第一章 蛇孕村

第3話 日常(一)

 蔀戸しとみどから射し込む月光が、男女の裸身を浮かび上がらせる。

 二つの肉体が熱く溶け合いながら、激しい律動を繰り返す。

 女は腰を動かす度に、途切れ途切れに喘ぎ声を漏らす。

 快楽に酔い痴れた女が、男に唇を寄せてきた。豊かな乳房が胸板と重なり、淫らに潰れて形を変える。執拗に舌を絡め合い、互いの唾液を交換する。

 激しい接吻の途中で、女は妖しい笑みを浮かべた。淫蕩いんとうに歪んだ美貌は、異常なまでに情欲をたぎらせる。

 もはや男は、欲望を吐き出す事しか考えていない。

 ならば、女はどうであろうか?

 眉間に愉悦のしわを刻み、官能で相好を崩しながら、貪婪どんらんに腰を振り続ける。豊かな乳房が、上下にせわしなく動いていた。小さな桜色の先端も荒波で揺れる小舟の如く動き回る。

 唐突に女の瞳が、金色の輝きを放った。

 仄暗い狂気を孕んだ黄金の双眸。

 二人が交わる寝所は、甘い芳香で満たされていた。

 女の臭いではない。

 薫物たきものの臭いでもない。

 これは虫の放つ臭い。

 薄紅色の光を放つ毒蛾の鱗粉。

 蛾の群れが天井を覆い尽くし、室内に鱗粉を撒き散らしている。鱗粉の香りが、男の意識を曖昧にしていた。

 唐突に女が囁く。


「蛇神様の教へに従ふ者共よ。

 永劫のさかえを望まば、我が言の葉に従へ。

 蛇神様受け入るる器を造れ。薙原家の嫡流に神の血を混ぜよ。十二柱の神の血混ぜ合はせしほど、現世うつしよアンラの女神生誕す。

 蛇神様と釣り合ふをひとを造れ。蛇神様の血を引く鼠神ねずみがみの子。蛇の王国に君臨する者。師府シフの王と成るべき者なり。

 蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国するため、無限の殺生をいとはぬ者なり。

 蛇神様に命を捧げよ。鼠神の子求め相争あいあらそひ、使徒の骨を祠に埋めよ。三十六人の生贄を捧げしほど、鼠神の子に権威を与ふ。

 八百年目の転生祭の夜、アンラの女神と師府シフの王は契りを結ぶ。外界の生類しょうるいは死に絶え、蛇の王国建国さる。敬虔なる使徒は真のさま取り戻し、永劫の栄えをむかへむ」


 艶然と男を見下ろしながら、女は淀みなく答える。

 

 これは預言だ。

 御先祖様が残した預言。

 確か……ああああああああああああああああああああああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああ……あれ?

 僕は何をしているんだ?


嬰児ややをください。奏様の嬰児を……」


 とろけた顔で男を見下ろし、甘えた声で囁いた。

 男は何も答えられない。


 ……――

 …………――――




 慶長六年六月上旬――

 初夏の早朝である。

 ちゅんちゅん、という雀のさえずりが耳に届き、薙原なぎはらかなでは目を覚ました。瞼を開くと、蔀戸から陽光が射し込んでくる。

 頭が重い。

 焦点が定まらず、視界が波のように揺らいでいる。普段から寝付きはよいが、なぜか目覚めが良くない。起き抜けは、いつも頭がボーッとする。

 よく覚えていないが、縁起の良い夢でも見たのだろう。

 

 もう少し寝よ……

 

 気怠げに寝返りを打つと、左手が柔らかい物に触れた。


「ああん」


 忽然と女の喘ぎ声が聞こえてきた。

 ぷにぷにと柔らかい感触。

 若い娘の乳房。


「誰――ッ!?」


 寝惚けた頭が一瞬で覚醒した。

 驚いて掻巻を撥ね上げる。


「御目覚めになりましたか?」


 女は恥じらう様子もなく、一糸纏わぬ姿で上体を起こした。


「おゆらさん!」


 奏は顔を赤らめて、女の裸身から視線を逸らす。


「僕の寝所で何をしているんだ!?」

「勿論、御夜伽を――」

「――ッ!?」

「うふふっ、戯言ざれごとを申しました。本当は添い寝しかしておりません」

「添い寝をする理由が分からない!」

「寝間着を着るなど、露出狂の恥でございます」

「露出狂の心得なんか訊いてない!」

「奏様が悪いのです」

「逆ギレ!?」

「奏様の端正な面立ちが、私の理性を狂わせるのです。本当に殿方かどうか、確かめたくなるではありませんか」

「寝ている僕に何をした……?」


 ぞくりと背筋に寒気が走り、奏は咄嗟に太腿ふとももを閉じた。確かに背中を向けて、寝巻の乱れを直す仕草は、年若い娘のように見える。


「『ガン』させて頂きました。奏様は間違いなく殿御です。それも大層立派なモノをお持ちで……」

「変態変態変態! 何年、僕の世話役を務めてるんだ! 主の性別くらい確認しなくても分かるだろ!」


 奏は子供の頃から、己の外貌を好きになれなかった。

 周りから「母親と瓜二つ」と驚愕されるばかりか、一部の者達から「本当に男か?」とふうされてきたからだ。今でも外見や性別について揶揄されると、感情の昂ぶりが抑えきれなくなる。


「奏様は、繊細な乙女心を理解しておりません。女性にょしょうの多くは、殿方の如意棒の事しか考えていないのです」

「そんな変態はおゆらさんだけだ! 他の女性を巻き込むな!」


 他にも色々と突っ込みたいが、今はそれどころではない。


「とにかく着物を着てくれ!」

「お断りします」

「はあ?」

「主君と同衾しておきながら、添い寝で終わらせるなど女中の恥! 世話役の沽券に関わります! 朝の一番搾りを頂くまで、奏様の側から離れません!」


 意味不明な事を言いながら、全裸のおゆらが抱きついてきた。


「しがみついてくるな! いい加減にしないと――」


 堪忍袋の緒が切れた奏が、おゆらを叱責しようとした時、


「奏ー、起きてるー?」


 寝所の外から声を掛けられて、奏はビクリとした。


「常盤……」


 奏は青褪た顔で、板戸に視線を向ける。


「今立て込んでるから! もう少し待って!」


 下手な嘘が通じるわけもなく、部屋を仕切る板戸が開かれた。


「何言ってんの? もうすぐ朝餉あさげだよ。一緒に行こ――」


 銀髪の少女が二人の姿を確認し、ピキ――――ッと凍りついた。正確には、凍りついたように硬直した後、全身から怒気をほとばしらせた。


「誤解……誤解だから。これはおゆらさんが――」


 ダ~ン!


 弁解の言葉は、一発の銃声に掻き消された。

 右太腿に巻かれた鉄砲嚢ホルスターから短筒を取り出し、二人に向けて発砲したのだ。鉛の弾丸が木製の箱枕を破壊し、絹の寝具を撃ち抜いた。


「もうすぐ朝餉だから。遅れないでね」


 常盤は冷たい声で言い捨て、バンッと板戸を閉めた。

 奏は、恐る恐る箱枕の残骸を拾う。狙いが外れていなければ、眉間に穴が空いていた。


「うふふっ、常盤様の機嫌を損ねてしまいました」


 おゆらは寝巻を羽織りながら、楽しそうに含み笑いを漏らす。

 寝所の隅に、自分の着物を隠していたのだ。常盤が呼びに来たのも偶然ではあるまい。他の女中に命じて、奏の寝所に向かうように仕向けたのだ。

 悪ふざけにもほどがある。


「……おゆらさん」

「御安心ください。常盤様も本気で私達の仲を誤解したわけではありません。突然の事ゆえ、御心を乱したのでしょう。それに――」

「それに?」

「こう退屈な日々が続くと、生来の被虐壁ひぎゃくへきうずくのです。奏様に責められたい。寧ろ奏様と共に、他の者から責められたいと。これから奏様と一緒に、常盤様から冷たい視線を浴びるなんて……慰悦いえつの至り」


 おゆらは胸の前で両手を組んで、恍惚の表情を浮かべた。


「……世話役を替えたい」


 奏は嘆息しながら、卑猥な生き物から距離を置いた。

 おゆらは奏専属の世話役。乱行が目立つようであれば、主君の権限で処罰できる。然し奏が折檻を加えても、主君からの『御褒美』としか受け取らず、余計に興奮して気持ち悪くなる。然りとて世話役を交代すれば、薙原家の政に甚大な影響を齎す。奏も手の施しようがなかった。


「着替えよう」


 朝から暗い表情で、漆器の上に置かれた着物を取る。


「……あれ?」


 新しい着物の袖が、微かに汚れていた。

 薄紅色の染みを指で拭うと、粉末のような感触がする。


「如何なさいました?」

「着替えるの速!」


 突然、前方に回り込んだおゆらが、小首を傾げて見上げてくる。

 緩く波打つ栗色の髪に、淑やかで垂れ目がちな美貌。黄色の小袖と茶色の湯巻ゆまき。当世風の装飾品なのか、革製の黒い首輪を嵌めていた。外見だけなら、気品に満ち溢れた淑女である。


「あら? 着替えが汚れておりますね」

「変な汚れだね。朱墨しゅずみかな?」

「新しい着物をお持ちします」

「ありがとう」


 取り敢えず疑問を脇に置き、奏は礼を述べた。

 おゆらが寝所から出て行くと、改めて周りを見回す。箱枕の残骸が散らばり、寝具にも穴が空いている。まるで殺し合いでも起きたかのようだ。


「はあ……片付けるか」


 手持ち無沙汰に耐えきれず、箱枕や寝具の残骸を拾い始めた。




 蔀戸……板戸をね上げて開ける窓


 生類……人を含めた全ての動物


 慶長六年六月上旬……西暦一六〇一年七月上旬


 掻巻……着物状の掛け布団


 湯巻……腰に巻く前掛け


 当世風……今時の流行り


 朱墨……朱粉をにかわで固めた墨

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