捜査一課のアイルトン・セナ

5.アリバイと証拠

　翌日、タングステンボディのオフィス。ウェア開発部門の廊下を絵梨は歩いている。

　これから会議があるので、プロジェクターのセッティングや資料の用意。準備に忙しいのである。

　少し速歩きで廊下を進んでいると、

「おや、五木さん？　五木さんだぁ！」

　ちょうど向こうから、いつかのヘルメット女が歩いてきた。彼女は絵梨を見つけて大きく手を振る。

「あら、千中さんでしたっけ？」

「はぁい千中です。お話よろしいですか？」

　高千穂は自然に隣へつけて、並行してくる。

「事件のことね」

「はい。おっしゃるとおりです。それで二、三よろしいですか？」

「……今私、結構忙しいんです。作業をしながらでよければ」

「はいはいそれで結構です。お手間は取らせません。ではさっそく」

　絵梨は視線も向けてやらなかったが、そういう扱いは慣れているようだ。気にせず自分の話に入る。

「えー、まず、事件当夜。あなた、明石さんのお宅に泊まられてますよね」

「そうお話ししたと思いますけど」

「はい。それでお伺いしたいのはですね？」

「なんでしょう。アリバイに何か問題でも？」

　チラッと見やると、彼女は相変わらずニヤニヤしている。正直警察と話をする犯人の心理としては、非常に癪に障る態度だ。

「どうでしょう。そうとも言えるしそうでないとも言えるでしょうか。ただ、大事なのはアリバイ確認ではなくてですね」

　そうとも、そうでないとも……？

　言われている意味がよく分からない。が、このまま向こうのペースでいるのはいい気がしない。

　じゃあ先手打ってテンポ崩してやろうじゃない。

　絵梨は重要なカードをこちらから切ることにした。

「確かに私は先輩とも小春とも親密な関係です。そのうえで。二人の関係のことでは、先輩をよく思ってはいませんでした。それは認めます。私には動機がある、というお話でしょうか？」

「うふふ。そんなんでもなくてですねぇ」

　高千穂はニヤニヤしながら首を左右に振る。

　なんなのよやりにくい！

　絵梨は心の中で毒づくしかない。

「昨晩の明石さんの具合、いかがでしたか？」

「え？　そんなこと？」

　出てきた言葉があまりにも捜査に関係なさそうで。絵梨は思わず上（うわ）ずったような声が出た。

「そんなことなんですー。それでいかがでした？」

「そ、そうですね、あまりよくなかったみたいです。夕飯もあまり喉を通ってなかったですし。そのあともすぐに眠ってしまうくらいには」

　なぜこのヘルメットが小春の体調を気にするのか分からない。が、まぁ自分が困るようなことはならなさそう。

　絵梨はそう判断して気前よく答えてやった。すると高千穂は、顔を覗き込むようにずいっと近づいてくる。

「五木さん、明石さんにビタミン剤をあげたとか」

「そうですけど。ないよりはマシでしょう？」

　絵梨は一歩分距離を取りながら答える。

「おっしゃるとおりです。ちなみに明石さんが寝付かれたのはいつごろ？」

「！」

　ここで彼女はようやく、まずい状況なことに気がついた。

　もし小春の寝ていた時間を素直に答えたら。前回アリバイを答えた時間帯に、彼女が起きていないことがバレる。

　つまりは、自分のアリバイを担保する存在がなくなってしまうのだ。

　アリバイに問題が『あるとも言えるし、ないとも言える』とは、こういうことか。

「……何時だったかしら。すいません、ちょっとはっきり覚えてないです」

「では、夕飯を召し上がった時間くらいは覚えてらっしゃいませんか？　そこからすぐということなので、大体の時間が」

「ごめんなさい、ちょっと。小春の就寝時間がそんなに気になりますか」

「それはもう。明石さん、ノイローゼだと伺っています。そういう人、不眠症になりやすいので心配じゃないですか。五木さんも心配でしょう？　ご友人なんだから」

「そうですね……」

　絵梨の背中に冷たいものが走る。

　高千穂が口に出しているそのままの、お人好しなことを考えているわけではないと。

　それくらい彼女にも分かる。

「まぁ食後すぐ寝たのなら、朝までぐっすりとおっしゃってたし。睡眠不足にならないくらいには寝れたのかな？」

「そ、そうですね。夜中に目が覚めたりしてなければ」

　しかし意外にも、高千穂の方から話題を締めに掛かる。

　意図は読めないが、絵梨としては都合がいい。平静を装いつつほっと胸を撫で下ろす。

「あ、そうだ、それともう一つ。これは明石さんのお母さんがおっしゃっていらしたんですけどね？　明石さんの頓服薬、レキソタンっていうんですがぁ。お母さんマメに数えてらっしゃって、一錠減っているとおっしゃるんです」

　と思えばこのヘルメット、絵梨にとって致命的な話題を振り回してきた。

　油断させておいてこの運び。絵梨は危うく衝撃が顔に出るところだった。

「そう……」

「それだけならおかしいことはないんです。きっと必要に応じて明石さんが飲まれたんでしょう。しかし？　なんとお母さんが聞かれたところ、彼女飲んでないっておっしゃるんです！　五木さん、何かご存知ありませんか？」

　ここにきて絵梨は、腹立たしいだけだった高千穂の笑みが不気味に思えてきた。

　まさかこの女、全部分かったうえでこの顔なんじゃないでしょうね？

　この際、極力相手を見ないことにする。

「いえ、何も……。あぁ、でも、小春はすぐ心配かけまいとか考える子で。言わなきゃいけないことまで黙ってたりするタチです。変に気を遣って、嘘ついてるかもしれませんね」

「なるほど。貴重な情報、ありがとうございます」

　ここまで話しているうちに、ようやく会議室が見えてきた。絵梨は逃げ込むようにドアを開ける。

「そうですか、よかったです。じゃあ私は会議の準備があるのでこれで。社外秘の資料とかありますので、何かありましたらまた後日」

「はぁい。ありがとうございます」

　高千穂は食い下がることなく去っていった。絵梨はヨロヨロと手近な椅子に腰を降ろし、

「くっ！」

　テーブルに拳骨を一発落とす。

　自分しかいない会議室に、ゴン、と鈍い音が虚しく響いた。

　ここは桜田門（さくらだもん）。警視庁本部庁舎の食堂。

「失礼します」

　座席へ深めに腰掛け、コーヒーを飲んでいる高千穂。

　そこに松実がメモを振りながら歩いてくる。彼女は椅子にしっかり座りなおす。

「おぉ、薬について何か分かった？」

「結論から言いますと……。依存性あるので用もなく飲んでいいことはないそうです」

「ひゃー」

「まぁでも、一回の誤飲で健康がどうこうなるものでもないと」

「よかった、かな？」

　さらにパラパラ、メモが捲られる。

「ちなみに心身症？　や神経症の一部症状とか。あとはうつ病による不安感緊張感、睡眠障害に用いる薬だそうで。作用するのも非常に速く、頓服薬としても処方されるんだとか。副作用は……、まぁ、なんか、ぐでってなります」

「急に雑にならないの。まぁいいや。睡眠導入剤になるのは本当か……。じゃあさぁ。今度は明石さんとこに行ってさ、昨日の晩御飯何時だったか聞いてきてよ」

「晩御飯の時間？　献立じゃなくてですか？」

「君警察向いてないから、ヨネスケの弟子にでもなったら？」

「えっ？　落語家の方が向いてますか？」

「……」

　高千穂はカクッと項垂（うなだ）れた。

「じゃあちょっと休憩挟もうか」

　タングステンボディの会議室。会議が停滞しはじめたので、プロジェクトリーダーが小休止を宣言する。

「じゃあ三十分後再開するので、各自頭をリフレッシュさせといてください」

　同僚たちが続々コーヒーやら糖分やら補充に行くなか、絵梨は大きく伸びをした。

「んー！　疲れるわねぇ」

　さて、私もチョコレートくらい摘もうかしら？

　彼女も軽く腰を浮かせたところで、

「あーすいませんすいません。ちょっと通してください？　すいませんありがとうどうもどうも」

「……」

　あまり好ましくない女が、同僚たちの横を抜けて会議室に入ってきた。

「……千中さん」

「五木さぁん！　いやー、伊藤さんにこちらだと伺いまして、廊下でお待ちしてたんです。ちょっとよろしいですかぁ？」

「えぇ。よろしいですよ。座って話しましょう。その野暮ったいヘルメットをお脱ぎになって」

「あぁこれはどうも」

　ここまで言うと、さすがに高千穂もヘルメットを脱ぐようだ。

　しかし後生大事に被っているだけあって、デスクではなく膝の上に置いた。

「それで、なんの用でしょう？　一日に二回も」

「はぁい。例のレキソタン、おもしろいことが分かりました」

「行方不明のが見つかったの？」

「いいえぇ。用法が分かったんです」

　彼女は鞄から何やら書類を取り出し、デスクの上に置く。

「用法？」

「ええ。あの薬、主に心身症や神経症、うつ病によるあれこれに使われるんですが。実はもう一つ代表的な使い方がありまして」

「なんでしょう」

　高千穂は書類の一文を指差す。どうやらレキソタンについての資料のようだ。

「レキソタンはですね、睡眠障害の薬としても処方されるんです。しかも頓服薬としても処方できるほど即効性もある」

「……それの何がおもしろいんでしょう？」

　絵梨の声が低くなるのと対照的に、高千穂の声は少し愉快そうに上がる。

　絵梨が少し前傾するのと対照的に、高千穂はリラックスして背もたれに体を預ける。

「つまりこのレキソタン、相手を眠らせる睡眠薬として使用できるんですねぇ」

「まさかそれがおもしろいつもり？　まったく分からないんですけど」

「ご安心ください。おもしろいのはここからです。松実ちゃんが聞いてきてくれました」

「何を」

「あなた方、昨日の晩御飯、十九時あたりらしいですねぇ。ま、退勤時間を考えれば。すぐ近所の店へ入るでもなければ、大体そのくらいの時間になりますねぇ。思い出しましたか？　私、五木さんがよく覚えてらっしゃらなかったから、わざわざ調べてきたんですよ？」

「あぁ、そう……」

　言われなくても覚えてるわよ！

　怒鳴り返してやりたいところだが、それを言っては全て台なしだ。

　しかし、これまでも。事件に関係あるようなないような、微妙なラインを突っつき回してくる高千穂。意図が読めない絵梨だったが、今はこいつが何を言いたいのか大体予想がつく。

「それで？」

「明石さんが食事を切り上げたのは大体三十分ほどあと。そのすぐあとには眠っておられます」

「そうでしたかね」

「はぁい。ところで五木さん。あなた明石さんが寝るまえに、ビタミン剤、飲ませてますよね？」

　喉がさっと干上がる。対照的に掌は汗ばんできた。彼女は努めて平静を装う。

「それがどうかしましたか」

「おもしろくありませんか？　明石さん、ぐっすり眠るのはめずらしいとおっしゃってました。そんな人が、こんな早い時間に寝付いて、しかも朝まで。と思えば紛失した睡眠導入剤。寝るまえに渡された、数錠のビタミン剤」

「ちょっと待ちなさい！　まさか私が小春に、ビタミン剤と混ぜてレキソタンを飲ませたっていうの！？」

「いいえぇ、そこまでは誰も。ただ、事件があったのは二十時から二十一時のあいだ。明石さんは眠ってらっしゃるので、うふふ、あなたが部屋にいたか見ていない……」

　動揺を見せてはいけない。絵梨は胸を張って腕を組む。

「なるほど。私のアリバイは崩れたって言いたいんですね？　つまり、千中さんは私が犯人だと疑ってるわけですか」

「いやいやまさかそんなぁ」

　高千穂が大袈裟に手と首を左右へ振るので、膝の上のヘルメットにコン！　と握った手を置く。

「はっきり言いなさい。この話、それ以外のなんだっていうんですか」

「ははぁ。でははっきり言いましょう。私、本当に疑ってなんかいないんです」

「へぇ」

「あなたが犯人だと、確信、しているんです」

「……」

「うふふふふふふふ！」

「……なるほどね」

　絵梨が身を引きながら腕を組むと、今度は背もたれに身を埋めていた高千穂が前に出る。

「夕飯、いや、明石さんが眠りに落ちた時間も。本当は覚えておいでだったんじゃないですか？　昨日の夕飯の時間、大体も答えられないなんて、そうそうありません。忘れたフリをしたのは、答えると犯行時刻のアリバイに空白ができてしまうから」

　しかし絵梨は焦らない。こういう時こそ、余裕の態度を崩してはならないものである。

「ふふ。確かにおもしろいわね。でもね、本当に忘れていただけですよ？　忘れたフリなんて言うけど、そんなの証明しようがありますか？　そうね、私が犯人だと確信している、なんていうのも。勝手に確信してるんじゃ困るわ。証拠を持ってきなさい。それもあるっておっしゃるのかしら？　だったら私はとっくに逮捕されてるんでしょうけど」

「えぇ、おっしゃるとおりです」

　踏ん反り返ってやりたいが、そこまでするといかにも犯人っぽい。抑えめの態度を意識する。

「それじゃお話になりませんね。出直してください」

　しかし口からは、存外抑えられていない言葉が出てしまった。それだけこの女にイライラしているのだろう。

　対する高千穂は、ここまで挑戦的な態度をとられてもニヤニヤ顔が崩れない。もう分かっていることだが、マイペースでねちっこい性質なのだろう。

「そうさせていただきます。近いうちに」

「そう。じゃあもう休憩時間も終わるので」

「はい。失礼します」

　ヘルメットを被って出ていく高千穂を、絵梨は憎しみを込めて見送った。

　アンタのせいで、チョコレート買いに行きそびれたじゃない、と。