第39話 日本人になる

 閉店時間が迫ってもイワウは現れないので、もらったビニール袋いっぱいにパンを詰めた。

 ちょっと詰め込みすぎたか? 

 取っ手の付いてない四角いタイプのビニール袋は口を結ぶことができず、パンを潰れ気味にしながら手でぎゅっと強く握っていないと中身がこぼれてしまいそうになる。


 食堂からラウンジ、そして大階段に差し掛かる。

 一段目に右足を置く。揺れるビニール袋のパン。私は握る手にさらに力を込めた。

 よーし、と上を見上げたら2階にイワウが立っている。

 こちらを見下ろす顔は青白くこわばっている。

  


「聖王様、わたしは……」

 

 お腹が空いたとは別のことを言いたそうに彼女は口ごもった。

 顔を見ながらゆっくりと何段か昇って近づいてみる。


「心配は要らない、イワウ」


 私の声が届くと彼女は戸惑う表情をした。

 一歩、そして一歩、階段を踏み上がって、2階に至る大階段の中間ぐらいに至る。 

 笑いかけてみたが、彼女の表情は変わらない。


「役目はこわい、当たり前のことだ、私はいつも言っている……いや違う違う、こわいと言ってたけど実は全然こわくはないんだ」


 何を言っているの聖王様は、という顔をするイワウ。

 彼女はヒトである――忘れそうになる事実をもう一度思い出した。

 伝えることを胸のうちで整理しながら、


「一人で十分だ、イワウがいなくても私は役目を果たすことができるよ」


 言い忘れていた、という軽い感じで私は言った。


 さらに青ざめて見える顔。眼をわずかに伏せてから再びこちらに向いた瞳は怒りでぎらりと光っている。

  

「何を言っているの聖王様? わたしは何もこわがっていない!」


 彼女は駆け下りて同じ段に至る。階段の中腹、左右の足で階段を踏み、上半身を互いに向けてねじるようにして向かい合った。


「聖棺なしに役目を果たすことはできない! 聖王様はバカになったか?」

「私ができるというならできる、泳いで海をわたるつもりだ」

「バカか! 死ぬにきまってる」

「わははは、もう死んでいるんだから死ぬことはない!」


 私たちは階段で睨み合う。

 騒ぎを聞きつけて、2階のリビングや1階のラウンジに人だかりができはじめている。私たち二人は大階段を独占して続ける。


「さあ聖符を渡してもらおう、身体に巻きつけておけば水に浮かんで沈むことはない」

「バカか! おとなしく棺に乗ればいいことだ」

「役目は私が全うする、イワウは別のことをすればいいじゃない?」

「バカにして! 私はイワウ・サンクタイッド、聖棺だ!」

「小さい手で? 美しい顔で? 輝く髪で? 自分の姿を鏡で見よ! 棺のように堅くて大きいか?」


 彼女の手をとろうとして自分が握っているものに気付いた。

 仕方ない、自由な片手で彼女の手をとり、ビニール袋を握った拳ではさむようにした。


「私にはヒトに見える、子ぎつねみたいに見えることもあるけど、やっぱりヒトだ、公国中探しても、日本に来ても、イワウのように美しいヒトはいない」



 階段の上下からなぜか歓声が上がる。  



「私は聖棺なのに……聖王様はそうじゃないって言うの?」

「ごっこ遊びの名を言ってごらん……いや、私の方じゃなくてイワウの……そうそう、その名を、新しい名前にしてもいいんだ、この旅の一番最初にちゃんと、イワウが分かるように伝えるべきだった」


 青い眼に光が揺れる。


「黒瀬イワウ……」


 彼女はもう一度声に発して、わずかに思案してから、


「日本人の名だ、どういうこと? ごっこ遊びをまだやるの? いくらなんでも遊びすぎだよ」


 心配そうに私を見つめる。


「違う……火狩や千早が公国人になったように、イワウが日本人になってもいいんだ」

「役目があるのに日本人になってどうする?」

「役目は私に任せておけばいいだろう? イワウはヒトなんだから」

「ヒト……ヒトって何だっけか? 私はヒトか? 聖王様はヒトじゃない?」

「私は聖王、ヒト……か? 私もヒトだ!」


 一瞬だが混乱してしまった。

 んー、と思案する表情を浮かべるイワウ。


「役目を捨てて日本人になる……」

「そうそう」

「もしかして生まれ変わるのか? 日本人になったら」

「そういうことになるね」


「じゃあ日本人になるよ」


 イワウは選択した。

 日本に来てから1週間も経っていないがずいぶん長い旅を続けた気がする。

 公国で過ごした10年もある、イワウと過ごした日々が脳裏によぎって消える。

 もう彼女は帰国することはないだろう。

 何か言うべきなのかもしれないが、言葉にならないものばかりが浮かんでくる。 

 辺りを探すが、こんな時にいつも見える幼いイワウの幻影は姿を見せない。

 イワウは選択したのだ。もう幻影が現れることもないのかもしれない。

 

 思わず彼女の手をはさむのにぎゅっと力がこもってビニール袋のパンが揺れた。

 彼女の指の1本1本を操るようにしてビニール袋の口を掴んで握らせて、私は両手を離した。

 何かいうべきなのかもしれないが、言葉にならないものばかりが浮かんでくる。

 

 ――あなたと一緒にいたい、ずっと一緒にいたい、他の誰にも渡したくない。


 急に浮かぶ魔法の呪文。

 ゆっくりと胸のうちでもう一度唱えた。

 呪文の意味が今はようやく分かる気がする。

 

 パンを持ったイワウは笑顔を見せた。

 彼女は選択した――覚悟を決めた後の穏やかな表情である。

 何かを発する気配、彼女の言葉に私は耳を澄ます


「役目を捨てた罪人として日本で暮らすよ」

 

 罪人? 自戒しては激しい言い方だな。


「3千4百と9枚分の公民を捨てるなんて公国の歴史にない大罪だよ」


 選ばれた者が役目を捨てた例はないのは知っている。


「私たちは偽者で大罪人の日本人だ!」 

 

 え? 私たち?


「一緒に日本人になるって、聖王様が決めたことだよ」


 え? 一緒に? 

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