7.喫煙者の殺人

 昼下がりの『通信新報』オフィス。水久保はパソコンに向かって、資料をまとめている最中だった。

 根詰めすぎて目がショボショボしてくる。


「あぁ……。ちくしょう、息抜きでもするかな。タバコ……疲れたな、甘いものもいいな」


 軽く伸びをしたのが災い、今ので集中が完全に切れた。


「……」


 画面に目を戻したがもう遅い。目の前の資料、いや、文字や数字の羅列が何一つ頭に入ってこない。

 表示されているものが何か、何をすべきかは全て分かっているのに。脳と首から下を繋ぐ神経が溶けて消えたのかのように、手が動かない。

 めんどくさくなったとかサボりたくなったではない。やる気はあるし、なんなら早く終わらせたい。

 ができない。

 技術的に可能だし、やり方も分かっているのにできない。

 そんな詰まった世界に陥った水久保を救うように。外界からの光が差す。

 彼がちょうど背後に人の気配を感じると同時、課長の声が頭から降ってくる。


「おう水久保。刑事さんがお前をお呼びだぞ」


 内容自体はあまり救いにはならないが。


「警察が? オレに、ですか?」

「うむ。第一発見者のお前に、現場検証の協力をしてほしいとかで。犬養の社宅で待ってるそうだ」

「はぁ、嫌だなぁ」

「気持ちは分かるがそう言うな。警察には協力しとくもんだ。犬養のためにも」

「そうですね」


 気乗りしない様子に、課長は宥めるように笑い掛ける。


「『ちょっとした確認だけ。甘いもの用意してるから、息抜きくらいのつもりで』って言ってたぞ」

「ほう……」


 それならまぁ、行ってやってもいいか。会いたくない相手ではあるが。

 このまま読める怪文書と化した資料と睨めっこをしているよりはマシだ。

 向こうの言うとおり息抜きになるかは、緊張感次第だが。


「ではちょっと外します」

「おう、行ってら」


 課長はデスクを離れ廊下に向かった水久保を見送りながら、


「……もしもし、たった今水久保がそちらに向かいました」


 スマホに向かって話し掛けた。






『通信新報』社宅。その202号室、明音の部屋に水久保は乗り込んだ。


「……警察がわざわざ呼び出ししてくるなんて、と思ったら。やっぱりあなたですか。ちゃんと来ましたよ」


 リビングまで進むと、嫌な見慣れ方をしてしまったヘルメット女が。

 これまた見慣れたニヤニヤ顔をしながら、席についている。

 彼女はわざわざ立ち上がって腰を折る。基本失礼なくせに、妙な時だけ礼儀がしっかりしている女である。


「うふふ、お待ちしておりました」

「そうですか。じゃ、早速初めてさっさと終わらせましょう」


 気に入らない態度を隠さずかす水久保。対して高千穂は、逆に腰を下ろしてしまう。


「まぁまぁそうおっしゃらず。せっかく甘いものを用意したんです。食欲がなくなることは後にして、先においしく食べませんか?」


 彼女が手で勧める先には、ラップを掛けられた平たい皿が二つ置いてある。傍らに湯気立ち上るコーヒーも二つ。

 確かに食欲もそうだが。先に現場検証をしているとコーヒーが冷めてしまうだろう。


「じゃあそうしましょうか」


 水久保もカーペットへ腰を下ろす。今日は非常に寒いので、コーヒーは温かいうちが好ましい。


 そう、寒い……


「あの、刑事さん」

「なんでしょう」


 高千穂はなんでもなさそうに皿を持って電子レンジへ向かう。そっちは冷めたのだろう。

 対照的に水久保は、異様な寒さに軽く腕を抱き寄せながらエアコンを見る。


「どうして暖房つけてないんですか」


 そう、そのせいで室内なのに異様に寒いのだ。目の前のヘルメット女もフライトジャケットを脱いでいない。


「あ、そうだ」


 高千穂の、電子レンジの取手をつかんだ手が止まる。彼女は振り返ってはにかんだ。


「そうだそうだ、そうなんですよ。薄情な話なんですがこの部屋。犬養さんが亡くなって電気止められたんです」

「そうでしたか」

「だから暖房も電子レンジも動かないんです。忘れてました」


 高千穂は電子レンジから手を離した。

 そんなところに人を呼び出すとは、と思わなくもないが。この女に細かい理屈を問うても仕方ない。


「なので冷たいままですけど、どうぞ。甘いことには変わりないので」


 皿がテーブルに戻される。透明なラップの向こうに覗く黄色いそれは、


「これは」

「フレンチトーストです」


 ラップを剥がされ姿を表したそれは、なるほど確かにフレンチトーストである。


 フレンチトースト。明音を殺した日も、あいつ仕込んでるとか言ってたな。

 ん? まさか?


 水久保は少し気になったことを聞いてみる。


「これは、刑事さんがお作りに?」


 その質問に高千穂は、フレンチトーストへフォークを突き立てながら。

 首を左右へ振った。


「いいえ? すでに漬かってるのがあったので、勝手にもらって焼きました」

「……」


 じゃあ、これは、明音が漬けていた……。


 ナイフとフォークを取らないでいると、彼女はチラリと視線を送ってくる。


「食べないんですか?」

「あ、いや……」

「なるほど。お腹が空いてらっしゃらない。じゃ、私もちょっと待とうかな」


 水久保が曖昧な返事をすると、高千穂は勝手な解釈をしたようだ。

 彼女はナイフとフォークをいったん置くと、代わりにコーヒーで唇を湿らせる。

 それが仕切り直しかのように。テーブルへ軽く身を乗り出した。


「ではお腹が空かれるまで少し、お話でもしませんか?」

「ほう。どういう?」


 軽い気持ちで返すと、高千穂は彼が最も恐れている、蛇のような笑顔を浮かべる。


「犬養さんを殺害した犯人について」

「……ほう」


 やや上体を引いた水久保が、いいとかダメだとか答えるまえに。

 高千穂は人差し指を立て、話を進めてしまう。


「実はですねぇ。死亡推定時刻の十三時半から十四時半、この時間にアリバイがあっても、そう。昼休み中にでも、犬養さんを自殺に見せかけて殺害することが。可能なトリックが見つかったんです」

「……おもしろいですね」


 声を低くし、精いっぱいの皮肉めいた響きで牽制する。しかし当然、そんなものこの女には届かない。

 彼女は自身の傍らに置いてあった鞄に手を突っ込む。


「使うのはこちら、冷却ジェル枕。風邪引いた時に親が出してくれるアレです」


 高千穂はつい最近彼にも馴染みがあった、水色の物体を引っ張り出す。

 よく見るとそれは、すでに凍らせてあるようだ。


「あぁ冷たい」

「それをどうするんですか?」

「凍らせます。すると当然冷却ジェル枕ですから、中身が固まり」


 彼女は拳で枕を叩く。


「しっかりと座れる台座になります」


 コンコンと、固さを感じさせる小気味よい音。

 高千穂は枕をテーブルに置くと、話を続ける。


「よろしいですか? まず被害者を眠らせ、首吊りの体勢にしてからこれ。うふふ、三つくらい必要でしょうか? 重ねた上に座らせます。すると、その段階では台座の高さがあるので、被害者の首が締まらないままになります。しかし? 暖房を効かせてしばらく放置しておくと。部屋の温度が上がって、冷凍されたジェルが溶けてくる。すると……」


 また鞄に手を突っ込み、別の冷却ジェル枕を取り出す。彼女がそれを実演販売士のように掲げて手で押すと。

 今度は凍らせていないらしく、手が沈み込む。

 高千穂は水久保へ「どうだ」と言わんばかりの視線を送る。

 さすがにここを、物分かりの悪い態度でとぼけるのも不自然か。

 彼も挑発に乗ってやる。


「なるほど。だんだんと体が沈んでいき……。実際に犯行を働いたよりも、あとの時間で首を絞まらせることが可能だ、と」

「はい」


 彼女は満足そうに首を縦へ振ると、また嫌なニヤつきを浮かべて急所を突いてくる。


「そういえば水久保さん。あなた、犬養さんが亡くなった前日に薬局で、三つ! 三つも冷凍枕お買い求めになったそうですがぁ。いったいどうしたんですか? こんな、溶けたらすぐ次のを出せるようにするにしても、二つあればいいものを。それも冷凍庫がチャーハンでいっぱいなのに、どうして三つも?」


 水久保は腕を組み、精いっぱい言い逃れを絞り出す。


「三つ……あればギリギリでローテーション回さなくて済むでしょう。それにこんなの、普段は押し入れにでも保管しておけばいい! 必要な時だけ凍らせれば冷凍庫を圧迫しない! 何か? このタイミングでそんなことをおっしゃるということは! やっぱり私が明音を殺したとでも思っておいでですか!?」


 思い切りテーブルを叩いて圧を掛けるも。

 高千穂は飄々としていて、まったく効いた様子がない。


「ところで水久保さん、あなた。オフィスからここに来るまで、走って来られましたか?」


 どころか急に、わけの分からない質問を返してくる。

 水久保はもはや威圧目的でもない、純粋な苛立ちを隠さない。


「そんなわけないだろう!」

「被害者の遺体を発見した時も?」

「そうだが何か!?」

「うふふ、おかしいですねぇ」


 暖簾に腕押し糠に釘とはこのことか。相変わらず彼女は、もったいぶった態度を崩さない。


「何が!」

「実は課長さんにご協力いただきまして。あなたがオフィスからこちらに来られるまでの時間を測ったんです。結果は大体三十分です」


 高千穂はわざわざストップウォッチを掲げて見せてくる。


「それがなんだ」

「しかし? 事件当夜。あなたが犬養さんの部屋に向かわれてから通報があるまで、大体五十二分。二十分以上も時間がズレているんです。あなたがオフィスでタイムカードを切ってから、大体三十分後には。社宅エントランスの防犯カメラに写っていたのは確認済みです。それから通報までのあいだ、いったい何をしてらっしゃったんですか?」

「……動揺していたんだよ」

「遺体の下の冷凍枕を隠していたのではなく?」


 彼は再度腕を組み、一周回って冷静な声を出す。


「なるほどな。それがオレを犯人だと思う理由なわけだ」


 逆に彼女はテーブルへ身を乗り出し、楽しそうな調子で続ける。


「実際この方法なら。あなたはアリバイを保持したまま、犯行に及ぶことが可能です。あなたの部屋の冷蔵庫を開けた時にしました。冷蔵室にチャーハンが入れられていたのは。冷凍枕を凍らせるスペースを確保するために移動させたから」


 水久保はイライラが募って、胸ポケットからタバコを取り出した。

 しかしこの状況で一服するわけにもいかず、テーブルへ投げ出す。


「確かに状況や辻褄は合うな。でもそれは、オレにもできる条件が整っている、というだけだ。オレがやった証拠にはならない」

「おっしゃるとおりです。そろそろ食べませんか?」


 反論すると意外にも、高千穂はあっさり認めた。どころかまた、話を全然違うところへ放り投げてしまう。


「……」


 この女、何がしたいんだ……。


 水久保がやや困惑している目の前で、。彼女はナイフとフォークを手に取り、フレンチトーストを口へ運ぶ。

 すでに漬けてあったというフレンチトーストを。

 この、何日もまえに電気が止められた部屋で。


「おい……」

「大丈夫、腐ってませんよ」


 高千穂はサラッと答えると、こともなげにフレンチトーストをパクつく。


「そ、そうか。それなら」


 それを聞いて一安心。怒ってやや消耗したので、ありがたく糖分補給をすべく。

 フレンチトーストを食べようとしたところで、


「待った」


 急に高千穂が掌を向け、制止してきた。さっきまであんなに食べることを勧めていたというのに。


「な、なんだ?」


 理由が分からず、やや間の抜けた声を出した水久保。そんな彼にとって、致命的なほど性格の悪いニヤつきが浮かべられる。



「どうしてそのフレンチトースト、腐ってると思ったんですか?」



「それは、あ……」


 水久保が固まってしまったところに、高千穂は畳み掛ける。


「こちらは今日、松実ちゃんが家で漬けたのを焼いてきたものです。腐る要素なんかありません。そしてそもそも、普通は人が出した料理を腐っていると疑ったりしません」

「それは……」

「ではなぜそう思ったのか。理由は一つです。この部屋の電気が止められていると聞いたから。このフレンチトーストは、そんな部屋の冷蔵庫に入っていたものだと思ったから。でしょう?」

「うっ」

「水久保さんあなた。犬養さんと最後に会ったのは四日前だとおっしゃってましたよね? なのにどうして、冷蔵庫にフレンチトーストが入っていたことを知っているんですか!?」

「……くそっ」

「まさか遺体を発見した時。のんきに冷蔵庫の中を見ていたとはおっしゃいませんね? 四日もまえの時点でフレンチトーストを仕込んでいると聞いた、なんてこともないでしょう」


 高千穂は勢いよく立ち上がると、人差し指を彼の目と鼻の先へ突き付ける。


「いいですか水久保さん? あなたすでに自白しているんです。自分が犯行を働くために、最近彼女の部屋を訪れていたことを! 私が『自殺ではない』と説明するために、『彼女が食事の準備をしていた』と話した時に!」

「なんだと……」

「あなた、あの時おっしゃいました。私が『自殺するまえに食事の準備をしているのはおかしい』と言ったら。『仕込みに時間が掛かるから、そのあいだに気が変わることもある』と! しかし? 普通に考えて、仕込みのいらない料理やインスタントを食べようとしていた可能性もあった! むしろあなたの普段の食生活を考えれば、そういった方向に考えが向いてだ!」


 高千穂は食器棚へ大股歩きで向かい、その下段を開け放つ。中には彼女の論を支持するように、いくつかのインスタント麺。


「なのにはっきりおっしゃったのは単純。被害者が、仕込みが必要で時間の掛かるフレンチトーストを作っていたと。あらかじめ知っていたからです」

「う……」


 言葉に詰まった水久保へトドメを指すように、彼女は再度詰め寄ってくる。



「あなたは犬養さんの部屋を訪れていたのに、なぜ嘘の供述をしたのか。納得のいく説明をいただけますか!?」



「……できません」

「はぁい、どぉも」


 水久保が力尽きたようにうなだれると。

 高千穂はエアコンのリモコンを手に取り、


 ピ、と暖房をつけた。


 水久保は思わず顔を上げる。


「え、あ? 電気が……」


 目を白黒させている彼を見て、高千穂はイタズラっぽく笑う。


「えーと、電気が止められているというのは嘘です。すいません。うふふ」

「……そうかぁ」


 水久保はもう一度ガックリうなだれる。

 おもむろにタバコへ手を伸ばし、脱力しきった口でポツリと呟く。


「いや、しかし」

「はい」


 高千穂が続きを促すように頷くと、彼はゆっくり煙を吐きながら薄く笑った。


「刑事さん、私がボロを出すより先に。しかも、私には犯行が不可能な死亡推定時刻を聞いていたにも関わらず。私を疑っていました。あれはいったいどうしてですか?」


 憑き物が落ちたような顔で、一人称も丁寧に「私」へ戻した水久保。高千穂も穏やかに笑い掛ける。


「おや、おタバコ吸われるんでしたら灰皿が要りますね」

「そうですね。でもこの部屋は灰皿ないので、代わりに……」


 言い終わらないうちに、彼女は流しからあるものを持ってきた。


 それは、水を張ったツナの空き缶。


 水久保は目を丸くする。


「そうそうこれこれ。よく分かりましたね」


 高千穂はにっこり笑って返すと、一言付け足した。


「そして、私があなたに目をつけた理由もこれです」

「これが?」


 彼女は水久保の前に缶を置くと自身も床に腰を下ろす。


「はい。通報があって最初にここへ来た時も、流しにそれが用意してありました。私、最初はそれが何か分かりませんでした。しかし後日。あなたは遺体安置室でタバコを吸おうとした時、こうおっしゃった。『犬養さんはタバコを吸わないが、自分がタバコを吸う姿を好んでらっしゃった』と。覚えておいでですか?」

「えぇ」

「私、それでピーンと来たんです。『タバコを吸わない人は灰皿なんか持ってない。だからあれはタバコを吸う来客のために用意した、簡易的な灰皿だったんだ』と。だからあの日彼女には、タバコを吸う来客の予定があったんだ、と」

「参ったな。そんな飛躍的発想が出てくるとは」


 水久保は呆れたように笑ったが、高千穂はニヤリと笑って首を左右へ振る。


「そうでもありません。道端に捨ててある缶コーヒーと同じです。あれもよく灰皿代わりに、タバコの吸い殻が突っ込まれてる」

「いますよね、そういうマナー悪いやつ」


 相槌に高千穂は警察らしく頷いて見せたかと思うと。

 今度は照れたようにヘルメットの頭に手を当てる。


「うふふ。それによくよく思い出してみたら、私も初めてタバコを買った時。家に帰ったら当然灰皿がなくて。それでスパム缶に水を張った覚えがあるんです」

「ははははは!」


 水久保は大笑いすると、ずいっとテーブルへ身を乗り出した。



「私はサバ缶」



「うふふふふ!」

「ははははは!」


 そのまま二人は笑った。






           ──喫煙者の殺人 完──

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