ピチカートの歌声

尾八原ジュージ

ピチカートの歌声

 その朝、鏡越しに見た私の顔は冗談みたいに腫れ上がっていた。ため息をつきながらふと見上げた空では雲が銀色に光っていて、ああ天国みたいだなと思った。その途端、何もかもが面倒になった。

 それで、ベッドの下から父が使っていた拳銃を持ってきて、テーブルに置いた。コーヒーを淹れて一杯飲んだら、きれいさっぱり死ぬつもりだった。

 なのに私がポットでお湯を湧かしている間に、ミルコがそれを見つけてしまった。薬に脳をやられている彼は、拳銃を大事に掌に載せて「リナ、小鳥を見つけたよ」とほざく。大真面目だ。

「あらほんとね、かわいい」

 私はつい、いつもの調子で答える。「ヤク中の幻覚よ」なんて言ったら殴られるのがオチだから、ミルコの戯言は何も考えずに肯定することにしている。そのせいだった。

 こうなればもう、ミルコにとってそれは完全に小鳥だ。

「こいつ俺をじっと見てるよ」

「そうね」

「俺のことが好きなのかな」

「そうね」

「こいつをうちで飼おうよ」

「そうね」

 私はため息をつく。そしてコーヒー豆を切らしていることに気づき、途端に死ぬのが億劫になる。

 ミルコはなけなしのお金を持って出かけ、それを売人でなくペットショップに注ぎ込んで、鳥籠と鳥の餌を買ってきた。

 かくして拳銃は鳥籠に収まった。小さな器は水と粟でそれぞれ満たされ、鈴の付いたおもちゃがぶら下げられた。

 拳銃は何も言わないが、ミルコには何か聞こえるらしい。

「リナ、小鳥が鳴いてるよ」

「そうね」

「きれいな声だな」

「そうね」

「きっと家を用意してやったのが嬉しいんだ」

「そうね」

 痩せこけた頬に無精髭を生やしたミルコは、無垢な少年のように目を輝かせて鳥籠の中を見つめている。むかしは小鳥がいなくたってこんな顔をしていたのに、と私はしょうもないことを思い出す。未だに私はその頃の彼を引きずっている。


 拳銃はピチカートという名前になった。もちろんミルコがつけたのだ。

 ミルコは律儀に水と餌を与え、それらがまったく減らないことに不安を露わにした。

「大丈夫、まだうちに慣れてないだけよ」

 私はミルコを慰め、彼がいないときにこっそり水や餌を減らしておいた。ミルコは飛び上がって喜んだ。

「ピチカートが餌を食べたぞ!」

「よかったじゃない」

「偉いなぁ、よく食ったよ。なぁおい、ピチカートが歌ってる」

「そうね」

「きれいな声だなぁ」

「そうね」

 無論、私にピチカートの歌など聞こえない。ピチカートというくらいだから、ピッ、ピッと短く、弾むような歌声なのだろうか。

 ある日、私は花を買って帰った。店先で散々迷って小さな花束を選び、空瓶に水を入れて食卓に飾った。

 ミルコは家に花を飾るのが嫌いだった。薬浸けの脳には何か怖ろしいものに見えるらしく、花を見つけると狂ったようにギャアギャア喚きながら捨ててしまう。その後は決まって不機嫌になり、食事を捨てたり私を殴ったりする。でもその日はわけもなく、いける、という気がした。

 思ったとおり、ミルコは喜んだ。

「ピチカートが喜んでる。花があると嬉しいんだな」

 私は「よかったわね」と答えて胸を撫で下ろす。

 ミルコの変化が嬉しいのは確かで、でもほんの一匙、不安な気持ちが混じっている。

 ミルコいわく、ピチカートはオレンジ色の翼を持っているらしい。つぶらな瞳で彼を見つめ、美しい声で歌うらしい。

 私の目には、ピチカートは拳銃としか映らない。かつて私の父がその銃口を自らの口に突っ込み、黄色い壁に脳みそを撒き散らした、硬くて重たい道具にしか思えない。

 私に小鳥の姿は見えないし、歌も聞こえない。その差は大きい。ほとんど断絶と言っていい。奥底が見えないほど暗くて深い谷が、私とミルコの間に横たわっている。

 でも、私は何も言わずにおいた。これは小鳥じゃなくて拳銃なのだと、言ったところで何になるだろう。

 ミルコはめっきり薬をやらなくなった。時には食事の支度など手伝うようになり、私たちの間には笑顔が増えた。いつもどこかしら腫れたり、痣になったりしていた私の顔はきれいになった。私は不安な気持ちに蓋をし、つかの間の平穏を噛みしめた。

 そしてとうとう、わかりきっていた破綻が訪れた。


「ピチカートがいない」

 ある朝、籠からとり出した拳銃を持ってミルコが叫んだ。

「代わりにこれが入ってたぞ。リナのだろう。まさかきみがピチカートをどうかしたんじゃないだろうな」

 私はため息をついて天を仰ぐ。

 ミルコは幻覚が見られなくなったのだ。たぶん薬が切れて、おつむの状態がちょっぴりマシになったがために。

 ピチカートはもう愛すべき小鳥ではなく、ただの拳銃になってしまった。

 窓の外に銀色に光る雲が見えた。私たちの前にピチカートが現れたあの朝も、こんなお天気だったなと思い出す。途端に何もかも面倒になって、

「そうよ」

 と私は答える。

「そうよミルコ。私が小鳥を撃って、代わりに銃を入れておいたの」

 ミルコが血走った目を見開く。

 彼の手が銃を構え、安全装備を外す。引き金に指をかける。私はその様をじっと見つめる。銃口がこちらを向く。不思議と今、オレンジ色の小鳥の小さな嘴が見えるような気がする。ピチカート、鳴け。鳴くんだ。さあ。

 今。

 銃声が轟く。

 最後の光景はスローモーションに見えた。ゆっくりとタイル貼りの床に倒れながら、私はふと、コーヒーを飲むのを忘れたな、と思った。

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