さよならロックスター

1.知ってはいたけれど

──『知られたくない』ならまだしも、『知られてはいけない』ことはないに限る──






 夏場はぬるく心地よい太平洋の海風も、冬になれば鎌鼬かまいたちのような鋭さを身に纏う。

 ここはそんな和歌山の夜。

 その夜空を切り裂く、とは言わないが。敷地は広い豪邸、の明かりが灯った一室。

 大きなテレビや高級家具。みんなの憧れ大きな暖炉。マンションの一世帯分くらいはありそうな、広いリビング。


 そこに若い女性が二人、ソファーに並んで座っている。

 相当仲がいいのか、肩がくっ付かんばかりにピッタリ距離が近い。


「急に和歌山まで押しかけてきて、いったいどうしたの?」


 向かって右に座っている女性が優しく話し掛けると。

 向かって左の女性はうれしそうに、鞄から封筒を取り出す。


「へへへ~見て見て! MUGI.のライブチケット!」


 どうやら有名アーティストのライブチケットのようだ。


「おや、すごい。倍率すごくて手に入らないって聞いたけど」

「うらやましい? うらやましい?」

「はいはいうらやましい」


 向かって右の女性、丹下紬たんげつむぎは曖昧に笑った。


 もちろん「うらやましくない」とは言わない。言えない。

 なんたって、日本ナンバーワン女性アーティストの呼び声高い歌唱力。作詞作曲のセンス。高音ハンドベルのように玲瓏れいろうな声。


 そして、正体不明というミステリアスなカリスマ性。


 それらを兼ね備えた大人気アーティストMUGI.のチケット。そんなもの、発売直後のPS5より手に入らない。

 だから、それを手に入れた姉、羽子はねこ。うらやましくないとは言えない


 


 彼女がうらやましくないと言えない理由、それは


「大ファンでさぁ。やっっっっっとチケット買えたんだよね」

「よかったね。おめでとう」

「あー、一度でいいから会ってみたいなぁ~! 握手してほしい」

「……」



 ……今、目の前にいるよ。



 そう。紬がMUGI.その人なのである。


 MUGI.は麦ではなく紬のなのだ。

 だから迂闊に「うらやましくない」とか言って、


『Q. なぜうらやましくない?』

『A. 自分のライブのチケットだから』


 という会話の流れになっては困るのである。

 何せ『正体不明のアーティスト』というスタイル。極少数の仕事関係者を除いては、現にこの姉のように。

 家族相手にすら貫いているのだから。

 まぁ、こんな豪邸に住める収入があることや。そもそも歌声でバレているんじゃないかと思わなくもないが。

 そんなぐるぐる回る思考を当然知らず。羽子は自慢してくる。


「紬ちゃんも好きでしょ?」

「まぁね」

「紬ちゃんの分も買ってあげたかったんだけど、無理だったよ残念。一緒に行きたかったねぇ」


 一ファンが自分というアーティストをここまで支持してくれるのも。大好きな姉が自分の歌をここまで評価してくれているのも大変うれしいが。

 さすがの紬も少し面倒臭くなってきた。

 彼女は話題を変えてしまうことにする。


「はいはい、見せびらかすなら奪っちゃうよ。それで今日は何? はるばる和歌山までチケット自慢?」


 紬が呆れた声を出すと、途端に羽子は真顔になって声をひそめる。

 予想以上の真剣な態度に、紬も思わず背筋が伸びる。


「いやぁ、真面目な話があってねー。今一人?」


 羽子は軽く左右を見回す。

 紬には同棲しているパートナーがいる。そのことを言っているのだろう。


「そうだけど? あの子なら今ランニングに行ってる」

「そっか、うん、うん」

「歯切れ悪いね。はっきりしなよ。チンタラしてると帰ってきちゃうよ?」


 急かすと羽子は意を決したように切り出す。


「じゃあ単刀直入に聞くけど。あの桃田ももたって子と付き合ってる?」


 覗き込むように見据えてくる眼差しから、紬ははっきりした主張を感じ取る。

 だから彼女の答える声は、一段低いものになった。


「……ダメなの?」

「ダメだね」


 羽子は先ほどまで躊躇していたとは思えないほど。首を左右へ振った。

 だがそれで「はいそうですか、分かりました」とはいかない。それが恋人というものだし。

 何より、紬にとってこの手の話題はセンシティブなのだ。

 なぜなら


「どうして? 性別? 女の子同士だから?」


 紬の彼女、桃田透子とおこ。二人は同性カップルである。

 世間の無理解や反対、心ない声というものがどうしても付き纏う関係なのだ。

 ただ一人の人間が一人の人間と愛し合っているだけなのに。

 それをあっさり「ダメだ」と断じられては。いかに姉のげんと言えども納得できない。

 それこそ透子と同じくらい大切な姉だとしても。


 羽子だってそれは分かっているだろうに、それでも彼女は言葉を止めなかった。


「私これでも人を見る目はある。そして君は気付いていない。もしくは気付かないフリをしている。あの子は相当危ない」

「確かに向こう見ずなところはあるかもね」

「そういうこと言っているんじゃないよ」


目を合わせなくなった紬の手を、羽子はがっちりつかむ。


「悪いけど正直あの子、危険なメンタルをしている。深い嫉妬と独占欲、君に近づく者を排除したがる敵愾心てきがいしん。ヘタすれば本人だけじゃなく、君を巻き込んで破滅するかもしれない」

「……妄想だよ」


 彼女は紬に、無理矢理自分の方を向かせたりはしなかった。


「すぐに考えを改めろとは言わないよ。でも、その辺しっかり考えておいて。じゃあね」


 羽子はソファから腰を浮かす。急かしも強要もしない。

 しかしはっきりと、強い意思を感じる響きだけは持った声。

 だからこそ紬も。姉は誠実に、心からの愛情と心配で忠告しているのだと分かる。そもそも彼女が紬にとって不利になるようなことをしたり。彼女を一番に思わないことなどなかった。

 自身も社会人で収入があり、紬もお高いプレゼントをするようになった今でも。

 妹が大学時代のバイト代で買ってくれた、の腕時計。それだけを左手首に付け続けるような姉が。


「もう帰るの?」

「こっちには仕事で来てるからね。ホテルに戻ってやること山積み」

「ま、本当にチケットと逆仲人なこうどが目的だったら。電話で済むよね」

「そういうこと」


 羽子はヘタクソなウインクをして見せると、そのまま玄関へ。

 紬も見送りと戸締りについていく。



「でも仕事で偶然こっちに来て、久しぶりの再会になったんだからさ。こんな話より、もっとすることあったんじゃない?」


 玄関を一歩出た姉に向かって、咎めるよりはような声を掛ける。

 しかし、それに振り返った羽子の顔は、紬が困るほど真剣だった。


「こういう話だからこそ、直接会った時じゃないと。私だって『恋人と別れろ』なんてことを、外野のくせに迫るんだ。遠くの電話越しから偉そうに指示するだけなんて。そんな真似はできないよ。相手の顔も見ずに言っていい言葉じゃない」

「……そうだね」


 紬が絞り出せた返事はそれだけだった。


 トップアーティストなんて言われても。こんな時に言葉が浮かばないんじゃぁ……、なぁ。


 自分の顔が見えるわけではないが、羽子の顔を見て大体察しがつく。困った顔をしているのだろう。

 だから彼女も、それ以上に困ったような顔をしているのだ。


「ごめんね紬ちゃん、こんな話して。普通なら殴られて叩き出されてもおかしくないこと言ったのに。紬ちゃんは優しいね」


 そんなんじゃないよ、を飲み込んで。紬は羽子に手を振った。


「じゃ、またね」

「うん」


 これ以上は何をどうこう言っても、お互い苦しくなるだけだ。

 姉を見送った彼女はドアを閉め、振り返って背中を預けた。そのままズルズルと床へ腰を下ろす。


「……そんなんじゃないよ」


 今度は声になった。怒らなかったのは優しいとか辛抱強いとかではない。

 彼女だって分かっているのだ。破滅するとまでは言わないでも。

 透子は嫉妬心が強く攻撃的な性格であること。同性愛という難しい青春の中で、彼女が単純で明るい性格ではなくなってしまったこと。

 それくらい分かっているのだ。

 透子の目の前で親しく話した相手がいると、すぐに怯えて関係を邪推して。

 自分や相手をストーキングするなんてこともよくあった。それは紬たちが同性カップルということもあって、同性の友人相手でも際限なく。

 脅迫状なんか届けることもあったそうで、警察に頭を下げたこともある。


 羽子に怒らなかったのは、怒れなかったのは。

 言い返せなかったから。

 それだけ。


 私が、私が誰より透子ちゃんのことを愛して信じて。守らないといけないのに、私は何も言えなかった。

 かといってお姉ちゃんの言葉を、素直に受け取ることもできない。

 私は……


 自己嫌悪に落ち込む時間は一分となかった。なぜならすぐに背後のドアが開いて、


「……」

「! 透子ちゃん……」

「……」


 感情の読めない顔で透子が佇んでいたから。






 その翌日の夜。羽子はフラフラと海沿いの道を歩いていた。

 本日をもって和歌山での仕事は終わり。たった今打ち上げをしてきたところである。

 達成感と酔いと疲労がになった足取り。

 海風に当たればシャッキリするだろうと、わざわざ人気のない道まで来たのだ。


「あぁー疲れたー。しんど」


 だというのに、明日は新幹線で東京にトンボ返り。楽しい打ち上げも、喉元過ぎれば憂鬱になってくる羽子であった。

 そこで彼女は鞄を漁る。取り出したのは。

 タンスにでもしまっておくべきだとは分かっているが。それでも肌身離さず持っておきたい、


「でもこのライブチケットがあれば疲れなんて!」


 羽子は酔ったハイもあってか、封筒に何度もキスをする。


 そうした前方不注意が祟ったか、


「ん? うわぁっ!」


 いや、関係なかっただろう。

 倒れた羽子を見下ろす、急に現れた人影は。


 どう見ても事故ではない意思を持った目をしているのだから。






 翌朝。ビーチには警察が詰めかけ、一区画がキープアウトで切り取られている。

 その外側で野次馬たちが、ひそひそと会話を繰り広げている。


「朝天城あまぎさんが散歩してたら見つけたんですって」

「人が浮かんでたんでしょ?」

「溺れたんかな?」


 そんな集団の中で一人、


「……」


 紬は呆然と現場を、ブルーシートをかけられ運ばれる死体を眺めている。

 ブルーシートの覆いの隙間。担架からダラリと下がる女性の白い細腕に。

 それほどお高くもない腕時計が巻き付いているのを。



 死体が運ばれていくのを見送った紬は、何も考えられなくなった。

 当てなく波打ち際をトボトボ歩く。

 すると、彼女の足元に何かが流れてきた。

 それは、


 羽子の住所宛てになっている、大人気アーティストのライブチケットが入った封筒。


 彼女はそれを、そっと拾い上げた。






 その夜。紬は夕食を食べながら、向かいに座る透子に話を振った。


「ねぇ透子ちゃん」

「なんでしょう」


 彼女はポタージュをクルトンで埋め立てるのに夢中。

 紬はボウルから取り分けた、アンディーブとルッコラのサラダを渡す。努めてなんでもないように、あまり感情を表出させないように。


「お姉ちゃんがね。海で溺れて亡くなっちゃった」


 普通なら衝撃で固まってしまうような話題を振られたにも関わらず。

 透子もなんでもないようにサラダを受け取り、


「あー、あれですか。冴えた手だったでしょう?」


 なんでもないように呟いた。


「……やっぱり」


 紬が感情を抑えた声で呟くと。

 咎められなかった彼女は、許容されたと受け取ったようだ。少し機嫌よさそうにチキンソテーを口へ運ぶ。


「あの羽箒。紬さんを傷つけるようなことを言って、私たちの仲を引き裂こうというんです。許せるわけはありませんよねぇ? これで紬さんも清々したでしょう?」


 瞬間、紬の頭の中だけで。プツンと不思議な音が鳴った。

 それがなんなのか彼女には分からなかったが。

 その代わり、彼女は自分の脳内が、感情が。見る見るうちに冷たく落ち着いていくのを感じた。頭にのぼっていた血がスーッと引いていくような、不思議な感じ。


「そうだね」

「よかった」


 紬の頭が、自分でも驚くくらい早く回る。

 あるいはビーチで腕時計を見た瞬間から、頭のどこかで全てを理解していて。無意識に準備していたのか。


「そうだ。それより今度のライブだけどさ」


 まずは話題を変えてしまおう。


「分かってますよ。私はいつもどおり控え室で荷物番ですよね? 中継テレビつけてくださいよ?」


 MUGI.の正体を知っている人は無闇に増やせない。

 だから直接顔を合わせるスタッフは、お馴染みがごく少数。そのために透子も、メンバーとして駆り出さなければならない

 こともないのだが。他ならぬ透子自身が「人手が足りないなら私を連れて行け」とうるさいので。

 一応の役割を与えてやるのが常態化している。要は透子、いつでもどこでも紬にピッタリくっ付いていたいのだ。


 今までその要望を叶えてきたのだから。

 たまにはこちらの思惑に協力してもらう。


「うん。それとね? ライブの途中で一回着替えることにしたの。曲のイメージに格好合わせたいし」


 透子は首を傾げる。


「あれ? でも、ライブはいつも後ろからライト焚いて。逆光で紬さんシルエットにしてますよね? 結局衣装見えないのでは?」

「シルエットでも大事。それに、汗もかくから着替えたいし」


 これは嘘ではない。神は細部に宿るし、もちろん汗もかく。

 しかし彼女はそもそも、すでにあまり気にしていないようだ。


「紬さんの汗が染み込んだ衣装……」


 結構な明後日の方向へ意識が逸らされている。


「おい」

「はい!」


 紬がドスの効いた声を出すと、透子は肩を跳ねさせて現実に戻ってきた。


「だから透子ちゃんは、『星座』が終わるくらいに着替えを持ってきて。それと、脱いだのを控え室に持ってかえってほしいの」

「分かりました! ……下着もいります?」

「い ら な い」


 お姉ちゃん。もしかしたらあなたの懸念は、生ぬるい方だったかもしれませんよ?


 別の意味で人として危険な恋人を、紬は冷ややかな目で眺めた。

 しかし彼女に悪びれる様子はない。


「下着が一番汗を吸うのに」

「君の山しい考えに餌は与えない」


 呆れを隠さず吐き捨ててやったが、それすらこの透子には通じない。現代社会が産んだ(?)怪物である。


「見くびらないでください! お衣装だけでじゅうぶん餌ですよ!」

「うわぁ」

「とにかく、お着替えを持っていけばいいんですね?」


 かと思ったら、急に落ち着く透子。

 確かにこの無軌道さは、はたから見れば危険に思えるかもしれない。

 正直紬だって、他人の恋人だったら付き合っている人が心配になる。さすがに破滅することはないと思うが。


 まぁ、お姉ちゃんを殺されたんだ。ある意味破滅よりタチが悪いや。


 こればっかりは、自分の恋人だろうと許せない。


「うん、ごめんね。正体知ってる人にしか手伝ってもらえないから」

「お任せください。人手不足なのは仕方ありませんよ」

「ありがとう。あ、あと、人には内緒ね?」

「どうしてですか?」

「着替える時適当にピンマイク付け替えると、スタッフに文句言われるし」

「はぁ」

「そういうこと」


 紬はにっこり笑うと、白ワインのコルクを抜く。グラスに注ぐと液体はやや琥珀色。

 その向こうに透子の顔を透かしながら、彼女は口の中だけで呟く。


 そこからもう一人人手が減るけど、荷物番くらいなら構わないかな


 と。






 それから数日過ぎたある朝、ここは都内のコンサートホール。本日こそがMUGI.の東京ライブ当日なのである。

 あの、羽子が楽しみにしていた。

 その会場の舞台袖に、数人の女性が集まっている。彼女らは顧問の話を聞く部員のように半円形で集まっており。

 その扇のかなめにいるのが紬である。

 今はちょうど彼女が、ライブの主催として音頭を取るところだった。


「みなさん本日はお願いします」

「うん」

「はい」

「がんばります」


 紬が心の底から信頼している、長年の友人や後輩たち。今は少数精鋭の女性スタッフたち。

 頼もしい返事を返してくれる。

 その中に混じって、


「任せてください!」


 透子も元気よく答える。一同のやる気を引き出したところで、気合を入れるべく大きな声で総括。


「今日は頑張ってライブ、成功させましょう!!」

「おー!!」


 紬の声と一同の返事が広いホールに響く。彼女は満足そうに頷きながら口の中で呟く。


「もう一つの目的も、ね」


 こちらがホールに響くことはなかった。

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