2. ポリポリポリス
息も白く肺も凍るような夜。ここは大手広告代理店『通信新報』の社宅。
その正面に一台のタクシーが停まる。
中から降りてきたのは、ヘルメットを抱えたひょろ長い女。
彼女はどうやら、上司と通話中のようだ。
「はい、はい。あ、運転手さん、やっぱり領収書もらえる? ありがとう。えー、はい。領収書もらいました。経費で落としてくださいよ? じゃ、またのちほど」
愚痴っぽい口調で通話を切った彼女は、社宅のエントランスへ。
「ん」
ふと視線を上げると、そこにはボロくて稼働しているかどうかも怪しい防犯カメラが。
「ぶぇー!!」
彼女は八つ当たりするように、防犯カメラへ舌を突き出した。
「千中さん! お疲れさまです!」
社宅の202号室。その入り口で松実が待ち受けていた。
対する高千穂はぶっきらぼうである。
「せっかく仕事も終わってさぁ。人が気持ちよく飲んでる時に通報なんてさぁ」
「仕方ありませんよ」
「にしてもこの寒い中、わざわざ部屋の前でお出迎えとはどういうこと? 君、そんな殊勝な生き物だった?」
「ひどい言われよう……。でも、まぁ、はい。中はもっとひどい感じなんで」
「嫌だなぁ」
高千穂は鑑識から受け取った薄い手袋を嵌めながら、室内へ踏み込む。
「しかも私、まだお通しとナメロウしか食べてないんだよぉ? お腹が空いて空いてさぁ」
「食欲なんかすぐになくなりますよ」
「……確かにそういう匂いがするね」
高千穂がハンカチで鼻を覆った頃には、もう二人は寝室のドアまで着いていた。
そしてそこには。お世辞にも綺麗とは言えない状態の女性が、ドアノブからぶら下がっている。
「こりゃまた」
「亡くなったのは犬養明音さん。こちらの社宅に住んでるだけあって、『通信新報』に勤めておられる二十四歳です。終業後直接こちらにいらっしゃった、同僚の水久保日向さん。あと、社宅の管理人さんが二十時九分に発見、通報されました。あちらにいらっしゃるのが、水久保さんと管理人さんです」
松実がリビングを指差す。
そこでは二人の男が居心地悪そうに座っている。ソファや椅子がないのでカーペットの上である。
高千穂は異臭から逃れるようにリビングへ向かい、二人に挨拶する。
「お二人とも、このたびは飛んだことで。お察しします」
「どうも」
「ありがとうございます」
彼女はそのまま戻ってこようとしない。松実が肩をつかんで寝室に連れ戻す。
「当の犬養さんですが。発見時もご覧のように、掃除機の長い電源コードをドアノブに引っ掛けた状態で。首を吊って亡くなっていたそうです」
「ふぅーん、自殺、かなぁ」
「遺書の
「そう」
手早く切り上げて、またも廊下に逃げようとする。松実が素早くその肩をつかむ。
「逃がしませんよ!」
「そんなんじゃないよぉ。ただ、第一発見者のお二人にはもう、お帰りいただこうと思ってさ。長い時間拘束してもよくないでしょ?」
「そんなこと言って。『お見送り』とか言って外の空気吸いたいだけなんだから」
「本日はどうもありがとうございました。またお話を伺いに参上することもあるかもしれません。その時はよろしくお願いします」
玄関先にて水久保と管理人を見送る高千穂と松実。
「はい。いつでもどうぞ」
さすがに警察相手は緊張したが。
なんだか人のよさそうな連中だし、すぐに帰してくれるんだから。
とりあえず現状は安心してよさそうだな。
水久保が立ち去っていくのを、彼女はすでに見ていなかった。相手に背を向けて、外の廊下の床を見ている。
松実が軽く肘で突く。
「ちょっと千中さん! 自分からお見送りに出といて失礼ですよ!」
「うーん」
しかし高千穂は床から目を離さない。
「何か落ちてるんですか?」
「いやぁ? 別にたいしたことは何もないよ。ただ」
彼女が指差す先。そこには水溜りができている。
「室外機が水漏れしてるから。きっと暖房ガンガンについてたんだろうな、って」
「それがなんなんですか」
「だからたいしたことはないんだって」
高千穂はそのまま松実の横を通り抜ける。
「さて、中に入ろうか」
「はい」
「あ、そのまえに松実ちゃん。缶コーヒーでも買ってきて」
「えぇ~?」
結局コーヒーを買いに行かされた松実が戻ってくると。
今までの異臭と違う、非常に甘い匂いが漂ってきた。
「コーヒー買ってきましたよ」
寝室を覗いても高千穂はいない。
どうやらまたリビングにでも逃げているようだ。甘い匂いもそこから漂ってくる。
松実がそちらに踏み込むと。
テーブルに着いてナイフとフォークを動かしている高千穂がいた。
「何してるんですか。なんの匂いですかこれ」
「フレンチトーストだよ」
「フレンチトースト!?」
「あー、うん、まぁまぁかな。うふふ」
高千穂はふあふあトロトロのパンを口へ運ぶ。
「何現場でのんきにフレンチトースト作ってるんですか!」
「作ってないよ。冷蔵庫で仕込んであったのを焼いただけ。我ながら焼き加減最高だよ。味付けはフツーかな」
「だったらなおさらダメでしょ!」
松実の意見は至極真っ当だが、彼女に悪びれる様子はない。
「せっかく漬けてあるんだから、食べないともったいないじゃないか。私晩御飯もマトモに食べてないし。コーヒーお代わりしよっと」
高千穂がマグカップ片手にキッチンへ行くのを松実が目で追うと。
そこには裏切りのコーヒーメーカーが!
「あーっ! 人に缶コーヒー買いに行かせておいて、遺品でコーヒー淹れてるぅ!」
「んー、コーヒーもまえに科研でご馳走になった方が美味しいな」
「無視!?」
「うふふ。松実ちゃんも今度ご馳走になりなよ。鹿賀先生、意外とハンドドリップ上手なんだよ」
「いいもん……、缶コーヒーは一人で飲むもん……」
大の成人男性が少女みたいにいじけるという、人間社会でも指折りに
そんなもの存在しないかのように、高千穂はポツリと呟く。
「それよりこれ、自殺じゃないかもね」
そのあまりの衝撃発言に、松実は一瞬でいじけモードを忘れてしまった。
「えっ、どうしてですか?」
「今食べてるこれ」
コーヒーを注いで戻ってきた高千穂が、皿の上をフォークで指す。
「フレンチトーストですか? そういえば僕の分は?」
「ないよ」
「そんなぁ! 僕もお腹空いてるのに!」
「冷蔵庫でキュウリが浅漬けになってたよ」
「キュウリ!」
人には注意しておいて、自分は大喜びで冷蔵庫に向かう松実。
高千穂が呆れた目線で見ているのにも気付かず、ポリポリやりはじめる。
「それで千中さん、なぜフレンチトーストがあると自殺ではないんですか?」
「フレンチトーストの作り方知ってる?」
松実はメモ帳を捲る。
「はい。食パンを卵と牛乳と……」
なぜかまったく仕事に関係ない情報も載っているのが、松実のメモ帳である。
「全部言わなくていいよ。フレンチトーストはそれらを混ぜた液に、パンを漬け込む工程があるね?」
「それがどうかしたんですか?」
松実はメモ帳をキュウリに持ち替えてポリポリポリポリ。高千穂はちょうど最後の一口へフォークを突き刺す。
「これから自殺する人が。すぐには食べられないものを漬け込んだりするのかな、ってこと」
「きっと大好物だから、最後に食べたかったんですよ」
松実が返事の合間にもキュウリをかじるので、草食動物でも飼っているような音がする。
そこを突っ込んでもしょうがない。彼女は話を進めることにした。
「食べずに首括ってるじゃないか」
「最初は自殺する予定はなかった。でも完成を待っているあいだに、衝動的に首を吊った、とか」
高千穂はフレンチトーストを平らげると、めずらしく松実の意見に頷く。
「それはあるかもね。でももう一つ」
「なんでしょう」
「テーブルのとこの床に落ちてる、それなーんだ」
彼女がフォークで指した先には、新品のブルーレイ。
「あ、いいな、欲しい。知らないアニメだけど」
キュウリをかじりながら、のんきなことを
そんな松実に、高千穂は手で追い払うようなジェスチャーをする。
「ダメに決まってるでしょ。それよりそのブルーレイ、未開封なんだよね」
「確かにビニールで包まれてますね。それが何か」
高千穂はフレンチトーストの皿を流しへ運ぶ。
「わざわざテーブルまで持ってきたのに、見るどころか開封もせずに自殺。変だと思わない?」
「変、かも?」
首を傾げる松実に対して、彼女は自論の正当性を説明するでもなく。
移り気に目線をブルーレイから他所へ。
「それよりこれ、なんだろうね」
「どれですか?」
皿を流しに運んだ流れで、その隅にあるものをフォークで指す。
「その、流しのスポンジの横のやつ」
松実もキュウリをポリポリかじりながら、まだ残っている部分で同じところを指す。
「水を張った、ツナの空き缶?」
「だね」
「洗おうと置いていたのでは?」
残りのキュウリが口の中に放り込まれる。
「張った水に油が浮いてない。これはもう入念に洗われたあとだよ」
「へぇー」
ポリポリポリポリ。
「よく分かりませんけど、風水やおまじないの何かでは?」
「ふーん」
「若い女性ってそういうの好きそうなイメージですし」
いつの間にか松実は、新しいキュウリを入荷している。
「……」
「……」
ポリポリポリポリポリポリポリポリ。
「……ポリポリうるさいんだよっ」
高千穂は松実に軽くチョップ。
「ポリッ!」
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