第56話 棺は滑ることもできます

「あのー、海には何もないんですか、便利な機械とかあったらいいですか?」


 じゃあそろそろ稽古を再開するかあ、という頃合いに械奈が発言する。

 さあ? 海には闇しかない……ということでも実はないのかもしれない。

 

 何か……? あるんじゃないの?

 

 影になった両手で私は何かを掴みかけている―― 


  **


「金魚の国へ!」


 稽古をしながら見落としていることを探そうとする。

 後ろを向くとイワウが無言で指差し確認をしている。

 さっきとは違う旅になるんじゃないかという気配を感じ取った。

 イワウは笑っている、影になってもそうなんじゃないか。

 舟旅は長いのだから楽しくいこうよ、という顔をした彼女の指差し確認が完了する。

 びしっ、と前方が示された。 

 

「わたしは金魚をまだ見たことがない。動画では見たけど……生物部の水槽にいるのは『ア カ ヒ レ』だよ、金魚が実際に泳ぐところを見てみたいなあ」

 

 急にイワウは要望を述べた。

 アカヒレはなぜか発音されずに口の動きだけで示された。

 陸に上がることのできない私たちが泳ぐ金魚を見ることができるか?

 難しいが、まだ諦めるのは早すぎる。


「岸にできるだけ舟を寄せてみよう。もしかしたら遠くに見えるかもしれない」


 私たちは眼を細めて舟の前方で身体を乗り出して眺める。


「何か音が聞こえないか? ぺたりぺたりと……」


 浴槽の奥から洗い場を横切って回り込んで来た火狩が私たちの目の前に立った。

 

 彼も浴槽の縁から身を乗り出して手に持っていたものを差し出す。


 風呂桶。


 彼は私たちに見せようとしているのだ。

 

 風呂桶の中で朱い小魚が尾びれをひらひらとさせて泳いでいる。

 彼が飼っていた金魚は、名をヒラという。

 

 笑顔をこちらに向ける火狩に私たちは大きく頷いて見せる。


 金魚の国に彼を運べたことに私は安堵した。

 

 浴場の壁際から取ってきた別の桶に、火狩はヒラの入った水を入れ替える。

 いくぞお、と溜めてから、


 放り投げられた風呂桶は、私の両手にぱさりと落ちた。

 

 手を振る火狩に私たちも舟から手を振り返す。

 舟は金魚の国を離れてゆく。


「沈みかけた時なんかに水を汲みだすのに役立つね」風呂桶に喜ぶイワウ。

「あまり遭遇したくない場面だが訓練しておいて損はないね」せっせと水を汲み出す。


「あのー、こっちから必要なものを投げれば受け取れるんですよね?」

 私たちが交代しながら沈没しかけた舟から水を汲み出しているうちに械奈が問いかけを発した。


 確かに。だが必要なものとは?

 ぱっと思い浮かびそうで出てこない。


「ヒトの国には使えない機械もあります」


 械奈はそう言ってから提案する。


「世界を破壊する火力とか要りますか?」 


 うーん、持て余すな。どうだろう? ――わたしも、楽しそうじゃないね。


「では、半径100メートルを瞬時に凍結させる機械とかどうですか」


 うーん、どうだろう、ああでも――


「海を凍らせれば、水に濡れなくて済むね」

 

 イワウが応えた。

 

 ベルが浴槽の縁から放り投げるスポンジ。

 ぱしっ、と私は受け取った。


 ベルが手を振る。その隣にはヒトになった械奈がいる。

 舟はヒトの国を離れてゆく。

 

 凍結させた海の表面を私は舟を押し滑りながら進んでゆく。

 

 私の身体はまだ完全には影になっていない――



「もう投げるものは決まってるわよ、じゃあ行くよー」


 構える前に千早が素早く投げたものが私の肩をぴしゃりと打つ。

 落下してゆく長い柄を私は掴んだ。


 デッキブラシ。


「チハヤは、色を変える魔法をちゃんと見つける! 魔法の杖!」


 千早は物語の先を宣言した。

 隔日2話で書き進めてくれ。

 そうか……、チハヤと竜のルリカラはついに探していたものを見つけたのか。


「むらさきの国は青になったのか?」

 岸辺にいる千早に問いかける。


「魔法を見つけて国に戻ったら……、楽しみにして読んで欲しいから言わない!」


 にっこりと笑う千早は顔を背けて両手を激しく振った。

 それから顔をこちらに戻すと彼女は泣いている。

 

「別れるのが辛い! でもあなたたちは来世の国まで戻って!」

  

 激しく手を振りながら私たちに掛けるのは歌うような声だ。


 二人の役目がもうすぐ終わる。


 私の身体はまだ完全には影になっていない――

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