2.先輩
翌日。横須賀刑務所の面会室。
ガラスの衝立を挟んで若い男女が向き合っている。
片方は昨日と同じく囚人服さえ着ていなければ好青年、という翠だが。
ガラスを挟んで向かいに座っているのは
「うふふ、先輩。ご機嫌いかがですか」
「お前も煽り力高いよな」
顔立ちは人懐こいたれ目だが、
体躯は男性ほどではないが女性には長身と言えるくらいだが。
何より、首筋だけで充分窺える痩せっぽちの細っこさ。より彼女をよりヒョロ長く見せる。
その体躯を。
千葉のプロ野球球団みたいなストライプのボタンダウンシャツ。
モスグリーンのフライトジャケット。
レディースサンダル。
などという野暮ったい服装で包んでいる。
しかしいつもの。白地で左サイドに大きな黒の星マークが入ったハーフヘルメットとゴーグル。
いつもは室内でもかぶっていたりするのに、今日は装備されていない。
「今日はヘルメット被ってないのな」
「電車で来ましたから。まさか東京から横須賀までベスパは」
「それもそうか。で、この真冬にサンダルは寒くないのかよ」
「おや、先輩から角度的に私の足元は見えないはずですが」
「足を組み替えた時に床を踏んだろ。ゴムが薄くてコルクが厚いサンダルの足音だった」
翠が身を乗り出すと高千穂は笑って背もたれに沈み込み、首を左右へ振る。
「いいえ、先輩の判断はただの経験則です。私がサンダル愛用者なのをご存知なだけ」
「でも実際当たってるだろ?」
「我々の仕事では、証拠がないのに決め打ちで推理すると。『
「なんじゃそりゃ」
二人は軽く「ふはは!」と笑い合うと仕切り直し。
無駄に乗り出したり引いたりした体勢をナチュラルに戻す。
「にしても、昨日蒼姉ぇも面会に来てさ。面会多いのはうれしいけど、ちょっとやっかまれるんだよね」
「模範囚が面会多いのは、制度で認められた権利です。お気になさらず」
「オレが気にしなくても周りの問題なんだよなぁ」
「それで、蒼さんお元気でしたか?」
「当分は殺しても死ななそうかな」
「そうですかぁ」
話題が昨日の姉に飛んだことで彼も思い至ったのだろう。せっかく寛いでいた姿勢から、すっと背筋を伸ばして高千穂を見つめる。
もちろん今から言うことのために、自分の気を引き締める儀式でもあるが。
相手に心して聞いてもらうための前振りという面も大いにある。
「蒼姉ぇにも頼んでるだけど、高千穂も、いいかな」
「伺いましょう」
「小弦のこと」
彼女はすぐに答えず、鼻から深く息を吸って、吐く。
たっぷり間合いを取ってから、いつもどおりのニヤつきを浮かべてみせた。相手を気負わせないように。
「お任せください」
「ありがとう」
二人が人と人との絆というものを深く交わしていると、
『♪ポンポコポコポコポポポポポン』
それを嘲笑うかのように高千穂の携帯が鳴った。
「あ、失礼。即応しなければならい仕事なので、マナーモード禁止なんですよ」
「それは仕事というより、お前が電話を無視するから言い訳封じだろ」
「バレました?」
「それはいいから早く出なさい」
ペロッと舌を出す彼女に対して。翠はあざとさに騙されることなく通話を促す。
コールを会話でやり過ごす企みが透けているし。
何より人を騙せるほどあざとくない。
高千穂は渋々スマホを取り出す。椅子から立って、一応彼に背は向けるが。わざわざ距離を取ったりはしない。
マナーが悪いと言えばいいのか、気兼ねないと言えばいいのか。
「もしもーし」
『千中さん! 今ちょっとよろしいですか!』
通話口からは、余裕が微塵も感じられない男の大声が。スピーカーモードのように翠の方にまで聞こえてくる。
「よろしくあるかい。松実ちゃん
『休日なんて電話一本即終了代休なしが我々の常識でしょう!? たった今から出勤日です!』
「私に警察組織の常識が通じると思うなよ?」
「世の中にはここまで、双方とも筋が通らない会話が存在するんだな」
翠が呆れたように笑うと、彼女は素早く振り返る。
「先輩だって教師とかいう、日本の闇を詰め込んだみたいな職業だったじゃないですか」
「失礼な」
『は? 先輩? 教師?』
「うるさいなぁ。私今取り込み中なんだよ」
『こっちも大変なことが舞い込み中なんです!』
「それくらい今いるメンツで捌けよな」
高千穂はため息を吐いて、先輩をチラリと見遣る。
「それに今、一般の方がいるからあまり捜査内容は……」
しかし制止は間に合わなかった。
それを聞き遂げるより早く、松実が内容を喚き散らしてしまう。
『青梅市内
「え……?」
高千穂より先に反応を示したのは翠だった。
まずい。
彼女も事情を知っているので脊髄が震えたが、間に合わない。
「まさか、その、コテージって」
「ちょっと、先輩も松実ちゃんも、少し待って」
『遺留品から推測するに、亡くなったのはコテージに住んでいる東郷蒼さん、小弦さんであると思われます!』
「!!」
「あ……」
瞬間、翠はガタッと立ち上がった。あまりの勢いに、後ろで面会を見守っていた刑務官も腰を浮かせる。間抜けなくらいの驚き顔。
が、高千穂からすれば翠の。動きの機敏さとあまりにも釣り合わない、茫然自失の直立が不気味で。どこを見て何を考えているかも分からない。
『千中さん? 千中さーん?』
「ま、松実ちゃ」
「どういうことだ!」
『ひぃっ!?』
地雷かのように、瞬間で弾けた怒号。
そのあまりの大きさは、スマホに拾われて松実にも届いたのだろう。
高千穂の耳元で、言語として意味をなさない
「高千穂っ! スマホ寄越せっ!」
『いったい何事なんですか!?』
左右から大声で挟まれた彼女は、目元を抑えながら椅子に座った。
「高千穂っ!」
『千中さんっ!』
対応に困る高千穂だったが。
翠の方は暴れ兼ねないと判断した刑務官が、両肩を強めに抑える。
高千穂は先に松実の方を処理する。
「松実ちゃん、今しがた叫んでいらしたのはね」
『あ、はい』
「東郷さんのご家族」
『あひえっ!』
松実は間抜けな声を出したかと思うと、
『落ち落ち落ち落ち、落ち着いててて』
今さらにして、最初から無意味な宥めに入る。これ以上興奮状態の松実を相手していてもしょうがない。
かと言って、捜査上の話を翠に聞かせるわけにもいかない。高千穂はまず通話を切りに掛かる。
刑務官の方も「もう帰ってくれ」と目で訴えている。
「じゃあ松実ちゃん。私は東京へ戻りますから、東京駅まで迎えに来といてください。以上」
『あちょっ……』
まず片方を始末し、次は現行犯で組み伏せられる一歩手前かのような翠。
顔を近付け、努めて優しく言い含める。
「先輩。まだ捜査上の機密が多いので、細かいことは言えませんし私も分かりません。ですが必ず、私が全てはっきりさせてご報告に上がります。今はそれでどうか」
彼はもはや、起きた惨劇が彼女の仕業かのような
「……本当か?」
「お約束します。蒼さんに小弦さん、私だってまったく知らない人じゃない」
「……頼むぞ」
絞り出すような声に、高千穂はゆっくり大きく頷いてみせる。
「はい。では急ぎますので」
終始困り顔の刑務官は、必殺のウインクで誤魔化しておいた。
東京駅に降り立った高千穂。
ロータリーへ出ると、車の運転席の窓から顔を出している松実の額を叩いた。
「ぎゃあ」
「君ねぇ、一般の方がいるのに内容ベラベラしゃべるんじゃないよ」
「そんなの電話口で分かるわけないじゃないですか!」
助手席に体を滑り込ませる。
「あと声も大きい。周りに声が撒き散らされてるんだよ」
「じゃあイヤホン使ってくださいよ」
「それと君の運転は酔うから、タクシーにしてもらえない?」
「無理です。現場の細かい住所忘れたので、運転手さんに注文できません」
やれやれと首を振る彼女に対して、今度は松実が車を発進させながら話を振る。
「そう言えば千中さん。もしかして僕が電話するまえにもう、話行ってました?」
「どうして?」
高千穂は窓の外を眺めて、彼の方を振り向かない。
「どうしてって。電話している時、東郷さんのご遺族と一緒だったんでしょう?」
「うん」
「ご遺族の方を訪問なさってるってことは。事件を聞いて、ご自身でいろいろ動いてらっしゃったのかな、って」
「あぁ、違うよ。普通に個人的な用事で会いに行ってた」
「へぇ! そんな偶然あるんですね! 男性の声でしたけど、元カレとかですか?」
「君は本当にデリカシーがないねぇ」
彼女はずっと外を見たまま。いや、あるいは何も見ていないのかもしれない。
いつの間にか開けている窓から流れ込む風を受けて。
今日はヘルメットに覆われていない髪が、意思なく揺れている。
その表情を窺い知ることはできないが、さすがの松実でも大体の想像はついた。
何しろ高千穂の声が、分かりやすく一段低かったのだから。
「元カレではないけど……、大学のサークルの先輩で、すごくお世話になって、そんで……
私が逮捕した人」
「えっ」
松実の、驚いたのか聞き取れなかったのかすら分からないような。つまりはそれくらいの不意打ちを受けた声に、高千穂は答える。
しかしそれは、彼が聞きたいこととは違う内容でもあった。
「だからね、私は蒼さんも小弦さんもよぉく知ってるし。少なからずショックは受けているんだよ」
基本人の気持ちを測れないトンチンカンの松実だが。
今回ばかりは意図的に返事をずらされていること。無理に踏み込んではいけないことを、静かに理解した。
だからこそ、自分より鋭い高千穂がさらにそれを理解して、
「めずらしく松実ちゃんがまともな組み立てで推理したと思ったら。そもそもの前提が大ハズレだったねぇ」
茶化してくることも予想できた。
「……ショックの割には、僕やご遺族の方を落ち着いて捌いてましたね。泣きも取り乱しもしなかった」
「当たりまえでしょ。目の前に
彼女は窓辺に寄せた体を揺らす。おそらくは、サイドミラーに映る自分の顔が見えない角度に調整したのだろう。
松実はルームミラーを少し自分側に傾ける。
「だったら……。今ここには、千中さんより悲しんでる人、いませんよ?」
高千穂は一瞬ピクリと頭が動いたが、数秒は何も言わなかった。
ややあって、ようやく絞り出された返事は。
窓から風を浴びすぎて乾いたのか
「バカ言えよ、バーカ」
喉が掠れていた。
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