4.揺れるドーピング疑惑
翌朝。松実は担当事件の書類整理、高千穂は新聞を読んでいると。
同僚の刑事が声を掛けてきた。
「千中さん、今よろしいですか?」
「あいよー」
とは言いつつ、彼女は紙面から目を離さない。同僚もそこは気にしない。
「科研の鹿賀先生がお呼びです。松実も連れてこいと」
「はいはい」
高千穂は新聞記事から目を離さずに席を立つ。
「松実ちゃん行くよ」
「それはいいですけど、歩き新聞はやめてください」
「んー……」
生返事くらいはするが、結局新聞を広げたまま高千穂は歩きはじめる。
「まったく。そんなにおもしろい記事でも載ってるんですか?」
「いんやー?」
彼女は松実の方を見ずに答える。
「伊野選手、あのまま亡くなったってさ」
科研に着くと、咲良は書類片手にコーヒーを飲んでいるところだった。
「失礼しまぁす」
「いらっしゃい」
彼女は目線で椅子に座るよう促しつつ、書類を見やすいようデスクに広げる。
しかしデスクは広くないので、二人も寄ってしまうと松実にはスペースがない。
「これは?」
「昨日のお茶の解析結果が出ましたよってことで」
「あの紫の、結局お茶だったんですか」
「バタフライピーっつって、ハーブティーの一種らしい。
「へぇ~そんなのあるんだ」
律儀に松実の疑問を拾ったところで。
咲良は改めて書類の一区画を、ボールペンでぐるぐる囲う。芯が出ていないのでインクは付かない。
「それよりね千中さん。液体からレモンとアンフェタミンが検出されたよ。えらいこっちゃ」
「アンフェア……なんですかそれ?」
「覚せい剤だよ」
松実の疑問へ、咲良の代わりに高千穂が答える。
彼は跳び上がらんばかりに驚愕し、慌ててメモ帳を取り出した。
「覚せい剤!? ということは、伊野選手はドーピングをしていたということですか!?」
「スキャンダルだねぇ」
野球ファンだけあって慌てる松実。どうでもいいからこそ大仰に腕組み、うんうん首を振る咲良。
しかし彼は、素朴な疑問を思いついたようだ。
「あれ? でも、ドーピングをしたら能力が上がるのでは? 昨日の伊野選手はボロボロでしたよ」
咲良は目を閉じ微笑みながら、人差し指を立てる。まるで親しいゼミ生に講義をする教授のようだ。
「確かにアンフェタミンは興奮剤として、ドーピング禁止薬にされてる。ただ、あれには瞳孔散大の副作用があるのね」
「つまり?」
続けたのは書類から目を離さない高千穂。
「瞳孔が開くと目が光を多く捉える。私たちは普段、普通の照明の明るさで暮らしている。けど昨日みたいなナイトゲームでは。試合運営のためにスタンドライトが目一杯
「眩しくて見えない!」
「そのとおり」
松実はメモを取って情報を整理しているうちに、また別の疑問に行き着いたようだ。
「あ。でも、最初は見えていたんでしょう? ホームラン打ってますし。本当にドーピングしてたら、最初から瞳孔が開いて見えなくなるのでは?」
咲良が呆れたように肩を
「勝つためにドーピングやってんのに、そんな本末転倒になるまで服用するわけないでしょ。それに覚せい剤の経口摂取は注射や吸引より効き目が薄い。チビチビ飲みながらだったら、すぐには効果出ないと思うよ」
高千穂もそれに大きく頷く。
「試合が五回を過ぎても、水筒にはまだそれなりの量が残ってた。それこそ伊野選手、少しづつ飲んでいたんだろう。だから最初はアンフェタミンの摂取量が少なくて、まだボールが見えていたんだね。でもだんだん薬が回って眩しさが増し、プレーに影響を及ぼすようになった」
彼女は上体を起こし、書類と距離を離す。目線はまだ切れていない。
「だというのに伊野選手は試合に出続けた。意識的なドーピングなら鹿賀先生の言うとおり、影響が出るまで摂取しない。万一体調不良になったら、アンフェタミンの副作用が思い当たって試合から引くはず。つまり」
今度こそ書類から目を離し、鼻と口元を両手で覆う。
「おそらく伊野選手は、アンフェタミンが入っていることを知らなかったんだ。したがって混入させたのは、別の人物ということになる」
「それって」
松実の手の中で、メモ帳が少しだけくしゃりと音を立てる。
「誰かに一服盛られたってこと。事件だね」
「うわうわうわうわうわっ!」
松実が少し歪んだままのメモ帳にペンを走らせる横で、咲良はため息混じりに呟く。
「で、結局どうして現場にレモンがあったんだろうね?」
松実がメモから顔を上げる。
「もし覚せい剤が他人に盛られたのなら。昨日千中さんがおっしゃった、『レモン他人のもの説』もあり得てきます。えーと。そのアンデルセンみたいなのがまずくて、誤魔化しにレモンが必要だったとか?」
「うーん。確かに覚せい剤には強烈な苦味を持っているものもある。だから飲み物に入れられてたら、おかしいってすぐに気付く。それをレモンの酸味で上書きしようっていうのはあるかも。問題はそんな酸っぱいのを飲めるかどうかだけど」
「ですよねぇ」
松実と咲良が頷き合っている横で、高千穂がポツリと一言続けた。
「だとしても、レモンが置いてあるのはやっぱりねぇ」
「おかしいですか? 『味がおかしいのはレモン入ってるからだよ~』ってアピールになるからでは?」
松実の言葉に高千穂は頬杖を突く。
「そうとも言えるけど。それは逆に、『誰かが水筒の中身にイタズラしました』って証拠になる。希望は僅かだけど、『味がおかしいのは気のせい』って思わせるルートを潰したり。『誰がイタズラしたかも分からんモン飲めるか!』ってなるリスクを押してまでやることかなぁ、って」
ここは都内ホテルの大広間。WBC日本代表チームがミーティング用に借りている部屋である。
「どうしたんだ、こんなところに呼び出して」
「何かあったんけ?」
「ランニング始めたいんだが」
状況が知らされていないので、口々に疑問が出てくる選手たち。
その中に混じって荒木もミーティングルームに入り、やや後ろの方に座った。前に座ってガンガン熱意を出すのは、若手と嶋コーチの仕事である。
荒木たちがあるいは談笑し、あるいはぼんやりしつつ時間を潰していると。
そんなに待たせることもなく監督が入ってきた。
「来たぜ来たぜ」
「なんだろうな」
「喪章でも配られるんじゃねぇか?」
「背番号揃える方かも」
全体の注目を浴びつつ。監督はホームルームで先生が立つようなポジションに来て、口を開いた。
「あー、みんな昨日の伊野のことは見ていたし。その後のことについても聞いていると思う。それに関して、警察の方からお話があるそうだ」
「警察?」
「昨日のねーちゃんかな?」
「だったらいいなぁ」
プロ野球選手など遊びたい放題だろうに、それでも女性に目がなく浮き足立つ選手たち。
その中でただ一人、腕を組み押し黙っている人物がいる。そう、
荒木である。
なぜだ? なぜまた警察が出てくる? あれはどう見たって事故だろう! だよな? そうだよな?
だから今回のは、『一応事件性がないことは伝えに来ました』だよな?
でも、もし、もしそうじゃなかったら……。
他の選手たちからすれば、伊野の訃報も届いてこれ以上のマイナスはないだろう。
だが、ただ一人二重底になっている荒木の
バレない、バレるはずない、バレたら……
「静かに!」
荒木の思考は嶋の一喝によって弾け飛んだ。
思わず口からほぅっと息が抜けた瞬間。ようやく自分の心臓が、登板前くらい破れそうになっているのを自覚した。
嶋によって座がしんとしたところで、監督が入口の方へ声を掛ける。
「失礼しました。お入りください」
「ありがとうございます」
返事とともに頭を下げながら入ってきたのは、
「お、やっぱ昨日の人じゃん」
「本当に警察だったんだな」
「いや、警察官に見えねぇ格好してっけど」
「なんであの人ヘルメット被ったままやねん」
実は自宅と署と食事以外で、ヘルメットを脱ぐのは滅多にないことなど。誰も知る
続いて昨日のサイン大好き小男も入ってくる。
女性は監督の横に来ると、警察官にしてはそんなに綺麗でもないお辞儀をした。
「えー、皆さんお集まりいただき、ありがとうございます。私、警視庁捜査一課から参りました、千中高千穂と申します」
「松実士郎です」
荒木の表情が微かに歪む。
この女。よく知らないが、昨日は倒れていた球場のドクターを助けたらしい。頭が回る相手なのは、彼にとって嫌な材料である。
そんな敵意と恐れがある視線にも気付かず。高千穂と名乗った女性は、ニヤニヤともニコニコともつかない笑顔で仕切り出す。
「早速ですが、皆さんにお集まりいただいたのは、昨日の伊野選手の件です。それについてお聞きしなければならないことがありまして」
「!」
荒木の心臓がドクンと跳ねる。なんなら肩も跳ねていたかもしれない。少なくとも声は出さずに堪えられたと思う。
高千穂は懐からチャック付きのビニール袋を取り出す。
中には何やら瓶のような入れ物が入っており、紫色の液体を閉じ込めている。
「こちらなんですが」
「ありゃなんだ」
「ぶどうジュース?」
「ヨウ素液やろ。小学校で
「バッカお前、ありゃ紫になんのはデンプンに触れてからだ」
他の選手たちが口々に的外れなことを言っているが、荒木にはあれが何か分かる。
だからこそ何も言えずに、腕を組み続けるしかない。
なんであれが警察の手に渡ってんだ!?
ただでさえ事故にしか見えねぇはずなのに、よりによって水筒の中身を回収してるなんて!?
いや、待て。まだあれだけなら、伊野がドーピングしてたとしか思われねぇはずだ。そう困ったことにゃならねぇよ……。
荒木がドロドロした思考を重ねているのと対照的に。
高千穂は液体を指差しながら、教育テレビのおねえさんみたいに笑う。
「こちら、伊野選手の水筒に入っていたものです。バタフライピーというんですが」
「バタフライ……、新手のプロテインブランドか?」
「
「知らないなぁ」
「つうかあの色何味だよ。あいついっつもココア味だったじゃねぇか」
「紫の野菜ジュースみたいなやつやろ。知らんけど」
袋はマグネットでホワイトボードへ磔にされ、横にマジックで『バタフライピー』。
「うふふ。皆さん、伊野選手のイメージが先行してらっしゃってるのか分かりませんが。バタフライピーはプロテインではありません。お茶です」
「茶ぁ!? その紫のでか!?」
「紙パック紅茶のブドウ味?」
「お前ら静かに聞け!」
黙っていられない人々ではあるが、嶋が一喝すればすぐ黙るあたり。とても体育会系である。
「すいません。続けてください」
「いえいえ、お気になさらず」
高千穂はにっこり笑うと、皆さまの疑問にお答えする。
「蝶豆のお茶だそうです」
「オレからしたら、まず蝶豆が初耳や」
「でもやっぱり、伊野と言やぁプロテインじゃねぇか」
「警察の人がわざわざそんなことを言い出すってことはよ。プロテインじゃないのがおかしいってことか?」
「!」
心臓がバクバク言いつつも。いや、むしろだからこそ。
神経を張り詰めさせ、周囲の会話を一言一句逃さず聞いていた荒木。話題が少し、彼にとってまずい方へ流れはじめる。
オレがやったのは、バタフライピーならではのことだ! あまりそこに頓着されちゃぁ困ることになる!
警察は伊野のことをよく知らねぇ。あいつの水筒の中身がプロテインじゃなかった程度、疑ったりはしねぇはずだ。だからバタフライピーに鍵があるとも思わねぇはずだ。
目を付けられるまえに「それはおかしくない」ってことにしねぇと!
「でもあいつ、最近ハーブティーにもハマってるって聞いたぜ?」
「はぁい。別に彼が紅茶飲んでようが玄米茶飲んでようが、それは関係ないんです」
どうやら荒木の考えは当たっているようだ。そして読みどおり。
警察はバタフライピー自体には注目していないらしい。一安心である。
「バタフライピーは完全に余談でして。問題は、そのお茶から覚せい剤が検出されたということです」
「覚せい剤!?」
静かにしろを繰り返してから、嶋が大声を上げる。
「プロ野球選手、しかも日本代表が!? それは大問題だぞ!?」
貫禄ある監督も動揺を隠せない様子。
しかし高千穂は首を左右へ振る。
「いえ、伊野選手を責めないでください。どうやら彼、誰かに一服盛られてのことなんです」
「マジで!?」
またもや選手たちがざわつき始めるが、今度は嶋も唖然として止められない。
何せそんな事実。単純にドーピングしている選手より、タチの悪いスキャンダルなのだから。
高千穂は彼らを極力落ち着かせるような笑顔を浮かべる。
が、続く言葉で。それは台なしになったと言わざるを得ないだろう。
「つまり、他の方も飲み物に覚せい剤を混入された可能性があります。というわけで皆さん。試合中飲み物が変な味した方、いらっしゃいませんか?」
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