第52話 ふつうのヒトです
「いーや違う、わたしと聖王様は泡になる定めだ」
「そうか? みんなは聖符や聖棺になってる、魂のままじゃない」
「だから何だ? そうか聖王様はバカなんだ! またくるくる聖符を回して遊んで!」
いや、これは喋ると振動がどうしてもね、頑張って鼻先の揺らぎを抑えながら、
「夜の海がどんなか知ってるだろう、月明かりがあっても海は真っ暗にしか見えない」
棺での旅を想像するよう促すと、青い瞳に思案の色が混じる――彼女も思い描いている。
何度も想像した光景だが、これまでと違ったものが浮かんでくる。
空の月は澄んだ色をして、棺のイワウは蛍火みたいに淡く光っている。
浜辺では照らされて見えた自分の身体は、海の上ではもう見えない。
手の平を顔の前まで近づけてみたり、ひっくり返してみるが、やっぱり見えない。
指を形を作ってみると、自分の手はオオカミの影絵になった。
狼が月の空を飛び跳ねて、狼が棺の中を駆け回る。子ぎつねを探しているのか?
海に漕ぎ出す時に手足がどっぷり浸かったし、身体には波のしぶきを浴び続けている。
――夜の海に少しでも濡れたところにはもう光は届かぬのだ。
でも、イワウは光り続けている。
棺の光の中で確かめると、私の身体はもうほとんど影のようになっている。
――濡れた魂は影になる。
泡になって消えるんじゃなくて、影になって見えなくなるのだ。
「聖棺になっていれば大丈夫、消えるのは私だけのようだ」
不思議と落ち着いた心地で、鼻先の聖符もぴたりと静止している。
旅の終わりまでイワウは一緒にいるのだし、彼女を来世の国へ運ぶことができる。
負った役目と、自分の望みを私は全うすることができるかもしれない。
「聖王様も何かに宿ればどうか? ……聖符、聖符はまだいっぱいあるよ」
「私まで聖符になったら、きっとどこにも辿り着けずに夜の海をさまよい続ける。一人は魂のままでいないといけない。それが聖王――私なんだ」
腹においていた私の両手に、彼女は上から手を乗せて、聞いたことのあるような提案する。
「役目を終わらせなければいい、ずっと旅を続ければいい」
――ああそうか。
イワウはきっと知っていたのかもしれない。
私の知らない古い聖典も彼女は全て読んでいる。
はっきりと書かれてなくても、手がかりを辿って私と同じ結論に至っていたのだ。
「うん、役目を続けるのは悪くない考えだけど、いつかは終わる」
そして聖王だけが消える――
イワウが役目を果たそうと執着していたのは?
布教して役目をずっと続けようとしていたのは?
役目を捨て罪を負って日本人になろうとしたのは?
迷いと組んでいたのは私だけじゃない。彼と、闇と孤独の奴らも、彼女と一緒になって踊っている。
――イワウは知っていて、だから迷っていたのか。
彼女の聖符はいつ記されたのだろう? きっとまだ幼い頃だ。
それからずっと、彼女は今も迷っているんじゃないか?
「魂に戻ったら聖王様を掴んで離さなければいい! 一緒に行こう、わたしが連れていってやる!」
イワウが握る手に力をこめて無茶を言った。
私は重ねていた両手の下にあった右手を抜き取って、彼女が握る指を人差し指から1本ずつ引き離そうとしながら、
「私の手は濡れている、触れたらダメだよ」
彼女に告げる――
イワウも影になるから止めなさい――
「じゃあ私も水をかぶって消える! もうとっくの昔に決めたことだ!」
イワウは世界で一番美しいな。
誰より美しいふつうのヒトである。
彼女は私を信じすぎている。私は強がることにした。
鼻先を揺らさずに、がははと笑って見せて、
「残念! イワウの聖符はもう私に託された、棺から聖符に魂をひょいっと移して、他の聖符と一緒に来世の国の岸まで投げつけてやる!」
「止めろ! 棺をひっくり返して海に落とすぞ!」
「残念! 既に海の水に親しんでいるからな、泳ぎながらでも遠投できる!」
「止めろぉっ!」
「いたいいたいいたい……痛い!」
イワウに激しく肩をゆすられて擦りつけられる患部。
流血が激しくなってない?
あれ? もし、今死んだらどうなっちゃうの?
考えろ! もしかして時間がないかもだぞ。
金魚の国、ヒトの国はまだ全然分かってないが、探せばなんとかなる気がする。
問題はむらさきの国だ――千早が書き終わらないと、向かいようもない。
1週間に1話書くと言っていたが本当に完結するのか? そもそもいつまでに完成させるつもりだ?
「千早ぁぁ!」
声の出しにくい仰向けの姿勢だが、できる限り声を張って叫ぶ。
「1週間に1話では遅すぎる! 1日1話書き進めて! ……じゃあ妥協して隔日2話!」
千早との約束を取り付けた。
期限を設けずに大体10年くらいかけて書こうなどという気でいたら100年たっても終わらないんじゃない? と半分脅すと、千早は泣きそうな顔を一瞬見せてから隔日2話で書き進めると宣言した。
大声を出したからか流血のためか意識がぼんやりとしてきた。
「誰か……誰かがどうにかできないの」
寮生の誰かが小さく呟くのが耳に届く。
でも私は犠牲になるわけじゃない。迷いとは肩を組んで仲良しだ。
イワウには何かを言いたい気がする。何か? 何を?
大事なことを私は言わないといけない。イワウ、イワウ。
「あーもう、仕方ねえなあ!」
彼はいつもやる気のない振りをするが、本当に必要な時は助けようとしてくれる。
火狩が階段を降りてくるのが見えた――
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