第50話 階段は危険ですね

「正社員になって日本で暮らすと決めた!」


 聖符を取ろうとした彼女の手を聖符ごと両手ではさんで握っている。

 階段の上で引いたり押したりする二人。

 イワウの再宣言に私は同意する。


「そうだ、私たちが決めたことだ。金貨を全部公国に返して、二人で働いて得た対価で暮らせばいい」


 公民たち――火狩や千早、ベルと械奈とも別れて二人で暮らす。

 旅をはじめた当初に望んだとおりの生き方だ。簡単なことではないが実現するのは可能だと思う。

 私が決めたことに従っているんじゃない、彼女自身が考えて至った選択のはず……だが? 

 

 でも今じゃないずっと昔、きっと彼女は祈ったのだ。


 ――聖王様、連れて行って


 幻影のイワウが伝えたのは、過去の希望なのか? 今も密かに願っているのだろうか。

 棺じゃない聖符のイワウ――それが私が見ていた幻影なのかもしれない。


「手を離せ! 聖符を返せ! 手が痛い!」


 階段の中腹での引っ張り合い。


「おわっと、あぶない、あぶない助かったよ、聖王様……でも返せ!」

「あわわっ……ありがとう、階段は落ちそうで危険だな、うん。返してもいい、でも、このイワウの聖符はどういうもの?」

「聖王様には関係ない……嘘だ、関係なくはない! でももう必要ない!」


 二人の力が均衡して静止した。


 周りからしたら、私がイワウの手を握って離したくない! とすがっているように見えなくもない。

 

 ――騒ぎを聞いて大階段のまわりに寮生が集まってきている。


 二人は互いに様子を見ながら――というのも急に力を抜くと相手はひっくり返って倒れそうなので両手でイワウの手を握りしめたまま――彼女は引き戻そうとするのに手加減しながら体勢が保たれている。


 聖符の奪い合いは言い争いに転じた。 


「聖王様、女子のもの――特にスマホに勝手に触る男はぶちのめすべきだ、と千早が言っていた」

「千早の所有物には一切手を触れないように注意しよう、ではこの聖符はイワウのか?」

「そうだ! ……いや違う! 名前が記されているのは……さあなんでかねえ?」


 しらばっくれるイワウ。 


「違うんだったら私が預かっておこう、後で交番に届けに行こう、うっかり誰かが落として探しているかもしれないな、でもおかしいな、聖符を落とす人が世界に一人でもいるかな」

「違う! わたしのだ! 名前は……本当に私の名前? 綴りがちょっと違うかもしれない、イワフ・サンクタイット? イウワ・サンクダイッド?」


 爽やかに白々しい嘘である。


 ちょっと見せてと言われて手を開いた瞬間、聖符ごと引かれるイワウの手。

 咄嗟に腕を伸ばしてイワウの手首を掴んだ。腰まで引かれてつんのめる私の上半身。

 両足に力を込めてかろうじてバランスを保った。

 さらに手は引かれて、イワウのマントに遮られた視界は暗くなる。

 

 手を離したい――が、急に離すと二人ともひっくり返りそうな気もする。

 

 マントの闇が深い。牧草の匂いがする。

 もう一方の自由な手を階段に着地して前のめりの体勢を保とうとする。

 顔にまとわりつく丈夫な布に遮られた視界――床に伸ばした指の先を見誤って、すかっと手が空振った。

 体重を乗せた上半身が支えを失って傾いて、両足が浮く。

 イワウが伸ばした手で掴んだ私のマントはしゅる、っと抜ける。

 肩から階段の角に着地、宙を舞う自分の両脚が一瞬見える。

 階段、マント、天窓の雲、階段、マント、マント、マント、

 

 マントの布に巻かれながら階段を転がる――

 大理石に着地して派手な音が鳴った――


「聖王様! 聖王様!」


 イワウが大階段を駆け降りてくるのが見える。

 痛みは感じないが動くことができない。床に打ち付けた後頭部がやや気にかかる。


「聖王様! 血がでてるよ!」


 マジか、やべーな――なぜかデカルトのようになる思考。

 

 緊急時にはお近くのスタッフにお声掛けください、速やかに対応を――いやこれはアルバイトの話。

 

 遠のいていく意識。

 イワウの美しい顔が恐怖にゆがむのを見るのは苦しい。


「私は聖王、選ばれた者だ」


 安心させようと言った言葉に、なぜか彼女は驚く顔をする。


「聖王様! やっぱり役目を果たそう」


 役目を果たすのは私たちしかいない。――私たち……?


 イワウの聖符が、あれ? さっきまで手に持ってたのに……。

 聖符がないとだめなんだ、ああ、イワウが持ってる。


 彼女の手から聖符を受け取った。


「……来世の国へ行きたいんだろう?」


 イワウは迷う顔をする――

 

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