第9話 疑念
夕餉から一刻ほど過ぎた。
奏は身体の火照りを覚えながらも、畳まれた褥の上に背中を預ける。息を吐くと、酷く酒臭い。酒の量を抑えたつもりが、緊張を紛らわせる為に限界まで飲んでいた。
とても三献まで付き合いきれない。
朧に退席の非礼を詫びた後、奏は寝所に戻った。先程まで視界が揺らいでいたが、時間の経過と共に酔いも醒めてきている。
ぼんやりと燭台の灯りを眺めながら、夕餉の席で聞いた話を思い出す。
朧の語る奏の父は、血も涙もない悪党だ。欲望に忠実で思慮も浅く、家中も掌握できていない。宇喜多家に仕官する前は、野伏の頭でもしていたのではないか。頭の悪い中二病の見本のような男だ。
だから奏は不思議に思う。
何故、母が悪党と結ばれたのか?
純朴な奏には、男女の機微など想像もつかない。然し物心ついた頃から、伽耶は蛇孕神社で
先代の本家当主と先代の
然して姉と不仲というだけで、蛇孕村を飛び出すだろうか?
他にも理由があるのではないか?
亡き母について尋ねても、分家衆は同じ話をするばかり。傅役の符条ですら、奏を煙に巻こうとする。事前に口裏を合わせて、奏に伝える情報を制限しているのだ。
先代当主の勘気を恐れていたのか。
それとも先代の
これまで奏は、薙原家の裏側に関わろうとしてこなかった。だが、この期に及んで、自分の過去から目を背ける事もできない。
その他にも放置しておけない事がある。
昼前の襲撃事件だ。
何故、奏が蛇孕村の石段を降りてくると、岩倉は確信していたのか?
普通に考えれば、住民から情報を得ようとするか、一番目立つ本家屋敷に向かおうとする筈だ。然し巫女衆が調べた処によると、迷わず蛇孕神社へ赴いたという。
つまり岩倉は、蛇孕村に来る前から地勢を把握し、尚且つ奏が昼頃に蛇孕神社から出てくる事を承知していたのだ。
蛇孕村は山奥の隠れ里である。
薙原家に内通者でもいない限り、情報が外に出るなど考えにくい。
最初に思い浮かんだのは、本家屋敷に間者が潜り込んできた可能性である。然し余所者ばかりとはいえ、マリアとおゆらが外界から集めた
本家が雇い入れた下人も除外する。彼らは村外れの長屋で暮らしており、本家屋敷に立ち入る事すら許されない。人手が足りない時に駆り出されて、本家屋敷の外で雑事をこなす。当然、薙原家の内情について何も知らない。
薙原家の分家衆は、今の本家と争う度胸はあるまい。欲深い者達だが、現当主の許婚を危険に晒したとなれば、首謀者の首が飛ぶ。一族郎党も連座で処断されるだろう。己の権益に固執する者達に、御家を潰す覚悟はない。
それでは、他に内通者と思しき者がいるだろうか?
全く思い浮かばない。
憶測ばかりが先走り、何の手掛かりも得られていない。
思い返せば、朧から聞いた話に度肝を抜かれて、事細かに追求する余裕がなかった。改めて問い詰めても、適当にはぐらかされそうな気がする。
朧を危険人物と考えるべきか?
これも分からない。
分からない事だらけだ。
現時点で断言できる事は、奏の所為で四名も死者が出たという事か。薙原家も本家当主の許婚を守る為に、相応の人手を割かなければならない。
僕……凄い厄介者だな。
ここまで無力感を覚えたのは、生まれて初めてかもしれない。だが、常盤やおゆらに迷惑を掛けない為にも、自分の力で美作の牢人衆と対峙しなければならない。
今度こそ僕の力でなんとかするんだ。
悲壮な決意と裏腹に、強烈な眠気が襲い掛かる。
「ふあ……」
大きな
「あ……
今更ながら懐の重さに気づき、
「はう……今日は厄日だよ」
奏が疲れた表情で溜息をつくと、
「奏様――」
板戸の向こうから声を掛けられた。
「おゆらさん? どうしたの?」
「新しい枕をお持ちしました」
「ああ……」
これも完全に忘れていた。
今朝、常盤の短筒で箱枕を撃ち抜かれたのだ。いつの間にか、新しい褥が用意されていたが、箱枕だけ見当たらない。
今まで奏に合いそうな箱枕を探してくれていたのか。箱枕は、高さが一寸違うだけで違和感を覚える。
世話役の心配りに、奏は感謝の念を抱いた。
「入っていいよ」
奏が入室を許可すると、
「お待たせしました」
箱枕を抱えたおゆらが、板戸を引いて入室する。
「お加減は如何ですか?」
「大分良くなったよ。もう吐き気もしないし。それより褥を取り換えてくれたんだね。ありがとう」
「勿体なき御言葉。これも世話役の務めです」
「おゆらさんには感謝してるけど……枕は二つもいらない」
「あら」
慌てておゆらは、自分用の箱枕を背後に隠す。
「もう少しお酒を勧めていれば、酔い潰れた奏様を襲う事もできたのですが」
「それでお酒を止めなかったのか」
奏は呆れながら、おゆらから箱枕を受け取った。畳まれた褥を敷き直し、就寝の準備を始める。
「それは私の役目です」
「褥くらい自分で敷くよ」
「なりません。私の仕事を取らないでください。それに奏様には、褥を敷く私の後ろ姿に興奮して、欲望のままに押し倒すという大事な御役目が――」
「そんな役目ないから」
「奏様の意気地なし!」
「また逆ギレ!?」
「よくお考えください。目の前で股を濡らす女中は、年若い主君に犯されたくて堪らないのです。加えて『側室にしろ』などと、奏様を困らせるような事も申しません。奏様は遠慮なく種付けしてくださればよいのです。さあ、私の畑に種を植えつけ――」
「落ち着け痴女。発言が卑猥な方向に飛んでいる」
「みょうしわけありみゃせん。れがすらおなものれ……」
顔面が変形するほど、両手で頬を伸ばされた変態女中。
翻訳すると、「申し訳ありません。根が素直なもので……」となる。変態が開き直ると始末に負えないので、取り扱いに注意しなければならない。
「処で朧さんは?」
「先程、御部屋に案内したばかりです。灯りをつけていないので、御就寝されたと思いますが……」
おゆらは赤く腫れた顔を押さえて、なぜか嬉しそうに答えた。
「朧様に何か用でも?」
「いや、特に用はないけど」
「――はッ!? もしや朧様に夜伽を命じるおつもりですか!? 一宿一飯の恩を身体で返せと!? 何故、私に命じてくださらないのですか!? 手軽に欲望を吐き出したいなら、私の身体をお使いにイイイイ――」
ぐりぐりと両拳で側頭部を締めつけられ、変態女中が悶え苦しむ。
「それ以上、喋っちゃダメだ。頭蓋骨が軋んでしまうよ」
「軋むどころか、砕けてしまいそうです!」
奏は拳を離すと、軽く咳払いをする。
「真面目な話がしたいんだけど……夕餉の席の話、おゆらさんはどう思う?」
「そうですね……」
おゆらは
「大筋は、朧様の御話通りかと。ただ都合の悪い事は、虚言を交えて誤魔化していたように思います」
「それほど悪い人には見えなかったけど……」
率直な私見を述べると、おゆらはころころと笑う。
「事の善悪は、外見や気性で決まるわけではありません。その時の情勢を考慮して、周りが勝手に決めるものです」
「どういう事?」
「所詮、善悪など主観に過ぎません。いくら当人が善行と信じた処で、万民が悪行と断じてしまえば、善行も悪行にしか成り得ないのです」
「……朧さんにも事情があるという事?」
「事情は人それぞれ。まあ、ただの売り込みではないかと」
「仕官か……」
奏が難しい顔で考え込む。
女性でも武士や大名になれる。
今川義元や明智光秀は、女性大名の代表格だろう。
室町幕府の第八代将軍――
業を煮やした義政は、前代未聞の強攻策を打ち出す。
無論、周囲から猛反発を受けて、熈幸の家督相続は数年後に撤回した。義政の権威は見る影もなくし、富子に実権を奪われると、将軍家の家督争いが
然し皮肉と言うべきか。
一度でも幕府が女性の家督相続を認めたお陰で、弱肉強食の戦国時代――武家の惣領に実力が求められるようになり、諸大名も独自に
尤も女の身で武功を立てる事は、至難の業と言わざるを得ない。戦場で
朧のような女武芸者は、乱世でもごく僅か。
極端な女系一族の薙原家は、殊更に異質な存在と言える。その薙原家でも手練の女中を召し抱えているが、士分に相当する者はいない。
先例がないうえに、薙原家の評判を考えると、更なる疑問が思い浮かぶ。
「あんなに強い武芸者が、薙原家に仕えたいと思うかな?」
「それこそ人それぞれ。奏様が危機に瀕した際、颯爽と武芸者が現れて窮地を救う。なんとも出来過ぎた話ではありませんか。大方、没落した渡辺家を見限り、薙原家に取り入るつもりなのでしょう。昔の同輩に奏様を襲わせ、何食わぬ顔で助太刀に入る。奏様に恩を売る事で、当家に仕官する心積もりではないかと……利用された牢人も哀れですが、奏様の御命を狙う不届き者ゆえ――」
朧が手を下さなくても、薙原家が始末していた。
おゆらの言い分は、理に適う話だと思う。
だが、仕官が目当てにしては、遣り方が
「それと不審な点がもう一つ。奏様の所在を広めた者です」
「風の噂にしては、情報が正確過ぎる。時期の一致も偶然とは思えない」
「何者かが、故意に奏様の情報を流したのでしょう。勿論、朧様が情報源という可能性もあります」
「仕官は望めるかもしれないけど……流石に乱暴過ぎないかな」
褥を敷き終えた奏が、端麗な顔を顰めた。
「私には、乱暴な手段を好む中二病に見えましたが……それより心配なのは、奏様の心構えです」
「心構え?」
「奏様は御優し過ぎるのです。他人を疑う事も覚えないと、強欲な者達に利用されてしまいます。誠実さだけで生きられるほど、外界は穏やかではありません」
「そうかなあ……」
歯切れの悪い返事に、おゆらが嘆息した。
「そうです。言葉遣い・
無慈悲な拳骨が、おゆらの頭頂部に叩き落とされた。
「また話が卑猥な方向に飛んでる……ていうか、マリア姉にも余計な事を吹き込んでたよね。すっかり忘れてたよ」
霊長類ヒト科の卑猥物に、奏は冷たい視線を送る。
おゆらは頭の上に両手を載せて
「最近、ツッコミの切れ味が良すぎて……私の身が保たないかもしれません」
それでも変態女中は、むくりと立ち上がった。
「少しばかり話が逸れましたが。奏様の心構えが気懸かりというのも本当です」
「……?」
「奏様の御気性から察するに、一人で牢人衆と対峙しなければならない……というふうに思い詰めておられるのではないかと……」
「……」
奏は眉根を寄せて絶句した。
おゆらに図星を突かれたというか、完全に思考を読まれている。
「何で分かったの?」
「十年も奏様の世話役を務めておりますので。奏様の考えそうな事は分かります」
奏も忘れそうになるが、おゆらは薙原家を統括する才媛。女中頭の洞察力に掛かれば、若い主君の苦悩を見通すなど造作もない事だ。
「なれど、それは心得違い。奏様に負い目などありません」
「でも……」
「
戯れのように言うが、奏は返す言葉もない。
「家来を気遣う配慮も貴種の徳。なれど奏様と我々では、身分が異なります。奏様は本家の御血筋。我々は本家に仕える従僕。下々の者に迷惑を掛けたくないと思うのであれば、泰然と構えていてください。家来の善導も主君の務めです」
世話役の気遣いに胸を打たれて、奏も頬を緩めた。
「おゆらさんには敵わないな」
「滅相もない事です。いつも七転八倒しております」
謙遜の筈が、否定し難い事実であった。
「蛇孕神社にも報せたんだよね。マリア姉はなんて?」
「朧様の護衛を手配するように――と仰せつかりました」
「そこまでしなくていいのに……」
この場合の護衛とは、朧の監視役を意味する。
薙原家の当主は、朧を要注意人物と判断したのだ。朧が不審な行動を取れば、即座に拘束するつもりだろう。
「奏様の御命が狙われたばかりなのです。命の恩人といえど、油断はできません。裏が取れるまで、慎重に事を運ぶべきです」
諸国に派遣した歩き巫女を使い、朧や牢人衆の情報を収集する。確信を得られるまで、結論は先送りという事か。
奏も異存はない。
今の時点で強攻策に出ても、朧の反感を買うだけだ。
表面上、朧と友好関係を保ちつつ、少しずつ敵方の情報を引き出す。余程の事でもない限り、おゆらも強引な手段は避けるだろう。
「
様々な騒動が立て続けに起こり、許婚に対する配慮が疎かになってしまった。
やっぱり僕は誠実じゃないな……
奏は心の中で自嘲する。
「明日にでも蛇孕神社に伺候して、御自身の口から事の顛末を説明すべきかと……どうも奏様は、女心に疎い様子。許婚の不安を解消するのも、殿方の甲斐性です」
「はう……」
正論で諭しているのだろうが、おゆらにだけは言われたくない。
然りとて反論すると、女中頭の思う壺だ。彼女の思惑通りに会話を誘導されてしまう。会話の緩急が凄まじいというか、真剣な話題に卑猥な戯れを挟みつつ、相手の油断に付け込むのだ。
才能の無駄遣いと思うのは、奏の気の所為だろうか?
「ともあれ、我々は最悪の事態を想定して動きます。朧様が薙原家に仇為す者という可能性も捨てきれません」
「それは――」
「有り得ないと断言できる事が、世の中にどれほどありましょう。況てや天下広しと言えど、当家ほど敵の多い一族はおりません」
「――」
確かに薙原家の裏家業を考えると、奏も口を
薙原家は先祖代々、仕物を専門に請け負う透波の一族。本家当主の代替わりを契機に、暗殺の依頼を断り続けているが、今でも薙原家を恨む者は多い。
それに薙原家は、関ヶ原合戦に参加している。朧が参戦したかどうか分からないが、敵方に組みしていたとすれば、戦絡みの遺恨も考えられる。
「奏様は数少ない本家の御血筋。御身に不慮の事態が起これば、当家が苦難に陥るのです。くれぐれも用心を怠らぬように心懸けてください」
「うん……そうだね。気をつけるよ」
「大変良い御返事です。それでは、難しい話はこれくらいにして、気分転換にパコパコしましょう。私の身体で性欲を満たせば、安らかに眠れるものと――」
「一人で寝ろ」
「――ぱにゅる!」
おゆらの助言通り、奏は用心を怠らなかった。
着物の帯を解き始めた女中を一本背負いで投げ飛ばす。
気絶した変態女中を廊下まで引き摺る。
ぽいと室外に投げ捨てると、
これで睡眠中に、変質者が寝所に侵入してくる事はあるまい。
……おゆらさんの方が、朧さんより危険な気がするよ。
奏の真の敵は、意外に身内かもしれない。
とほほ……と溜息を漏らすも、世話役の気遣いに感謝する。
おゆらの言う通りだ。
一人で事態を収拾しようというのは、流石に思い詰め過ぎていた。奏の空回りで薙原家に迷惑を掛けていたら、それこそ本末転倒である。それに真偽も定かではない情報で、奏が思い悩んでも詮無い事。明日に備えて休息を取る方が、遙かに有意義だろう。
世の中は起きて稼いで寝てくって、後は死ぬのを待つばかりなり。
先人は名言を残されたものだ。
安心すると、再び欠伸が出てきた。
「明日、マリア姉に相談しよう」
奏は寝巻に着替えると、燭台の灯りを消した。
一刻……二時間
一寸……約3㎝
享徳二年……西暦一四五二年
乱取……合戦の際、兵士が人や物を略奪する行為
衣紋……身形
立居行跡……日常の所作
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