第11話 饗会

 蛇孕神社には、二つの拝殿がある。

 表に建てられた内拝殿ないはいでんと、裏に隠された下拝殿げはいでんだ。下拝殿の存在は、奏や常盤にも知らされていない。

 蛇孕村の下拝殿は、内拝殿から続く洞窟の中だ。

 洞窟は天然の鍾乳洞である。

 天井から無数の鍾乳管しょうにゅうかんが垂れ下がり、地面から石筍せきじゅんが盛り上がる。ばさばさと蝙蝠の群れが飛び交い、おゆらの掲げた松明の炎から逃れる。

 松明の灯りを頼りに、おゆらは洞窟の中を進む。

 徐々に――

 洞窟の奥から物音が聞こえてきた。

 悲鳴と歓声を重ね合わせた喧騒。慟哭の波紋が、おゆらの耳に届く。


 今宵は饗会きょうらいでしたね。


 饗会きょうらいとは、蛇神に捧げられた供物を一族で食す儀式だ。蛇神崇拝の戒律で一ヶ月に一度と定められており、分家衆が一堂に会して供え物を食す。

 内拝殿に捧げられる進物は、金銀財宝や名物珍品でも構わないが、食物だけは餌贄えにえと限られている。

 おゆらは広大な空間に出た。

 人工的に造られた空間であろう。地面の石筍が削り取られ、砂利で舗装されている。広場の両脇で燃え盛る篝火かがりびが、洞窟内に橙色の光を撒き散らしていた。土塁で中央が遮られており、土塁の上部の踏み場――土橋つちはしで入り口と出口が繋がる。

 その場所は、狂気と絶望が溢れ出す地獄だった。

 男と女と老人と子供。

 多種多様な者達が、洞窟内の広場ではりつけにされていた。

 彼らは逃げられないように、磔柱に荒縄で手足・足首・腰部を固縛こばくされている。磔柱の形状は、男が「キ」の字。女は「十」の字。男は股間部に、女は足の下に体重を支える為の台がある。ゆえに男は大の字で、女は十字の形で束縛されていた。

 彼らは科人とがびとではない。

 蛇孕村の住民ですらない。

 薙原家が村の外から買い集めた奴隷だ。

 蛇孕村の住民は非常食である。

 本家当主の許しもなく、勝手に喰い殺す事はできない。

 全裸で縛られた若い娘に、のこぎりを携えた老婆が近づく。


「畜生! お前らが地獄に落ちるのを――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイイイイッ!!」


 老婆が鋸で左腕を切り始めた途端、娘の虚勢は絶叫に変わった。

 血飛沫が飛び散り、磔柱ごと左腕が落ちる。

 老婆は左腕を拾い上げ、がぶりと齧りつく。人肉を咀嚼そしゃくし始めた時には、娘は出血多量で死んでいた。

 右隣の磔柱には、中年の男性が拘束されている。


「稼ぐ力、稼ぐ力、稼ぐ力、稼ぐ力……」


 男は虚空を見つめながら、意味不明な妄言を呟いていた。唇から涎を垂らす姿は、殆ど乱心者のそれである。

 尤も捕食者からすれば、生贄の精神状態など興味もない。

 三十代の女が矢鋏やばさみを使い、一本ずつ胸骨を開放していく。

 鉄の鋏で胸骨を引き抜かれても、男は何の反応も示さない。芥子けしの実より拵えた妙薬を飲ませ、痛覚を麻痺させているのだ。

 胸の中心に大きな穴を空けると、新鮮な心臓を取り出す。当然の如く心臓は鼓動を止めており、廃人同然の男は事切れていた。

 左隣で磔にされた童の顔に、老婆が包丁を突きつけていた。


「やだああああッ!! やだよおおおおッ!!」


 荒縄で頭を固定された童は、顔を背ける事すらできない。

 老婆は笑いながら、包丁で童の鼻を削ぎ落とす。


「だずげでええええッ!! だずげで、おっがああああッ!!」


 必死に助けを呼んだ処で、彼の母親は助けに来ないだろう。彼は両親に二束三文で売り飛ばされたのだ。

 飢饉に苦しむ百姓が、口減らしに子供を捨てる。獰猛な野伏のぶしが集落を襲い、弱者をかどわかす。強欲な人商人ひとあきびとが、武士や豪商に奴隷を売り払う。

 全て日常茶飯事だ。

 関ヶ原合戦の混乱が、急激な治安の悪化を招き、非合法な人身売買に拍車を掛けた。豊臣秀吉が定めた人身売買禁止令も関係ない。城下町で奴隷が売れないなら、人通りの多い街道で売り捌く。

 欲望は道徳観念を打ち壊し、貧困は倫理観を蝕む。

 人喰いの妖怪には、実に都合の良い社会だ。

 効率良く人を調達する為、人喰い共は仕物を請け負い、高利貸しや対外貿易で利益を増やしていた。

 その成果を如実に示す光景である。

 おゆらは悶え苦しむ者達を意に介さず、むせせ返るような血の臭いに包まれながら、殿上人の如く土橋を渡る。

 洞窟の出口の近くで、小柄な老婆を発見した。


「ヒトデ婆――」

「おお、おゆらか。よく来たぞえ」


 襤褸ぼろを着込んだ老婆が、緩慢な所作で振り返る。

 身の丈は、辛うじて四尺を超えるくらいか。白い蓬髪ほうはつに皺だらけの垢面あかづら。天狗の如く伸びた鷲鼻。汚れた布で両目を塞いでいるが、日常生活に支障はない。

 二十数年前、ヒトデ婆は眼病に侵された際、自分で両眼をえぐり出したのだ。眼球がなくても眷属けんぞくを使役すれば、通常の視力を維持できる。これも人喰いの利点だろう。


「斯様な場所で何を?」

饗会きょうらいが終わるのを待っておる。屍を集めて蛆の苗床にするぞえ」

「蛆?」

「蛆は金疵薬こんそうやくの材料となる。屍から産まれた蛆は、特に生命力が強い。饗会きょうらいなら集め放題ぞえ」


 胡散臭い老婆が、不気味な笑みを浮かべた。

 ヒトデ婆は、これでも分家衆の一つ――肥沼ひぬま家の当主。薙原本家の御殿医を務めるほどの者だ。薬の材料を集めるのも大事な役目だが、時と場所を考えて貰いたい。

 おゆらは額に右手を当て、ふうっと溜息をついた。


「蛇孕神社の内拝殿は、蛇神様の神域。饗会きょうらいも神事の一環です。次からは自分の家で集めてください。あの薄汚いあばなら好きなだけ集められます」

「我が家に屍を集めてみよ。村人が寄りつかなくなるぞえ」

「……考えておきます」


 二人が雑談している途中で、


「お助けくだされ。御慈悲を……どうか御慈悲を」


 急に下から声が聞こえてきた。

 老人が土塁を見上げて、必死に命乞いをしている。

 おそらく戯れに縄を外した者がいるのだろう。両脚の腱が切られているので、広場から逃げる事はできないが、人喰いに慈悲を乞う事ならできる。

 二人は老人と目を合わせようとしなかった。

 おゆらが左手の人差し指と親指を擦ると、薄紅色の粉末がこぼれ落ち、ぱらぱらと老人の顔に降り掛かる。

 次の刹那、老人は眼を剥いて、


「――ぐぴっ!? 食べてええええッ!! 儂の身体を食べてええええッ!! 肉も皮も臓物も残さず、みんなで仲良く食べてええええッ!!」


 と喚き出し、素速い匍匐前進で元の場所に戻る。

 何事もないように、二人は話を進める。


「それで内拝殿に何用ぞえ」

无巫女アンラみこ様に御報告しなければならない事がありまして……何処いずこにおられますか?」

「本殿の前で餌贄えにえを食されておる。今宵は、あまり機嫌が宜しくないでな。気をつけた方がよいぞえ」


 襤褸を着た老婆は、ぞえぞえと奇妙な笑声を漏らす。


「どれ、我も同行しようか。例の一件であろう。我も興味がある」

「御随意に」


 おゆらとヒトデ婆が出口に入ると、老人の断末魔が聞こえてきた。毒蛾の鱗粉の効果が消え去り、喰い殺される前に正気を取り戻したのだ。

 広場から離れると、悲鳴や死臭から遠ざかる。

 鍾乳管や石筍が取り除かれた洞窟で、先程の道より歩きやすい。二人の足音が洞窟内で反響し、静寂の中に響き渡る。

 やがて地底湖に辿り着いた。

 篝火や燭台などの光源は、地底湖の近くに存在しない。おゆらの松明だけでは、地底湖全体を見渡すどころか、周囲を照らすだけで精一杯。

 おゆらが松明を掲げると、橙色に揺らめく灯りが、ぼんやりと二人の少女の裸身を浮かび上がらせた。

 一人は蛇孕神社の巫女だ。

 腰まで湖面に浸かり、素顔を晒している。


「あああ……」


 恍惚とした表情で、巫女は吐息を漏らす。

 もう一人はマリアだ。

 一糸纏わぬ姿で巫女を背後から抱き締め、首筋に鋭い牙を立てていた。ごくりごくりと溢れ出る血を飲み込む。

 マリアが口を離すと、巫女は力無く沈んでいった。

 无巫女アンラみこの吸血行為が終わると、陸地で控えていた巫女が地底湖に入り、気絶した仲間を湖岸に揚げる。

 巫女衆の役目には、无巫女アンラみこに生き血を提供する事も含まれている。数十名の若い娘が、マリアに交代制で自分の血を捧げているのだ。絶対的捕食者が、自分を選んでくれたという陶酔感。自分の血液が、神の血肉に変わるという多幸感。无巫女アンラみこに仕える巫女衆の幸福は、異常な快楽と狂信で彩られていた。


「……何事かしら?」


 暫時の間を置いてから、マリアは口を開いた。


「申し訳ありません」


 突然、おゆらは松明を投げ捨て、冷たい地面に平伏した。


「全て私の浅慮が招いた事。どうか无巫女アンラみこ様の手で御手打ちに」

「おゆらにしては、珍しく下手を打ったぞえ」


 ヒトデ婆が、平身低頭する女中頭を揶揄した。

 朧と岩倉の侵入を許したのは、おゆらの判断である。

 叛逆者の狙いは、奏を蛇孕村の外に連れ出す事だ。

 相手は権謀術数を好む兵法へいほう数寄者オタク。蛇孕村から追放されたくらいで泣き寝入りする筈がない。叛逆者も報復の手段を考えているだろう。

 薙原家も万全の体勢を整えていた。蛇孕村と外界を結ぶ馬喰峠の山道に、蛇孕神社の巫女衆を待機させて、奏を狙う侵入者に備える。奏の護衛も増やした。本人に悟られないように、隠形術おんぎょうじゅつに秀でた手練を揃え、秘密裏に奏を守る。

 強固な警備態勢を整えて臨んだが、却って事態を膠着させてしまった。

 薙原家を警戒した叛逆者が動いてくれないのだ。

 奏の身柄を抑えているので、薙原家の有利に変わりはない。だが、いつまでも叛逆者の捕縛に手間取るわけにもいかない。逃亡者の行方も掴めていないのだ。双方の対応に時を掛け過ぎると、本家の面目が潰れてしまう。

 それゆえ、おゆらは一計を案じた。

 作州の牢人衆を利用し、叛逆者の手駒を招き寄せる。

 朧は夕餉の席で話していたように、六十余名の牢人衆が奏の命を狙い、武蔵国を目指している事は、数日前から歩き巫女の報告で知らされていた。牢人衆の中で先行していた岩倉に目をつけ、配下の人商人を接触させて、「奏は昼頃に蛇孕神社から出てくる」と情報を流した。加えて馬喰峠の警備網を素通りさせ、蛇孕神社の鳥居まで誘導。奏の護衛の数を減らし、鳥居の近くの茂みに伏兵を忍ばせ、岩倉と叛逆者の手駒を同時に捕縛する手筈だった。

 奏を蛇孕神社に向かわせたのも、おゆらの策略である。叛逆者は妖術で奏の動向を監視している筈だ。たとえおゆらの策略を読んでいたとしても、必ずや手駒を差し向けてくれるだろうと踏んでいたが……想定外の出来事が起こり、おゆらの策略は崩れ去った。

 岩倉を尾行していた女武芸者が、忽然と蛇孕岳の竹藪に跳び込み、山の中を疾走し始めたのだ。全く予期せぬ行動に、茂みに隠れていた鉄砲手も混乱した。

 しかも叛逆者の手駒は、木の根に足を取られる事もなく、狼の如き速さで樹木を躱し、猛然と蛇孕神社まで直進してくる。

 横槍を突くつもりか。

 おゆらと鉄砲手が気づいた時には、朧は村内を歩く岩倉を追い越し、伏兵の鉄砲手に接近していた。

 とても正気とは思えない。

 確かに山の中を駆け抜ければ、岩倉を追い越す事もできよう。然し初めて訪れた山で遭難する事もなく、最速最短で蛇孕神社に辿り着くなど、誰が予想できるだろうか。

 常人なら考えもしない発想である。

 ゆえにおゆらの策略は、根底から覆された。

 茂みの中では、障害物が多過ぎて鉄砲も使えない。朧は伏兵を容易く討ち取り、岩倉が来るまで茂みの中で待ち続けた。その後、岩倉は蛇孕神社の前で刃傷沙汰を起こすが、朧は茂みの中で静観。奏が追い詰められた刹那、何食わぬ顔で奏を助けたのだ。

 策略が破れた事は構わない。

 一つの策が敗れた処で、他の策を講じればよいだけだ。

 問題は、奏と岩倉が真剣勝負を始めた事である。

 朧が鉄砲手を排除した所為で、奏は岩倉と立ち合う事になり、鳥居の柱に背中を打ちつけ、全治三日という『重傷』を負った。マリアが開発した『カーボンナノチューブを編み込んだ狩衣』を着ていなければ、岩倉の膂力に負けて弾き飛ばされる事もなく、左腕と胴を断裁されていただろう。

 薙原家からすれば、許し難い結果である。

 渡辺朧という中二病は、奏の命さえ守れば良いと考えているのか。

 奏こそ全て――

 それすら理解できない者は、この世に存在してはならない。

 おゆらは強い憤りを覚えたが、己の失態が招いた事。たとえ无巫女アンラみこに極刑を命じられたとしても、唯々諾々と従うつもりであった。


「顔を上げなさい。お前を斬首するつもりはないわ」


 マリアが冷然とした声音で呟く。


「この場でお前を斬首した処で、私の手間が増えるだけよ。それに真剣で戦う奏の雄姿を確認できただけでも僥倖。これからも私の為に励みなさい」

「仰せのままに」


 おゆらが立ち上がると、ヒトデ婆が笑声を漏らす。


「ぞえぞえぞえ。命拾いしたのう、おゆら」

「……」

「薙原家に伝わる蛇孕村縁起。その村、疫病えやみに侵された者共を閉じ込めるさとなり。村の衆は病に苦しみ、命が尽きるまで苦しみ続けた。然れど一月の赤い満月の夜。洞窟から青い鱗と金色の眼を持つ蛇が現れて、村の衆に取引を持ち掛けた。生娘を生贄に捧げれば、皆の病を癒やしてやろう」

「……」

「命惜しさに乱心した村の衆、村長の許婚をかどわかし、洞窟の中に放り込んだ。蛇神は約束を守り、村に蔓延する病を取り除いたが、村長の許婚は二度と戻らず。許婚を奪われた村長は、村の衆に復讐を誓う。妹と共に洞窟へ向かい、蛇神に外法を祈願せり。蛇神よ。我に異能を与えたまえ。村の衆を根切りにしたとて、我が無念は晴れず。子々孫々に至るまで隷属させ、牛馬の如く従わせよう。村長は斯様にのたまうと、洞窟の中で妹の首を刎ねた」

「……」

「一年後、村長の妾が子を産んだ。産まれた娘は、金色の眼を持つ双子。村の衆は蛇神の祟りとおそおののき、洞窟の地底湖にほこら建立こんりゅうし、双子の一人を蛇神崇拝の祭主に据えた。もう一人は薙原家の始祖となり、蛇神より授けられた妖術で村を支配した。なれど禍福かふくあざなえる縄の如し。その引き替えに、薙原家は女子おなごしか産まれなくなり、人を食べなければ生きていけぬようになった」

「……」

「我も試行錯誤を繰り返してきたが、薙原家の呪いを解く事は叶わなかった。もはや我々の最後の希望は、奏様しか残されておらん。アンラの予言に記された師府シフの王。蛇の王国を築き上げ、薙原家に永遠の繁栄を齎す御方。大切に扱わねばならぬ」

「……」


 おゆらは何も答えず、柔和な笑みを浮かべていた。


「おゆら」

「はい」

「覇天流の朧という女。少々興味深い」

「歩き巫女より報告を受けております。太閤薨去たいこうこうきょ後の京で武名を高め、関ヶ原では五十余りの兵を斬り捨てたとか。然れど所詮は、一介の武芸者。无巫女アンラみこ様が気に留めるほどではありません」

「おゆらの申す通りぞえ。あの程度の遣い手なら、当家に掃いて捨てるほどおる。それより牢人衆を先に始末すべきであろう。もはや利用価値がないぞえ」

「奏様の御命を狙う者共が、海道と山道の二手に分かれて、関東に近づいております。如何致しましょう?」

「野良犬共の始末は、おゆらに任せるわ。それよりあの女……私が斬首し損ねた女。しかも蛇孕村に現れるなんて――数奇な運命を感じる」

「それは明石勢の残党が、途中で横槍を入れたからではありませんか。元より首級を挙げるほどの価値もない一兵卒。御懸念は無用かと」

「あの女の戦闘力に興味はないわ。関ヶ原合戦の時、自分で確認しているもの。私が関心を抱いたのは、天から与えられた役割よ」

「……」


 一瞬、おゆらは返答に窮した。


「私如きに天の意志を知る術はなく。无巫女アンラみこ様のみが現世うつしよの行く末を予見できるものと心得ております」

現世うつしよの行く末は予見できる。でも運命の邂逅を予見する事はできない。私は奏と出会うなんて予測できなかった」

「……」

「しかも相手は奏の過去を知る女。私が待ち望んでいた試練と成り得る」


 マリアは冷然と呟きながら、地底湖の奥を指差す。

 暗闇で見通す事はできないが、地底湖の中心に小島が浮かんでおり、小さな木造の祠が建てられていた。

 この朽ち果てた祠が、最も古い蛇神崇拝の祭殿。蛇神を祀る本殿だ。祠の前には、白木拵えの野太刀が鎮座している。

 刀銘とうめい夜刀やと

 刃部じんぶ五尺五寸。

 柄二尺二寸。

 身幅広く重ね厚く反り浅く。刃紋の浮かない切先諸刃きっさきもろは小烏造こがらすづくり。蛇神の鱗を玉鋼たまはがねと溶け合わせ、蛇神の血液で急激に冷やし、蛇神の骨で刀身を鍛えたという妖刀。

 八百年前から受け継がれてきた蛇孕村の御神体だ。

 今から四十年前の事。

 突如、蛇孕村に狒々神ひひがみなる怪物が出現した。

 暴虐と憤怒を司る禍津神マガツガミは、猿頭山の樹木を薙ぎ払い、家屋や田畑を踏み潰し、多くの人喰いを喰い殺した。人喰い共も必死に抵抗したが、狒々神の圧倒的な力の前に為す術もなく、薙原家の命運は尽きたかに思えた。

 然したまさか廻国の武芸者が蛇孕村に立ち寄り、太刀の一振りで狒々神の首を斬り落としたのだ。

 その時の衝撃たるや、筆舌に尽くしがたい。

 何百年も人を食料と蔑み、異能の力を頼りに生きてきた妖怪が、人が編み出した『武』の可能性に魅了された。

 さらに衝撃の事実――


 なんと武芸者の正体は、日本に南蛮諸国の文化を伝えた宣教師――フラスコ・ザビエルだった!


 実は伴天連とは、世を忍ぶ仮の姿。

 その真の姿は、人類滅亡を目論む悪魔崇拝者だった。

 南蛮諸国の知識や発明を餌に、世界各国の権力者に擦り寄り、『商品貨幣論』を刷り込み、緊縮財政や構造改革や規制緩和や民営化を行い、貧富の格差を拡大させ、貧困層の不満を煽り、国民同士で殺し合わせるのが狙いだった。

 然しザビエルの陰謀は、日本で成功しなかった。

 戦国大名が各地で合戦を繰り広げるも、ザビエルが望んだ破滅とは程遠い。何より日本人は他国の文化を吸収し、尚且つ独自に発展させる事で、新しい技術や芸術を発明していた。

 ザビエルは日本人を甘く見ていたのだ。

 高性能の鉄砲を大量に生産する事で、世界有数の軍事大国に成長。数寄者オタク文化の普及により、国民の識字率も劇的に上昇した。


 漫画マンガが読みたい。

 ていうか、エロ漫画マンガを読みたい。


 という性欲に衝き動かされた若者達が、積極的に寺院で高等教育を学び、様々な分野で才能を開花させた。

 尾張国の百姓(木下きのした藤吉郎とうきちろう)が日本書紀を読んで、「臭水くそうずは燃やす他にも、使い道があるんでにゃーか」と言い出し。同時期に諸国を遍歴するヤンデレ(明智光秀)も「石油化学を発展させれば……仮装コスプレ用の化学繊維が造れるかも」と囁き始め。噂話を真に受けた京の豪商――津田つだ経長つねながが「そんなら臭水を有効活用する研究に銭を使いましょ。新しい繊維ができれば、裕福な数寄者オタクが高値でうてくれる。大儲けや」と実行に移し。極秘に建造された製油所で、石油を精錬して石油化学製品を造り。化学繊維から鉱山袴ジーンズ平編体操着ジャージを製作。三好長慶の協力を得て、石油化学製品を大量に生産し始めた。

 経長に対抗心を燃やす津田つだ宗及そうきゅうは、「わては京に数寄者オタクを持て成す町を造るで」と大いに張り切り、洛外に『秋葉原あきはばら』という数寄者オタク専門の商業都市を建造した。戦乱で荒廃した京に数寄者オタクが舞い戻り、女子運動用黒布辟入裁着半袴ブルマ女子水泳用黒布辟入裁着名札付水着スクミズを餓鬼の如く買い漁る。さらに侍女メイド喫茶きっさで『御主人様』とか呼ばれて、割高な卵包飯オムライスを食い散らかし、堂々と書店で薄い本を買い込むのだ。

 南蛮諸国に劣等感を抱く要素が微塵もない。寧ろ自宅に引き篭もりながら、通販でエロい同人誌も買えない南蛮人に哀れみを覚えるくらいだ。

 商品貨幣論も全く受け入れられなかった。

 都市の権力者はおろか、地方の童に説明しても、


「日本が財政破綻する? 主権通貨国しゅけんつうかこくが財政破綻(債務不履行)するわけないじゃん……って板芝居アニメで言ってた」


 とか


「国の借金が一二〇〇兆円を超えた? 新規国債発行残高の事でしょ? 新規国債発行残高は、過去から現在に掛けて政府が発行した期間限定利付貨幣発行残高だよ。それ以上でも以下でもないよ……って板芝居アニメで言ってた」


 とか


「将来世代のツケ? どうやって実在しない未来人にツケを回すの? いつの間に地球人類は、タイムマシンを発明したの? 実在しない未来人にツケを回せるなら、シ○ア・アズ○ブルか地○連邦にツケを回せば? ていうか、国債の借り換えを知らないの? 余所の国(米英仏独伊)は、国債なんて借り換えてるよ。財務省のホームページにも、そう書いてあるよ……って板芝居アニメで言ってた」


 とか


「日本政府が国民の銀行預金を借りてる? 銀行預金は、市中銀行の負債だよ。日本政府と日本銀行と市中銀行は、日銀当座預金で遣り取りしてるんだよ。日本銀行も市中銀行も日銀当座預金で日本国債買ってるよ……って板芝居アニメで言ってた」


 とか


「税金の無駄遣い? 税金は政府の財源じゃないよ。日本政府の財源は、新規貨幣(日本国債)だよ……って板芝居アニメで言ってた」


 と相手にして貰えない。

 ザビエルは負けた。

 日本人の欲望に負けた。

 寧ろ日本が世界に誇る『HENTAI』に負けたのだ。

 初めて挫折を経験したザビエルは、その日から人生の負け犬となった。「俺……悪魔崇拝者に向いてないのかな」と自信を喪失していた時、道端みちばた人集ひとだかりを見掛けた。

 興味本位で近づいてみると、子供達が板芝居アニメを視聴していた。

 板芝居アニメとは、大掛かりなパラパラマンガである。

 画面を素速くめくると、絵が動いているように見える。人の脳が生み出す残像効果を利用し、視聴者に歌や劇を楽しんで貰う娯楽だ。

 河童かっぱ作画担当者アニメーターが『一秒間に三六〇枚』というヌルヌルの速さで紙を捲り、声聞師しょうもんじは画面に併せて台詞を吹き込む。歌手がオープニングテーマやエンディングテーマを歌い、演奏者が琵琶や笛で劇をはやし立てる。

 ザビエルは「俺はこれに負けたのか……」と呟き、子供の列に混ざりながら、体育座りで板芝居アニメを鑑賞した。

 悪党上がりの主人公が相権者たかえしもの(ボクサー)を目指し、悪戦苦闘しながらも成り上がる物語。生涯の宿敵との対決。一方的に殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ殴られ……小半刻(十ラウンド)も殴られ続け、主人公は立つだけで精一杯。それでも立会人(審判)は試合を止めず、介添役かいぞえやく(セコンド)も試合場リングに手拭い(タオル)を投げ込まない。何か主人公に恨みでもあるのだろうか。試合を諦めかけた主人公は、破れかぶれの縦拳を打ち込む。主人公の拳が、宿敵の顎を打ち抜き――まさかの大逆転勝利を飾る。最後に主人公と宿敵が拳を重ね合い、互いの健闘を称え合う。

 感動の超大作である。


「――これだ。これが俺の求めていたものだ」


 一念発起したザビエルは、武者修行の旅に出た。

 過酷な修行の果てに、僅か百日で武芸百般を会得し、日本の武術を統合した流儀――雅東流兵法を興した。

 邪悪な悪魔崇拝を捨て去り、立派な武芸者に更生したのだ。

 この当時、まだ言葉は生まれていないが、間違いなく中二病の走りである。

 尤もザビエルの事情など、薙原家にはどうでもよい。

 人喰い共の意見は一致した。

 この武芸者を蛇孕村の外に出してはならない。

 獲物を見つけた薙原家の行動は素速かった。

 毎晩のように宴を開いて、強引にザビエルを歓待。薙原家の中でも選りすぐりの美女を集めて、露骨に色仕掛けを行う。

 さらにザビエルが心を許しかけると、


「ミドル級王者って何?」

「どこで試合やるの? 奈良?」

「殴り合いなら、太刀を使う必要もないでしょう」

「抑もリングがありません」


 と悪魔でも躊躇うような現実を突きつけ、公明正大な意思を心慌意乱しんこういらんに追い込む。現実と妄想の落差に気づき、絶望するザビエルに酒を飲ませ、前後不覚に陥るまで酔わせた。

 次の日、ザビエルが目を覚まさすと――

 薙原本家の当主が、半裸で隣に寝ていた。


「……責任、取ってくださいね」


 この時点でアウトである。

 ザビエルは先々代の入り婿となり、薙原家に武芸百般を伝授した。元悪魔崇拝者という事もあり、仕物家業や人肉嗜食アントロポファジーに嫌悪感を抱く事もなく、公明正大な武芸者が「巫女さんぺろぺろ~」と宣うほど、末期的なペロリストと成り果てていたが、雅東流兵法さえ修得できれば、薙原家に不都合はない。

 特に狒々神を斃した剣術は、薙原本家の御留おとめ流と定められた。ザビエルの死後、先代の无巫女アンラみこ――薙原伽耶が雅東流二代目宗家を継承し、現在はマリアが雅東流三代目宗家の名跡を継いでいる。


「渡辺朧は取るに足らない存在よ。でも天が定めた試練という可能性も捨てきれない。もう一度、この眼で確かめてみたいわ」

「どうか御身おんみを焦がす武魂ぶこんをお鎮めください。俗物と張り合うなど、无巫女アンラみこ様の御名みなを汚すばかり。愚かな叛逆者をいぶり出し、その手駒を抑える手筈は整えております。どうか今暫くの猶予をお与えください」


 おゆらは頭を下げて、名誉挽回の機会を望む。


「おゆらの言葉にも道理はある。関ヶ原の時とは、状況が異なるでな。些事はおゆらに任せるがよかろう」

「……」


 マリアは何も語らず、古びた祠に美貌を向ける。


「確かに……蛇孕神社で運命は分岐した」


 地底湖の水で身を清めながら、冷然とした声音で告げる。


「予測できないからこそ試練。現状を見守る事も必要ね」


 マリアは独白を終えると、おゆらに向き直る。


「お前の好きにしなさい」

「必ずや无巫女アンラみこ様の御期待に応えます」

「話はそれだけ?」


 おゆらは本殿に伺候した理由を告げる。


「黒田家の武芸者が、蛇孕村に侵入しました」




 鍾乳管……石灰岩洞窟で水滴が落下した後、方解石結晶の輪を残しながら下方(重力方向)に次々と成長して、中空の管となったもの


 石筍……洞窟の天井の水滴から析出せきしゅつした物質が床面に蓄積し、筍状に伸びた洞窟生成物


 稼ぐ力……本当に意味不明。人間力のようなものか。


 矢鋏……矢を引き抜く道具


 人商人……人身売買の仲介人


 四尺……約1.2m


 金疵薬……傷薬


 隠形術……自分の気配を隠す技術


 カーボンナノチューブ……炭素によって作られる六員環ネットワーク(グラフェンシート)が単層、或いは多層の同軸管状になった物質。炭素の同素体で、フラーレンの一種に分類される事もある。ダイヤモンドより硬い。


 根切り……皆殺し


 海道……後の東海道


 山道……後の中山道


 五尺五寸……約1.65m


 二尺二寸……約66㎝


 刃部……刀身


 伴天連……南蛮人の宣教師


 悪魔崇拝者……「特に深い理由はないが、人類を貧困に追い込んで全滅させなければならない」という教義に従い、世界に八大罪(緊縮財政・格差拡大・自由貿易・市場原理・全体主義・報道管制・選民思想・罪務省ざいむしょう)を浸透させ、人類滅亡を目指す奴原やつばら。或いは私利私欲の為、人類滅亡に加担する奴原。


 商品貨幣論……「クニノシャッキン~」の元ネタ


 臭水……原油


 津田経長……京都の酒屋。三好長慶の家臣。


 主権通貨国……政府が自国通貨を発行でき、自国通貨建て国債しか発行しておらず、変動為替相場制を採用し、供給能力(物を造る力やサービスを提供する力)が高い国。具体例は、アメリカや日本。


 新規国債発行残高……過去から現在に掛けて政府が発行した期間限定利付貨幣発行残高。それ以上でも以下でもない。大手マスメディアが「過去最大一二〇〇兆円の借金~」と騒ごうが、「国民一人当たり一〇〇〇万円の借金~」と騒ごうが、現実は変わらない。


 国債の借り換え……国債の償還費を国債(借換債)で賄う事。国債の償還に国債を充て、国債の償還に国債を充て、国債の償還に国債を充て……を延々と繰り返す。


 日銀当座預金……日本銀行に口座を持たないと使えないお金。日本政府と日本銀行と市中銀行と一部の保険会社しか使えない。


 供給能力……物を造る力やサービスを提供する力


 河童……回転寿司屋の地下で寿司を握る妖怪


 声聞師……中世期に存在した日本の芸能者。陰陽師の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽などの呪術的芸能、予祝芸能を行った。昔の声優。


 相権……平安期から続く日本のボクシング


 御留流……門外不出の流儀




 ※参考資料

『諸外国の債務管理政策等について 平成27年4月17日』

 http://mtdata.jp/d20150417-4-2.pdf.pdf

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