2.熱狂的ファン
ここは都内のコンサートホール『Musica-polis』の正面玄関前。
この寒さで出掛けたくなくなる時期に、異常なまでの人が集まっている。
その理由は、敷地の入り口あたりでスタッフが掲げているプラカードを見れば明快。
『MUGI.ライブ会場はこちら→』
そう。この『ピラミッド建設に協力してくださった労働者各位』みたいな人だかり。
なんと壮大な事業どころか、ただ一人の人間のために集まっているのである。
その中に、野暮ったい服装のヘルメット女とスーツの小男が……。
「見てください千中さん! すごい人!」
開場を待つ人の波で揉みくちゃにされながら、松実は興奮気味の声を出す。
対して高千穂は、
「ふーん。『和歌山県
新聞を小さく広げ、読み
「新聞なんか読んでないで! ほら! すごい人!」
「『侍ジャパン、荒木被告の補充で追加招集の
「千中さん! 見て! 人!」
松実が新聞を持つ手を揺すってきたので、彼女はようやく紙面から目を離す。
「あのねぇ。人が多いくらいで、おのぼりさんみたいにはしゃぐんじゃないの。スクランブル交差点でも行ってなさい」
「いやぁ、こんなの迷子が出ますね!」
「あぁ見たくない見たくない。人酔いするよ、こんなの」
高千穂がまた新聞に逃げようとするのを、彼は横から取り上げる。
「そんなの見てないで楽しまないと!」
「私たちはライブを楽しみに来たんであって。人混みは関係ないんだよなぁ」
「あっ! なんかキッチンカー来てますよ!?」
「松実ちゃん君、無駄使いするんじゃないよ。あと新聞返して」
「しません! あ! よく分かんない韓国フード!」
「……」
新聞を持って行かれた彼女は、呆然と松美の背中を見送る。
が、
「間もなく開場いたしまーす! 順番を守って、決して押し合うことなくご入場くださーい!」
逆に彼を置いていくことにした。
ここは『Musica-polis』内の、MUGI.控え室。
衣装(といっても、割とラフで普段から着ているブラウスやガウチョパンツなのだが)の紬、
いや、MUGI.。
中継のテレビカメラをセッティングしている透子の背中に話し掛ける。
「じゃあ透子ちゃん、そろそろ行ってくるね」
唯一普段の格好とは違う、手袋は見られていないことを確かめながら。
「留守番ですね。のんびり中継見ながらやりますよ」
彼女が振り返った時には、手袋はすでに後ろ手で見えなくなっている。
「あと衣装」
「はい、覚えてますよ。『星座』の時にですよね。着替えを持ってきて、脱いだのを受け取って帰る」
「うん。そこのキャスター付きのケースに入ってるから。お願いね」
部屋の隅には特大のケース。他の細かい荷物があるにしても。
高々衣装を入れる程度には大きすぎることなど、彼女は思い至らない。
本当に、短絡的な頭なんだから。
ついでに透子は、表情からMUGI.の思考に思い至ることもない。
陽気にドンッと胸を打つ。
「もう完全にお任せください!」
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
見送られながら廊下に出た彼女は、胸元に着けたピンマイクのスイッチを入れる。
スタッフとの連絡用だが、それ以外にも役割がある。
「あー、あー、聞こえてる?」
耳に取り付けられたインカムに返答がくる。
『バッチリでーす』
「はぁい。今楽屋出たところでーす」
『了解でーす」
「あ、そうだ。しっかり音声録音しといてね?」
CDの特典なんかで、ライブ音源バージョンとして使用するためである。
撮影カメラにもマイクは付いているが。ミスや音割れ、位置関係による録音の不備が起きるかもしれない。選択肢は多い方がいい。
連絡も済んで、全ての準備を整えたMUGI.はステージへ向かう。
そう、ライブもそれ以外も、全ての準備を。
廊下にコツコツとこだまする足音には、確かな力がある。
一方こちらはサブ。簡単に言えば裏方スタッフが詰めている場所。マイクの音量調節から照明や舞台装置の操作まで、忙しい部署である。
そこでスタッフたちがヒソヒソ会話している。
「どうする? まだ歌始まってないけど録音始めとく? 忘れたら大変なことになるし」
「もう録音してるよ?」
「えっ? じゃあさっきの会話も入ってるってこと?」
「そんなの編集で切ればいいの」
「それもそっか」
会場内。暗闇の中で群衆がざわついている。
ロックスターの登場を今か今かと待ち侘びる期待と
高千穂と松実もその群衆の一部であり、ざわつきに一役買っていた。
「暗いね」
「この暗さがワクワク感を増大させるんですよ!」
「ふーん」
なんとも冴えない返事の高千穂だが、彼女も別段楽しんでいないわけではない。むしろ期待を込めてステージを見つめている。
そんな視線が集まる舞台上。実はMUGI.もすでにスタンバイしている。あとは照明がついて曲が流れるだけ。
彼女は観客に聞こえないよう小声でピンマイクに話し掛ける。
「いつでもいけます」
サブにて。GOサインを受け取ったスタッフの一人がパワーレベルを押し上げる。
「照明、点灯!」
「眩しっ!」
バッ! と強力な光の塊が客席に叩きつけられると同時、
『嫌いだってんのよアンタ 言われるだけ有情なのバーカ ’’なんで’’なんて聞かないで
「ワアアアアアアァァァァァァァ!!」
逆光に映し出された女性のシルエットと、力強い声で恨み節連発なリリック。
引火した観客たちが地鳴りのような歓声を上げる。いや、もはや悲鳴や絶叫と言える。
「うわぁ耳に来る」
ヘルメットの中で反響するのか。歌より悲鳴にクラクラしている高千穂の真横で
「きゃあああああああ! わあああああ! いやあああああ!」
「そんな死体でも見たみたいな……」
松実は頭のネジが全て飛んだうえで、改めて溶接されている。
「一曲目からハスキーなロックで入ってくるとは!」
間奏の合間に松実が、壊れた脳みそで興奮を垂れ流す。
「それすごいの」
「きれいな声と高い歌唱力で優しいロックを歌うのが特徴ですから! MUGI.にはめずらしいスタイルです!」
「それは知ってる。ロックシンガーなのにね」
「なのにこれを一発目に持ってくるなんて! 初っ端からボルテージマックス! ちなみにディープファンの間ではこういう感じの曲を『やさぐれMUGI.』と!」
「へぇ。ライトなファンなんで」
すでになんだかお疲れかもしれない高千穂。
おそらくライブに向いていない。
「始まりましたか」
控え室。快適そうに椅子へ沈みながら中継を見ている透子。
彼女の傍らにはたまり醤油の美味しい煎餅と、魔法瓶の緑茶。
頼んでスタッフとして連れてきてもらったはずだが……。特に何か役立つ気はなさそうな寛ぎ具合である。
仕方ない。彼女はただ紬が好きでくっ付きたいだけなのだから。
それはそうと。高千穂もライブより、こっちのスタイルの方が楽しめるタイプだろう。
会場では最初の一曲が終わり、軽いオープニングトークが始まっている。
「みんな! 今日は集まってくれてありがとう!」
「ワアアアアアアァァァァァァァ!!」
「最後まで楽しんでいってください! じゃあ早速次の曲! 『だったんだな』!」
「ワアアアアアアァァァァァァァ!!」
観客の歓声もじゅうぶん破壊力に満ちているが、
「イェアアアアアアアアアアアア!!」
「しんどくなってくる……」
高千穂には特別松実の声が効く。蚊と蚊取り線香くらい効果抜群である。
その後もライブは
「『charientism』!」
「『スペクトロライト』!」
「『オノマトマニア』!」
「『僕らが群青だったころ』!」
「ホアアアアアアアアアアアア!」
「よく声が出るね……」
新しい曲に入るたび、着実に高千穂の精神を削り取っていく。主に松実の絶叫が。
そういう意味では、せっかくのライブなのに。
歌っていない
「みんなーっ! まだまだ元気かな!?」
「おおおおおおおおっっっ!!」
もちろん言うほど休憩にならないトークもある。
「そっかー! 元気なのはいいこと! まだまだ盛り上がっていこうか!」
「イエーッ!!」
「……ちなみに私はもうしんどいです。誰か酸素持ってない?」
「わはは!」
「だから次は私の延命措置として、静かでゆったりした曲にしようか。というわけで私も思い入れのある一曲、『星座』」
「ピャアアああアアアアアアアアアア!」
「私もう二度と松実ちゃんとライブ行かない」
松実含む観客たちの奇声じみた歓声が治まるのを見計らって。
丁寧で清らかなイントロが流れはじめる。
「お」
控え室で煎餅をかじっていた透子。注目していたイントロが流れはじめた。
口の中を
「『星座』ですね。ということは、衣装衣装っと」
彼女はかじり掛けの煎餅を置いて立つと、キャスター付きケースを引いて控え室を出た。
「『遠いこの星のどこか だけど同じ空の下 あなたには何座が見えますか ねぇ』」
「ワアアアアアアァァァァァァァ!」
曲が終わると同時に。
雄叫びのような歓声、パチパチパチパチと万雷の拍手がホールを揺るがす。
「ヒューヒュー!」
松実もうまくない指笛で、必死にロックスターを讃えようとする。
「家でテレビ中継にするんだったかなぁ」
その横で高千穂は疲労困憊である。せめて座れたら楽かもしれないが、そんなことは許されない。
ステージではMUGI.のシルエットもお疲れらしい。肩から掛けたギターの重みに引かれるかのごとく、少し姿勢が前傾している。
「ありがとう! みんな大丈夫? 元気? 私は汗かいちゃった。ちょっと着替えてくるね。だからみんなも、ちょっと休んで。休憩!」
なおも鳴り止まない拍手に見送られ、観客に手を振りつつピンマイクに小声で囁く。
「休憩入ります。五分で戻ります」
舞台袖に退がったMUGI.を見送った松実は、
「着替え!? ってことは楽屋に戻るのかな? 今楽屋に行けばMUGI.に会えるかも!?」
ややストーカーじみた思考を発揮しはじめた。
こんなんでも現職の警察官なのだから世界は不思議に満ちている。高千穂にも解けない謎はあるのだ。
「正体不明でやってる人なんだから、迷惑になるよ」
ぐったりしつつも、一応まともな注意はできた高千穂だが。
瀕死の人間の声が、錯乱状態の思考宇宙人に届くはずはない。
「まぁまぁ」
「やめなさいったら」
「行ってきまーす!」
制止虚しく、彼は後ろの観客たちの壁に分け
呆れて視線を舞台の方へ戻した彼女は、今更ながら気付いたことをポツリと呟く。
「……あいつそもそも楽屋分かるのか?」
MUGI.が遠くなる観客の歓声と拍手に押されるように舞台袖へ下がると。
そこにはキャスター付きケースの隣で拍手をする人影が。
彼女はまるでこの喝采が、自分のことかのように笑う。
いや。この万雷を一身に受ける女性を、恋人として自分だけのものにしている事実が。彼女に大きな恍惚と優越を与えるのだろう。
まぁそれはMUGI.、いや、紬にとって関係ないことだ。彼女はそっと無線マイクの電源を切る。
「紬さん、お疲れさまです」
拍手しながら
「しーっ」
「大丈夫ですよ。お客さんざわざわしてるから聞こえっこない」
透子はカラカラ笑いながら、着替えの入ったケースを渡す。
「……そうだね、聞こえないね」
受け取る紬は薄く笑った。
ポケットから鍵を出し、横倒しにしたケースの鍵穴に差し込む。
「ん……」
「どうしたんですか?」
紬が妙な呟きとともに硬直したので、気になった透子がこちらへ寄ってくる。
「いや、鍵がちょっと固くてさ。透子ちゃん開けられる?」
「はいはい」
手招きされて隣にしゃがみ込んだ透子。
鍵に手を掛けると、なんの抵抗感もなく回った。
「開きましたよ。全然固くない」
「ありがとう」
紬が優しく微笑んで、ケースの蓋を押し上げると。
中には、衣装とタオルと
ナイフ。
「えっ」
瞬間、紬は透子の口を押さえ、胸にナイフを突き立てる。
「むぐっ……!」
鈍く呻いた彼女を、そのままケースの中に押し倒すと。
紬はナイフを引き抜き、傷口に畳んだタオルを宛てがい、テープで固定する。
紬が着替えに取り掛かる頃には、透子もピクリとすら動かなくなっていた。
前の衣装からピンマイクも付け替え、ケースの蓋を閉じて。
全て完了した紬は
「五分も経ってないな。よし」
腕時計を確認し、満足そうに呟いた。
正直不安だったが、やると決めれば手際よくやれるものである。ライブのアドレナリンも手伝ったか。
そう、ライブ。
今度はまたライブへ頭を切り替えなければならない。
彼女はそのスイッチかのように、ピンマイクの電源を入れる。
「終わりました。入ります」
またも網膜を刺激する強いライトが焚かれ、舞台袖からMUGI.が戻ってくる。
それを合図に、クールダウンしていた観客も一気に自爆するような歓声を上げる。
「お待たせーっ! じゃあ張り切って次行こう! 次の曲なんだけどねぇ。これは大切な大切な人に捧げるために、ついこのまえ作った新曲です』
「おお~!」
「じゃあ初お披露目行くよ! 『Feather U』」
「うわあああああ!」
「松実ちゃん間に合わなかったな」
客席が興奮でわちゃわちゃになっているのとは別の意味で。
サブは少し慌てていた。
「こんなの予定にあった?」
「聞いていません」
「セトリにも載ってませんよ!?」
「音源とかもらってないけど、どうすんだろう」
「あ。ギター弾きはじめたんで、そういう曲なんじゃないですか?」
「アコースティックバージョン的な?」
「じゃあ、まぁ、いっか」
MUGI.の方からも何一つ連絡がない。スタッフたちは休憩を延長することにした。
「みんな! 今日は楽しんでくれたかな?」
それから何時間経ったか。
最後の一曲を歌い終えたMUGI.。高らかにギターを掲げると、観客たちは最後のエネルギーを放出する。
「わああああああ!!」
「それじゃ、名残惜しいけどさようなら。次、また会えるときまで!」
「ヒューヒュー!!」
ファンってありがたいな。
もはや喝采が混ざりすぎて、一つ一つの音を認識できないくらいの圧。
力強く背中を押され、彼女は舞台袖に下がった。
さて、今度は。
熱狂的すぎて、無念な結果になってしまったファンを……
なんとかしないとね。
紬はケースを引っ張って楽屋へ向かう。
キャスターをゴロゴロ言わせながら、廊下をある程度歩いたあたり。インカムから声がする。
『拍手も拾わなくなったので、そろそろ録音切りますか?』
「あぁそうだね。お願い」
彼女はケースをチラリと見る
「もう全部、終わったしね」
控え室。戻ってきた紬はケースから、透子の死体を取り出した。
中を確認すると目立った汚れはない。タオルがしっかり血を吸い取ってくれているようだ。
なんでもイギリスの特殊部隊が、現場に血痕を残さないよう。こういうことをするんだとか。
「よし」
彼女はタオルからテープを剥がすと、透子の手を乗せる。
そして、ナイフを近くに落とした。
「……これで、おしまい」
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