11.意志と人情を背負う者
「染色体XY。男、か」
咲良の呟きに、高千穂は大きく頷く。
「東郷宅に染色体XYを残せる人物と言えば……、仁科鉄雄だ」
しかし、すかさず松実が一言。
「かつて同居していた東郷翠かもしれませんよ?」
と、そこに割り込むのは咲良。
「長期にわたって服役している人物の血痕ともなれば。現場に付着したのは随分まえになるね。だとしたら、劣化が激しくて鑑定にもっと時間が掛かる。と考えればやっぱり、この血液の主は最近現場を訪れた男性だよ」
「じゃあやっぱり!」
その場全員の視線が高千穂に集まる。彼女もその視線一つ一つに目を合わせる。
「そういうこと」
「じゃあバラバラ死体の謎も解決ですね!」
松実がはしゃぐ。
「バラバラ死体?」
「だってそうでしょう? おそらく仁科鉄雄は小弦さんにタンスの角へぶつけられた、と。それで怒りを買ったから、彼女だけバラバラにされていた。やっぱり僕の見立てどおりで、深い意味なんかなかったんですよ!」
「あぁ、小弦さんが……」
そこまで口に出して、高千穂ははたと言葉を止めた。
「どうしました?」
松実が顔を覗き込むと、彼女は両手で鼻と口元を覆っている。
が、
指の隙間から覗く口元は、いつものように笑っていない。
無感情な形でぶつぶつと、
「小弦さんによって頭を打った仁科鉄雄。現場に残された、それぞれ違う人物の足跡。消された防犯カメラの映像。バラバラの死体。落ちていた財布。放置された死体。湘南の別荘。先輩の事件と蒼さん。一時期病んだ小弦さん。二人が交わした約束……」
高千穂ははっと顔を上げると、
そのまま口元を覆っていた両手をデスクに叩き付け、反動で勢いよく立ち上がる。
「千中さんっ?」
松実の驚いた声も耳に届いていないのか。彼女は一気に部屋を飛び出した。
「せ、千中さん!? どこに行くんですか!? 千中さーん!?」
彼も慌ててあとを追う。
それをゆっくり廊下に出ながら見送った咲良と青年。ぼんやり呟くしかなかった。
「あの人足速いな」
「松実さんは遅いみたいですね」
「あ、あとコーヒー溢れたかr、拭いといてくれる?」
「えぇ……」
高千穂が科研を飛び出してベスパに跨った頃には。空はもう真っ暗で、夜の
しかし彼女は気にせず、遠くから松実が呼び掛けるのも聞かず。
エンジンを全力で噴かせて走り去っていく。
ベスパを走らせ高千穂が到着したのは青梅、その山際にある大きな屋敷。
重黒木邸である。
彼女は門のインターホンを押し、それでも飽き足らず。板目も割れよと力強くノックを繰り返す。
「重黒木さん! 重黒木さーん!!」
近所迷惑も考えずに大声で呼ばわったからだろう。ややあってインターホンでの応答を介さず門が開いた。
その向こうに立っていたのは、使用人ではなく重黒木本人。
一応
「どうしたんですか刑事さん。こんな時間に」
高千穂はずいっと前に出る。敷居は跨がなかったので、一応敷地の中と外で正面から対峙する形。
彼女は重黒木をまっすぐ見据える。
「教えてほしいことがあります」
「何について?」
優しい声と表情で聞き返してくる重黒木だが、
「事件の真相について」
高千穂が静かに答えると、顔から色が消えた。
見据える眼差しと、感情のない顔。
両者のあいだに横たわる敷居と、吹き抜ける冬の風。
和風の門のせいか、時代劇化のような剣呑な空気が吹き
「……僕から言えることは何もありませんよ」
「そんなはずはありません」
「僕に聞いても無駄ですよ。普通に捜査を進めたらいかがですか? その方が真相に近付くんじゃないでしょうか」
「それでは意味がないのです」
彼女はまっすぐ、強い意志を持った声で応える。相変わらず静かではあるが、しっかり耳に届く声。
それが胸の内を突き刺すのか、重黒木は明らかに目を逸らした。
「……お帰りください。青梅の冬は、都心と比べ物にならない寒さだ。門前にいたら凍死してしまうよ」
「いいえ、帰りません」
対する高千穂は決して目を逸らさない。曲げない。
公権力で強要しないし、門をくぐってはこないが。立ち姿で全てを訴えかけてくる。
それが分かっているのだろう。重黒木は彼女に背を向け、向き直ることなくハウスキーパーに指示を出す。
「門を閉じて」
「は、はい」
彼女は明らかに戸惑いながら、重黒木と高千穂を交互に見る。
当然雇い主の指示も重要だし、かと言って警察官相手に邪険な対応もできるまい。
何より。
が、最終的には高千穂へ頭を下げると、ゆっくり門を閉じはじめた。
そのあいだ、重黒木は一度も振り返らずに立ち去ってしまう。
高千穂は無理にそれを追い掛けたり、門の隙間に体を滑り込ませようとはしない。
その代わり、冷たい冬の夜の空気をいっぱい吸い込んで。
力の限り声を張り上げる。
「私は! 残された遺族に事件を解決すると約束した! だから私は! 私が約束を守るために! 彼への約束が一つでも果たされるために! そして蒼さんの名誉のために! あなたのためにここへ来ている! それを! それを分かっていただきたい!!」
喉に肺に乾いた空気が張り付いても。
彼女は構わず力を振り絞った。
「重黒木さん!」
「千中さん大丈夫かなぁ?」
時計は二十時を回っている。
夜中の病院のような、真っ暗な屋内を強めの照明で無理矢理活動可能にした空間。
松実は咲良のデスクで、落ち着きなく歩き回っていた。
青年が咲良の片付けを手伝いながら返事をしてやる。
「松実さん、追い掛けてったじゃないですか」
「走りでベスパに追い付けるわけないでしょ。行き先聞いてないから、どうしようもないんだよ」
「おうおう、人のデスクを雑談サロンにしてんじゃねぇ」
主がパソコンの電源を落としながら、無駄にドスの効いた声を掛ける。
「いやぁ。用が済んだらここに戻ってこられるかなぁ、と思って」
「普通捜査本部でしょ。私のデスクを拠点にするな。つーか行き先聞いてないなら、電話すればいいんじゃん?」
彼女は帰り支度を済ませると、バッグを肩に掛けながら首の動きで促す。
松実はスマホをデスクの上に置く。
「繋がりませーん」
「松実さん、ついに着拒されましたか」
「デリカシーないもんな」
「そんなんじゃないでしょ!」
彼は恥を隠滅するように、スマホをシャツの胸ポケットに戻す。
そのまま拳を握って顔の横に持ってくるオーバーな動き。話題を完全にリセットしたいのだろう。
「もし犯人を追い掛けて、返り討ちにでもあってたら……!」
「じゃあなんとかしなよお巡り。とにかくやっとこさ残業が終わったの! もうここ閉めるの!
咲良が松実をドアの方へ、スニーカーの爪先で追いやっていると。
「千中さんいますか?」
追い出せるどころか、宮沢がニューエントリー。
彼女は怒り心頭。噴火するようにバッグを頭上に掲げる。
でも小さい。
「あーもう! 私のデスクを溜まり場にすんじゃねぇ!」
「えっ? す、すいません……」
来るなりキレられてかわいそうな宮沢だが、すぐに切り替えて松実の方を向く。
「松実、千中さんは? 科研に行ったと聞いたんだが」
「音信不通です」
「音信不通!? そうか、まえまえからおかし……変わった人物だとは思っていたが。ついに一周回って失踪に至ったか……」
「散々だな。本人にチクってやろ」
咲良がイタズラっぽい顔でスマホを取り出すと、松実が呆れた目を向ける。
「だから『電話繋がらない』って言ってるじゃないですか」
しかし高千穂よろしく、いや、この世の女性のセオリー。
彼を無視して電話を掛けると、
「……あ、もしもし」
「繋がった!?」
意外とすぐに通話が始まった。
松実は青年の肩をつかんで揺さぶる。
「あの人電話出る相手
「落ち着いてください!」
冬の夜は悲しい男に容赦なく寒さを突き刺す。
そんな彼を
「へー、なるほどなるほど。え、あ、そうなの! はぁ~、そりゃ大変だ。そんな無茶するもんじゃないよ。風邪引いたら元も子もないんだから。ていうか死ぬよ?」
「死ぬ!? あの人やっぱり命の危機なの!?」
「だったらあんな軽いノリで会話せんだろう」
「確かに」
「マジでぇ? いや、それはそうかもしれないけどさぁ。うん、まぁそこまで言うならさぁ、でもさぁ。うーん、ま、がんばってね。はい。はーい」
通話が切られると、松実がすごい勢いで距離を詰める。
「それで鹿賀先生! 千中さんはどちらに!?」
しかし彼女はそれに応えず、職員の青年の方を向く。
「ねぇ君、確か大きい車持ってたよね? 趣味がキャンプとかで車中泊も快適なやつ」
「えぇ、今日も乗ってきましたけど。それが何か?」
咲良は彼の肩をポンと叩く。
「ここは一発、かましたろうじゃないの。人情ってもんをさ」
ニヤリと笑う法医学ヤンキーだが、男三人は意味が分からず顔を見合わせた。
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