第8話 夕餉

 時刻はとりの刻である。

 居間の囲炉裏を挟んで、奏と朧が向かい合う。上座の奏が、困惑気味に端座。下座の朧は、鷹揚な態度で盃を傾けていた。

 非礼ではあるが、命の恩人を叱責できない。加えて接待する亭主は、客人に度量を示す必要がある。

 尤も弓手に座る常盤は、朧に鋭い視線を浴びせていた。

 言葉にこそしないが、警戒心を隠そうともしない。元々人見知りが激しいうえに、二年前の出来事で他人に猜疑心を抱くようになった。

 屍の処理や現場検証に手間取り、常盤と鹿狩りに向かう時間がなかった。当事者の朧からも詳しい事情を聞かなくてはならない。事情聴取と助太刀の御礼を兼ねて、朧を本家屋敷で接待する事になった。

 饗応の仕立ては、おゆらが用意した三献さんこんである。

 献とは、酒と肴と料理を膳に置いて勧める事だ。つまり三献とは、酒・肴・料理を三回重ねる事を言う。尤も裕福な武家の場合、一献が二膳となる。大名家ではないが、薙原家も一膳に料理を載せきれないので、夕餉の献立は二膳で一献とする。

 本膳には、山盛りの白米。かぶとセリと味噌汁。香の物は、大根の味噌漬け。料理は焼き蛸とあわびの塩焼きと里芋の煮付け。脇膳には、焼き鳥と清酒すみざけで満たした盃。脇膳の横に、朱塗りの銚子が置いてある。

 漆塗りの足打折敷に、海と山の幸が並ぶ。

 だが、常盤は料理に手をつけようとしない。

 朝餉とは、別の意味で雰囲気が最悪だ。

 今日一日で巫女が一名、担ぎ手が二名も殺害されている。加害者の牢人も含めれば、四名も死人を出した。

 山里の隠れ里では、滅多に起こらない刃傷沙汰。

 おゆらから聞いた話によると、担ぎ手は薙原本家の下人げにんで、住民と接点はなかった。然りとて蛇孕神社で起きた惨劇。巫女衆が行う現場検証を眺めていた野次馬もいる。薙原家としても、住民に事の顛末を報せなければならない。


『外界から迷い込んできた牢人が、蛇孕神社の前で太刀を抜いた。村人に死傷者はなく、すでに狼藉者も成敗している。心配無用』


 何も知らない住民に説明するなら、こんな処であろうか。蛇孕神社や薙原家が出した被害など、いたずらに不安を煽る情報は出せない。明日の朝一番に岩倉の首を広場で晒し、事態の幕引きを宣言する手筈だ。

 蛇孕村で罪を犯せば、直ちに罰せられる。

 この原則を守り通さなければ、集落の秩序を維持できなくなる。罪人に罰を加える者がいなければ、誰もが誰にも従わなくなり、永遠に獣の如く争い続けるだろう。豊臣秀吉が全国統一するまで、飽くなき闘争が日常で在り続けた。

 蛇孕村は外界の争いと無縁でいられたが、それも薙原家の政治手腕があればこそ。蛇神崇拝のお陰で、薙原家は支配に必要な血統の正当性を確保。さらに住民のろく(財産)と寿じゅ(生命)を保障し、統治に不可欠な道理の正当性を得ている。

 重苦しい沈黙の中、


「是は美味い酒じゃのう。くだものか?」


 朧は盃の酒を一気に飲み干し、ぷはーっと酒臭い息を吐いた。

 下り物とは、上方から地方に送られてきた高級品を指す。

 この当時、酒も奢侈品だ。普段、庶民が飲む酒は、濁酒どぶろくを水で九割も薄めた物である。畿内や九州で酒造された清酒を飲めるのは、一部の富裕層に限られていた。


如何いかが致した? 飲まぬのか?」

「あ……はい、そうですね」


 慌てて奏が盃を手に取る。

 歓待する側が、全く酒を飲まないというのも無礼だろう。昼に嘔吐したばかりだが、気にしていられない。

 重たい空気を飲み干すように、ぐいと酒盃をあおる。


「おお、イケる口ではないか」

「それほどでも……」


 奏は言葉を濁した。

 有り体に言えば、酒は強くない。下戸と言うほどでもないが、少量の飲酒で気分が悪くなる。飲み方を間違えると、客人の前で不作法を働くかもしれない。


「どうぞ」


 おゆらが主人用の銚子で、奏の盃に酒を注ぐ。


「ありがとう」


 奏は礼を言うと、二杯目は軽く口に含んだ。


「あの……」

「ん?」

「先ず御礼を言わせてください。朧さんが助太刀してくれなければ、僕は命を落としていました。この御礼は忘れません」

「堅苦しい礼など無用じゃ」

「はあ……」


 強引に会話を打ち切られた。

 先ず助太刀の礼を述べてから、朧より仔細を尋ねるつもりが、いきなり出鼻を挫かれてしまう。

 なぜ、奏を助けたのか?

 どうして奏を御曹司と呼ぶのか?

 主命に従うと言うが、朧の主君は誰なのか?

 他にも尋ねたい事が多過ぎて、何から尋ねればよいのか分からない。


「朧様も如何ですか?」


 おゆらは客人用の銚子を掲げて、朧に酒を勧める。


「おお……すまぬ」

「それで朧様、生国しょうごく何処いずこでございましょう?」


 朧の盃に酒を注ぎながら、穏やかな口調で尋ねた。

 会話に窮する奏に、助け船を出してくれたのだ。


 こういう時は、おゆらさんも頼りになるな……


 改めて世話役の重要性を実感する。

 齢十八という若さで、本家の女中頭まで上り詰めただけの事はある。決して役立たずの変態ではない。おゆらは極めて有能な変態である。


美作みまさかじゃ。カブラの浅漬けが美味いぞ」

「……岩倉なる牢人も作州と申していたとか」


 朧の郷土料理自慢を聞き流し、おゆらは話を進める。


「儂と岩倉は同郷じゃ。同じ武将に仕えていた事もある。が……それも昔の話よ。今の儂には関わりなき事」


 焼き鳥を頬張りながら、朧が他人事のように言う。


「ええと、それで朧さんは――」

「儂に訊きたい事があるなら、遠慮は無用じゃ。何でも訊くがよい。然れど儂も御曹司に訊きたい事がある。正直に答えて貰えまいか?」


 奏が会話に加わると、朧に機先を制された。


「特に隠す事もないので。僕が知る事なら答えますけど」

「御曹司は、この村に来る前の事を覚えておるか?」


 意味ありげに笑みを浮かべて、奏の顔を見つめてくる。


「それは……奏様が襲われた事と何か関わりが?」

「無論、関わりはある」


 奏から視線を離さず、鷹揚な態度で答えた。


「何か覚えおるのであれば、些末な事でも構わぬ。御曹司の口から聞きたいのじゃ」

「……」


 奏は黙考した後、おゆらと目配せをした。

 薙原家の機密に関わるような事ではない。他人に話しても支障はないだろう。奏は訝しみながらも、過去の出来事を思い出す。


「正直、この村に来る前の事は、殆ど覚えていません。詳しい事情を尋ねる前に、母上も病で亡くなりました。傅役の話では、遠国おんごくの武家に嫁いだそうですが、相手が誰かも分からなくて。結局、母上は僕を連れて、蛇孕村に戻ってきました」

「それ以前の記憶はないと?」

「……僕が六歳の頃ですから。母上と乳母と僕の三人で、どこかの山奥で暮らしていた筈です」

「その乳母が儂の母じゃ」

「えッ!?」

「畢竟、儂と御曹司は乳兄弟という事になる。儂の母を召し抱えてくれたのが、御曹司の母君――伽耶様じゃ。その縁で、儂は伽耶様と主従の契りを結んでの。伽耶様より御曹司を危難から救うように申しつけられたのじゃ」

「それが朧さんの言う主命ですか?」

「左様。抑も御曹司の母君は、美作国渡辺城の城主――渡辺わたなべ覇天はてんの側室じゃ。ゆえに正室の悋気りんきを恐れて、渡辺城より離れた山奥で暮らしておった。儂の母は、二人の世話役を任されたのよ」

「渡辺覇天……」


 奏は鸚鵡返しに呟いた。

 初めて自分の父親の話を聞いた。

 若い頃に蛇孕村を飛び出した母が、遠国おんごくの土豪に見初められたのだろうと思い込んでいたが、城主の側室とは予想外である。

 しかも中二病だ。

 天に覇を唱えると名乗るくらいだから、余程の武辺者なのだろう。『テラふへんもの』と同じく、名に恥じないほどの武功を立てなければ、敵どころか味方からも侮られる。


「有名なんですか?」

「いや、知る人ぞ知る……という処か。元は諸国を経巡へめぐる武芸者に過ぎぬ。然れど備前の梟雄――宇喜多うきた直家なおいえに剣の腕を見込まれての。宇喜多家に仕官した覇天は、家来共に『奇抜な兵法』を仕込み、宇喜多勢の先手さきてを任されるようになった。覇天流が備前無双と称えられた所以よ」

「それは……凄い人ですね」


 奏は素直に感嘆した。

 父親という実感は湧いてこないが、余所者の武芸者が一城の主に上り詰めるなど、戦国時代でも珍しい事である。

 加えて宇喜多直家と言えば、奏でも聞き覚えがある。

 悪名高い戦国大名を三人挙げろと言われたら、間違いなく宇喜多直家の名も挙がるだろう。裏切りや謀略は序の口。政敵に姉や娘を嫁がせ、婚礼の宴で騙し討ち。或いは毒殺を図るなど、立身出世と領土拡大の為なら手段を選ばず、自責の念に囚われた娘が自害しても、平然と非道な謀略を繰り返すあたり、人間性の欠片も見当たらない。当然、身内からも恐れられ、実弟の宇喜多うきた忠家ただいえは兄から登城を命じられた際、着物の下に鎖帷子を着込んでいたという。

 無論、統治者として悪い面ばかりではない。

 岡山城下の発展に貢献したのも事実。最盛期の信長と手を結んだのも賢明な判断だ。直家と忠家の功績もあり、嫡男の宇喜多うきた秀家ひでいえは豊臣政権で五大老に選ばれた。


「覚えておらぬか? 巨躯の武士が、度々庵を訪れておった」

「そう言えば、大柄な武士が庵を訪ねてきたような……ってええええッ!? あの人が僕の父親ですか!? そんなふうには見えませんでしたよ!」


 頭の中で人物像が合致して、奏が頓狂な声を発した。

 確かに屈強な肉体を誇る武士だった。

 異国の力士と見紛うほどの巨躯。浅黒い肌に無数の刀傷。百戦錬磨の風格を漂わせていたが、いつも鄙びた素襖すおうを着ており、母や奏に媚びへつらっていた。

 身分の低い武士は大変だな……と他人事のように考えていたが、その武士が父親とは思いもよらず。


「母上に調度や反物を貢いでいたので、父か母の家来だとばかり……」

「それも致し方ない。所詮は備前宰相の家臣の一人。五千石ほどの端城の主に過ぎん。常の装束は、其処そこらの国衆と変わらぬ。数多の貢ぎ物は、伽耶様に対する執着の表れ。僅か数年で御家が傾くほど、一心不乱に貢いでおったわ」

「――ッ!?」


 衝撃の事実を聞かされて、奏は思わず絶句した。

 思い出の中の母は、貞淑な武家の妻という風情だった。それが一城の主に貢がせていたなど、俄に信じ難い話だ。


「心得違いを致すでないぞ。御曹司の母君は、静謐を愛する御方じゃ。闇雲に貴重な品を貢いでくるので、覇天の所業に迷惑しておるようであった」

「はあ……」


 奏は安堵を込めて、気の抜けた返事をする。

 同時に気づいた。

 渡辺覇天の息子だから、奏を御曹司と呼ぶのか。地方領主の子息が御曹司など、少々仰々しい気もする。


「覇天も戦一筋で生きてきた。多少は色に溺れるのも、致し方なき事やもしれぬ。然れど見境もなく貢がれては、渡辺家の台所が保たぬ。加えて側室の伽耶様が政に口を挟み始めたなど、根も葉もなき雑言が飛び交う始末。家中も不満を募らせてのう。十年前、忠臣の一人が覇天を諫めようとしたが――」


 朧は箸を振り下ろし、


「問答無用で斬り捨てられた」


 事もなげに言った。


「なんて酷い事を……」

「偖も苛烈な振る舞いよ。家中も動揺せぬ筈がない。覇天の所業に反発する者やら、伽耶様の関与を疑う者まで現れる。この日を境に、渡辺家中に大きな亀裂が入った」


 十年前と言えば、天正十九年。

 豊臣秀吉が全国統一を果たした翌年。

 一二〇年に及ぶ戦乱から解放されるも、下克上の情熱が色濃く残る時代。主君と家臣の対立が、謀叛に発展する事も珍しくなかった。


「それゆえ、身の危険を感じた伽耶様は、御曹司を連れて逐電。生まれ故郷の蛇孕村に戻られたというわけじゃ」

「――」


 朧の話に気圧されて、奏は無意識に酒を呷る。

 唐突に聞かされた己の過去。

 心が麻の如く乱れて、自然と酒が進む。

 おゆらに視線を向けたが、彼女は頭を振るう。

 彼女が八歳の頃の事だから、何も知らなくて当然か。本家の女中衆は新参者ばかりで、薙原家の内情に詳しくない。

 分家衆は論外だ。

 特に年寄衆は信用できない。

 常盤に対する一件で、奏も年寄衆を信用できなくなった。伝統やら格式やらと美辞麗句を並べているが、頭の中では銭儲けしか考えていない。

 分家衆で信頼できるのは、傅役の符条ふじょうともえくらいか。

 蛇孕神社の祭祀を司る神官で、先代の无巫女アンラみこを務めていた伽耶の親友。あまり昔話をしたがらないが、何度か母の話を聞いた事がある。「文武に秀でていた」とか「奏と瓜二つ」とか、当たり障りのない話ばかりしていたが、符条の語り口は穏やかだった。

 亡き母と傅役の絆を感じ取り、奏も符条に心を許していたが……今は疑念を抱かざるを得ない。

 果たして符条は、伽耶から詳しい事情を聞いていたのか?

 すぐにでも符条を問い詰めたい処だが、残念な事に蛇孕村から離れている。

 三ヶ月前、急に「関ヶ原合戦より半年経った。多少は世情も落ち着いているだろう。外界の様子を見に行く」と言い出し、神官や傅役の役目を放り投げ、一人で物見遊山に出掛けてしまった。


 あの時、引き止めておけばよかった……


 神官や傅役も忙しそうなので、長期休暇も必要だろうと配慮したつもりが、裏目に出てしまった。


「――で?」


 突然、常盤が会話に割り込んできた。


「奏の事は分かったけど。なんでアンタの昔の仲間に襲われるわけ?」


 射貫くような視線で、朧の美貌を睨みつける。

 朧の話を全く信じていないようだ。

 奏は疑いもせず、一から十まで鵜呑みにしていた。


「それと奏は飲み過ぎ。お酒弱いんだから。飲み過ぎると乱れる」

「あ……そうだね」


 注意を受けて、慌てて酒盃を置いた。

 朧は艶然と笑いながら、常盤の顔を見遣る。


「そう急かすでない。些か長い話なのじゃ。酒でも飲みながら、ゆるりと語らせてくれ」

「……」


 常盤はムッと押し黙った。


「一先ず伽耶様と御曹司が美作を離れた事で、家中の騒動は落ち着いた。正しくは、覇天に反発する家臣を粛清し、強引に収束させたわけじゃが……御曹司と関わりなき事ゆえ省くぞ。渡辺家の行く末を決めたのは、前年の関ヶ原合戦じゃ」

「――」


 奏は唾を飲み込む。

 関ヶ原合戦。

 徳川家康とくがわいえやす率いる東軍七万五千と毛利もうり輝元てるもと率いる西軍九万が、美濃国みののくに不破郡ふわぐん関ヶ原という盆地で激突した大決戦。同時期に各地で戦争が起こり、双方共に豊臣家の為という大義名分を掲げて、熾烈な戦いを繰り広げた。


「覇天の主君――備前宰相は西軍の副将。当然、覇天も西軍に与しておった。勝敗は皆も知る通り、西軍の大惨敗。戦後処理で渡辺家は改易。美作は金吾きんごに与えられ、家中の者共は故郷から追い出された」


 これからが本題と言わんばかりに、朧の双眸が鋭くなる。


「然れど覇天の奴め。二度目の唐入りの際、黒田くろだ甲斐守かいのかみと知り合うてのう。その縁で、黒田家に二千石で召し抱えられた」

「それはめでたいですね。二千石なんて高禄で召し抱えて貰えるなんて」

「それがめでたくなかったのじゃ」

「?」


 首を傾げる奏に、朧は喜色混じりに説明する。


「関ヶ原合戦の前は、五千石で百名余りも召し抱えておった。それを二千石に減らされては、半分も召し抱えられん。実際、六十名余りの者が暇を出された」

「……」

「よくある話と申せば、それまでの事よ。然れど暇を出された者共にも、養うべき妻子がおる。何とか召し抱えて貰えぬかと、六十余名の牢人衆が覇天に直訴しおった」

「渡辺覇天なる者が、牢人衆の訴えを聞き入れるとは思えませんが?」


 おゆらが不安げに尋ねると、朧は唇の端を吊り上げた。


「覇天は、困窮する牢人衆に申した。『伽耶と奏の生霊いきりょうが、当家に災いを齎しておる。彼奴きゃつらの首級みしるしを挙げた者は、士分として取り立てよう』」

「そんな馬鹿な……」

「あらあら」

「竹取物語みたい」


 三者三様の反応に、朧は呵々大笑する。


「カカカッ、竹取物語とは、まさに正鵠を射ておる。行方も分からぬ親子を捜し出し、その首を持ち帰るなど至難の業。畢竟、無理難題を押し付けて追い返しただけよ」


 客人用の銚子を持つと、朧が手酌で飲み始めた。

 先程から気づいていたが、食事の仕方が荒い。高価な酒を水の如く飲み干し、豪華な馳走をことごとく平らげる。


「なれど数ヶ月前、福岡城下で不穏な噂が流れてのう。すでに伽耶様は遠行しており、御曹司は武州の蛇孕村という集落で匿われておるという」

「なんで急に!?」

「噂の出所は不明じゃ。抑も真偽も定かではなかった。然れど仕官を望む六十余名の牢人衆が、武州を目指すのも当然の成り行き。覇天には、正室との間に子がおる。家督争いの恐れもないゆえ、御曹司の生死に拘りなどあるまい」

「なんて身勝手な人だ……ッ!」


 奏は義憤を覚えて、両手の拳を握り締める。

 武芸者から城主に上り詰めたのはよいが、色に溺れて忠臣を殺害。関ヶ原合戦で敗れると、己は高禄で仕官を果たし、家来の将来など気に留めない。

 とても主君の器ではない。

 作州の牢人も被害者のようなものではないか。一時でも凄い中二病だと思い込んだ自分が恥ずかしい。


「儂も同じ噂を聞きつけてのう。是は一大事と思い至り、御曹司の許へ馳せ参じたというわけじゃ」

「僕の命を狙う牢人が六十余名も……」

「心配無用。御曹司に危害を加える者は、例外なく斬り捨てる。それが伽耶様より託された使命じゃ」


 朧は鷹揚に言うが、奏は容易に納得できない。

 六十余名の牢人衆も恐ろしいが、それより覇天の所業に虫酸が走る。身内も家来も捨て駒扱い。不要と思えば、実の子も平然と切り捨てる。年寄衆と同様の嫌悪感を抱き、苛立ちを抑えきれない。

 本当に父親なら、此方から絶縁したいくらいだ。

 それ以前に、朧の話にも不審な点がいくつかある。全てを真に受けると、重要な部分を見落とすかもしれない。様々な疑念が思い浮かび、頭の中で堂々巡りを繰り返す。


 まずい……お酒が回り始めてきたかも。


「ええと、突然過ぎて何が何やら……」


 再び奏は言葉を濁した。

 饗応の席で即答できる話ではない。


「儂の話を信じるかどうかは、御曹司の存念次第。然れど捨て置いた処で、牢人衆は御曹司を付け狙う」

「確かにそうなんですけど……」

率爾そつじながら。朧様にお訊きしたい事があります」


 言い淀む奏に代わり、おゆらが話題を変えた。


「奏様を襲撃した牢人は、タイ捨流の遣い手と聞いております。覇天流の遣い手とは、流石に思い難く」

彼奴きゃつは家中の新参者。二度目の唐入りの直前、渡辺家に仕官したのじゃ。覇天流を学んだ事などあるまい。然れどタイ捨流の遣い手と申すほど、大層な武芸者ではないぞ。実際に立ち合うてみたが、あの程度では二流にも届かぬ」

「……」


 三流以下の武芸者に殺され掛けた奏は、頭を垂れて押し黙るしかない。


「加えてもう一つ。朧様は渡辺家に仕官しないのですか?」

「儂が忠義を尽くすのは、伽耶様と御曹司だけじゃ。儂の母もとうの昔に死んでおる。後顧の憂いはない」

「奏様を守る為なら、昔の同輩も斬り捨てると?」

「然り。知己と斬り合うなど、戦場では珍しくもない。儂は御曹司を守る太刀。只管ひたすらに襲い来る者を斬り伏せるだけじゃ」


 朧の言葉は、戦国時代の常識である。

 七度主君を変えねば、武士と言えぬ。

 伊予国いよのくに今治いまばり二十万石を領する大名――藤堂高虎とうどうたかとらの言葉だが、諸侯から幾度も仕官の誘いが来るようでなければ、一人前の武士とは言えない。

 多くの武士は、大義や理想の為に戦うわけではない。立身出世や所領安堵の為に、戦場で槍を振るう。本人が命懸けで戦う以上、待遇の良い主家に鞍替えしても恥ずべき事ではない。

 勿論、何度も主家を変えていれば、昔の同輩と刃を交える事もあろう。その度に情けを掛けていては、味方よりかえちゅうを疑われる。

 昔の主君や朋輩の首を斬り落とし、今の主君より恩賞を賜る。戦国時代の武士とは、非情でなければ務まらない。

 忠節や忠義という言葉が塵芥の如き時代で、朧は亡き主君の下知を守り、損得勘定抜きで奏を守るという。

 一体、何をどこまで信じればよいのか?

 当惑する奏に頓着せず、朧は話を進める。


「まあ、そういうわけじゃからの。儂を側に置いても、薙原家に損はあるまい。暫し当家に寄宿させてくれまいか」

「それは勿論……ねえ、おゆらさん」

「奏様の恩人を無碍には致しません。奏様の御命を狙う者共を追い払うまで、幾日でも御逗留ください」

かたじけない」


 朧は眼を細めて嗤う。


「どうした、皆の衆? 儂に遠慮しないで食べるがよい。折角の馳走が冷めてしまうぞ」

「そ……そうだね。常盤も食べようか」

「いい」


 常盤は即座に拒絶し、朧に胡乱な視線を向けた。


「うふふっ」


 おゆらは柔和に微笑んでいた。

 朝餉の時と同じ笑顔。何かを企んでいる時の顔だ。


 気まずい……


 その後も誰も何も語らず、薙原家の夕餉は黙々と続いた。




 酉の刻……午後六時


 清酒……透明度の高い日本酒


 奢侈品……生活必需品を除く贅沢品


 先手……本陣の前に位置する部隊。一番先に進む部隊。先鋒。


 備前宰相……宇喜多秀家


 国衆……室町時代の在地領主。戦国時代になると、守護大名の支配が衰微すいびした地域で、城持ちの独立領主として存在し、やがて大部分が戦国大名の家臣団に組み込まれた。その一方、守護大名を凌ぐ勢力を持った国衆は、三好氏や毛利氏、尼子氏、長宗我部氏、竜造寺氏のように戦国大名となる者も現れた。


 守護大名……軍事・警察権能だけではなく、経済的機能も獲得し、国内に領域的・一円的な支配を強化した守護を表す概念。守護と戦国大名の中間。


 台所……財政


 天正十九年……西暦一五九一年


 金吾……小早川秀秋


 黒田甲斐守……黒田長政


 武州……武蔵国


 返り忠……敵から寝返った者が、再び敵に寝返る事

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