3.謎の遺留物

「きゃあ!」


 誰かがあげた悲鳴とともに、伊野がその場に崩れ落ちる。


「あー、モロにいったねぇ」


 ぼんやり呟く高千穂だが、


「あれ? なんかヤバくありません?」


 松実が指差す先、伊野はピクリとも動かない。


「あれ絶対ヤバいですよ! 普通か顔を抑えるくらいするのに! あんな意識が切れたみたいに!」

「脳震盪でも起こしたんじゃない?」


 冷静というか、遠目で雑な診察をする咲良の肩を松実が大きく揺さぶる。


「先生! なこと言ってないで早く伊野選手のところに行ってくださいよ!」

「揺らすんじゃねぇ!」


 さすがカンシャク玉、一喝でおとなしくさせると、悠々ビールを口に運ぶ。


「球場にはバイトで医者が詰めてるもんだから。『お客さまの中にお医者さまはいませんか』状態にゃならないの」

「へぇー」

「だからズカズカ出てって領分を荒らさない」


 余裕の表情な医療業界人だが、じっとグラウンドを見つめる高千穂がボソッと一言。


「にしてはお医者さん遅いね」

「んあ?」


 咲良と松実が改めてグラウンドを見ると。

 選手が集まってきたりスタッフが右往左往したりしてはいるが、いつまで経っても医者が出てこない。

 と、バックヤードから数名のスタッフが出てきた。医者こそ伴っていないが担架を持っている。


「あ、とにかく裏に運ぶみたいですね。迅速な対応……」


 松実が安堵しかけた隣で咲良がスッと立ち上がり、



 内野席のフェンスを飛び越えた。



「えぇーっ!? 急にどうしたのあの人!?」

「松実ちゃん、一応私たちも行こうか」

「は、はい!」






 担架を運んできたスタッフに向かって、咲良が大声を上げる。


「待ったーっ!」

「な、なんですかあなたは!」


 スタッフたちは当然驚いているし、警備員も侵入者を摘み出そうと慌ててこちらへ駆けてくる。

 が、彼女は動じない。


「私は医者です!」


 瞬間、スタッフたちの顔が少しばかり明るくなる。


「そ、そうですか!」

「担架はやめてください。頭を打って意識がない患者を、下手に動かしてはいけない!」

「分かりました! あの、お医者さまなら一緒に来てください! お願いします!」

「いいですけど、球場の先生はどうしたんですか」

「せ、先生はその……」


 スタッフたちは咲良を伴って、選手たちが輪を作っている一塁の方へ向かう。

 その中心にいるのは、動かない伊野と牽制を投げた本人である荒木。


「伊野! しっかりしろ! 伊野おおお!!」


 荒木が大声で呼び掛けているが、やはり目を覚ます様子はない。


「どいてください! 通して!」


 子どもみたいな体格の咲良が、大柄の選手たちを掻き分けて。なんとか伊野のところへたどり着く。


「誰だ君は!」


 ウインドブレーカーを着た精悍せいかんな中年。嶋コーチが「こんな時に!」という感じの声を出す。


「医者です!」

「本当か!?」


 別に彼もそれを疑ったわけではないだろうが、


「本当です……。僕が証言します……!」


 走って追い掛け、息を切らしてようやく追い付いた松実が、警察手帳を掲げて割り込む。


「この人は科研で働くお医者さんです!」

「警察の方ですか」


 嶋は急に警察が現れたことに驚いている様子。

 咲良は対照的に冷静、毅然きぜんとした態度で告げる。


「私が伊野さんを診てもよろしいですね?」


 嶋は慌てて大きく頷く。


「お願いします!」


 その様子を見て松実は額の汗を拭う。


「ふぅ、僕のおかげで鹿賀先生の疑念が晴れましたね」


 高千穂がボソッと呟く。


「いらなかったと思うよ」

「そんな!?」

「それより松実ちゃん、手帳家に持って帰る派なんだ。失くすなよ?」

「失くしませんよ! 僕は千中さんほどズボラじゃない!」


 しかし抗議の言葉を無視して高千穂は、所在なげに担架を持ったスタッフへ話し掛ける。


「ねぇ、どうして球場にいる医者が出てこないの?」


 スタッフたちは顔を見合わせ軽く頷き合い、それから高千穂に向かい合った。


「あの、警察の方なんですよね?」


 その目には少し、縋るような色がある。

 なので高千穂も、松実には一生見せないだろう優しい笑顔で答える。


「うふふ、そのとおりですが?」


 するとスタッフは周囲に聞こえないよう、高千穂の耳元で囁く。

 スタンドの的に、そんな配慮はいらないと思うが。


「あの、一緒に来ていただけませんか?」






 球場に救急車が到着し、伊野が丁寧に運ばれていく。

 選手や観客がそれを呆然と見送る中、咲良は救急隊と話をしている。


「あなたが球場の先生ですか?」

「いえ、私は違います。観客で来ていました」

「そうですか。球場の先生はどうしたんでしょうね」


「先生なら救護室で返ってましたよ」


 不意に割り込んだのは高千穂だった。


「えっ! それは大変だ!」


 救急隊員がそちらに向かおうとするのを、高千穂は手で制する。


「鹿賀先生、アマリール錠って」

「経口糖尿病薬だね。副作用で低血糖を起こしやすい。……医療関係者が患者として不真面目なのはよくある」

「それで失神なさっていたということですか?」

「はい。選手の方にガムもらって噛ませたので、今はもう回復しました」

「そうですか、それはよかった」

「ただ。本人は平気そうですが、ひっくり返った時に頭打ってる可能性はあるので。一応救急車で病院まで連れていってもいいかもしれません」

「なるほど、ご協力ありがとうございました」


 状況を把握した救急隊員たちは手早く作業を終わらせる。

 ほどなくしてサイレンが遠くへ流れていった。






「それで鹿賀先生、伊野選手の容体は?」

「あの場では『即死ではない』としか。助かるかは」


 野球は団体スポーツ。一人が顔面血まみれになっても、選手交代で続行可能なら当然試合は続く。

 というわけで試合は再開しているのだが。

 高千穂たちは客席に戻らず代表チームのベンチにいた。

 伊野の診察をした咲良や、グラウンドで動いていた高千穂たち。元の席に戻ると、状況を知りたい他の観客に揉みくちゃにされるかもしれない。そんな配慮だった。

 チケット料金返すから穏便に帰れ、とは言わないナイス運営である。


「うわぁ、ベンチってこうなってるんだぁ。冷蔵庫のドリンクって飲んでいいんですか? あ、上総選手! サインください!」


 高千穂と咲良は思わぬひと仕事、通常勤務の倍疲労を感じているが。松実は元気にベンチ内を動き回っている。


「松実ちゃん。ご好意で入れてもらってるのに、選手の方の邪魔しないの」

「えぇ、せっかくなのに……」

「さっきの今。皆さんの心理を考えなさい」

「はは、別にいっスよ」


 上総選手は優しく笑いながら、松実のメモ帳にサインをしてくれる。


「むしろあなたがたの方こそ、ナンパされないように気ぃ付けてください。爽やか高校球児みたいな、お行儀いい連中ばかりじゃないんで」

「ありがとうございます」

「だからむしろ、みんな美人の前じゃで喜んでサインしますよ。ただ」


 彼は少し憂うような表情で、ベンチの端を見やる。


「あの人はそっとしておいてやってください」


 高千穂たちも同じ方向へ視線を向ける。

 その先では荒木がうなだれている。


「オレの……、オレのせいで……」


 嶋が肩を叩きながら諭す。


「そんなことはない。事故だ。こういう事故は起きる。これは……、うん。プロとしてうまく捕球できなかった、伊野の責任だ」

「そんな……」


 はしゃぎ回っていた松実もおとなしくなって、高千穂の隣に座る。


「荒木選手、めちゃ落ち込んでますね」

「んー」


 彼女はベンチの背もたれに沈み込み、試合も見ずに天井をじーっと眺めている。


「僕らも静かにしときましょうか」

「んー」

「さっきからなんですか、その素っ気ない返事は」

「伊野選手のファンだったりすんの?」


 松実や咲良の声にも視線を下ろさず、そのままポツポツ答える。


「ファンではないんだけど。一つ二つ、気になることがあってねぇ」

「気になること?」


 高千穂はここで視線をグラウンド、一塁の方へ向ける。


「一つは、伊野選手が顔に送球を受けた時のこと」

「何か気にかかる?」


 咲良も相槌を打ちながらグラウンドを見る。試合はちょうどショートがゴロを捌いて、一塁へ送球するところ。


「あの時の伊野選手。棒立ちっていうか、ほぼ無反応だった」

「だから顔面直撃したのでは? 今日は全体通して調子悪そうでした」

「そうか? 第一打席はホームランだったじゃん」

「確かに」


 咲良の着眼に高千穂はニヤリ。


「先生の言うとおりだし、その後の打席でも。凡退した時も守備でエラーした時も、悪いなりに反応はしてたんだよ? 細かいところが追いつかなかっただけで」

「そう言われればそうかもです」

「だから普通、送球が顔に来たらさ。捕球が間に合わないなりに、反射で手を出したりするんだよ。それが、最後はほとんど無反応。まるでなってしまったみたいに」


 彼女も今は、目の前を見ずに記憶を見ている様子である。


「だんだん目の疲労が溜まってきて、ピークがあの瞬間に来たとか?」

「あとは球場の照明は結構眩しいですし。フライとかは球が被って、見えないこともよくあるそうですよ」

「それはあるかもね。でも、もう一つ気になることがあってさ」


 ここで高千穂は目線を横、というよりは松実の隣の椅子。座面に向ける。


「なんですか」

「この水筒」


 そこには伊野の水筒がポツリと忘れ去られている。


「変ですか?」

「の横」

「横かい!」


 彼女は松実たちからは水筒の影になっている部分を指差す。


「レモン果汁の容器が置いてある」

「レモン?」

「水筒にレモンティーでも入ってんじゃね?」


 咲良は試合を見ながら適当な調子。


「んー、だとしてもさぁ。球場でレモン入れる? 普通家でレモンティーにしてくるでしょ」

「途中で急にレモンティーにしたくなったとか」


 松実はレモン果汁をジロジロ眺める。


「なんで球場にレモン持ってきてるのさ」

「こんなこともあろうかと持参していたのかも」

「千中さんはどう思ってんの?」


 松実の話が飛躍しはじめたので、咲良が話を核心へ向かわせる。

 しかし彼女はまた、天井を向いてしまう。


「それなんだよねぇ。本人が持ってきたってのはおかしいし……。もしかしてさぁ」


 高千穂はベンチを軽く見回す。


「このレモン持ってきたの、別の人物なんじゃないの?」

「なんのためだよ」

「ベンチで唐揚げ食べる人物が?」

「んなわけないでしょ。ただ、レモンの持ち主が他人だと。今度は伊野選手の水筒に、寄り添うように置かれてるのが変だよねぇ」


 膝に肘を立て、頬杖の構え。


「んー、誰かがレモンを伊野選手の水筒に混ぜた?」

「それこそなんのためですか。他人のお茶をレモンティーにして飲みたい人でもいたんですか?」

「さぁ?」

「さぁ、って」


 松実が露骨に引くと、咲良も首を傾げる。


「そもそもそれなら。水筒にレモン混入したやつが、入れ物置いていくのもおかしくない? 明らかに怪しいじゃん」

「そうなんだけどねぇ。でもまぁこの水筒に何かはあると思うからさ。科研で中身調べてくれる?」

「そんなな理由で許可降りるんか?」


 高千穂と咲良が荒唐無稽な話を深掘りしはじめたので、松実が決着のために水筒を手に取る。


「レモンが入ってるかどうかなんて、匂いでも嗅げば一発ですよ! なんなら味も見れば!」

「勝手に触るなよ」


 高千穂が制したにも関わらず。松実はもう、ベンチにあった紙コップへ水筒の中身を注いでいる。

 と、


「うわっ!」

「どうしたの」


 松実は紙コップの中が高千穂と咲良にもよく見えるよう、差し出してくる。


「おや」

「うわ」

「紫色!」

「スポドリかな?」

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