第10話 獺

 朧はひさごに口をつけると、ハア――ッと息を吐いた。

 宴を終えた後も、薙原家が用意した部屋で晩酌を楽しむ。瓢の中身は、夕餉の席でおゆらに勧められた清酒。一介の牢人では、滅多に味わえない代物だ。

 夕餉の献立も素晴らしかった。

 宴の席とはいえ、山奥の集落で海の幸が出てくる。しかも雉の焼き鳥は、調味料に砂糖を使用していた。坂東に砂糖の生産地など存在しないから、琉球か暹羅より取り寄せたのだろう。贅沢にもほどがある。

 非常識な御馳走に驚きながらも、朧は夕餉を残らず平らげた。三献では飽き足らず、米飯を五回もお代わりしたほどだ。それでも腹八分目である。今は残りの二分に清酒を注ぎ込んでいる。

 朧は部屋の板戸を開け放ち、濡れ縁で胡座を掻いた。

 視界に広がるのは、本家屋敷の立派な庭園だ。

 梅や松などの庭木や生垣いけがき、大きな溜池や庭石を巧みに配置し、見事な枯山水を形成していた。石灯籠の灯りが幻想的で、庭から流れ込む夜風も心地良い。

 煌々と輝く三日月が、今宵の酒の肴だ。


「坂東の山奥で京師の上酒うわざけが飲めるとはのう。是で土豪とは聞いて呆れる。薙原家とは、噂以上にふざけた連中じゃの」

「――否定はしないが。酒は控えた方がいいぞ」


 低い女の声が、朧の独白に応じる。

 近くの生垣の陰から、ガサリと小さな獣が跳び出した。

 かわうそだ。

 ニホンカワウソが、朧に近づいてくる。


「よくぞ此処まで辿り着いたのう。褒めてつかわす」

「お前はラスボスか」

「薙原家伝来の妖術とやらを褒めておるのじゃ」

「皮肉にしか聞こえないぞ」

「カカカカッ」


 人の言葉を話す獺に、朧が戯言をのたまう。


「それより本当に酒は控えた方がいいぞ。眠り薬が仕込まれている」

「存じておるよ。儂は生来、毒や薬が効きにくい体質での。この程度なら差し支えない。今宵は心地良く眠れそうじゃ」


 獺の忠告を聞かずに、がぶがぶと酒をあおる。

 おゆらは奏や常盤に気づかれないように、客人用の銚子に眠り薬を仕込んで、朧に勧めていたのだ。


「然れどあの女中……初めて会うた者に、愉快な持て成しをしてくれるのう。寝首を掻くつもりか」

「そこまで都合良く考えていまい」


 獺は冷静に応じた。


「眠り薬が効けば、一晩お前を行動不能にできる。仮に効果がなくても、いつでもお前を殺せる――という警告になる。それすら気づかなければ、役立たずの無能。警戒する必要もないというわけだ」


 朧はふんと鼻を鳴らす。


「小賢しい真似を……儂を試したつもりか」

「若くして本家女中衆の頂点に上り詰めた女だ。マリアからの信頼も篤く、曲者揃いの女中衆を束ねている。用心深くて当然。お前の下手な芝居も見透かされていたぞ」

「別に構わぬ。屋敷に潜り込めば、それで良いのじゃ。獺殿のお陰で、薙原家や岩倉を出し抜く事もあたうたからのう」


 獺から奏の居場所を教えられた朧は、蛇孕村に向かう岩倉を尾行。薙原家の思惑を見越したうえで、馬喰峠の山道で『予想外の奇策』を用い、相手の意表を衝いた。何も知らない岩倉を利用したわけだが、朧は敵対する者に容赦しない。寧ろ斬り剥ぎで路銀を稼ぐ外道には、相応しい末路であろう。

 加えて予定を狂わされた薙原家は、朧を懐で泳がせておくしかない。

 今の処は、朧の思惑通りに進んでいる。

 然し彼女の目的は、薙原家に仕官する事ではない。


「それで十年ぶりの再会はどうだった?」

「昔と何も変わらぬ。相変わらずどこか抜けておるが、勘所で的確な判断を下しおる。儂が嘘を吐くと見抜いたのであろう。儂と岩倉の関係を問い詰めなんだ」

「買い被りではないか?」

「傅役が御曹司の器量を疑うでない。記憶を書き換えられても、本性までは変えられぬ。尤も純朴な気質ゆえ、今頃一人で思い悩んでおるのではないか? 己の力で作州の牢人衆と対峙しなければならぬ――とかの」

「……そのようだな。おゆらに言い含められていたよ」

「クククッ、純朴な若者には、詭弁がよう効きそうじゃ。然れど懸念は無用。見立てや筋道をたがえようと、御曹司は必ず正解に辿り着く。それが御曹司の才覚よ」


 ぐいと豊かな胸を反らし、朧は自慢げに言い張る。


「つまり見極めはついたと?」

「『本当の父親』や『御守刀おまもりがたな』の事、ついでに儂に関する記憶も消されておるな。獺殿の情報通り、一部の者にしか知らされておらぬようじゃ。よくぞ十年も狭い村で隠しおおせたものよ」

「当主が代替わりしても、その辺りは抜かりないさ。秘密が露見した処で、おゆらの妖術を使えば解決する」

「他人の記憶を書き換え、精神を自在に操る能力か……中二病の儂には、魔法と妖術が区別能わぬ」

兵法へいほう数寄者オタクの私には、妖術と魔法の区別がつかないがな」


 それより――と獺が話題を変える。


「己の存在を主君に忘れられて、悲嘆に暮れているのかと思えば……随分と楽しそうではないか」

「儂を慰めに来てくれたのか? 気持ちはありがたいがの。無為に悲しんだとて、御曹司の記憶が戻るわけでもあるまい。ならば、二度目の邂逅を楽しもうではないか」

「前向きで結構と言いたい処だが……先程は肝を冷やされたぞ。何度もおゆらを挑発しおって。お前の頭に『慎重』という言葉はないのか」


 ほろ酔い気分の朧に、獺が苦言を呈する。


「其処はホレ、瀬戸際を楽しみたいではないか。逆境こそ中二病の最高の娯楽。序でに儂の言動をどこまで許すつもりなのか……ちと試してみたかった」

「馬喰峠のアレも娯楽か?」

「薙原家も度肝を抜かれたであろう」

「突然、竹藪に跳び込んだ時は、乱心でしたのかと驚いたが……やはり数寄者オタクと中二病は別物だな。全く理解できん」


 獺は溜息をついた。

 蛇孕村に侵入する時だけではない。

 奏や常盤は知らされていないが、重苦しい夕餉の最中、武装した女中衆が庵を取り囲んでいたのだ。朧が迂闊な発言をすれば、即座に始末する手筈を整えていた。

 命懸けの逆境を楽しみながら、朧は朗々と語り続けていたのである。

 誇張でもなんでもなく、薙原家の規模は戦国大名に匹敵する。

 家蔵は言うに及ばず、軍事力も同様である。本家の女中衆は手練ばかり。その強さは、井伊いい赤備あかぞなえもかくやというほどだ。百名を超える強者つわものに、蛇孕神社の巫女衆。さらに薙原家が誇る妖術使い。

 まるで大名家に喧嘩を売るようでものではないか。

 眠り薬でも飲まなければ、興奮して眠れそうにない。

 大の字になって寝そべると、獺は背を向けた。


「もう帰るのか?」

「監視者の眼を欺くのも面倒だからな。現状の確認が済んだら帰るさ」

「つまらんのう。寝る前に兵法講義の一つでも聞きたい処じゃが……」

「私もそれほど暇ではない。それと寝るなら褥で寝ろ。廊下で寝るな」


 獺に礼儀を諭された。

 朧は夜空を見上げて、唇の端を吊り上げる。


「ほう……であれば、こういうのはどうじゃ? 永禄四年の川中島合戦。上杉と武田の最大の決戦じゃ。巷説、謙信は信玄を討ち取る為、『車懸くるまがかりの陣』を用いたという。旗本衆を中心に据え置き、後詰・弓鉄砲衆・先手衆と三重の円で本陣を囲む。一列目の兵が敵と交戦し、二列目の兵が次の敵と交戦し……を延々と繰り返すとか。さても偖も斯様に奇天烈な陣形が、うつつの合戦で能うものか? 無論、謙信が魔法を使うた――と申せば、それまでの事じゃ。然れど専門家の意見も聞いてみたいのう。どこぞに兵法へいほう数寄者オタクでもおらんか」


 獺の動きが、ぴたりと止まった。

 兵法へいほう数寄者オタクには、聞き捨てならない発言である。


「先ずお前の誤解を解いておく。『車懸りの陣』という陣形は、この世に存在しない。あくまでも戦術。『車懸り』という戦い方だ。第四次川中島合戦の際、上杉勢の陣形は、本陣を最後尾に置いた長蛇ちょうだの陣。蛇の如く細長い陣形で斬り込み、武田勢の右翼を切り崩した。次々と新手の部隊を馬手より繰り出し、武田勢の右翼に敵と味方を密集させ、謙信率いる旗本衆が、武田勢の本陣に襲い掛かる。本隊の迂回戦術こそ『車懸り』の本質であり――」


 途中で担がれた事に気づき、獺は咳払いをする。


「この話は、次の機会にしよう。薙原家はお前を泳がせて、私を釣り上げるつもりだ。その為なら手段を選ばん。決して奏の側から離れるなよ」

「無論。儂の役目は御曹司を守る事じゃ。人喰い共の呪縛から解き放ち、蛇孕村から連れ出す。御曹司は儂のモノじゃ」




 瓢……瓢箪


 枯山水……水を用いずに、岩や砂などで山水を表現した日本庭園の様式の一つ


 上酒……高級酒


 家蔵……資産


 井伊……井伊いい直政なおまさ


 永禄四年……西暦一五五一年


 旗本……戦場で主君の軍旗を守る武士団。主君の近衛兵。


 後詰……救援部隊。予備兵力。

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