第5話 日常(三)

 蛇孕村は武蔵国むさしのくに多摩郡たまぐんの山奥にある。

 四方を峻険しゅんけんな山々に囲まれており、北は猿頭山さるこうべやま、東を馬喰峠ばくろうとうげ、南を蛇孕岳へびはらみだけ、西を隷蟻山れいぎさんと呼びならわす。

 薙原家の屋敷は、猿頭山の麓。蛇孕神社は、蛇孕岳の中腹に位置する。本家屋敷から蛇孕神社へ向かう為には、蛇孕村を北から南へ縦断しなければならない。

 まだの刻である。

 奏は栗毛の駿馬しゅんめに乗りながら、のんびりと田圃たんぼ畦道あぜみちを進む。

 高さは六寸ろっきと大柄だが、意外に従順で大人しい牡馬おうまだ。常足なみあし速足はやあしを繰り返せば、馬は疲れ知らずにどこまで進む。別段、急ぐ理由もない為、ぱかぱかと常足を維持する。

 衆目を集めたくないので、大名行列の如く家来を引き連れない。

 蛇孕村は隠れ里である。

 奏の知る限り、馬喰峠の一本道の他に外界と通じる道はない。お陰で盗賊に襲われる懸念もないが、念の為に刀を帯びていた。

 昨年、奏が元服した際、マリアから譲り受けた名刀。備前びぜん長船おさふね派の刀工が鍛えた一振りである。綺麗な蒔絵まきえが施された鞘。鮫革の上に、金糸が巻かれた柄。鍔も蝶を模した銀製の地透鍔じすかつば。名刀に相応しい見事な拵えだった。


 高価な刀を手にした処で、急に強くなるわけでもないんだけど……


 ぼんやりと考えながら、平穏な農村の景色を眺める。


 長閑のどかだなあ……でも暑いよ。


 梅雨が明けたばかりで、蒼天に太陽が輝いている。盆地の蛇孕村は、殊更湿気が籠もりやすい。夏場は熱気で蒸し返るほどだ。

 木綿の手拭いで額の汗を拭おうとしたが、田圃で下人を使う百姓の親子に気づき、慌てて姿勢を正した。


「お前ら、頭下げえ!」

「はーっ!」


 泥塗れの父親が叫ぶと、大勢の下人も平伏した。


「奏様……何度見ても素敵」

「本当に姫君のようね」


 頭を下げながらも、母親と娘は興味津々だった。

 しかも会話の内容が筒抜けである。

 奏は聞こえないフリをした。


「無礼だぞ、お前ら! 静かにせい!」

「おっとう、声が大きい」

「なんじゃと!?」

「だから声が大きいのよ」

「おっかあまで!」


 平伏したまま、百姓の親子が言い争う。

 仲裁に入ろうかと考えたが、奏は聞こえないフリを続けた。

 薙原家は、蛇孕村に君臨する支配者。特に本家筋の者は、住民から畏敬の念を抱かれている。奏が仲裁に入り込んでも、余計に話を拗らせるだけだ。

 それに奏は、蛇孕村でも特異な存在だった。

 先代当主が存命の頃、奏は住民と接する機会すらなかった。然しマリアが薙原本家の家督を継ぐと、奏の周囲は一変した。

 百姓は好奇心を持ちながらも、奏の姿を見れば平伏ひれふす。薙原家の分家衆も先代の本家当主が他界した途端、奏に媚を売り始めた。それまで奏と距離を置いていた筈が、急に進物や賄賂を送り始めたのだ。世話役のおゆらは「これまで奏様は、不当な扱いを受けてきました。然れど分家衆も心を入れ替え、御身に相応しい待遇へと是正されたのです」と喜んでいたが、八年も腫れ物の如く扱われてきたので、分家衆の掌返しに辟易する。

 特に賄賂を受け取ると、後で何を言われるか分からない。奏は色々と理由をつけて、賄賂を受け取らないようにしてきた。雅楽や歌会の誘いも断り続けている。

 然し无巫女アンラみこの許婚という立場上、進物の受け取りを拒否できない。仕方なくおゆらに進物の目録を作らせ、分家衆に進物と同等以上の褒美を下げ渡していた。分家衆に借りを作らないように、奏なりに配慮してきたのだ。

 それでも奏は、薙原本家の当主――薙原マリアの許婚。

 マリアが本家当主の座に就いて二年余り。そろそろ生活の変化にも慣れないと、マリアやおゆらに迷惑を掛けてしまう。

 薙原家の伝承によれば――

 蛇孕村は元々、疫病えやみおかされた者達を隔離する集落だった。

 関東の権力者達に見捨てられ、最下級の身分に堕とされた者達。奈落の底に叩き落とされた者達は、集落の外に出る事も許されず、絶望と苦痛の末に死に絶えるしかなかった。

 然れど一月の赤い満月の晩。

 青い鱗を持つ蛇が現れて、疫病に苦しむ者達に告げた。


 我はつい住処すみかを探している。暗くて冷たい水の底。清水の湧き出る所がよい。我に安住の地に案内すれば、汝らの病を癒やしてやろう。


 多くの住民が困惑する中、一人の女が進み出た。村長の許婚だ。彼女は臆する事もなく、蒼い蛇を南の山に案内した。南の山に、清水が湧き出る洞窟があったのだ。

 蒼い蛇も約束を守った。

 夜が明ける頃には、集落に蔓延する疫病は跡形もなく消えていた。

 無事に快癒した住民は、蒼い蛇を集落の守り神と称え、洞窟の前に神社を建立こんりゅうした。蛇神を案内した女は、集落の指導的な立場となり、薙原家の始祖となった。

 その後、蛇孕村に疫病が蔓延する事はなかった。

 これが蛇孕村縁起である。

 御先祖様には申し訳ないが、奏は蛇孕縁起について懐疑的だ。

 何せ律令の昔――坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが生きていた頃の話だ。蛇孕村縁起も口伝で語り継がれてきたので、証拠になりそうな記録もない。

 民間伝承の域を出ないというか、信憑性に乏しい話だ。大方、蛇孕村の支配に正当性を持たせる為、薙原家の先祖が昔話を都合良く改竄したのだろう。

 その成果と言うべきか。今でも住民は荒唐無稽な神話を真に受け、薙原家を蛇神と同等に敬い、疑問も持たずに服従する。

 戦国時代の集落の統治は、苛烈の一言に尽きる。

 崇高な思想や慈悲深い政策を掲げても、領民は統治者を認めてくれない。

 乱世に於いて理想的な統治者とは、最先端の経済政策や公共事業を行い、領民が飢えないように作物を増産し、尚且つ他の集落の侵略を防ぎ、集落の治安維持に腐心する者だ。

 どれか一つでも欠いていれば、領民は謀叛という強引な手段で統治者を追放し、新たな統治者を生み出すか、そうという自治組織を形成する。

 それが乱世の常であった。

 反対に――

 自然を利用した薙原家の集落統治は、八百年も順調に進んでいる。


 統治するだけなら便利なんだろうけど……


 奏は、その先を考えなかった。

 先代当主が亡くなろうと、奏の役目は変わらない。有り体に言えば、奏は本家の血筋を守る為の道具だ。

 薙原家は、極端な女系一族である。本家の直系に男子が産まれるなど、八百年にわたる歴史の中でも初めての出来事。それゆえ、男性を軽視する風潮も根強く残り、奏に嫌悪感や忌避感を示す者も多い。逆に奏を取り込んで、本家の権益を狙う輩もいる。

 然し奏は、秩序を乱すつもりはない。

 数百人規模の集落で権力争いなど、馬鹿馬鹿しい限りだ。評定の裁許に不満を持つ事もあるが、薙原家の権力争いに関与する気はない。

 現在の薙原家は、本家と分家衆が評定で活動方針を決めている。

 マリアや奏の代わりに、本家女中頭のおゆらが分家衆に本家の意向を伝える。マリアの信認を受けたおゆらは、本家の名代の如き存在だ。


 くらいに在らざれば、其の政をはからず。


 孔子こうしの言葉だ。

 位を持たない者が、政に口を挟むべきではない。人格はともかく、おゆらの才覚は奏も認めている。

 わざわざ奏が、薙原家に混乱を齎す理由もない。

 色々と考え事をしていたら、蛇孕神社に到着していた。

 蛇孕神社に辿り着くまで、およそ小半刻という処か。

 立派な鳥居の前で、二人の巫女に出迎えられた。

 黒い髪を腰の辺りで切り揃え、白い面で顔を隠している。衣装も白衣と朱袴しゅばかまと草履。外見だけでは、二人の区別がつかない。


「お待ちしておりました。无巫女アンラみこ様のもとへ御案内します」


 面越しで聴き取りにくいが、若い娘の声だった。

 蛇孕神社には、男子禁制の仕来りがある。それゆえ、无巫女アンラみこに仕える巫女衆は、村の外で保護された孤児ばかりだ。

 幼い頃より文武に励んできた巫女衆は、薙原家に欠かせない者達だ。蛇孕神社で行う儀式を補佐し、蛇孕村の検断人けんだんにんを務める。

 古来より男子禁制の聖域だが、奏は例外扱いされてきた。

 先代の无巫女アンラみこの忘れ形見であり、本家当主も兼ねるマリアの許婚。これだけ肩書きが揃うと、他の分家衆も何も言えなくなる。

 巫女の一人を馬に預けて、もう一人の先導に従い、大きな鳥居を潜った。

 蛇孕岳の中腹まで石段が続く。


「はあ、はあ……きつい」


 毎度の事ながら、呼吸が乱れて脚も止まる。

 無言で前方を歩く巫女は、疲労の色を見せない。

 相手は毎日、蛇孕神社の石段を登り降りしているのだ。体力に差がつくのも当然だが、奏にも男の意地がある。他人に情けない姿を見せたくない。

 足軽は具足姿で槍を担ぎ、山道を十里も行軍した挙句、碌に休憩も与えられず、決死の覚悟で合戦に挑むのだ。今の奏の体力は、巫女衆や雑兵以下。農事に勤しむ百姓にすら遠く及ばない。

 座学より鍛錬に重きを置きたいが、傅役や世話役は学問に励んで貰いたいようだ。特におゆらは、中二病や武芸者を軽んじている。マリアだけが唯一の例外であり、それ以外の中二病を認めようとしない。

 無論、彼女なりに奏の行く末を案じているのだろう。

 中二病を拗らせるという事は、命懸けで美意識を貫くという事だ。己の美意識と反する者を斬り伏せ、己の矜持を天下に示さなければならない。

 金銭的に余裕があれば、誰でも漫画マンガを蒐集する数寄者オタクになれる。然し中二病は、冥府魔道を突き進む修羅の如き者。強くなれば、無駄に命を散らすだけだ。

 過保護な世話役が、奏を心配するのも当然だった。

 おゆらの教育方針により、奏は数寄者オタク文化から遠ざけられてきた。お陰で漫画マンガを読んだ事もなければ、板芝居アニメを視聴した事もない。遊戯箱ゲームは蔵の中で見つけたが、使い方が分からない。

 奏は乱れた呼吸を整えてから、巫女の後を追い掛ける。

 ようやく神社の境内に辿り着いた。

 砂利が敷き詰められた参道の先に、大きな拝殿が佇んでいた。

 荘厳な拝殿は、神明造しんめいづくり木賊葺とくさぶき木賊板とくさいたを幾重にも重ねた屋根が、本を開いたように両側に流れ、むねと平行する側に入り口がある。拝殿の他にも複数の施設が建てられており、田舎の神社と思えない規模だ。

 血縁者以外の参拝を認めていない為、拝殿の前に賽銭箱さいせんばこはない。

 先導役の巫女が、拝殿の前で弓手に曲がる。

 奏が拝殿の側面に回り込むと、別棟と白砂の庭が見えた。

 急に巫女が立ち上がり、別棟の方に退いた。

 奏の視線も別棟に吸い寄せられる。

 別棟の縁側で端座する許婚を見つけた。

 やはり非公式な謁見のようだ。

 マリアは普段の巫女装束ではなく、二人を遮る御簾みすもない。

 改めて見ても圧倒されるほど、玲瓏れいろうな美貌を持つ女性だ。

 上向いた眉と繊細な鼻梁。鮮やかな顎の輪郭。鴉の濡れ羽色の髪が、濡れ縁に広がる。白磁の肌を瓶覗色かめのぞきいろの小袖と青い打掛うちかけで隠しており、清雅な雰囲気を漂わせていた。板張りの濡れ縁が日光を反射し、許婚の佇まいを神々しく輝かせる。

 本家女中衆や分家の年寄衆が、当代の无巫女アンラみこを蛇神の転生者と信じ込み、彼女に心酔するのも頷ける。さならが天上界から舞い降りた女神のようだ。

 无巫女アンラみこは、蛇神崇拝の頂点に君臨する祭主。蛇神より神託を授かる聖女だ。蛇孕神社の外に出る事はなく、蛇神に己の半生を捧げる――というのが建前。行住坐臥ぎょうじゅうざが是即これすなわち破天荒というマリアは、幼い頃から何百回も神社を抜け出している。自他共に認める蛇神の転生者。現人神に蛇神崇拝の戒律は当て嵌まらない。

 无巫女アンラみこは、薙原本家の娘から選ばれる。

 本家の娘が一人しかいない場合は、无巫女アンラみこが本家の当主を兼任する。

 蛇神崇拝の依り代でありながら、薙原家を支配する惣領。

 同じ本家の直系でも、奏とは身分が違う。

 マリアは静かに前を向いて、両の瞼を閉じていた。

 巷説、盲目の剣士と言われているが、彼女の視力に問題はない。

 普段は視覚を封印しているという設定なのだ。

 蛇神の転生者であるマリアは、視覚で他人の区別がつかない。異常に発達した聴覚や嗅覚で他人を認識する為、視覚は不要と言い切る。心眼しんがんやら瑜伽ゆがやらかげを映すやら……奏にもよく分からないが、雰囲気ニュアンスだけ説明すると、「お前の戦闘力は、生命の危機に瀕しても三百が限界。視覚を封印した状態で五万を超える私には、到底及ばないわ」みたいな事らしい。

 あまつさえ中二病の道を極めた者に許された奇跡――魔法を使う事ができる。未知なる才能を制御する為にも、己の意志で視覚を封印しているのだ。

 これもマリア曰く――

 超越者チートは、日常生活で本気を出さない。

 なんとなく「働いたら負け」と同義語に思えるが、マリアは対義語と断言する。天才は凡俗と違い、勝ち方にも拘らなければならない。立ち塞がる敵に圧倒的な実力差を見せつけて当然。寧ろ真の力を隠し通し、最終局面で俺TUEEEEを演じてこそ幽玄オサレ――と中二病の到達点は言い切る。

 奏には理解しかねるが、似たような人物の話なら聞いた事がある。

 陰流を興した愛洲あいす移香斎いこうさいは、日向国宮崎郡鵜戸ひゅうがのくにみやざきぐんうどの岩窟で猿と遭遇し、兵法の奥義を授けられた。天下無双の剣豪と謳われた塚原卜伝つかはらぼくでんも鹿島神宮で千日参篭せんにちさんろうした際、祖神おやがみより一つの太刀を授けられた。

 おそらくマリアも其方側そちらがわなのだ。

 中二病の中でも、特に邪鬼眼と呼ばれる者達。

 己の生き方に過酷な制約を課して、超常現象を体験する事により、神仏から魔法の力を授けられた者達だ。

 邪鬼眼だと思えば、許婚の突飛な行動も納得できる。

 実際、マリアは視力に頼らなくても、日常生活に支障を来していない。歩行に杖すら必要としていないのだ。それだけで十分に凄い。

 それにマリアは、大凡の者と瞳の色が異なる。

 許婚の身体的な特徴に関わる事なので、奏もしつこく尋ねようとしなかった。

 奏は前方に歩み出ると、神妙な面持ちでひざまずいた。


「薙原奏、お呼びにより参上仕りました」

「――」


 无巫女アンラみこは何も応えない。

 奏が僅かに視線を上げると、マリアの両側に竹筒と書物が置かれていた。許婚の美しさに見惚れて気づかなかった。

 おそらく竹筒は、奏の為に用意された飲み物であろう。

 然し書物が何か分からない。

 奏の位置からは、背表紙しか見えない。

 マリアは流麗な所作で、ゆらりと左手を挙げた。

 祭主の指示を受けて、先導役の巫女が元来た道を戻る。

 許嫁同士、二人きりとなった。

 途端に張り詰めた空気が緩む。


此方こちらに――」


 マリアが弓手を指差す。

 巫女が消えた事を確認した後、奏はマリアの左隣に座った。


「これ……いつもの不思議な飲み物だよね? 飲んでいい?」


 喉の渇きに耐えきれず、奏は竹筒を掲げた。


「どうぞ」

「ありがとう」


 无巫女アンラみこの許しを得ると、竹筒の水を口に含む。

 独特な甘さがあり、普通の水より飲みやすい。

 蛇孕神社から湧き出る水は、微量ながらも塩分を含んでいる為、舶来の砂糖を混ぜて飲みやすくしている。

 水分と塩分と糖分を補給した奏は、大きく息を吐いた。


「……ふう。それで今日はどうしたの? やっぱり神楽の稽古?」


 奏は気さくな態度で尋ねた。

 无巫女アンラみこの権威を傷つけないように、他人の前では礼節を重んじる。然し十年来の幼馴染み。二人きりとあれば、遠慮は無用となる。


「今更、神楽の稽古がしたいの? 今年も去年と同様、狒々祭りの前日に下稽古を行う予定よ」

「いや、去年の下稽古なんて、二人で音合わせしただけじゃないか。神楽も儀式の一貫なんだからさ。もう少し稽古しておいた方がいいよ」

「狒々祭りの神楽は、一月の転生祭ほど重視されていないわ。所詮は宴の余興。真剣に取り組む理由も見当たらない。それに今の奏は、疲労のきわに達している。神楽の稽古を始めた処で、満足に動けると思えないのだけれど」


 マリアの言葉はとうを得ていた。


「……去年も同じ遣り取りをした気がする」

「奇遇ね。私も全く同じ事を考えていたわ。これも愛の成せる業かしら? ともあれ、どうしても稽古をしたいのであれば、巫女衆に用意させるけれど」

「もう少し休ませてください」


 疲労困憊の奏は、こうべを垂れて懇願する。

 己の体力の無さが恨めしい。


「じゃあ僕、なんで呼ばれたの?」


 再び尋ねると、マリアは無言で書物を指差した。

 奏は覗き込むような視線で、珍妙な書物を見下ろす。


「――ッ!?」


 思わず瞠目するほど、綺麗な装丁の書物だった。

 書物の表紙に、奇怪な鎧武者が描かれている。鉄地黒漆塗てつちくろうるしぬり六十二間筋鉢ろくじゅうにけんすじはち。前立は金箔押しの細長い弦月げんげつ。美髭を備えた半頬はんぼお。南蛮風に拵えた鉄黒漆南蛮胴てつくろうるしなんばんどう。袖と籠手と佩楯と臑当。鎧武者が誇らしげに構えるのは、三好長慶が発明したという鎖鋸チェーンソー。表紙の上段には、銀を流したような文字で『チェーンソーサムライ』と書かれていた。表紙の下段には、『夏目なつめ葬式そうしき』と書いてある。


「ま……漫画マンガの原本?」

「そうよ」

「おおおおッ!!」


 奏は濡れ縁から立ち上がり、雄叫びのような喚声を発した。


「凄い! うまく言葉にできないけど……とにかく凄い! 漫画マンガの原本なんて初めて見たよ!」

「奏に喜んで貰えて嬉しいわ。篠塚しのづか家の使者が、私に献上したいと持ち込んできたの。なんでも京都で一番人気の漫画マンガだそうよ」


 興奮する奏を尻目に、マリアが抑揚を欠いた声音で説明した。

 元々源氏物語絵巻げんじものがたりえまき伴大納言絵巻ばんだいなごんえまきなどの絵巻物は、平安時代から富裕層の間で流行していた。室町時代の頃には、絵本が人気を博すようになる。御伽噺おとぎばなしや大陸の古典を題材に、色鮮やかな大和絵やまとえを描いて製本した物だ。主に奈良で作られていたので、奈良絵本とも呼ばれる。現代で言う処の、子供向けの絵本である。それが伴天連衝撃ザビエルショック以後、驚くべき進化を遂げた。

 それまで子供向けの大和絵を捨て値で売り、糊口ここうしのいでいた絵師達が、大名や豪商から経済的な支援を受け、万年筆まんねんひつ雲形定規うんけいじょうぎを手に入れて、旧来の絵本を若者向けに描き直し、木版印刷の技術で大量に出版。子供向けの絵本と区別する為、漫画マンガと名付けられた書物は、畿内を中心に売り出された。

 精密な筆遣いや繊細な心理描写。

 奇天烈な修行や緊迫する戦闘描写。

 無名の絵師達が執筆した漫画マンガは、既存の絵本を遙かに凌駕していた。

 特に『努力・友情・勝利』という題材は、戦国時代の機運に即しており、多くの若者が主人公の活躍に胸を躍らせた。

 然し漫画マンガ特需に供給が追いつかず、違法な複製や転売が後を絶たない。世間一般に普及しているのも、漫画マンガの写本と言い換えた複製が殆ど。それゆえ、原作者直筆の原本は、天井知らずに値段が跳ね上がった。噂によれば、漫画マンガの原本一冊と城一つが交換された事もあるという。織田政権も豊臣政権も漫画マンガの複製や転売を禁じているが……今の処、成果は出ていない。


「まさか漫画マンガの原本を送りつけてくるなんて……篠塚家もマリア姉に取り入りたくて必死なんだね」


 奏は濡れ縁に座り直し、呆れた様子で言い放つ。


超越者チートは、漫画マンガ如きで釣られたりしないわ」

「ごめん……僕が釣られた」

「奏はいいの。可愛いから。それで、ええと……なんと言ったかしら? 題名タイトルは覚えていないのだけれど。その本を奏にあげるわ」

「いいの!?」


 許嫁の発言に驚いて、奏は頓狂な声を発した。


「それ……篠塚家が、マリア姉に献上する為に、苦労して手に入れたんじゃないの?」


 篠塚家は、薙原家の中で商業を取り仕切る分家筋だ。京都や大坂に大店おおだなを持つ有徳人うとくにんだが、正規の伝手つて漫画マンガの原本を購入したのであれば、相当な出費を強いられた筈だ。


「分家の苦労なんかどうでもいいわ。それに奏が読んでくれないと、何の為に召喚したのか分からなくなるわ」

「篠塚家が可哀想……ていうか、火急の用ってこれ?」

「早いに越した事はないでしょう」

「そうかもしれないけど……それなら事前に伝えておいてよ」

「想い人への贈り物を事前に明かす者はいない」

「巫女さんに届けて貰えば――」

「想い人への贈り物を他人に任せる者もいない」

「じゃあ、自分で御屋敷に届ければ――前言撤回! 今のなし!」

「何を狼狽えているの? まるで私が屋敷まで届けられないような口振りね」

「まさか! 誰もマリア姉が方向音痴だなんて言ってないよ! あ……」


 朴訥な奏は、不用意に口を滑らせてしまった。


「私が方向音痴……有り得ない。断じて有り得ないわ。『税は財源』と大差のない妄言よ。私は過去に二一三度も奏の庵を目指し、九十七度も奏の庵に到着している。打率で喩えるなら、四割五分五厘。ヒュー・ダフィーを超えるレジェンド。果たして私ほどの逸材が、方向音痴と言えるかしら?」

「言えない言えない。断じて言えない」


 冷たい怒気に気圧されて、奏は何度も首肯した。

 蛇孕神社を飛び出し、奏の庵に向かおうとして行方不明……を何度も繰り返し、薙原家が捜索隊を派遣した事もある。それで『目的地に到着した確率が高いから、私は方向音痴ではない』と強弁されても、説得力の欠片もない。


「ゆえに私が方向音痴など有り得ない。次からは気をつけなさい」

「はい……気をつけます」


 なんで僕、怒られてるんだろう?


 不可解な状況に疑問を抱きながらも、奏は沈んだ声で謝罪した。

 当代の无巫女アンラみこの前で、方向音痴は禁句。薙原家の常識である。


「気落ちする奏も愛らしい。さあ、漫画マンガを読みなさい」

此処ここで読むの!?」

「私の喜びは、奏に喜んで貰う事よ」


 冷然と呟きながら、漫画マンガの原本を投げてきた。


「うわあああ! 普通に渡してよ!」


 奏は、慌てて漫画マンガを受け取った。

 雪舟せっしゅうの『天橋立図あまのはしだてず』や『秋冬山水画しゅうとうさんすいが』に匹敵する芸術品だ。

 表紙に砂がついただけで、心臓が止まりそうになる。


「本当に僕が読んでいいの? おゆらさんから漫画マンガ板芝居アニメは見るなって言われてるんだけど……」

「まだおゆらの言いつけを守り続けていたの? 子供でもあるまいし。私が許可するわ。安心して読みなさい」


 いとも容易く本家当主の許しを得てしまった。

 本当は庵に持ち帰り、のんびりと一人で読みたいが、我が儘を言える立場ではない。それより『チェーンソーサムライ』に集中しよう。

 枕草紙や徒然草は何度も読んだが、漫画マンガを読むのは初めてだ。


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんみたいに、中二病を拗らせたらどうしよう……


 期待と不安を抱きながら、砂糖入りの塩水を飲みつつ、表紙をめくろうとした刹那、


「発情しているの?」

「ぶううううッ!!」


 奏は砂糖入りの塩水を噴き出した。

 咄嗟に漫画マンガの原本を抱えて、砂糖入りの塩水や唾液から守る。己の反射神経に驚きながら、漫画マンガの状態を確認して安堵した。


「平気?」

「平気だけど……僕も漫画マンガも平気だけど! マリア姉の発言が突飛すぎて、どう切り返せばいいのか分からない! 僕にも分かるように説明してくれ!」


 マリアは表情を変えず、左手の人差し指を立てた。


「肉体的な負荷より精神的な負荷の方が大きい」

「……もう少し詳しく説明してください」

「発汗や心臓の鼓動から、奏の疲労は推し量れる。まだ体力が回復していないのね。ただ脳内の微弱な稲妻が、扁桃体へんとうたい前頭前野ぜんとうぜんやで活発に発現している。その説明ができない」

「脳内の微弱な稲妻? 何それ?」

「奏は思考や欲望を行動に移す時、脳内の微弱な稲妻が経脈けいみゃくを伝わり、五体に行き渡る事で肉体を動かす。先程の反射行動は別だけれど……そうね。脳が味方の本陣、微弱な稲妻が使番つかいばん、肉体がそなえと考えてくれていいわ」

「へえ……」


 ぽかんと口を開き、摩訶不思議な説明を聞き入る。


「でも肉体的な負荷と関係なく、微弱な稲妻が奏の脳内で奇妙な反応を示している。扁桃体は感情の増幅装置。前頭前野は感情の制御装置。今の奏は、扁桃体が発する感情を前頭前野で抑え込んでいる状態なの。それも無自覚に――」

「……言いたい事はなんとなく分かるけど。分かる自分が怖いけど。脳内の微弱な稲妻なんて認識できるの?」

「肌で認識する」

「肌感覚か……」


 奏は遠くを見つめながら言った。

 与太話と切り捨てたいが、超越者チートの発する言葉だ。これまで何度、マリアの与太話で常識を覆されてきたか。耳を貸す価値はあるだろう。


「時々、金属に触れると、痛みを感じる事があるでしょう?」

「たまにあるね。突然、ビリッとするヤツ」

「それも微弱な稲妻が原因よ。大凡おおよその者には認識できないだけで、空気中の微弱な稲妻は拡散しているの。私はその流れを感じているだけ」

「凄いなあ。マリア姉はなんでも分かるんだね」

「分からない事の方が少ないわ。そして奏に精神的な負荷を齎す感情は何か? 喜怒哀楽を引き起こすホルモンの分泌量は、普段と比べても誤差の範囲内。恐怖は有り得ない。私が側にいるのだから。他に考えられるのは、性的興奮の抑圧」

「……は?」

「おゆらから聞いたわ。奏くらいの年頃の男性なら、常に性欲を持て余していると。でも鎧武者のイラストで興奮するというのは、流石の私も少し引くわ。奏を健全な道に戻す為にも、夜伽の相手を務めてあげたい処だけれど、祝言を挙げるまで交わる事はできない。おゆら一人で満足できないなら、他の女中でも巫女でも構わないわ。好きなだけ陵辱りょうじょくしなさい」

「はい、飛んだ――ッ!!」


 奏は膝を叩いて叫んだ。


「どうしたの?」


 マリアは真顔で問いかけてくる。


 夜伽とか陵辱とか淡々と言わないで――ッ!!


 危うく心中を吐露しかけたが、なんとか喉の奥で堪える。

 またもや変態女中が、許婚に余計な知識を吹き込んでいた。


「論理が飛躍してるよね! 僕は鎧武者に欲情したりしないし! おゆらさんと変な関係じゃないから!」

「別に隠す必要はないわ。英雄は色を好むもの。優柔不断は殿方の美徳よ」

「それは美徳と言わない! 僕はマリア姉一筋です!」


 奏は顔を赤らめながらも、堂々と自分の気持ちを告白する。

 偽りのない本心であるが、羞恥のあまり「はう……」と俯いた。自然と頬が紅潮し、頭から湯気が出そうだ。

 羞恥心で縮こまる奏に、


「勿論、奏の気持ちは理解しているわ」


 マリアは冷静に応じた。


「奏ふうに言うなら、『ラブコメハーレムの主人公は大変ですね。勝ち組乙』という処かしら」

「僕はそんな事言わないし。全く理解し合えてない事を理解できたよ……」


 悄然しょうぜんとしながらも、奏は律儀に答えた。

 やはり天才と凡人では、発想の次元が違う。


「性的な興奮が原因でないなら、他に考えられる事は悩み事ね」

「別に悩み事なんかないよ。初めて漫画マンガを読むから緊張してるだけだって」

「苦難を分かち合うのも許婚の宿命さだめ。私に遠慮は無用よ」

「マリア姉、基本的に僕の話、聞く気ないよね……」


 疲れ果てた様子で溜息をつきながら、言われるままに考え込む。

 許婚の言葉を信じるなら、自分でも意識できない悩みである。自分でも意識できない悩みを如何に意識すればよいのか。

 まるで禅問答のようだ。

 つまり深く考えないという事か。

 考えない。

 頭の中を空にする。


 あ……そっか。

 常盤を怒らせたばかりじゃないか。


「ええと、悩みと言うほど深刻でもないんだけど……」


 奏は頬を掻きながら、今朝の出来事を打ち明けた。

 常盤に嫌われた事や朝餉の時の遣り取り。当然、おゆらが全裸で褥に潜り込んできた事は伏せておく。


「常盤も少しずつ明るさを取り戻してきたと思うんだ。でも最近、妙に張り詰めてるというか、距離を置かれてるというか……常盤の気持ちが分からないんだ。どうすれば仲良くできるのか。今朝から考えてるんだけど、なかなか妙案も思い浮かばなくて……」

「今すぐ屋敷に戻り、常盤と和睦しなさい」

「今すぐ!? これから漫画マンガを読もうとしてたんだけど……ていうか、神楽の稽古は?」

漫画マンガはいつでも読める。神楽の稽古は、明日でも構わない。それより時が惜しい」

「はあ……」

諸人悉もろびとことごとく天より与えられた定めがある。武士も貴族も農民も職人も商人も僧侶も盗賊も……決して運命に抗う事はできない。天より与えられた試練を克服できるのは、私と奏の二人だけ。奏ふうに言うなら、常盤は脇役モブね。因果律から外れる事はできないけれど、脇役モブに相応しい結末を迎える」

「……」

「奏が和睦を望むのであれば、常盤も素直に応じるでしょう。早く屋敷に戻りなさい」


 マリアの話は分かりにくいが――

 都合良く解釈するなら、善は急げという事か。

 この場に兵法へいほう数寄者オタクの傅役がいたら、得意げに孫子そんしを引用するだろう。

 其のはやき事、風の如く――


「分かった。マリア姉の言う通りにするよ」

「御武運を――」


 許婚らしい別れの言葉に苦笑し、奏は濡れ縁から立ち上がる。

 小競り合いで決裂した同盟国と和議を結び直し、強固な信頼関係を再構築する事で、近隣諸国との均衡を保つ。

 これも合戦のうちである。




 巳の刻……午前十時


 駿馬……足の速い優れた馬


 六寸……戦国時代の軍馬は、四尺(約1.2m)を最低限の大きさに規定しており、それより幾寸いくき大きいかで個体を分類した。例えば、六寸(『ろくすん』ではなく、『ろっき』と読む)なら、体高は四尺六寸(約1.38m)となる。


 常足……時速5㎞


 速足……時速12㎞


 鮫革……実際には、刀の柄にエイの革を使用した。昔の日本人は、鮫とエイの区別がつかなかった。


 地透鍔……図柄を残した鍔


 下人……家庭内隷属民


 先代の本家当主……薙原なぎはら沙耶さや。薙原マリアの母親。薙原奏の伯母。


 律令の昔……平安時代


 坂上田村麻呂……平安時代の武官。征夷大将軍。


 小半刻……三十分


 具足……兜(陣笠)・胴・袖の事


 検断人……警察官・裁判官の職に就く者


 先代の无巫女アンラみこ……薙原なぎはら伽耶かや。薙原奏の母親。薙原沙耶の双子の妹。


 瓶覗色……白に近い薄い藍色


 濡れ縁……敷居の外側に設けられた縁側


 有徳人……資産家


 チェーンソーサムライ……強い


 税は財源……妄言というかデマ。政府が誕生する前に、税は存在しない。国家が誕生する前に、税は存在しない。人類が誕生する前に、税は存在しない。生物が誕生する前に、税は存在しない。地球が誕生する前に、税は存在しない。宇宙が誕生する前に、税は存在しない。以下略。日本の場合、政府が新規貨幣を発行するので、やはり税は政府の財源ではない。


 ヒュー・ダフィー……十九世紀に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手。メジャーリーグに於ける史上三人目の三冠王となり、参考記録扱いながらシーズン打率.440を記録した。


 雪舟……室町時代に活躍した水墨画家。現在、天橋立図や秋冬山水画は、日本の国宝に指定されている。


 経脈……神経


 使番……伝令


 備……部隊

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