6.一杯の不覚

「証拠なんだよなぁ、証拠」

「証拠ですか?」


 高千穂が警視庁本部のデスクへ戻ってくると、隣を間借りして松実が待機していた。


「おや、松実ちゃん」

「証拠がー、ってことは、犯人の目星はついてるってことですか?」

「そう。目星はついてる、動機もあるしアリバイも崩れた。でも『彼女がやった』と裏付けるものがない」


 彼女が椅子に座ると、間借りしているデスクの上から書類が寄越される。


「そういえば。今朝上がってきた科研の解剖カルテ見ました?」

「あぁ、今日は出ずっぱりでまだ。見せて」

「どうぞ」

「どれどれ?」


 椅子にずり落ちそうなほど深く腰掛ける高千穂。ゴシップ誌でも読むような気軽さでカルテを見ていたが、


「ん? んー……」


 やがて座り直し、前のめりになっていく。最終的にはカルテをデスクに置き、文章を指でなぞり始める。


「なるほど、ね」


 軽く数回頷いた高千穂は、寒い日に息で手を温めるようなポーズをとると、


「うふ、うふふふふふ」


 横目でチラリと松実を見る。


「な、なんですか」

「松実ちゃん、二つほど聞き込みしてほしいことがあるんだけど」

「は、はい!」

「それと」


 口元を覆う手を離し、今度はカルテの方を指差す。


「証拠あったよ」

「本当ですか!?」

「本当だとも。なんたって私は……



 禁酒するかノンアルにするかって言われたら、肝臓水解物を摂取する人間だからね」

「まったく意味が分かりません」






「ふぅ」


 結局その日の会議では、目覚ましい結論を出すことができないまま。就業時間だけが終わった。

 しかしまだ期日には余裕がある。残業してまでとどこおった会議を続けるよりは、さっさと帰ってリフレッシュ。冴えた頭で明日、遅れを取り戻すのがタングステンボディの社風である。

 絵梨もそれに、デスクで帰りの準備を終えたところである。


「それじゃ、お先に失礼しまーす」

「はいお疲れー」


 デスクを後にし、ウェア開発部門棟から本棟へ続く廊下を歩いているときだった。


「どぉもぉ」


 柱の影から現れたのは。その声だけで間違いようがないほど頭に残ってしまった、


 嫌なヘルメットの警部補である。


「……」

「これからお帰りですか?」


 絵梨は舌打ちしたいのを堪える。


「あら、わざわざそれまで待ってたのかしら?」

「はい。それで、私が来た理由はお分かりですね?」


 ニヤニヤが今までで最高潮にムカつく。

 しかしそれでも、必死に冷静さと余裕を演出する。静かな闘志も。


「名誉毀損に強い弁護士でも探そうかしら?」

「ご安心ください。刑事裁判では無償で弁護士を宛てがってもらえるんです。いい制度でしょう?」

「……証拠が、あるとでも?」


 絵梨は思いっきり睨み付けてみせたが。高千穂は怯むどころか前傾姿勢。フライトジャケットの懐に手を入れ、「望むところ」と言わんばかりに微笑み返す。


「あります」

「出してみなさい」


 しかし彼女は懐に手を入れたまま、フリーな方の人差し指を立てる。


「うふふ、そのまえに。あなたがどうやって犯行をおこなったのか。まず、あなたはなんらかの口実で被害者にあらかじめ、夜に会う約束を取り付けます。すると向こうは同窓会があると断ってきた。しかしこれは織り込み済みです。あなたが事前にそのことを知っていたのは、聞き込みで判明しましたから」

「それで?」


 高千穂は立てていた人差し指を絵梨へ向ける。


「ですので五木さん、あなたはそれを利用する計画を立てます。『同窓会ともなればお酒が出るだろう。飲酒した状態のターゲットなら仕留めるのは容易たやすい。ちょっと偽装すれば、酔った末の事故と判断されるだろうし』と」

「確かにそれは、殺人をするなら都合はいいでしょうね」

「パーティー後に会う約束を取り付けた次はアリバイ作りです。あなたは明石さんのお宅に行き、宿泊することにします。そして夕食後、彼女にビタミン剤へ紛れさせてレキソタンを飲ませた。こうして眠らせることで、あなたは気付かれることなく、窓なんかから外へ出たわけです。明石さんの部屋は一戸建ての一階ですからね。そして現場に向かったあなたは、被害者をそこにあったマリア像で撲殺」

「物理的に不可能ではないでしょうけど」


 不快そうな絵梨を気にすることもなく、高千穂は人差し指を自身の唇の前に持ってくる。


「ここまではよかったんですが、うふふ。あなたはここからミスのオンパレードをします」

「何かしら?」

「事故に見せかける偽装です」


 じわじわと炙られるようなストレスの中に身を置いている絵梨。しかし高千穂の方は、まるで楽しくなってきたかのような声と仕草をする。


「いえ、そうすること自体はミスではないんです。が、やり方が杜撰ずさんだった。西城戸さんをマリア像で撲殺したあなたは、像頭部の血のつき方や傷口の照合で、死因はこれに頭をぶつけたものだと分かると考えた。だから脚立を用意して、酔っ払って足を踏み外し、像の上に落ちた形にすることにしたんです。そこであなたはまず、マリア像を元の位置に戻すのですがぁ。一つ目の杜撰です。マリア像を立った状態で戻してしまった」

「それはもう聞いたわ」

「そして二つ目の杜撰。遺体にビール瓶を握らせた。これはおそらく被害者が酔っていたことを強調、印象付けたいがためでしょう」


 こんな時にまで回りくどい話の進め方をしやがって!


 絵梨はもう感情を包み隠すのをやめた。


「それももう聞いた! 瓶が握られてるのがおかしいってんでしょ!? あのねぇ。確かにそれなら、誰かが現場を偽装した証拠だから、殺人であるっていう証拠にもなるわ。小春の薬の件からも、私には犯行が可能で動機もある。でもねぇ! それって状況証拠に過ぎないじゃない! 昼にも言ったでしょう!? 証拠を持って来なさいって! 証拠を! 私がやったっていう証拠を!」


 大声を放つも、高千穂は驚いたり萎縮したりすることなく淡々としている。

 よく見るとそもそも、周囲に反応する社員がいない。どうやらあらかじめ人払いがなされているようである。

 興奮状態。肩で息をする絵梨に、先ほどまで楽しそうにしていた彼女は急にまじめな声を出す。


「あなた、一つ勘違いをしている。私が杜撰だと言ってるのは、瓶が握られていることではなく。そもそもビール瓶があったことなんです」

「なんですって?」

「五木さん。あなた、大事なことを知らなかったんです」

「何をよ!」


 高千穂はここでようやく、懐に入れていた手を抜き出した。彼女は一枚の紙を絵梨の目の前へ突き付ける。


「何よこれ」

「西城戸さんの司法解剖結果です」

「それがなんだっていうのよ」


「これによると西城戸さん、体内から一切アルコールが検出されなかったんです」


「えっ」


 思わず間の抜けた声。高千穂はトドメをさすように詰め寄る。


「五木さんあなた。被害者が同窓会でお酒を飲んでいるものと思い込んで細工しましたが。実は西城戸さん相当落ち込まれていて、お酒一滴も飲んでなかったんです」

「そ、それがなんだっていうのよ……」

「まだ分かりませんか? お酒を飲んでいない被害者が空のビール瓶を手にしているのはおかしい! これは酔った末の事故だと強調するために犯人が用意したものだ! これを考え付くのは、事件当夜西城戸さんが同窓会に参加することを知っている、飲酒するだろうと予想できる人物だけ。ちなみに、あなたの他に動機があると考えられる明石さんは、同窓会のことなんてご存知ありませんでしたよ?」

「で、でも! 参加してた人なら、先輩が同窓会に来たことくらい知ってるでしょ!」


 しかし高千穂は目を閉じ、首を左右へ振る。


「同窓会に参加していた方に聞いたことですが。西城戸さんは終始ウーロン茶を飲んでいたそうです。ビアホールにウーロンハイなんかありません。つまり参加者には、彼がアルコールを摂取していなかったことは一目瞭然なんです。そして、それを知っている人は酔っていたと偽装はしない! なぜなら被害者が実際に飲んだかどうかは解剖で簡単に分かってしまうから。殺人を事故に偽装したとバレてしまうから。つまり? 西城戸さんがパーティーに参加していることを知っていて。かつ、彼が飲酒しなかったことを知らない動機ある人物は五木さん!」


 彼女はもう一歩、大きく詰め寄る。


「あなたしかいないんです。現場にビール瓶があったということが、あなたが偽装した犯人である何よりの証拠なんです。まだ続けますか?」

「……」

「……」

「……み」

「……」


 絵梨はぎゅっと握った震える拳を、ゆっくりと開く。

 この場で言い逃れを重ねたとしても、もう先は見えているだろう。


「……認めます。私が、先輩を殺しました」

「はい、どぉも」


 犯人に自供させておいて、意外と反応はあっさりしていた。

 これではなんだか自供のしがい、とでも言うようなものがない。なので勝手に喋ることにする。


「先輩が悪いのよ。小春をノイローゼになるまで追い込んで、自分は何事もなく生きてたんだから」

「そんなことはありません。彼、お酒も飲めないくらい落ち込んで反省していたそうです」

「……ふん。そんなので許さないわよ。何より遅刻と一緒。反省してもすぐ同じことするのが、あの人の常だもの」


 高千穂は一瞬だけ、何かを噛み締めるような表情を浮かべた。それから少し哀れむような表情を向ける。


「だとしてもあなた、殺してはいけなかった」


 事情を知らない他人にそんなことを言われて、絵梨はついカッとなる。


「どうしてよ!? 小春を見殺しにしろっていうの!? 小春をあいつから守るために私は……!」

「あなたが捕まっては、その後明石さんを守っていく人がいなくなるからです」

「あ……」

「……」


 高千穂も人の心があるのか、目を逸らす。すでに自供して今さらだが、絵梨にはそれがチェックメイト宣告に見えた。

 だから彼女は、最後と思って気になることを聞いてみる。


「……ねぇ千中さん。あなた、今思えばだいぶ早い段階から私のこと疑ってたと思う。一体いつから? 小春が寝た時間を答えなかった時?」


 高千穂は眉を下げながら、しかし口元は努めて笑顔を保つような表情をする。


「いいえ、最初にお会いした時。『電話をしたか』と聞いて、『しなかった』とおっしゃった時です。あなたはいつも、西城戸さんが遅刻すればすぐに電話を掛けると聞いていました。なのにあなたは聴取の時。『電話を掛けたのに繋がらなかった。おかしいと思った』というようなことは一切おっしゃらなかった。それどころか『今日はまた随分と遅いわね、なんて思ってたら』と。だから電話をしていないんじゃないかと思いまして。案の定でした」

「それで?」

「あなたが今回にかぎって電話をしていないと聞いて、分かったんです。あぁ、この人は電話する必要がないことを知っていたんだ、と」


 絵梨は思わず天を仰ぐ。初歩的なミスである。ここまでくるともはや清々すがすがしいか。


「最初の最初じゃない。私、全然ダメね」

「普段と違うことをする、というのが一番疑われる行為なんです。特にあなたみたいな、きっちりして正義感が強い人ほど」

「そう……。悪い気はしないかもね。……ねぇ、千中さん。今回の私の動機は、小春には」

「自分が明石さんのために殺人を犯したこと。彼女が気に病むとご心配なのでしょう? 分かります。ただ」

「ただ?」


 高千穂は今までで一番、同情心の強い笑顔を浮かべた。


「明石さんのお母さまは、頓服薬が一錠減っていることにも気づく人です。そんな方の娘なら……。きっとあなたの思いにも、すぐに気づいてしまわれるでしょう」

「……私、全然ダメね」






            ──一杯の不覚 完──

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