3.喫煙所は密談交差点

 翌日。桜田門の遺体安置室に水久保は来ていた。

 自宅で死んでいる人の第一発見者になるような。ただの同僚以上の関係なのはバレている。

 ならば自殺されてしまった彼氏なり友人なり。振る舞うべきだからである。

 棺桶に入れられている明音の頬を、彼はゆっくり撫でる。


「納棺師っていうのはすごいな。お前の童顔が、色っぽく見えるぞ」


 もちろん死体に興奮しはしないが。

 明音の唇を指でなぞっていると、


「犬養さん、死に化粧をしても童顔ですねぇ」

「あなたは昨日の」


 現場で見送りをしてくれた女性刑事が隣に歩いてきた。

 昨日は室内でもヘルメットを被ったままだったが。さすがに遺体安置室ではマナーなのか、胸元に当てている。

 彼女は柔和な笑顔を向けてくる。


 嫌いじゃないな。


 榛名や明音。水久保が愛した女性にはこういう人が多い。


「落ち着かれましたか」

「いや、なかなか」


 もちろんこれは、らしく振る舞っての言葉ではない。水久保だって人を殺した昨日の今日で落ち着けはしない。

 もちろん、人を殺せるくらいには図太いとは言えるが。

 水久保は思わずポケットからタバコを取り出す。


「喫煙所はここを出て、左に突き当たりまで」

「あぁ、そうでしたそうでした」


 高千穂にボソッと呟かれ、タバコを引っ込める。


「私も喫煙者ですが、うふふ。タバコはTPOをわきまえませんとね」

「すいません。明音の顔を見るとつい。本人はタバコを吸わなかったが。私がタバコを吸うのは『かっこいい』だとか言って、好きだったようで」


『パブロフの犬』だったか。それに近しいものができるくらいの付き合いはあったんだな。


 水久保は一層タバコが吸いたくなってきた。


「なるほどね。タバコ、ね。うふふ」

「子どもっぽいと言うか、変わったやつでしょう」

「えー、はい」


 優しい相槌を返ってくると、


「千中さん、ご報告が」


 遺体安置室の入り口に小男が現れた。彼も昨日見た覚えがある刑事だ。

 高千穂はクルリとそちらを振り返ると、水久保に会釈をする。


「ちょっと失礼」

「はい」


 と言っても、これ以上話すことはないだろう。

 彼は喫煙室を目指した。






 遺体安置室の入り口。松実がメモ帳を捲る。


「何かな?」

「検死の結果が出ました」

「なるほど。話して」


 彼は先を出していないペンで文章をなぞる。


「まず死亡推定時刻ですが。胃の内容物から判断するに、十三時半から十四時半の間とのことです」

「本当に?」


 高千穂は驚いたような顔で松実を見る。


「本当ですが、それが何か?」

「んー、いいよ。下がって」


 彼女は答えず、あごに手を当て背を向けてしまう。

 松実はその正面に回り込む。


「待ってください。それとですね。犬養さんの遺体から睡眠薬の成分が検出されました」

「そう」

「現場に残っていたコーヒーからも同様の成分が。箪笥から錠剤そのものも発見されました。他にも本人名義の処方箋も見つかっており。病院や薬局に確認したところ、犬養さんに処方したもので間違いないそうです。おそらく睡眠薬を飲んでから首を吊ったんでしょう」

「へー、錠剤……。今ある?」


 高千穂の言葉に、彼は腰へ手を当てる。


「そんな証拠物、僕がホイホイ持ち歩けるわけないでしょ」

「それもそうか。ところで、調べてほしいことがあるんだけど」

「なんでしょう?」






 高千穂が松実と別れると、すぐそこに水久保が立っていた。


「おや、水久保さん。どうなさいましたか?」

「いえ、結局喫煙所の場所がよく分からなくて」

「あぁ、ご案内しましょう」


 もちろん水久保は喫煙所の位置が分からなかったのではなく。

 捜査内容が気になって立ち聞きしていただけなのだが。






 翌日。『通信新報』のオフィス内にある喫煙所。狭い空間に大人数が詰めかけている。

 その中の一人が水久保である。

 昨日は悲しく振る舞うために仕事を休んだ。今日は逆に、アピールするため職場に来ている。

 たくさんの副流煙が混ざり合う中、課長が声を掛ける。


「残念なことだった」

「えぇ、はい、ありがとうございます」

「気を落とさずに」

「いいことあるよ」


 周囲から気遣いの雨霰あめあられに打たれていると、


「あ、水久保さぁん」

「ん?」

「どぉも」


 全ての社員の顔を知っているわけではないが。

 だとしても明らかに、弊社の社員ではない女が現れた。


「あなたは警察の」

「千中です。えー、失礼。ちょっと詰めて」


 高千穂はただでさえ鮨詰めの喫煙所に、体をねじ込んでくる。


「おっと」

「ちょっと、狭いんだけど」

「どうしてこんなに狭いんだろうね」

「うふふ、それは喫煙者が少なくなったから」

「そのまま我々の肩身の狭さってか、フハハ!」

「人口少ないなら普通広くなるでしょ」

「少ないから喫煙所が減らされるんです。それで人口密度が上がる、と」

「……」


 タバコミュニケーションと言うものはあるが、それにしてもこの女。急にやってきては馴染みすぎである。

 いや、馴染んでくれるのは特にどうでもいいが。水久保にとって、刑事である高千穂がいること自体具合が悪い。


 この女、一体何をしにきたと言うのだろうか。

 目の前でタバコに火をつけてはいるが、まさかそれだけが目的ではないだろう。

 ましてや雑談など……。


 水久保の予想どおり。高千穂はこちらに目を合わせてきたかと思うと。

 狭い空間で可能な限り、こちらへ首を伸ばしてくる。


「あ、そうだ。それより水久保さん。二、三お聞きしたいことがありまして」

「なんでしょう」

「犬養さんについてなんですが。あ、この中で犬養さんと親しかった人います?」


 一人の、OLに許される範囲で精一杯の。キャバ嬢っぽい見た目を追及したような女性が手を挙げる。


「はいはーい。まぁ部署移動になって最近は会ってなかったけど」

「そうですか。ではお二人にお聞きしたいのですが。どちらか昨日、亡くなられる前の犬養さんに会われたり、電話なされたり。なんらかコンタクトはされましたか?」

「いや……」


 思わず口をついでから、水久保は少し「しまったか」と煙を飲み込んだ。

 明音と会っていたことから勘繰られても困る、と思って嘘をついた。

 しかし、現状ただの自殺でしかないのだから。そこまで警戒する必要はなかったかもしれない。

 あとから嘘がバレた方がややこしいか?

 しかし細かいことを思い悩んで、単純なことへの返事すら遅れる方が怪しい。これでよかったのだ、と水久保はタバコを口へ運ぶ。

 ならばむしろ、ついた嘘を貫き通すまでである。


「むしろ、会っていれば気付いて止められたかも知れないと思うと……。悔やまれるほどです」

「私も電話とかしてないわねー」


 キャバ嬢の返事も待ってから、高千穂は小さく頷く。


「そうですか。では直近ならいつ?」

「それなら食堂で会った……。あいつが三連休に入る前、四日前ですか」

「私は結構まえねぇ」


 高千穂はタバコを灰皿に押し付けると、はっきり水久保一人に目線を合わせた。


「では水久保さん。その時の犬養さん、何か自殺をなさるような兆候でもありましたか?」


 このようなことを聞かれるということは。

 警察は明音の、遺書も動機も見つからないことが引っ掛かっているのだろう。……実際、明音に自殺する理由などないのだから。

 もしそれで自殺説自体を疑われては、面倒なことになる。

 彼はエサを与えておくことにした。


 なぁに、今度は嘘をつくわけじゃない。事実を大きく伝えるだけだ。


「……そうですね。一つ、思い当たることが」

「なんでしょう」


 高千穂が食い付くように身を乗り出す。水久保はほくそ笑む口元へ、タバコを持つ手を被せる。


「明音は激務で体調を崩し、精神科に通院していたんです。そこで処方してもらった睡眠薬がないと眠れないほどで。兆候がというよりは、というか……」


 似合わない自覚はありながら、多少湿っぽい声を出してやる。

 すると目の前のヘルメットは


「うふふ、それは関係ないでしょう」


 半笑いであっさり首を振った。せっかく弱々しい態度を作ってやったというのに。

 しかし、わざとらしいと取られることはあったとしても。

 一瞬で「関係ない」とまで断じられる材料はなかったはずだ。

 水久保は少し嫌な流れを感じ取る。

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