白雪姫とシンデレラ
1.悲劇は降り積もる雪のように
──やりすぎなどということはない。あなたを愛しているのだから──
ここは
片や柔和そうな顔立ちで、大柄ではないながら。スポーツ経験者のように均整の取れた、美しいシルエットの女性。
特別長いわけでもない後ろ髪も。強引にまとめればギブソンタックと言えなくもないか。
片や爽やかな顔立ちで身長が高く。こちらもバスケットやバレーで活躍しそうな、細めで逞しい体躯の男性。
さっぱりした髪型も好印象を与える。
「ありがとう
「まぁ、暇だしね」
「それでも、さ。
男性は心底心配している顔を浮かべる。指で机をトントン叩き、落ち着かない様子。
「あのクソガキ
「犯罪者たちが蒼姉ぇたちと同じものを、税金で食べてたら嫌でしょ」
「当たり前じゃん。このガラス割って引きずり出してしばき回すよ?」
「勘弁してよ」
蒼姉ぇこと
翠坊こと翠もオーバーに宥める。
しかしそんな姉弟の
彼女が椅子に座ったのを確認した翠が、真面目な声を出す。
「それでさ、蒼姉ぇ。
「元気になったよ。でも相変わらず『翠くんに会いたい』とはよく言ってる」
「そっか……」
彼が少し俯くのを見て、蒼は取りつくろうように明るい声を出す。
「ほら! 青梅の山のコテージなんてさ! この時期は雪
「蒼姉ぇも爽さんもすごいよね。普通元カレ元カノって、そんなに関わりたくないもんじゃない? 家も近所のままでさ」
「分かってないなぁ。私たちは友達でいるのが一番だって気付いただけなの。だから今でも最高の友達」
「ふーん。ところで蒼姉ぇ」
翠はガラスの衝立へ、額を付けんばかりに乗り出す。真剣な表情である。
「コテージって、小弦まだあの家に住んでるの?」
「うん」
軽い頷き。
この軽さは、相手に気を
「私も『そこは寒いしウチにおいで』とは言ったんだけどさ。あの家に残るって言って聞かないよね。『この家で翠くんを待つ』って。だから私の方がそっちに住み込んでる」
「……ごめん。小弦の面倒見てもらうだけでも感謝し切れないことなのに。あいつのわがままで不便なところに行かせて」
深く頭を下げる弟に対し、慌てて手を伸ばす姉だが。
それは無情にも、分厚いガラスに阻まれる。
「気にしないでよ! あの子目が見えないんだからさ。ずっと暮らしてた家の方が、安心安全に過ごせるでしょ? その方が私もやりやすいからさ! ほら、私だって仕事あるから。いつもいつでも隣で見てるわけにもいかないから」
「それは、うん……。でも仕事っていうなら蒼姉ぇ、バイクで雪の山道を通勤するのは大変でしょ」
「それはぁ、まぁ、ねぇ。買い物は爽をパシってるからいいんだけど」
話題をゆるやかにずらしてやると、翠も釣られて笑ってくれた。
「あんまり爽さんに迷惑掛けるもんじゃないよ」
蒼はここぞとばかりに胸を張って見せる。
「へん! 小説家で? 金持ちの御曹司で? 時代劇か
「分かった分かった」
蒼のラッシュを楽しげに眺める翠だが、楽しい時間はすぐに終わってしまう。
後ろに控えている刑務官が椅子から立ち上がった。時間である。
それを気配か。あるいは椅子の音で察した彼は、居住まいを正して姉を見つめる。
「蒼姉ぇ」
「なんでしょう」
改めて、深々と頭を下げる。しかしそれは今までの卑屈な申し訳なさではなく。
心の底から姉を頼り妻を愛する男の、身も
「小弦のこと、お願いします。お願いします……」
蒼も背筋を伸ばして頷く。
先ほどのような軽さではなく、決意の強さを示すような深い頷き。
「大丈夫。私にとっても
蒼がコテージに帰ってバイクの整備をしていると、後ろに小弦が立っていた。
「蒼ちゃん。カチャカチャ鳴らして、バイクが壊れたの?」
彼女はガラスの引き戸を開けてはいるが、縁側には出てこない。目が見えていないので、うっかり落っこちる可能性がある。
「あぁ、違うよ。
「そう」
「そんなにバイクが気になる?」
先を促してやると、小弦はポンと手を打つ。
「あ、そうそう。そうじゃなかったわ。
「あー、はいはい」
鉄雄。
その付き合いは卒業後も続いてはいるのだが。向こうも仕事や家庭があるだけに、昔ほど顔を付き合わせる機会はなかった。
「急にどうしたんだろうね、めずらしい」
「分からないわ。でもせっかくだし、お酒用意して待ってましょう」
「じゃあフライングして飲まないように」
「それはそれよ」
「まったくもう」
小弦は大酒飲みである。元から目が見えていないので、酔っ払ってフラフラすると危ないことしかない。
それを翠が甲斐甲斐しく手を引いていたのは、姉にとっても幸せな光景だった。
蒼が思い出に
引き戸が開いているので、冷たい外気に晒されているのだ。
「それにしても寒いわね」
小弦が両腕を
それを見て
息が真っ白な寒さ。道理で私も、感傷的なことを思い出すわけだよ。
と、一人苦笑する彼女の鼻先に。
冷たいものが落ちてきた。
「あ! 雪降ってる!」
「ドカ雪になるわね」
目が見えない分、他の感覚が鋭敏なのか。小弦も何かを感じ取っている様子。
携行缶の取り付けも終わったので、腰を上げて空を睨む。
「今から雪かきの覚悟決めとくか」
「鉄雄くん来られるかしら」
ここは東京。しかし青梅含む
夕方と夜の境目くらいか。蒼と小弦はCMみたいにクリームシチューを煮込んでいる。
蒼がふっと窓の外を見ると、紫の日没を吸い込んだ雪がパラパラ、パラパラ。
「このままだとマジな積雪になるね」
「タクシーとか止まっちゃうわ。鉄雄くん、来られないならまだしも。途中で立ち
「まぁ最悪、麓からここまで歩いて来れないこともないし」
「それは我々慣れている人間の言い分よ」
二人が稀な来客に思いを馳せていると。
ゴンゴンゴン
と重い木製ドアをノックする音。
インターホンは蒼が切ってしまっている。
一時期マスコミの応対で、小弦が不安定になったから。
「噂をすれば、だね」
二人が玄関に出ると。そこには仕事から直で来たようなスーツ、コート、マフラーの男。
「いらっしゃ~い」
「……あぁ」
喜んで出迎えた小弦だが。まず目の見えない彼女が、他の感覚から異変を感知する。
「あら? 鉄雄くん、またエラく飲んできたのね。お酒臭いわ」
「あぁ……」
そんな二人のやり取りを、小弦の肩越しに見ていた蒼だが。
この時間から酒臭いのもそうだけど……。
仁科の様子が全体的におかしい。
今まで仕事へ行っていた格好の割には、髪はボサボサで無精髭が生えている。
クリエーティブ系なら、ギリギリ? まだしも? だが。商社じゃ上司はもちろん、受付にも「おはようさん」できる状態ではないだろう。
そして何より。
何年もまえとは言え、記憶の中の実直だった仁科のイメージ。何一つ
「仁科くん、なんか変わったね」
「そうでしょうか。……まぁ、いろいろあったもので」
別にお互い険のある空気を出したわけではないが、なんとなく硬直してしまう。
それを察したかどうかは知らないが。
小弦は壁をコンコン、と叩いてアテンションを取った。
「ささ、入って入って。ドアを閉めないと凍えちゃうわ」
早めの時間に陽が落ちて、そこから少し経って晩御飯どき。
蒼はキッチンでシチューを温めなおしながら、窓の外を見る。
「や~、すごい雪だねぇ。これ仁科くん帰れないんじゃないの?」
「むむ……」
「だったら泊まっていけばいいのよ。ね、鉄雄くん?」
「いいのでしょうか」
仁科がリビングから、伺うような視線を蒼へ投げてくる。
こういうところは昔のままなんだけどな。
相変わらず礼儀正しいを超えて、やや控えめが過ぎる男。こちらも昔のように優しく笑い掛けてやる。
「いいんじゃん?
「では、雪が深くなったら」
「よしよし」
ちゃんと素直なところも相変わらずである。
なのにどうして、あんな冴えない身嗜みに……
意識を取られていると、シチューのルーが沸騰して跳ねた。
「あっ、シチュー
気にするまい。
蒼は皿を取りに食器棚へ向かった。
人は誰だって事情があるものだ。小弦にだって、仁科にだって。
「かんぱ~い」
白ワインのグラスをご機嫌で掲げる小弦。
こりゃ今夜も大変なことになるな……。
実は蒼も結構な酒好きなのだが。今日も介抱のために、そこそこの酒量で済ますことになりそうだ。
なのでもう一人犠牲者を確保しておく。
「もう君はあまり飲まないように」
「はい」
そもそも仁科の様子を見るに、これ以上酒が進むとも思えないが一応。
しかしさっきから口数少なく、短い返事しか答えない。空気を少しでも動かそうと、小弦が軽いノリで口を挟む。
「それにしても、今日はまた一段と無口なのね」
相手の胸に
小弦が触れてしまったので、蒼も全力で茶化しに掛かる。
「急に遊びにくるって言い出したかと思えば、浴びるほど飲んでくるし。せっかくの早上がり、そんなことしてないでさぁ。家族サービスしなきゃいかんのと違うか?」
瞬間、仁科の顔が色を失う。蒼はマズいと思ったし、目の見えない小弦ですら不穏な何かを感じ取って肩が動く。
しかし二人が何か取り繕うまえに、彼は重い口を開いた。
「……その家族に、捨てられました」
「……」
「……」
「離婚のうえに娘は托卵……。何もかも失ったどころか、娘の教育費が他人の養育費になるという……」
場の空気が、窓を開けた方が暖かいんじゃないかと思えるほど冷えていく。
「ご、ごめん。悪いこと言っちゃった。お互いキツいからその辺にしとこう……」
「はい」
「じゃ、じゃあ今日はもう飲みましょう! ほら! 鉄雄くんも!」
小弦が目の見えないなりに鉄雄へワインを勧めるのを、今度は蒼も止めなかった。
三人はシチューが冷めるまえに没頭し、微妙な空気はアルコールに混ぜて溶かしてしまった。
「うふーふ、ふっふっふっふっ……」
そこから食後にいろいろ引っ張り出して。一時間ほど飲み食いしただろうか。
「小弦ちゃん完全にデキ上がってるね」
「そのようで」
何がおもしろいのか、真っ赤な全自動笑いマシーンと化した彼女。それを眺める蒼と仁科。
「むひゅひゅひゅひゅ!!」
「あーもうアカンわ。こらもうアウトやわ。仁科くん、寝室運んだって」
「それはいいですけど、なんで関西弁なんですか? 蒼さんも酔ってますか?」
「アテーは風呂沸かしてくるぜよ」
「なんですかその一人称」
蒼は答えず風呂場へ行ってしまったので、彼も小弦を抱えて彼女の寝室へと向かう。
「小弦さん、寝室はどこだ」
「ふすっふすっふすっ」
「なんだそれは……。蒼さーん! 小弦の部屋ってどこですかーっ!?」
「えーっ? 廊下出て真っ直ぐ行った部屋ーっ!」
「分かりましたーっ」
仁科はそのまま、お姫さまを部屋へ連れていく。
「ほら小弦さん。部屋に着いたぞ。もう寝てしまえ」
小弦の寝室。仁科が彼女をベッドに下ろすも、彼女は
「やぁよぉ、まだお風呂入ってないもの」
「そんな酔った状態で入れるものか。おとなしく寝ろ」
「大丈夫よぉ~、翠くんが入れてくれるもーん……」
自爆とはこういうことを言うのだろう。
「……翠くん」
今なおくっきり覚えている、愛する夫と過ごした日々の記憶。
それが失われてしまった悲しみ。
再確認してしまった小弦は、幼児のように体を丸めて
「う……、う……」
「……」
こうなっては仁科も閉口するしかない。
しかし一人にもしておけないので、所在なげに隣へ腰を下ろしたのだが。
「う、うく……」
「!」
乱れ髪にやや赤くなった目元。むずかるようなあざとい仕草。
それらが悲しんでいる女性という状況の中に、色っぽく存在するのを。
彼は見てしまった。
お、オレは今、泣いている友人に、友人の妻に何を考えた……?
鋭い背徳感と罪悪感が彼を貫く。
こんなことあってはならない、と。
しかし、分かっているのに、目線がまた小弦の方を向いてしまう。
友人の妻……? 背徳感……? いや、そもそも悲しんでいる女性に劣情を
もう人として許されない罪深さじゃないか。どうせ。
ここ最近の、家庭崩壊による精神的疲労。
そういったものも相まって、何がなんだか分からなくなってきた。
今抱えている背徳の罪悪。その基準も意味も、
その先も。
「ふいーっ」
蒼は風呂掃除を終え、中腰から体を伸ばしつつ一息吐いた。
「さぁて、ちゃっちゃと沸かして小弦ちゃん丸洗いして。仁科くん、どこで寝てもらおうかな」
押し入れに毛布が余ってたから、最悪それとソファで寝てもらおうかな?
このあとの予定を組み立てていると、
「いやぁぁーっ!!」
「小弦ちゃん!?」
急に小弦の部屋から。彼女の悲鳴が、空気を切り裂くように飛んできた。
蒼は足を拭くのも忘れ、一気に廊下へ飛び出していく。
「小弦ちゃんどうした!」
部屋へ駆け付けた蒼が目にしたのは、信じられない、
いや、信じたくない光景だった。
「いやっ! 放してっ!」
「おとなしくしろっ!」
仁科が小弦をベッドに押し倒して、その上に乗ろうとしている。
どうやら間一髪決定的なことには至っていないが。それでもまずい状況であることには変わりない。
蒼は小弦の胸元に手を掛ける仁科へ、後ろから思い切り組み付く。
「お前何してんだっ! 放せっこのっ!」
しかし悲しいかな。世の中には覆すことのできない、根本的な性差というものがある。
仁科の振り回した腕が蒼の頬を捉える。すると彼女は、いとも
頬を抑えながらも起き上がろうとする彼女を、仁科が振り返る。その目に映ったのは
完全にタガが外れてる……!
血走った目がギラつく、恐ろしい男の欲望だった。
「暴れるな! 蒼さんもだ。痛い目に遭わされたいのか?」
「やめて! あなた酔ってるのよ!」
組み敷かれた小弦が足をバタつかせて叫ぶ。
が、もう仁科には、彼女という一個人の存在が見えていない。
「この野郎……!」
蒼がもう一度仁科を引き剥がすべく腰を浮かせると。
彼もサイドボードの電気スタンドを手に取った。明らかに鈍器となりうる重量を持っている。
「動くな。傷ついた顔で東郷の面会に行きたくはないだろう」
「!!」
その一言で、小弦の顔が青ざめて固まる。
瞬間、蒼のこめかみで、何かが千切れるような感覚が響いた。
「この野郎ォ!!」
その日の夜遅く。二人の女性が住んでいる山奥のコテージ前で。
二つほど火の塊が強く光ったのを、果たして誰かが見たのだろうか。
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