5.ホットスナックとコーヒー

「はいはいはい、いらっしゃいませんね。これでしました」


 高千穂は全員から味の異変の有無を聞き取ると、満足そうに頷く。


「何がですか」


 たくさんのプロ野球選手に見詰められて、緊張状態にあった松実がようやく口をきく。


「これは伊野選手個人を狙った計画殺人だね」

「なんだって!?」


 選手たちがざわつく。なんなら他ならぬ荒木自身が叫んでしまうところだった。


「実は今回、水筒の横にレモン果汁の容器が置いてあったので調べたところ。覚せい剤を入れたことを誤魔化すためか、お茶にレモンが混ぜられていました。つまり、もし犯人が『試合に勝利する』ドーピング目的で覚せい剤を盛ったのなら。犯行は伊野選手一人だけのはずはありません。他にも水筒に覚せい剤とレモンを入れられた方がいるはずなんです」

「た、確かに」


 大勢の人の前で、『今初めて知った』という顔をしてメモをとる松実。そういった判断基準を事前に共有してもらえない姿は、少し滑稽かもしれない。


「それがないということは。これは伊野選手に覚せい剤を盛ることが目的の犯行。個人的に伊野選手だけを狙う動機がある人物の犯行となります」


 荒木は口の中が乾いてくるのを感じる。むしろここまでなってくれれば、喉が張り付いて余計な悲鳴も出ない。逆に好影響まであるか。


「しかし、なんのために覚せい剤を盛るなんて回りくどいことを」


 嶋が少し机に身を乗り出している。ヘッドコーチらしく、メインで全体の意思を汲むのは彼の仕事なのだろう。

 高千穂は「いい質問です!」と言わんばかりに彼に人差し指を向ける。


「それは瞳孔散大を起こさせて事故を起こすためです」

「つうか、それでオレたちが集められたってことはよぉ」


 誰かが呟くと、高千穂はそれにもにっこり微笑む。


「うふふ、お察しのとおり。ベンチに出入りできて、覚せい剤を混入させるチャンスがあった人物。つまり代表チームの皆さんは、全員容疑者となります」

「マジかよ……」


 誰かの呟きは、おそらく意味するところは違うだろうが荒木の本音でもある。思わず自分が呟いたのかとすら思ったくらい。


「あとは、飲み物の異変を感じなかったとしても不安は残るので。皆さんには一応、ドーピング検査を受けていただきます」

「マジかよ……」


 今度こそ、この呟きは荒木自身のものだった。幸いなことに口の中で、周りには伝わらなかっただろうが。

 しかし彼にとって、嫌な流れになったと言わざるを得ない。

 何せ伊野を殺すにあたって。大量投薬による直接の中毒死ではなく、事故の形をとったのは。

 遺体が事故として処理されれば、事件に覚せい剤が関与していたこともバレない。

 そんな計算があったからである。


 そして逆に、覚せい剤の存在がバレるということは。

 当然先ほどのように、全員へドーピングチェックが入る事態を招く。荒木としては一番避けたい状況である。

 一応幸いなのは、プロ野球で実施されるのは尿検査だけであること。

 アンフェタミンが尿から抜ける時間は三日ほど。今回の試合は弱みを握られ、さすがにドーピングせずに登板している。そのためおそらく、引っ掛からないことだろう。

 しかしこうならないために努力したことは水の泡。もし毛髪検査もあったらアウトだったことを考えると……。

 未だにドキドキが止まらない荒木であった。






 解散となり、選手たちが部屋に戻り球場へ向かう準備に取り掛かる中。

 荒木は自販機が大量に並べてあるコーナーで、一人ベンチに腰掛けている。

 昨日先発登板した彼は本日出番がない。なので特に準備がなく、手持ち無沙汰になったのだ。

 いっそホテルで待っていられたらいいのだが、彼も代表チームの方針として。

 昨日来られなかったファンにサインするため、駆り出されることとなっている。


 もう二十代ではないので「食えるだけ食って体を大きくしろ」と言われる時代は終わり。逆にウエイトを気にした食事管理が必要になった荒木。

 目の前にはポテトやらタコ焼きやらフライドチキンやらハンバーガー。


 こういうのも先輩にたくさん食わされたが、もう口にすることは引退までないんだなぁ。


 彼が懐かしくホットスナックの自販機を眺めていると、


「あれ、荒木選手?」


 不意に、遠くから声を掛けられた。

 そちらへ目を向けると、先ほどの警察官高千穂と松実がいる。


「あなた方はさっきの」

「やっぱり荒木選手だぁ! 探したんですよ? ちょっとよろしいですかぁ?」

「お、オレを?」


 荒木の心臓がドクンと跳ねる。


 警察がわざわざ自分を探していた?


 こんなに致命的なことはない。


 まさかこいつら、もう本当のことを知っていて……?


 目の前の女から、デッドボールを当ててしまった時の助っ人外国人以上の威圧を感じる。

 今すぐ逃げ出したい荒木だが。そこはなんとか、長年のマウンド捌きでつちかったポーカーフェイス。


「オレになんの用でしょう」


 高千穂はすぐには答えず、荒木の目の前まで迫ってきた。

 そしてベンチには座らず、こちらの顔を覗き込むようにして人差し指を立てる。


「荒木選手!」


 勘弁してくれ!


 荒木は喉がヒュッとなるのが、しっかり聞こえた。


「な、なんでしょう……」


 引き気味に、なんなら体も少し引いて声を絞り出す彼に。

 高千穂は笑い掛ける。


「松実ちゃんにサインをいただきたいんです」

「サイン?」


 彼女は後ろでモジモジしている松実の方へ手を向ける。


「彼、昨日は落ち込んでおられるのを気遣って、サインを頼まなかったんですが。一晩経って、やっぱり大ファンとして惜しくなったみたいで」

「はぁはぁなるほどね」


 荒木は半分ぐらいに縮められた心臓が、元のサイズに戻るような気がした。

 一安心であるし、どれだけの選手になってもどれだけ長くやっても。目の前に「大ファンです」という人が現れるのは悪い気がしない。


「いいですよ。ぜひ書かせてください」

「本当ですか!?」


 松実は食い気味に声を上げると、早速メモ帳を差し出してくる。

 受け取ってサインを書いていると。

 そのあいだの世間話、とでも言うように、高千穂が軽く切り出した。


「荒木選手、このたびは災難でしたねぇ」

「あー、はい。オレのせいばかりじゃないと分かったけど、伊野を殺そうとしたやつの片棒担いだんで。それはそれで」

「お察しします」

「それはどうも。はい、書けましたよ」


 話題が触れたくない方へ動きはじめたので、さっさとサインを済ませてしまう。元より時間が掛かるものでもない。

 メモ帳渡してはい終わり、としたい荒木だったが。

 高千穂はホットスナックの自販機に小銭を入れる。まだ帰らないようだ。

 彼女はこちらに背を向けたまま話を続ける。


「そういえば荒木選手。あなた、試合中調子悪かったんじゃないですか?」

「は?」


 急に話が飛ぶ。

 荒木本人としては実力を発揮できた試合だった。素人目から見ても分かるような問題があったのなら困る。


「どういうことでしょう」

「伊野選手も試合中、だいぶ調子が悪いと思ったら覚せい剤盛られてました。昨日の試合の様子を見ていると、あなたのこともちょっと心配になりまして」

「待ってください。そもそも、どうしてオレがあの試合で調子悪いって?」


 高千穂は紙の箱に入れられたポテトフライを取り出すと振り返る。


「昨日は雨もなく、マウンドの状態も最高のものでした」

「そうですね」

「その状況下であなた、事故が起きたときに三回牽制をしましたね」

「えぇ」

「三回です! プロの牽制なのに、あの時ボールは全て伊野選手の顔めがけて投げられていました。普通ならもっと、ランナーにタッチしやすい高さへ投げるはずなのに」

「そういうこともあるもんとは言え、悔やみ切れねぇっす」


 ポテトの次に、紙コップで出てくるタイプの自販機にコインを入れる。まだ帰らないつもりらしい。

 話題が飛んだと思えばまた嫌な方へ。荒木としてはストレートに来られるよりも気持ち悪い。ジャブやボディで揺さぶれている気分だ。


「うふふ、それはどうなんでしょう」

「どういう意味ですか。あの牽制のことはオレも気にしてるんです。あんまり無闇に話題にすんのは、勘弁してもらいたいんすけど」


 彼女は振り返らずに、紙コップへコーヒーが注がれていくのを見ている。


「それは重々承知しています。それより、送球ミスっていうのは、いえ、プロ野球選手相手に恐縮ですが。すっぽ抜けたり引っかかったりで起きるものです。普通はもっと上や横にすっ飛んでったり、地面に叩きつけられたりします。あんな真っすぐ糸引いたように、きれいな送球にはなりません」

「つまり?」

「実はあなたも、あまり目が見えてなかったんじゃないですか?」


 ぎくり、とはこの感覚を言うのだろう。今回の試合に関してはドーピングをしていないが。

 それでもこの話題は、荒木にとって足元から全てが崩壊する急所だ。

 手汗がすごい。投げもしないのにロジンが欲しくなる荒木は、それを堪えて平然を装う。


「どうして」

「あ、コーヒーできた。だってそうでしょう。あれは明らかに狙って、コントロールされた送球です。手元が狂ったとかじゃありません。それをあんな、三球とも顔の高さに投げてしまうなんて。相手が見えていなかったとしか考えられません」


 高千穂はコーヒーを自販機から取り出すと、実に嬉しそうに一口飲む。


「なるほどな。でもご心配なく。目が見えなくなったわけじゃないし、飲み物も変な味はしませんでした。あれはただの目測ミスの投げミスです。牽制で相手を刺そうとしたら、そのことを気付かれずに隙を突くのが一番でしょう? だから牽制の時は一塁の方をチラチラ見たりしない。その状態でパッと一塁方向に投げたら、顔に行ってしまっただけ」

「なるほど、相当焦ってらっしゃったんですねぇ」


 彼女が自販機の前から動かないので、小銭を握り締めた松実がどいてほしそう。


「あんまし慣れてないんで」

「それはそうみたいですね。なるほど分かりました。ではこれで失礼します」

「えぇ。オレでよかったら、また聞きにきてください。でも、できれば事故の時の話以外で。職業病であんまり気にしてないように見えるかもしれませんが……。ポーカーフェイスなだけで結構効いてますから」

「はい。そのように心掛けます」


 高千穂は頭を下げると、自販機コーナーを足速に去っていく。


「あっ、ちょっ、待ってください! 僕のココアがまだ! 千中さーん!」


 残された松実が、ついて行きかけてはココアのところに戻り。また高千穂の行き先を窺うようにとせわしなく動く。

 しかしそんな滑稽な小男、荒木の眼中にはない。

 彼はただひたすら、高千穂が引き上げたことに胸を撫で下ろすばかりである。

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