第53話 みんな見てます
「頑張りすぎはいいことない」
火狩は慣れた手つきで私の首筋を押さえて頭を少しだけ床から持ち上げると、頬を地面に近づけて傷口を覗き込みながら言った。彼は自分のポリシーを述べたようにも聞こえる。
「階段の角で切っただけみたい、血も止まりかけてるから傷口は大きくないよ」
村の長老のように落ち着いた雰囲気で火狩は判断を述べた。
長老は寡黙だが正しいことしか言わない。私のケガは心配することはないようだ。
念のため意識の清明さを確認しようと彼は問いかける。
「僕の名を言ってみて……そうそう。じゃあ自分の名前は?」
「はい、石沢アスタ、いや違います、間違えました、アスタ・アーシュです」
村の長老と話す時、私はいつも緊張するのである。
「ちょっと質問がよくなかったね、ここがどこだか分かる? 今、僕たちがいる建物のことは?」
「英愛寮、一泉高校の学生寮です、管理人は械奈。ヒトではなく機械だと聞きました」
「これもややこしい質問だったかな。じゃあ、お昼に何食べたか覚えてる?」
「はい、カップ麺なるものを頂きました、残ったスープに乾いたパンを浸して食べようと思っていますので、正確に言うと、お昼はまだ食べ終わっていないということになります」
長老の表情が苦み走る。
「自分の生年月日を言ってみて」
「聖歴904年星月弓日です」
長老は少し思案してから、うむ、という感じで頷いて、
「僕が掛け声かけたら手を挙げて……そうだね、いったんどこかに、イワウさんに預けておくよ」
鼻先の聖符は、記された名の本人の手に戻った。
両手で握った聖符をどうしようかと迷う顔の子ぎつね。
「いくよー、右ぃー」素早く発せられる指示。
「「はいッ!」」
私たちは声を合わせた手を挙げる――イワウは聖符を左手に持ちかえたので一瞬だけ遅れた。
ふむう、という顔で彼女は次の掛け声を待ち構えている。
「いくよー、みー……イワウさん、まだ言ってないからね」
右手を掲げて勝ち誇る彼女の表情が悔しさに変わる。
長老は時折、真面目な顔で冗談を言うのだ。
「いくよー、ひー……、みー……、ひー……。うんうん、よく聞いているね」
褒められたって騙されないぞ、の顔をするイワウ。
「右足っ!」素早い掛け声。
「卑怯だぞ! そんなのは!」
出してしまった右手を戻して悔しがるイワウ。
長老は満足げに頷いた。イワウをからかうのが短い余生の楽しみなのだ。
「アスタは大丈夫みたいだね」
浮かせた私の右足を見ながら長老は言明した。
「もう1回だ! 聖王様が大丈夫かどうかもっとしっかり確かめろ!」
うむ、ではそうしよう、と長老は頷いて見せる。
もっともらしい表情で何かを企んでいることを私は分かっている。
右手首か? 右足首はちょっと姿勢が厳しい。
「右眼をまたたき!」
両目をつむるイワウ。しまった! と何度かやり直すが、右眼だけ閉じることができず両眼を閉じたまま、
「卑怯だぞ! そんなのは!」
イワウの怒る姿を見て、長老は満足げに頷く。
やり残したことは特にない、実に楽しい人生であった、と言いたげに穏やかに笑う。
長老の聖符はずっと前に先代の王と棺に託されている。
彼らはもう来世の国に辿り着いただろうか?
**
「一人で何もかもやろうとするから無理が出るのかもしれないよ」
私は二人の手を借りて床から起き上がり、3人で階段の一段目に腰掛けて並んでいる。
真ん中にいる私の肩を抱くような体勢で火狩は私を諭すように言った。
言葉には奥深い意味を含んでいるようにも思える。さらに彼は問いかける。
「周りに助けを求めたらいいんじゃない?」
ラウンジには人だかりができて大階段にいる私たちを遠巻きに眺めている。
上を見ると、各階のリビングや通路から顔を覗かせている者たちも見える。
英愛寮には90名の寮生がいる。私とイワウを除けば88人。
先ほどまで管理人――械奈によって寮に閉じ込められていた者たちだ。
うち3名は公民である。
火狩は助けようとしてくれている……が、
「役目は私が負ったものだ。……うんうん、イワウも役目が終わるまでは一緒だな、隠したって無駄だ。聖符は私に既に託されている……何とでも罵ればいい、イワウの魂を影にするつもりはないよ」
――そんなのは嫌なんだ!
心底避けたい、と意気込む私の肩を握っていた火狩の手に力がこもる。
手は、ぱっと離されて、ぽんぽんと優しく叩いた。
まあ落ち着きなよ、という顔を横から向ける火狩。
ふう、と私は息を吐く。
火狩の穏やかな顔を眺め、それから、怒ったイワウの顔に視線を戻した。
影になったら美しい姿も見えなくなる、分かるかもしれないけどね。
彼女が笑う度に悲しくなって私は泣く、見えないけどね。
聖符を来世の国まで遠投できるかどうかは正直やってみないと分からない。
そんな賭けみたいなことを私はするのか? 一人で本当にできるのか?
火狩の言うとおり、頼れる者が寮生の中にいるかもしれない。
立ち上がって、
「どうか私を助けて欲しい」
みんなに向けて言った。
しばらくの静寂の後、管理人の声が寮に響く。
「ピンポンパンポン(声)。今から全てのリーダーは大階段に集合してください。繰り返します、リーダーは大階段に集合してください。ピンポンパンポン(声)」
リーダーが招集された。
ユニットCのリーダーはイワウである――
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