第51話 胸が高鳴ります
「いたいいたいいたい……痛い!」
大丈夫かしっかりして聖王様! とイワウが肩をゆするので、薄れていた意識が無理やり戻される。身体が揺れる度に後頭部の傷口が床に擦られて叫んだ。
「聖王様! 血がでてるよ!」
うん、今ので傷口がさらに開いたのだと思う。
瞳だけ動かして白い大理石を見る――血まみれになってはいない。
ラウンジを汚したらペナルティ、ユニットCの風呂掃除はいつまで続くんだ。
私たちを囲むように人が集まって、上の階のあちこちからも寮生が顔を覗かせている。
明るい天窓――薄れた雲の四角い空がイワウの顔のずっと後ろにあって、顔は影になってあまり見えない。彼女の編み込んだ髪の輪郭が輝き、跳ねた一糸のひとつひとつがきらきらとした銀の光を湛えている。
次第に覚めていく意識とともに身体に力が戻りはじめる。冷たい床をいつもと違う奇妙な心地ではっきりと感じながらまだ動かずに仰向けになったままの体勢を保つ。イワウは私に言われて身体に触れないように少しだけ距離を保った両手を宙に広げ――暖炉で手を温める時みたいな恰好をしている。
握る片手になじむ聖符のなめらかな肌触り。イワウと初めて会った祭りの日を思い出す。
鼻や頬を棺に強く押し当てる遊びをしすぎて彼女の顔のあちこちがずっと赤くなったままだった。
話す時も黙っている時も元に戻らない赤み。棺の中で見る横顔の赤み。
今は蒼白な顔でじっとこちらを見ている――赤い鼻をした彼女が?
なんだか笑い出しそうになってきて、ぐふう、と堪えていたら、イワウは更に心配そうな顔をする。ぐふう。
私は聖符を自分の顔の上に置いた――
「こんな時に何してるの? でも上手だね、聖符が鼻の先にうまく乗っかってゆらゆらしてるけど落ちないね」
でもこんな時に? という顔で問いかけるイワウ。
周りの寮生が騒ぎはじめる。
械奈が外部に救護を求めたらしい。
10分ほどで到着する? へえ、何が向かってるって? あー。
救急車――傷病者を医療施設まで迅速かつ安全に搬送するための車両である。
心配する周囲を私は放っておくことにした。今はそれどころではない。
「肝心なのは、鼻先の感覚を研ぎ澄ますことだよ」
うん分かった、でもこんな時に? という顔をするイワウ。
「もっと早くに試してみるべきだった、なぜ今までしなかったのか不思議なぐらいだ」
いくらなんでも遊びすぎだよ、という顔をするイワウ。
「実は気付いていたのかもしれない、こわいものからは目を背けて逃げてきたからね」
こわい? 聖符を鼻に乗せるのは今じゃなければ楽しそうだけど、という顔をするイワウ。
「聖棺と聖符は本当は同じものなんじゃないかな?」
鼻の先ではもう感じ取っていることを私は問いかけた――
彼女の髪はきらきら光って見える――
**
「同じブナの木からできているだけだ……あ、今のはちょっと危なかったね、それって練習したらできるようになるかな?」
「肝心なのは、鼻先の感覚を研ぎ澄ますことだよ」
大きな声で喋ると揺れるからバランスを保つのが難しいよおおおっと危ない。
なぜ、役目を果たすには聖棺が必要だと思い込んでいたんだろうか、海をわたるからかもしれない。
でも、魂となった私は溺れることもないし、浮かぶだけなら聖符を身体に巻き付けておいても浮いていられる。
――聖符になった公民の魂を来世の国に運べるなら、聖棺になったイワウの魂も同じじゃない?
私は鼻先のバランスを保ちながら、急速に思考を進める。
流血の続く頭はなぜか冴えわたっている。
――多くの公民をそのままで引っ張って運んでいけないから魂を聖符に宿すと思っていたが違うんじゃない?
ゆらゆら揺れる聖符――今はまだ魂のない木片は眼に近すぎてぼやけて見える。
私たちがすぐ近くまで辿り着いたら、魂は聖符から元に戻って来世の国へ飛んでゆく。
役目を果たした私たちは泡になって消える定め……だとずっと思っていた。
なんで二人とも泡になると思っていたんだっけ? 定めだからという他に理由はない。それが間違っているとしたら?
聖棺か聖符か――いずれにしてもブナの木に一部に宿っている魂である。
聖棺のイワウが泡になるんなら、聖符の公民はなぜ泡になって消えないのか?
公民が魂に戻れるなら、イワウも戻れる。
そしたら来世の国まで飛んでゆけばいい。
――マジでやべーのは私だけじゃない?
どくっ、どくっ、と脈打つのが鼻先に伝わって聖符の揺れが不規則になってゆく。
――魂で海をわたるのは聖王の私だけなのだ。
「すごいね! どうやって回転させてるの?」
さあ? 私の鼻先は実はちょっと左右非対称なのかもね。
鼓動が作用して聖符は揺らぎながらゆっくりと回りはじめている。
――肝心なのは、鼻先の感覚を研ぎ澄ますことだよ。
自分の言葉を胸のうちで繰り返して緊張を抑える。
意識を集中すると、揺れる聖符は危うい均衡を持ちなおして静止する。
「イワウは泡にはならないよ」
結論を私は告げた――
彼女の髪はきらきら光って見える――
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