第4話 日常(二)
白い紐で背中に届く髪を縛り、
常盤は囲炉裏の下座に座り、一人で食事を始めていた。
腰まで伸びた銀色の髪に瑠璃色の双眸。高い
「ふん――」
奏と目が合うと、つんと顔を背けた。
やはり御機嫌斜めのようだ。
奏は上座に腰を下ろし、誤解を解く方法を考える。
神妙に弁解の言葉を並べても、常盤は姑息な言い訳と受け取り、余計に機嫌を悪くするだろう。流石に朝から口論はしたくない。
「……今日の着物、凄く似合うね」
奏は熟考の末、無難に着物を褒めた。
長い銀髪が映える紫色の装束で、
「もっと具体的に褒めて」
「具体的に!?」
姫君から難題を課せられた。
唐突に風変わりな衣装を褒めろと言われても、女性の着物に疎い奏は、返答に窮してしまう。それ以前に、頭の中は一つの単語で埋め尽くされていた。
「ええと……中二病! 物凄く中二臭いね!」
「馬鹿にしてる?」
「違うよ! なんでそういうふうに受け取るのさ!」
「それは褒め言葉ではないからです」
奏の弓手に端座したおゆらが、穏やかな口調で
「中二病とは、
世間一般の認識は、おゆらの言い分で正しい。
世界征服を目指した織田信長。
百姓から天下人に上り詰めた
叔父の愛馬を盗んだ
関守を殴り飛ばし、何事もなく関所を通り過ぎた
純朴な奏は、「世の中には凄い人がいるなあ……」と憧れを抱いていた。然し全ての中二病が、歴史に名を残す偉人というわけではない。寧ろ中二病の大半は、斬り剥ぎも日常茶飯事という
勿論、野伏に憧憬の念を抱く事はないが、命懸けで己の意地を貫く生き方に、純粋な心は惹かれてしまう。
加えて奏の側には、究極の中二病――
変わり者ではあるが、奏の恩人と言うべき人物。マリアや
おゆらが鍋蓋を開けて、奏の
「どうぞ」
「あ……どうも」
椀を受け取り、奏は礼を言った。
「……」
これで会話が終了した。
き……気まずい。
奏の前には、豪華な朝餉が用意されている。
山芋の煮物と
大名家に匹敵するほどの献立だが――
雰囲気が悪くて、何を食べても味がしない。
おゆらに救いの視線を向けるが、当人は呑気に囲炉裏の薪を集め、鍋の汁物を温め直していた。常盤に睨まれても、柔和な笑顔を崩さない。寧ろ自分の思い通りに事が運び、愉悦の笑みを隠しきれないほどだ。
凄いムカつく。
「そう言えば、僕の着物が一枚、見当たらなくて……」
「そんなの知らない。おゆらさんに訊けば?」
「ですよねー」
着物繋がりで話を膨らませようとしたが、的外れな話題を投げ掛けていた。
どうしよう……取り付く島がないよ。
二年前なら常盤の世話役に仲介を頼んで、常盤の機嫌を取る事もできた。然しこれからは、己の力で常盤を導かなければならない。
抑も常盤が機嫌を損ねた理由は、朝から卑猥な光景を見せられたからだ。常盤もおゆらの悪癖を承知している。本当に二人の仲を誤解したわけではないだろう。
然し将来を決めた相手がいながら、他の女と同衾するなど以ての外。年頃の娘が機嫌を損ねるのも当然だ。
奏からすれば、常盤は硝子細工の如き存在だ。
未だに心の傷も癒えていないのだろう。奏が側にいない時は、挙動不審な行動が目立つと聞く。二年前の忌まわしい出来事が、今でも常盤の心を蝕んでいるのだ。
常盤を情緒不安定な状態で放置しておけない。
こういう時、マリア姉ならどうするだろう?
尊敬する
「そうだ!」
「ぶっ――」
「ああんっ」
突然、奏が大声を上げたので、常盤が汁物を吐き出しそうになった。おゆらも火箸で薪を強く突いて、飛び散る火花に悲鳴を上げた。
呆然とする二人を尻目に、奏は笑みを浮かべていた。
「鹿狩りに行こう」
「……はあ?」
「久しぶりに外で遊ぼうよ。今日は天気も良いし。どちらが多く仕留めるか、
「疲れるからイヤ」
奏は明るい声で言うが、常盤の反応は冷ややかだった。
「
「外に出たら日焼けする。それに私の方が、奏より鹿狩り得意だもん。つまんない」
「今の僕なら、常盤と良い勝負ができる」
「なんで?」
「先生がいないからね。学問が進まない分、弓の稽古に打ち込んでいたんだ。今なら常盤の短筒にも負けないよ」
奏は得意げな様子で、ビシッと常盤に箸を向けた。
「ふーん。どうだか」
常盤は顔を背けて言う。
奏に深い意図はない。おゆらがいない場所で鹿狩りでも行えば、常盤も機嫌を直すだろうという程度。
暫く考え込んだ後、常盤は小さく溜息をついた。
「奏がどうしてもって言うなら――」
「
急におゆらが叫びながら、奏の眼前に火箸を向けた。
「うわああああッ!! なんスか、いきなり!?」
「それに学問なら私が教えます!
「学問ばかりだと、流石に気が滅入るよ。僕達には、息抜きが必要なんだ」
驚愕しつつも
「当家は蛇神様を
おゆらも正論で返してくる。
「立身出世を望むのであれば、学問を疎かにしてはなりません。関ヶ原合戦より九ヶ月……未だ
「別に出世なんか望んでないし。今の暮らしで十分満足してるから。それよりそれ……本気で危ないんだけど」
鼻先に突きつけられた火箸を指差し、奏は怖々と告げた。
ハッと己の乱行に気づき、おゆらは深々と平伏した。
「申し訳ございません! 私とした事が……思わず取り乱してしまいました!」
「気にしなくていいよ。おゆらさんはいつも取り乱してるから」
「左様な事はありません! 本家の女中頭を務める者が、主君に火箸を向けるなど言語道断! どうか私に罰を加えてください!」
主君に火箸を向けると有罪で、主君の
「僕はおゆらさんを処分したりしないよ。家中でもおゆらさんの忠義を疑う者はいない。早く顔を上げてくれ」
「いえ、どうか『この卑しい
「よし、おゆらさんは
「その冷たい眼差しが素敵です♪」
おゆらは豊かな胸の前で両手を組み、被虐的な快楽に酔い痴れる。
常盤は険しい顔つきで、二人の遣り取りを眺めていた。
「なんか楽しそう」
「代われるものなら代わってくれ! 僕も相手をするのが大変なんだ!」
「処で奏様には、御予定があります」
「どうしてその話を先にしなかった!」
「特に訊かれませんでしたので」
おゆらは笑顔で
奏は一旦、心を落ち着かせた。
これでは普段と何も変わらない。おゆらの戯れで日常会話を荒らされるだけだ。心を乱さず、冷静に話を進めよう。
「予定って何?」
「本日、
「マリア姉が? なんで?」
「私も仔細は存じません。然れど火急の用と聞いております」
珍しくおゆらも言い淀む。
奏も首を傾げた。
これまで薙原家の家政に関わる事で、蛇孕神社に召喚された事がない。本家の直系でありながら、奏は無役の居候。家政に関わる機会を与えられず、
「おそらく祭祀に関わる事だな。神楽の稽古でも始めるのかな?」
毎年、六月の村祭りの際に、
居候に与えられた唯一の役割である。
きちんと務めを果たさなければ、許婚に恥を掻かせてしまう。
去年は無難にこなせたけど、今年もうまくいくとは限らないかな。気を引き締めて、稽古に取り組まないと――
「で――鹿狩りは?」
常盤が押し殺した声で問う。
「……」
重苦しい沈黙が、朝餉時の居間を押し潰した。
「ごめん! 次はなんとかするから――」
「ごちそうさま!」
常盤は
「常盤さーん……」
奏の情けない声が、居間に響いた。
機嫌を直して貰うどころか、火に油を注いでしまった。
肩を落とす奏に、
「お代わりは如何ですか?」
事の元凶が、如才ない笑顔を向けてきた。
兌換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障された法定紙幣。坂東より西の地域で流通する紙幣。
報恩講……浄土真宗の行事。
毘沙門天……上杉謙信の二次元の嫁
ヤンデレ……明智光秀
野伏……追い剥ぎや強盗を働く武装集団。特定の主を持たず、合戦が起きれば、戦国大名に雇われて、戦闘や略奪や放火、落ち武者狩りに明け暮れた。
姫飯……釜で柔らかく炊いた飯
足打折敷……足のついた食器を載せる台
懸物……景品
古文経学……大陸の書物に関する研究
算勘作事……実用的な数学や建築学の研究
有職故実……古来より伝わる法令、儀式、装飾等の知識
経世論……経世済民の為に立案された緒論策。或いは、三好長慶が執筆した『三好経世論』の略。租税貨幣論や悪魔崇拝者等について解説している。
八王子の代官……大久保長安
午の刻……正午
耳土器……耳の形をした箸置き
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