。
薙原家が何を企んでいるか知らないが、奏を利用するつもりなら、絶対に阻止しなければならない。
たとえ相手が
奏は私のモノなんだから!
己に言い聞かせるように、小さな胸の内で宣言した。
衣装の乱れを整え直し、本家屋敷へと足を向ける。
処が、急に常盤の動きが止まった。
(こんばんは)
忽然と頭の中で、他人の声が聞こえてくる。
「――ッ!?」
驚いて耳を塞ぐが、それでも女の声が聞こえてくる。
(ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。ボクは味方……常盤様の味方だよ)
「――誰ッ!? 誰なのッ!?」
辺りを見回しても、人影は見当たらない。
(常盤様を驚かせないように配慮したつもりなんだけど……余計に驚かせちゃったかな? 今から姿を見せるけど、大きな声を出さないでね)
「――イヤッ!! 来ないでッ!! 来ないでえッ!!」
常盤は両耳を塞いで、現実を拒否するように
それとも悪霊の仕業だろうか?
幻聴に襲われるなど、頭がおかしくなりそうだ。
やがて――
弱々しく震える少女に、
「こんばんは、常盤様」
穏やかな声で語りかけてくる。
ビクリと硬直した常盤は、恐る恐る頭を上げた。
天正十年三月……西暦一五八二年四月
松姫……武田信玄の娘
人夫……肉体労働者
馬鍬……馬や牛に
猶子……家督相続権を持たない準養子
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます